すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 近代 ①

明治維新から ポツダム宣言受諾までが 近代になります。
それからの昭和の時代は 現代になります。


侵略の時代

先の大戦
(大東亜戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争と よび方の違いがあります)
が起こった原因は

今から 600年ほど前の 
15世紀の 世界の動きを知ることが 必要だと思います。

しかし
このような世界の流れの中で 白人の植民地支配に従わない国が 
極東に1つだけありました。

ポルトガルは バスコダガマ とか



15世紀 スペインの航海者 
コロンブスによる アメリカ大陸発見は 有名ですが



白人を中心とした 西欧列強の支配の始まりでした。
おもに 
ポルトガル スペイン イタリアの人々が 
新航路・新大陸を発見して 植民地活動をおこなっていた時代でした。

アメリカ大陸の インディオ
アフリカ大陸の 黒人
アジア地域・東南アジアの人々

に対して ひどいやり方で 
多くの人々の命を奪い お金儲けをしました。

アステカも 
インカも 

親切にしたら 全てを奪われてしまいました。



明らかに 
単なる侵略者 だとわかるにもかかわらず 
なぜ
大航海時代の人たちを 
なぜ
日本では ずっと偉人のように扱われてきたのでしょうか。

19世紀末 までには
それらの ほとんどの民族が 白人の植民地支配をされました。

この事は それまで別々だった地域 

ヨーロッパ
アジア
アフリカ
アメリカ
の歴史が 15世紀から 
1本の流れに まとまるようになったという事になります。

この頃の 
ポルトガル
スペイン は 2大 覇権国家 だったわけです。

この人たちは 獰猛(どうもう)といいますか 図々しいといいますか

15世紀 トルデシリャス条約 という 東半球 を分割 したんですね。



16世紀 西半球を 分割するんですよ。

ようするに 
地球を 2分割 して
東のこっちは うち等のもの みたいな事をやるんですね。

西半球 分割の時は 日本列島も 真っ二つですよ。
こっちは ポルトガル こっちは スペイン で分けましょう
なんて
勝手に線ひいて 知らねえよって話ですから。

宗教を布教していくのが 大航海時代の大きな要素でした。

マルチンルター が登場して



プロテスタント という 新しい教派が生まれ
それに対して
カソリック が退治していく という流れの中で

世界に布教していって 力をつけていく という
ヨーロッパから 外に出て 布教するようになるんですね。

また
イスラム勢力が 絡む事のよって
香辛料。スパイスの値段が 高騰してしまったんです。

インドとか アジアの方から スパイスを取りたい。
イスラム商人が絡んで 高いものになってしまった。

何とか ヨーロッパ勢力が 
世界のあっちこっちに ネットワークを張り巡らせる事によって
安く スパイス を調達したい。
なので
各地の 物品を 買いたいという事。

この 2つの目的が 大航海時代を 後押しする事となるんです。

そんな中
倭寇



という 東シナ海周辺で 
活躍していた 暗躍していた 海賊がいるわけですけども
そんな人たちが

鉄砲を 日本に伝えるわけです。

そんな人たちがいる 南の方の人たちを
南蛮人 って言うんです。



例えば 
カステラ おでん 金平糖 などが入って来るんですけども



彼らの 西洋の文化を 南蛮文化。
西洋との取引を 南蛮貿易 と言う風になるわけです。

そんな ポルトガルが 日本に最初にやってきたのが

1543年です。
種子島 に上陸し 鉄砲 を伝えたのはよく知られています。

大金で 2挺 の鉄砲を購入します。

国産化するために 鉄砲の製法を研究しますが 

ネジの構造を どうしてもポルトガル人に 教えてもらわなければならず
日本の娘を 
ポルトガル人の嫁に 泣く泣く差し出す事になり 鉄砲を完成させました。

国産の鉄砲の最初です。



鉄砲伝来 から 
室町幕府滅亡
織田信長が 尾張(おわり)統一ぐらいまでの辺りまで 20数年 30年くらいで

約半年後には 600挺。
1556年には 日本全国で 30万挺 以上保有し 
高易品に 共されていたと伝えられています。

鉄砲を 上手に使いこなした と言えば

織田信長 です。



信長は 鉄砲隊 を組織して 
長篠の戦 とかで 成果をあげたりするわけなんですけども

これからの戦争は 鉄砲だ という事のなり
各大名が しこたま 鉄砲を持つようになるわけです。

安土桃山時代まで 来ると
世界で 鉄砲 を持っている国は

日本

って事に なるんです。
アジアの まだ文化も進んでいない国 とはいえ 

それなりの 人口がいて
しかも 
応仁の乱 の少し前 辺りから ずぅ~っと 実戦経験 豊かな軍人が
日本全国に いるわけなんですね。

そして
その人たちは 剣術とか 弓とか 馬とか というものを使って
戦国時代を 生き抜いてきた人たちなんです。

その人たちが
鉄砲 というものに 出会い 
ここからは 鉄砲の時代だ と気付くわけなんです。

みんなが 鉄砲を持ち 実践で 使い込んでいった。
これほど多くの 武士が
実践で 鉄砲を使い込んだ 

そんな地域って 地球上 にないんです。

鉄砲 は確かに 西洋から学んだものですが
西洋の人たちは 

鉄砲で日本に 太刀打ちできないんですよ。

大航海時代で 世界中 どんどん侵略していったわけでしょ?

その後も
アジアも アフリカも 南米も 

ことごとく 欧米列強 とくに 
ポルトガル と 



スペイン。



後半になってくると オランダ イギリス 
アメリカ も 加わってきて

世界中に 植民地をつくったわけですね。
そんな中 
日本に ヒョイと来て 制圧できたかと言ったら

できなかったんですね。

人口が 多く 
たくさんの武人がいて 実戦経験を持っている日本を 
植民地には できなかったわけです。

まして
日本に 鉄砲の技術が渡ったら最後。
西洋よりも 使いこなしちゃったわけですよ。

日本は 軍事大国 という言葉から 遠いところにいる国のようですが
中世 近世 においては
世界で最も 火気 を持っていたのは 日本であり

世界最大 最強の 軍事大国 だった



と言う風に言えるかと 思います。

なので 
欧米列強からの 植民地にはならずにすみ 守られた 
という事です。

鉄砲が 種子島に伝わってから 約6年後
今度は 
ポルトガルから カトリックの宣教師 が日本にやってこます。

入信した 九州の 3人のキリシタン大名が 

イエズス会に 土地を寄進し 
キリスト教の 教えに反するとの理由で 寺社を破壊しまくります。

そして 
何より 豊臣秀吉 を激怒させたのは



フランシスコ・ザビエルが 来日した
翌年の1550年ごろから 



既に
ポルトガル人は 日本人を 
奴隷 として 海外に売り飛ばしていた事です。

見せしめに カトリック教徒 26人を 
火炙りにしました。

国法を破って 日本人を売り飛ばした 奴隷商人ですから 
この時代の価値観では 死刑 になりました。

いい人だけではだめです。
したたかな 列強の人たちに やられてしまいます。
強く 賢くなければいけません。

豊臣秀吉は
世界征服を企む カトリックの侵略から 日本を守りました。



次に
天下を治めた 徳川家康は 



時間をかけて 少しづつ 鎖国 を進めていきます。

ヨーロッパでは 最後の宗教戦争 
30年戦争 が始まったばかりでしたが
日本は 巻き込まれずに済みました。

日本との
通商貿易を求めてきた ポルトガルと スペインは 追い出されます。

オランダは 
スペインから独立した 当時ヨーロッパで 最強国でした。

鎖国といっても 4つ 貿易の入口があり 

長崎の出島で オランダと 清(しん)。
薩摩は琉球。
対馬は朝鮮。
松前はアイヌ。

貿易相手 と言われますが 琉球 と アイヌは 日本の一部です。

琉球 は 沖縄王朝 です。



初めは 北山 中山 南山 という
3つ に国。勢力にに 分かれいました。

これが
15世紀 くらいに 三山統一 されました。

大和国 で言えば 日本書紀 に該当するような 文書 で

中山世艦(ちゅうざんせいかん)という 琉球 の正史と
首里城 で 書かれた おもろさうし と言う 
歌謡集 が あるんですけども

ここに 不思議な事が 書かれているんですね。

12世紀に
源為朝(みなもとのためとも) が



琉球に 現れたって言うんです。
その 子どもが

琉球の 初代 中山王(ちゅうざんおう) だって言うんですよ。

琉球大学 と
中里大学 で DNA の研究が 行われて



沖縄県の DNA を調べた結果 血のルーツ が判明しました。

日本列島があって その1番 南の端が 沖縄。琉球ですよね。
その すぐ隣には 
台湾があり 中国大陸も 目の前ですよね。

琉球の文化というのは 中国的な文化が 色濃く残っているので

もともと 
中国人 かしら? 台湾人 なんじゃない?

という説が 非常に有力に 唱えられていたんですね。
ところが



沖縄の人の ご先祖様は 
日本人 だ という事がわかったんです.。

台湾 中国 という血も  多少入っていますが

琉球人は 日本人 
縄文人 なんです。

琉球国 という風に 
あたかも1つに 独立国があったかのように 言われていますけれども

出雲の国 とか 尾張の国 とか それぞれ国がありますが

琉球国は 離島ですから 独立した国家 があるように思いますが
日本人が あちら こちらで 国を建てたわけですから 

そのうちの1つが 琉球国 というわけです。

3世紀から 統合が 始まりますけれども 

大和の国の 大和連合王権 になるのが 
琉球は 遅れた というだけであって

琉球 を併合していくのは
薩摩が 出兵する 
江戸時代まで 待たなくてはいけませんが

明治時代に
東京にも レンガ造りの 建物が建ちますけども
じゃあ 
西洋人が どっぉぉぉ~ ときて 西洋建築ができたわけではなくて

琉球も 建物の色が 濃いからと言って 
中国人 支那人が 押し寄せてきて 沖縄を駆逐したわけじゃあないんです。

沖縄人の先祖は 日本人。縄文人 なんです。

琉球にも たくさんの神社 が建てられています。 
日本列島の中で 1つの小さな国を建てた という事です。



そして
アイヌ人 というのは



北海道の 先住民族として 
初めから アイヌ人 という人がいた というわけではありません。

日本列島は
3万8000年 くらいから 
徐々に 岩宿人 から 均等に混血が進み
日本列島 全体に活動の場が 広がっていった。

その人たちが
縄文土器 をつくるようになって 縄文人 と呼ばれるようになった。

北は 北海道 から 
南は 沖縄 まで 縄文人 が住んでいました。

台湾人 でも無ければ 漢民族 でも ありません。
北方民族 でもありません。

原始日本人 という感じの人たちです。
そして
縄文人 と オホーツク人 が混血をするんです。

オホーツク人 というのは
網走 とか 紋別とか に住んでいたんですけど
ある時
忽然と 姿を 消すんですね。

オホーツク人 の遺伝子は アイヌ人 に受け継がれているので
縄文人 と オホーツク人 が混血を していって
アイヌ人 になったのではないか と理解されています。

鎌倉時代あたりに アイヌ文化 ができたという事で

なので
アイヌ人は 縄文人 の子孫 なんですね。

14世紀 に入ると
北海道の 渡島(おしま)半島の アイヌ人 と 
本州の 青森の北の方にいる 津軽人 が

交流交易 をするようになるんです。

アイヌ人 も 津軽人も 縄文人の子孫です。

倭人(わじん)と アイヌ人 が
抗争 を繰り広げてきた と言って

北海道に 
倭人 がやって来て とんでもない弾圧して 根絶 をした
何て言うのは 全くの

嘘 です。

ちなみに
倭人 は チビの日本人 という意味の 
中国で 古称されていたものです。

大和民族 としては 和人(わじん)がいいと思います。

そもそも 和人 も アイヌ人 も 縄文人の子孫です。

じゃあ 和人 って 誰?
って言ったら 津軽人 の事なんです。 青森県民です。

何も 日本人と アイヌ人 の 抗争があったわけではなく
両方とも 日本人 なんです。

島根県民は かつて 出雲の国 出雲人 ですね。
じゃ 日本人 じゃないか って言ったら 
いや日本人ですよ。

薩摩隼人(さつまはやと)だって 日本人ですよ。

アイヌ人だって 少し オホーツク系 が入ってきただけであって
日本人ですよ。

アイヌ人も 本州に 行きます。
津軽人も 北海道に 行きます。

渡島半島に 住み着いた人たちが 蠣崎(かきざき)氏 です。

コシャマイン という アイヌの狩猟 がいたんですけども



その人が 立ち上がり 蜂起 するわけですよ。

アイヌ人が 危険行為を 吹っ掛けてくる事があったんですね。
1457年  コシャマインの戦い というのがありまして
そこで
蠣崎氏 が 渡島半島 の拠点にしたんです。

同じ 和人が 行き来していたという事です。







西欧列強による アジアへの侵略の始まり

ヨーロッパ大陸 アフリカ大陸 南アメリカ大陸の 3つの大陸にまたがって 

ポルトガル
スペイン
オランダ
イギリス
フランス の奴隷商人は

ヨーロッパでつくった ビー玉 武器 木綿などの工業製品を 
アフリカに運び

そこで 奴隷 と交換した後 

南アメリカの ブラジルや 
西インド諸島まで 奴隷を運んで 売りさばきました。

売りさばいたお金で 
砂糖 ・綿花 ・タバコ ・コーヒー などを買い 
ヨーロッパに戻って 売りました。



三角貿易という 
奴隷貿易によって ヨーロッパは 莫大な利益を得ました。

ボストン茶会事件をきっかけに 
イギリス本国 と アメリカ植民地 との戦いがあり 
アメリカ独立戦争 へとひろがっていきます。

フランスは フランス革命の後 
ナポレオン戦争で 命懸けの戦いをしているので 
遠い 
アジアの日本に 本気で構っていられませんでした。

このころ
11代将軍 徳川家斉(いえなり)の治世は 大奥の最盛期。


 
華やかな 町人文化をつくりだしていて 
平和ボケで 世界情勢にあまり興味がありません。

イギリスは アメリカ独立戦争に負けた後

今度は フランスとの植民地の争奪戦を くりひろげます。

インドのムガール帝国が イギリスの支配下に入りました。 

イギリスは 木綿製品を インドで売り 
インド産の アヘンを密貿易して 清国に売りさばきました。

清国で アヘン中毒 の人が増えてしまい 
清国政府は アヘンを没収して捨て アヘン商人を追放し 
イギリスとの貿易は禁止しました。

そして アヘン戦争が起こり 



清国は負けて 
その後
100年以上にわたって イギリスの 半植民地の立場におかれました。

太平洋地域は 
西欧列強による 植民地支配が急速に進んでいきました。

こうした
アジアでの 西欧列強の 植民地支配の動きは 

極東の日本にも 大きな影響をもたらし始めました。

19世紀に入ると 
日本近海にも ロシア船などの外国船が たびたび現れるようになりましたが

黒船2隻が 
浦賀沖に来航して 日本に通商 を求めてきました。

当時 イギリスの産業革命の影響を受けて 

ランプの灯火の燃料用として 
マッコウクジラ


を乱獲し 大西洋に クジラがいなくなってしまったのです。

なので
鯨油 を手に入れる場所として 日本を選んで 太平洋に出てきて 
そして 
開国を迫ったという事でした。

黒船には 水平に遠くに飛ばせる 
ペクサン砲 を 積んであり 

そんなものを 江戸の街に撃たれては大変なので 
江戸幕府に 通商は考えておきますからと 一度お引き取り願ったわけです。



アメリカには帰らず 
ペリーたちは その間 琉球にいました。
強姦 暴動 傷害 やりたい放題だったと言います。

その間に 
江戸幕府は 江戸湾に入ってくる黒船に対し 
陸上から砲撃できるように 
今の お台場当たりに 人口島をつくっていました。

7か月後 
嘉永7年 1854年3月 
またもや 
2度目の来航。

神奈川の浦賀沖に 
アメリカ海軍の 東インド艦隊司令長官 ペリー提督の黒船が来航しました。

吉田松陰は 黒船密航作戦 を企てますが失敗。


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そして4年後
安政5年 1858年6月19日 日米修好通商条約 が結ばれました。

この条約は 関税自主権も認められない 不平等な条約でした。

これがきっかけとして
イギリス フランス オランダ ロシア とも 同じ条約を結びました。

この開国によって 
西欧列強からの アジア侵略に危機感 を持った
 
薩摩 長州 土佐 肥前 などの藩が 
公家と一緒に

弱腰の江戸幕府を倒して 
天皇を中心 とした 近代国家に日本をつくり変える 
という運動が始まりました。

明治維新です。







近代国家を目指す

幕末の志士が 
多くの日本の若者が 

日本ために 国づくりのために 海を渡りました。
異国の地で 亡くなった若者も 
志なかばで 命を落とした志士もいました。

徳川幕府が倒れ 王政復古の大号令 



戊辰戦争があり 



動乱が しばらくありましたけれども
明治新政府が 中央集権体制 を整えていきました。 

明治時代は 日本が 大躍進を遂げた時代なんですね。



江戸時代までは 
吹いたら飛ぶような 弱小国だったわけですよ。
現に ペリー来航で 
黒船が来て 大砲撃つぞ!と言われて 手も足も出なくなってしまった。

それもそのはずです。

ヨーロッパではもう 産業革命が終盤 にさしかかって 
大きな工場が どんどん 量産体制をかけていって 

蒸気機関で 鉄道は動くは 大きな船は動くは 
そういう時代を迎えていたんですけれども 

日本はまだ 産業革命に至っていませんので 
家内制手工業 が中心の国だったわけですよね。



ですから 国力が全然違うわけですよ。

幕末までは
日本は まだ弱い立場で 
欧米列強から 勝手気ままに 無茶苦茶 言いなり にされちゃったわけですね。
日本は それに気付いて

欧米列強と 対等にやりあう国になりたい と 
強い国になりたい と

そういう思いでスタートしたのが 明治時代でした。
そして それを成し遂げます。

明治時代の 経済は
猛烈な勢いで経済が バコーン!って上がっていったわけですよ。



世界に並ぶ 経済大国になる。
明治の 最後のころには
欧米列強に並びかけて 

完全に並んだのは 大正時代なんですけども 
明治時代は 
大国に 引けを取らない国に 大躍進を遂げた時代です。

口でいうのは簡単なんですけども なかなかできなかったんですよ。

アジア諸国は 
欧米列強に くそみそにやられてしまった訳ですから。
日本は 
外国の いいところを取り入れながら 経済大国に導いていった時代です。

武家の時代が 700年 続いてきたわけですよ。

平安時代末期からの 
保元の乱で 平氏 が実力を持ち 実権を握り 



鎌倉に武家政権が立ち 







戦国時代に武家が交代して



最後は
徳川の 江戸時代も 260年くらい続いたわけですから。



いよいよ武家政権の時代が終わります。 





五箇条の御誓文

大政奉還 によって 
天皇を中心 とする国家体制を つくっていくという事になったわけです。

新政府は
日本はこれから どんな方針でいくか という事を打ち出します。 
日本国民一丸となって 方向性を一体化する。
なので 
天皇の名 で出す必要があったわけです。
それが  五箇条の御誓文 です。



慶応4年が 明治元年 に改元されます。
西暦で言うと 1868年 3月14日に出されたました。

この時 まだ明治天皇は 14歳の少年です。

お父様の 孝明(こうめい)天皇は
歴代天皇の中で最も 祭祀を 大切になさったお一人です。

御在位中 国難が続き 
その度に

国安かれ 民安かれ と お祈りになりました。



昭和天皇が
マッカーサー元帥に 自分はどうなっても構わない と仰ったように

孝明天皇は 
暗殺説 があるように 
若くして 突如とし 崩御あそばされたのです。 

死して国を守った帝(みかど)

命を 霊的に 
御引き換えになったかもしれない のではないでしょうか。 

そして
明治天皇が 突然 天皇になったわけですよ。



歴史 人物② リンク

この時に 一世一元の制 がつくられました。

今までは 
特別悪い事 逆に良い事 の時に
世の中の流れを 変える 乗る という事で 
元号(げんごう)を 変えてきましたが 

天皇が 即位して崩御まで という 
一天皇 一元号 にしよう という事が決まります。

五箇条の御誓文は

まだ少年の 明治天皇自身が 書き上げたわけではないのですが 

家臣たちが説明して 
これは あなた様の名前でもって 出しますよ
と ご理解をいただいて 

明治天皇の 名 でもって出されました。

憲法も 国会も 選挙もない 
内閣も できていない時に

一、広ク会議ヲ興シ(おこし) 万機公論二決スべシ

重要なことは 広く優れた人材を集めて 会議を開き  
公(おおやけ)に議論をして 国の政治は 国全体の事を考えて決める

一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)二シテ 盛二(さかんに)経綸ヲ行ウべシ

上の人も下の人も 身分を問わず 
心を一つにして 産業を盛んにし 豊かな国をつくる

一、官武一途庶民ニ至ル迄(まで) 各(おのおの)其(その)志ヲ遂ゲ
   人心ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス

全ての人の 志 が実現できるような国にして 
人々の やる気が出るような世の中にする

一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道二基(もとづ)クべシ

江戸時代の古い習慣や しきたりにとらわれないで 
国際社会のルールに基ずいて 国づくりを進める

一、智識ヲ世界二求メ 大二皇基ヲ振起スべシ

優れた知識や文化を 世界から学んで 
天皇中心の国 日本を いっそう発展させていくべき



重要な事は みんなで議論して決めよう なんてものは

もともと 
古事記にも 何かある度に 

八百万(やおよろず)の神様が
ゾロゾロ集められて どうしよう こうしようと 議論しながら決まってきましたよね。

聖徳太子の 17条憲法もそうです。

日本の歴史においては 独裁を良し とする思想はありません。

大切なことこそ みんなで智恵を出し合って 決めようという。 

素晴らしい事だと思いませんか?
2000年前からそうなんです。

一時期 室町時代の 足利義満(あしかがよしみつ)が 
独裁制を 敷いた時期もありましたけれども 戒めの対象になっています。



神武(じんむ)天皇の 建国の精神 がありましたね。
みんなで協力して みんなが幸せになる。

この指針が決まっているので 団結しやすいのです。 
一部の人間が 国をリードするんじゃないんです。

国民の一人一人が 志を持って 
人々が 希望 を持てるようにしなければならない。

ある人 ある時代は 正しい とか  
ある人 ある時代は 正しくない とかではなく 

普遍的な道理

いつの時代 誰にとっても 
これは正しい という 
そういう物事の 判断基準に基づいて

何を変えるか 変えないか を判断する。

5つのポイントしか無いんですが 

神武天皇の 建国の精神の原点 に帰る。 
五箇条の御誓文は 素晴らしいんですよ。

そして 
これは 天皇の名によって出されたものです。

これを実践したら この国は 素晴らしい国になります。
政治家 官僚こそ これを読んいただきたい。

日本は昔から こういう国を 善し としてきた。
こういう思想を 受け継いできたので 

五箇条の御誓文は 実に日本らしい。 

日本人が大切にしてきた
国の在り方を 端的に示したという風に言えると思います。





帝国憲法起草・発布

幕末維新で 大きく 政治体制 が変わりました。
江戸時代は 
幕府が 政治を担ってきたんですけれども 

幕府が倒れて 新政府ができました。

武士が 政治を動かす時代を 終わらす。
という事になったんですね。そこで

新しい政治体制をつくっていかなければならない。

幕末の時 ペリーが来て 言いなりにされてしまった。
その苦い経験を 記憶していました。

日本は強い 独立国に成らなければ 
外国の 植民地 になってしまう。

経済力 軍事力を持って 
簡単に 言いなりならない強い国 を目指したんですね。

これを 富国強兵(ふこくきょうへい) といいます。



近代国家に 成らなければいけないですね。
近代国家としての 体裁を整えていって ちゃんとした 国家運営体制をつくる。

民主主義 を導入する事。
憲法を持つ という事が  大変重要になってきます。

明治憲法 と言う人もいますが
大日本帝国憲法を 略して 帝国憲法(ていこくけんぽう)です。

憲法という 国家運営のルールを立てて 

国家の意思 運営は こういう体制だよ 
というのを 
文字にして 定め決めたのが 立憲主義です。

国家は何のためにあるのか から出発しますが

国家の構成員である 
国民が 自らの意思によって 国の在り方を定める。

そして 
国民が 幸せになるために 国家があり 
国民が 国家の 運営体制を定め 
国民の 意思によって 政治が行われていく

というルールの上で 国家運営をしていきましょう というのが

立憲主義と言います。

そのためには 憲法 を持たなくてはならない。

憲法を持つてこそ 初めて 近代国家に成りうる という事です。



憲法を持って 
議会を 設置して 
国民から 議員を選んで 

議員が 議論することによって 国の政治の中身を決めていく。

平安時代末期から 700年くらいの間 江戸時代まで 
武士が
軍事力を使う事によって 政治を動かしてきました。

安政の大獄で 井伊直弼(いいなおすけ)が 桜田門外で殺されました。

しかし 幕末の維新の最後。
西南戦争以降は 

力づくでは
政治は動かない って事になったんです。

憲法ができて 
ちゃんとしたルールに基ずいて 国の意思決定 がされるようになりましたから

2・26事件や
5・15事件など 
明治 大正と 昭和初期 トップが暗殺されても 政治は動かないんですよ。

安保闘争も 安倍内閣の集団的自衛権 の時も
 
軍事力とか 暗殺とか 物理的な実力行使 
力でもって 政治を動かそうと思っても 動かない という風になったんです。

正しい言論は 選挙を通して 正しく政治を動かす 変えるものであって 

民主主義がなければ
デモとか ストライキとか 暗殺とか クーデターとか 挙兵したもの勝ちで 



力ずくで 決起してやるしかないですよ。

憲法体制を整えることによって 
近代国家となり 先進国になれるわけです。

明治9年に 憲法起草の詔(みことのり)が出るんです。

政治の最終責任者 内閣総理大臣の 

確認しましたよ 
という 署名と共に 

天皇が発する 公式な内容です。

実際に 大日本帝国憲法 が発布されるのは 明治22年ですから 

明治9年から 13年かけて つくった事がわかります。
こんな長い時間をかけて 憲法をつくるというのは 凄い事なんです。

現在の 日本国憲法は 

終戦の どさくさの中 GHQの押し付けで 
素人が 7日間で書いたから 日本人が書いたものではないから

あれは異常だ
と 言う人がいますが

でも 憲法って そういうものなんですよ。
アメリカ合衆国憲法や フランス憲法。
革命や戦争の中 素人が2・3日で 書くものなんです。

日本みたいに 
10年以上 審議して憲法を立てた国って まぁ なかなかないでしょうね。

幕末の動乱もおさまり 安定した体制になってきた時の
明治9年 憲法起草の詔でした。

「我(わが) 建国ノ体(てい)二基(もとづ)キ」

よその憲法をそのまま 持ってくるのではなく
神武天皇の 日本建国の精神を ちゃんと体現した 

日本独自の ものにつくりこむ。

「海外各国ノ成法ヲ 斟酌(しんしゃく)シ」        



アメリカや ヨーロッパ 各国が持っている 憲法を 
読み込んで 研究して 参考にする。
決して コピペしろっ ていうのではないんです。

立憲主義は 西洋から入ってきたものですが
西洋の 受け売りではなく 
日本には もともと その考えがありました。

明治天皇 がおっしゃった 五箇条の御誓文や 
飛鳥時代に
聖徳太子 が出した 十七条憲法。

古事記の中でも 
神々が 八百万の神々が集まって 話し合いをして決めていました。

日本においては
大切な事は みんなで議論して決めなさい。というのが 美徳なんです。
2000年以上前からなんです。

西洋は みんなで話し合おう なんて考えに つい最近 気づいたんです。
フランス革命からですからね。



最先端のものが 日本に入ってきたみたいですが 

そもそも 和の精神。 

話し合いをして 政治を決める なんてものは 
2000年以上前から 日本はやっているのだから お手の物なんですよ。

ただ日本は 文字になっていなかったんです。

ここから 
外国から入ってきた 立憲主義を
日本人なりに 組み立てていって 上手に機能して
日本はこの後 大躍進を遂げていく事になります。



アジア発の 憲法を持ったという事は 
日本がこれから 
大国に 伸し上がっていくうえで 非常に重要な部分を 担ったのではないかと思います。

まず 海外の憲法を研究して 理解して
何を取り入れて 何を取り入れない

日本の建国の体(てい)って 何。
融合させるのは  何をアレンジすればいいの。

こんなことを 10年間議論するんですよ。

最後の 
「朕 将(まさ)二 撰ハントス」

外国の憲法を研究して 
日本の建国の体(てい)に基づいて 憲法を起草しなさいよ。
そして 
私のところに持ってきなさいよ。 
そしたら 
私が よし。これにしよう!と選ぶ 

と 明治天皇はおっしゃっているわけです。

欽定憲法(きんていけんぽう) 
といって 君主が定める憲法です。大日本帝国憲法は これです。

その対比語 として使われるのが
民定憲法(みんていけんぽう)です。

国民が 定める。
革命で 国王を倒して 
これからは 国の主人は 国民だ わぁー!って
素人が 数日で 憲法を書いた
フランス憲法や アメリカ憲法はこれです。

伊藤博文が 憲法をつくる最終責任者になりました。
明治15年 の段階で
実際に ヨーロッパに憲法調査をしに 学びに行くんです。



明治18年 
内閣制度は 発足するんですね。
そして 
伊藤博文が 初代 内閣総理大臣に就任します。

ちなみに 
内閣制度が 発足する前の 最初の内閣総理大臣は 
三条実美(さんじょうさねとみ)です。



実際に
憲法 と 皇室典範(こうしつてんぱん)を 起草する役割を担ったのが 
井上毅(こわし)です。



この人は 
江戸時代 幕末の生まれで 
江戸時代すでに フランスに留学しているんですよ。
才能で 
日本の国に貢献した人で この人がいなければ 

日本は 一流国家になっていなかった。世界の大国に いかなかったかもしれません。

日本の事を もっと知らなければ と 
井上毅は 古典研究 を始めるんですね。

ロシアが
日本を征服する意図を持って 南下政策 を進めていたんです。

日本が 早く体制を整えて 
発展した 外国から認められる ちゃんとした近代国家 とならない限り 
日本は 国家を存続させることができない と考えられていたんですね。

急ぎながら 着実に進めなければいけない。
それでも 10年以上かかったんです。

日本の国柄を軸にして 憲法をつくるので 
井上毅は 2年間かけて 



膨大な量の あらゆる日本古典と 
古事記 日本書紀を 何度も 何度も読み込んでいきました。

要するに
日本って 何なんだ という勉強をしたんです。



憲法というのは 
その国家の 一番大切なことを スパーン!と言うところから始まるんです。

日本って どんな国ですか?
これを 
憲法第一条 2行くらいで書け 

2000年以上続いてきた 日本を 一言で言え と言われたら 

これは難しいです。

井上毅は 
一流の国学者たちと一緒に それを探求するのに 2年かかったんです。

明治天皇も
自ら 憲法の勉強に集中しました。
アジアで最も 憲法を熟知した 君主です。

伊藤博文は 
ローレンツ・フォン・シュタイン という



当時の 
オーストリアの 憲法学者がいるんですけれども

明治天皇の 御学友の 藤波言忠(ことただ)をヨーロッパに留学させ



ローレンツ博士の下 1日 3時間の講義を 9か月 受けたんです。
そして 
帰国して 藤波が 明治天皇に講義するわけです。

明治天皇は 自ら憲法を学び 

だからこそ 政治に関与してはならない と
頑張れ 頑張れ と 政治家たちに 力を与えるのに徹して 
ご自身は
応援 激励する事で 憲法に徹した方なんです。

それが
昭和天皇に そして今の 上皇陛下に 天皇陛下に 受け継がれたわけですから。

国の体(てい) 日本って何?というのが 国体(こくたい)です。
国民体育大会ではありません。

憲法 第1条 を読んだら あぁ こういう国ね とわかるという事。

各国の憲法も 

アメリカは 


議会制 民主主義の基本原理。
国民が 自由を尊重する という国 が書かれています。

アラブ諸国は 



我が国の宗教は イスラム教である と書かれています。

中華人民共和国は 



わかりやすいですね。

悩んで 悩んで 悩みぬいた 井上毅は 
2000年以上 続いてきた日本を 1言で問え と言われた 答えは

『大日本帝国ハ 万世一系ノ天皇 之(これ)ヲ統治(しら)ス』

日本という国は 天皇が 治す(統治)国 なんだ 



と 答えたわけです。

天照大御神(あまてらすおおみかみさま)が 
孫の 邇邇芸命(ににぎのみこと)に 

あなたは 地上世界に降り 国を知らせ とおっしゃった。

邇邇芸命の 
曾孫が 神武天皇ですから 

歴代天皇は 国を 知らす 存在であったわけです。

日本は 偉そうに 命令を下す 独裁ではなく
大切なことは みんなで 議論 して決める。

なので 
天皇は その事情を知る 国の事 国民の事 隅々まで知るのが 
天皇なんです。

知ると 祈りたくなるんです。
知る という統治で 国を束ねてきたんです。だから 2000年以上続いてきたんです。



ところが 書いたはいいんですけれども

伊藤博文が
当時もう  治(しら)す という言葉は 古語になっていて 
明治時代 使われていなかったんです。

憲法の前文で みんなが知っているような 同じ意味の言葉はないのか
という事で

だったら 統治(とうち)ですかね という事になりましたが

なんだか 
天皇が 威張りくさって 
全部 国の政治を決めるかのような 印象を与えてしまいますよね。

なので 
本来であれば 大日本帝国憲法 第一条は  
治(しら)す のままで いくべきだと思うんですけれども

そういう事情があって 統治す になってしまいました。

これは
井上毅も 断腸の想いだったと思うんですよね。

しかし 伊藤博文が書いた 憲法の解説書で 
条文では 「統治す」 となっているけれども 

これは もともと 「治す(知らす)」 の意味で用いているんだよ と
わざわざ 本に書いて出版しています。

でも 多くの人は 
統治 だから 
日本って国は 天皇が 指図して 全部決める国なんでしょう。

誤解されてしまったんですね。



そしてついに 草案が確定して
明治21年。
明治天皇に上奏(じょうそう)されました。

上奏 というのは 
天皇の前に 最終的な決めたものを お持ちして 許可をいただく という
手続きを言います。

帝国憲法案を 確定するために作られた 国家機関が 
枢密院(すうみついん)です。
わざわざ 
憲法を審議する国家機関まで 作ってるんですよ。
これは よその国には無い事です。

枢密院で 
14日間 憲法について審議され 
全部 ここはこういう意味です など 井上毅が答弁するんです。

その 枢密院での 全ての議論は 
朝から晩まで 明治天皇が 臨御(りんぎょ) ご出席されるんです。

足くんだり 頭をかいたりなどはなく 
まるで 
銅像のように いつ見ても 同じ姿勢だったそうです。
そして 
一度の ご発言も なかったそうです。



それは
ずっと審議を見ている 明治天皇の前で議論する という事で

14日間 ピクリ ともしないけれど 
明治天皇がいらっしゃる前で 議論する となると 

私利私欲 とか 党利党略ではないですけれども
自分の利益など 
そんなものは どうでいいです みたいな

日本国の事を考えて 将来 どういう風にあるべきかを 
我(が)など関係なしに みんな真剣に 議論したみたいなんですよね。

明治天皇の 何も発言が無い。
でも 
ずっと明治天皇が見ている という 緊張感の中で 審議するというので 
皆で 大きな力 を出すことになったと思うんですよね。

そして 明治天皇から 裁可(さいか)をいただくことになりました。

明治22年。
2月11日 
大日本帝国憲法 発布式典 がおこなわれます。

皇居の 賢所(かしこどころ)。
皇居の中に 神社みたいなところがあるんですね。

そこに 
天照大御神 から授けられた 三種の神器 のうちの一つ。
八咫鏡(やたのかがみ)が 賢所(かしこどころ)にお祀りされています。

いわゆる 宮中祭祀(みやちゅうさいし)と言われるものは ここで行われるんです。



明治天皇が 
皇祖皇宗(こうそこうそう) 天照大御神をはじめ 諸々の神様に 
そして 
初代 神武天皇から 歴代天皇から伝わるものを 

文字にしましたので 憲法を制定するになりました
と 
告げ文(つげぶみ)を奏上します。

この時の 明治天皇のお姿は 黄櫨染の御袍(こうろぜんのごほう)です。
天皇のみ が着る事ができる 平安装束です。

神様に 憲法を制定することになりました。 
と ご報告されました。

平成 から 令和 に変わる時に 
即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)が 行われましたよね。

高御座(たかみくら) という天皇陛下の 玉座(ぎょくざ)が 
京都から運ばれ 

そこで
新天皇陛下が お言葉を発せられました。
最も 格式が高い部屋。正殿です。



その正殿で 大日本帝国憲法 発布式が行われ 発布勅語を 朗読なさいます。
歴代天皇から 明治天皇が 受け継いできた
大権(たいけん)。君主の権限によってつくったのが 大日本帝国憲法だ という内容です。

ちなみに 日本国憲法が発布されたのは 
昭和22年です。

明治23年には 帝国議会 が発足しました。

井上毅 が書き残している文章があります。

我が国の憲法は ヨーロッパの憲法の写しに 非ずして 
すなわち 
遠つ 御親の不文憲法の 今日に発達したるものなり

これは
成文憲法ではなく 
不文憲法 として ヨーロッパを参考にしつつ 文字に書き起こしました。
日本は 
2000年以上 統治機構は ちゃんとありました。
憲法の無いところに 憲法を打ち立てたのではありません。

と 語っています。

アジアで初めて 立憲主義に乗っ取った 憲法というものを持った。
これは 日本が最初 という事になります。







日清戦争

日本は 経済成長も していました。軍隊も 持ち始めました。
しかし 
世界規模でいえば まだ弱小国です。

朝鮮半島は
独立国 であってほしいわけです。日本としては それが安泰なんです。

最悪なのは 清(しん)の軍隊が 朝鮮半島に入り込むこと。

何か口実を付けて ロシア と 清が
ポッ と 朝鮮半島から 日本列島に渡ってきたら 
すぐ 九州を 制圧されてしまいます。

ロシアは 明らかに 日本の侵略を狙ってましたから

ロシアの軍隊が 朝鮮半島に入ってきたら 
日本を狙うための 基地 になってしまいますからね。



朝鮮半島が無ければ どうって事 ないんですけど 
朝鮮半島は出っ張ってるから。

朝鮮が 自立 してくれればいいんですけれども

日本が応援しようとしても 朝鮮の王朝は 清にべったりなんです。

金玉均(きんぎょくきん)という



日本とつながっていた政治家も 失脚してしまいました。

明治27年.
朝鮮半島で 東学党の乱(とうがくとうのらん)が起きます。



これは
東学党という 民間宗教なんですけども 農民の暴動が起きます。

朝鮮半島には まともな軍隊も 警察もないんですよ。
清にべったりで 
清に 助けてぇ~ と言えば 
しょうがないなぁ~ と言って 

朝鮮半島に 清が 軍隊を派遣するんです。

日本が 朝鮮に 
一緒に成長しようよ。サポートするし と言っても 

清にしたら 
なに ウチの子分に ちょっかい出してんだ。変な事を吹き込まないでくれ 
という事です。

1884年 明治17年。
甲申の年に 
開化派の 金玉均(きんぎょくきん)らが 

日本の援助で 朝鮮の独立を目指したのですが 清の武力干渉で失敗をする  
甲申政変の時に  

朝鮮半島には 
日本 と 清は お互いに 軍隊を置くのをやめよう となっていて 
事情があって 派兵するときは 
必ず事前に通知する とかして 朝鮮半島のバランスを保ちましょうと 

天津(てんしん)条約を結んでいました。

清は 派兵したことを 通知します。
日本も 朝鮮半島の権益を守る為に 軍を派遣するんです。

気づいたら 
朝鮮半島に 清 と 日本の軍隊がいる という感じになるわけです。



日清戦争の戦場は 朝鮮半島 なんですよ。
朝鮮半島と 遼東(りゃおとん)半島 と 山東(さんとん)半島の ここら辺で 
日本と 清が 戦闘状態になります。

明治天皇は 
何とか戦争を回避できないのか とおっしゃってましたが 
結局 戦闘に至ってしまいました。

下関から 突撃していくわけですが
広島に 大本営が置かれたので 

陸海軍の大元帥 最高責任者 明治天皇は 
7か月半 広島にいました。

都を離れて 西日本に出征なさるって 
飛鳥時代に 百済(くだら)を 救済するという時の 

斉明天皇 以来の事 1233年ぶりです。



明治天皇のご希望で 
粗末な 2階建ての小屋で 2階の御座所で 机と椅子だけで 

寝る場所も そこでよい という事でした。

剣爾御動座(けんじごどうざ) といって 天皇が動く時には 
三種の神器の 剣と 勾玉が 天皇と一緒に 広島に来ていました。

侍従が ソファと 暖房も入れましょう というのですが 

明治天皇は 
戦場にソファや 暖房があるのか? とお断りしました。

朝鮮半島 中国大陸で 戦闘に従事している 将兵たちの事を思えば 
ちょっと不便だとか 
暑いだの 寒いだの 
ソファだとか そんなものは なんの不便ではない
とおっしゃるんです。

将兵たちも 明治天皇は そこまで想ってくれているんだ 頑張ろう! となりました。

日本軍は 日本の5倍のGDPを持つ 清の軍隊と戦うんです。

日清戦争の 目的は 朝鮮を独立させる。

別に
朝鮮半島を 領土として ほしいわけでもない。
朝鮮半島が 独立さえしてくれればいいんです。

清の属国ですから 清にべったりですから 
清が いつでも朝鮮半島に入り込んでしまう 
それが 嫌なんです。

国力も小さい。
軍隊の装備も 遅れているものもある。

でも 幕末に
大村益次郎(おおむらますじろう) 以来 



ちゃんとした 軍の近代化をしてるんです。
ちゃんと訓練されている 部隊がいて 作戦も上手だったんです。

教育に 力を入れてきた という事がよかったんです。

装備がしっかりとしていて
規律が整っていて
よく訓練されていた  この三拍子が整ったんですね。

そして 
経済大国の 清との闘いは 
すべての戦闘で 日本は 勝利をおさめました。

日清戦争で負けてから 清は 弱体化していき  

日本に負けてんの?
じゃあ 
ウチら ここ取っちゃおうかな みたいな

欧米列強が 清の領土を 侵食 していくことになるわけですね。

子分の朝鮮も 
えっ? 清の親分 
清の GDP 1/4 の日本と戦って負けてんの?と

子分も ドン引きなわけなんですよ。

一気に 清が 分割化されていくんです。



戦争は
国力があるから 軍事力があるから といって
必ずしも 勝てるわけではないんです。

作戦が しっかりしていて 
指揮が高ければ 勝てるんです。





三国干渉

日清戦争で 日本が勝利し  
日本の支援の下 朝鮮が ちゃんとした独立国になるというとは

朝鮮を 侵略しようとしていた ロシアは
おいおい そこ 入ろうと思ってたんだけどって 面白くないわけです。

こんな 弱小国の 日本が戦って 勝っちゃって

遼東半島(りゃおとんはんとう)を取り 
台湾と 澎湖(ほうこ)諸島も取った 日本。
そして 
朝鮮を 支援して 独立させることになると 
朝鮮は 日本にべったりの国になりますよね。

ドイツも フランスも 中国大陸に興味を持ってたので 

ちょっと 俺たちも取りに行こうぜ ってなっちゃったわけですよ。

そこ起きたのが
三国干渉です。

3つの国が なんか変な 干渉をしてきた 
って事です。ロシア ドイツ フランスです。

遼東半島は
山東半島(さんとんはんとう)と 朝鮮にもすぐ行けますし 
北京にも 天津(てんしん)にも すぐ行けます。

満州とも 直属しています。
陸地は 山脈があって 行き来は 沿岸部しかできないんです。



遼東半島をおさえるって事は 

敵を 陸路で 半島に来ることを遮断できるし 
海から入ってくる敵も 監視ができるし

すごく 地政学的にも 軍事的に重要な場所なんです。

ロシアは 
日本を狙うのには 朝鮮半島がほしい。
中国の権益も考えていますから 湾の入り口の 遼東半島も ほしいんですね。

大連(たいれん)があり いい軍港がある 旅順(りょじゅん)。
これをめぐって 
のちのち日本は ロシアと 日露戦争で戦う事になるのですが

日本は 清と戦って 国際条約を結んで 
合法的に 遼東半島の割譲(かつじ)を 受けたんです。
日本の直轄地になったわけです。

ところが なぜか
ロシアと ドイツと フランスが共に 遼東半島を返せ! って言い始めたんですよ。
遼東半島 うちも欲しかったんですけど みたいな。



この3か国 関係ないじゃないですか。
なんで あんたたちに言われなきゃ なんないんですか?って感じで

清が 言うんならわかるんですよ。

突っぱねればいいんですけど まだ日本は 弱小国なので 
ロシア・ドイツ・フランス が 束になってやってきたら 
軍事力が違いすぎますから 日本は太刀打ちできない。

弱小国の日本が どれだけ気合い入れて 
訓練 準備 作戦で 日清戦争を勝ったと思ってるんですか。
たくさんの兵隊が死んでるわけじゃないですか。

でも返せ と言われたので 返しちゃったんですよ。

当時の日本人が どれだけ悔しい思いをしたか ですね。

日本が 遼東半島を 清に返したので 

明治30年。
ロシア軍が 租借という言葉で 
清に 借りるね って言って 

ロシアが 遼東半島を 占領しちゃったですよ。
イギリスは 山東半島の先 威海衛を 占領しちゃいましたよ。
ドイツも 山東半島の南海岸 膠州湾(こうしゅうわん)を 租借地 としました。

この後 どんどん 
清に色々な国が 入り込んでいって 清を分割していっちゃうわけですから。



有色人種を 完全に馬鹿にされてますからね。めちゃくちゃです。

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

その時まで 努力して 努力して 努力して いつか果たす。
これが 日本人の 想いでした。

今度は 3か国 4か国も相手にできる 強い国になろう!
と 
三国干渉 されたお蔭で 逆に日本は強くなりました。

それから 10年後。

今度は 日本は 
ロシア と戦う事になります。

日露戦争が起きました。

日本はよくやりますよね。普通 嚙みついていかないですよ。

遼東半島は取られた とはいえ 清に 承認させました。
しかし 
一生懸命 日本は朝鮮に

憲法のつくり方 選挙のやり方 近代化に向けて
支援していくのですが 

朝鮮の中の 
改革派(親日派)と 保守派(親清派)の間で 
猛烈な 権力闘争が ずっと続くわけなんです。

厄介なのは 
朝鮮王室が 真っ二つに分かれていて 
朝鮮王室の中で 20年以上 暗殺しあったりして 権力の奪い合いが行われています。

親清派は ロシアとつながっています。
その当時の
朝鮮の国王が 高宗(こうそう)。



奥様が 閔妃(みんび)。



ロシアと べったり つながっている 
そして 日本を毛嫌いしている。

ロシアは 明らかに日本を 侵略しようとしている。
ロシアに 朝鮮半島に 入ってきてほしくないんです。 

しかし 閔妃(みんび)が
権力を握ってしまったんです。

閔妃(みんび)一族が 政治を動かすんです。
国王の 高宗(こうそう)の お父さんである 

大院君(だいいんくん)と 閔妃(みんび)が 
めっちゃ仲が悪いわけですよ。



清も 西太后(せいたいごう)が 権力を握るじゃないですか。

こういうのは良くないですよね。
お互い 殺し合いしてるんですよ?
お互い いつ自分が 毒を盛られるか。
お互い 失脚しても また盛り返すんですよ。

しぶとく20年以上 この抗争が終わらないんです。

こんなことやってる場合ですか!って
清 ロシアとで
朝鮮を取られたら 日本が 外国からやられちゃうって 
日本は焦ってるのに

朝鮮の王室内で お互い 殺し合いしてるんですからね。

朝鮮には まともな中央政府 まともな軍隊 まともな警察は ありません。

誰に頼ったらいいかの 属国で 統治能力が ないんです。 
今は ロシアに付きたいなぁ~みたいになっていて

でも 日本は 
朝鮮が ロシアに付かれてしまうと困るので

あの~ この子 
まだ 発展途上で 独り立ちできないから 
独り立ちするまでの間 
朝鮮に入り込んで 保護します。立派になったら 出ていきます。

朝鮮を 日本の 保護国 とします。

この後 間もなく 
激しい 抗日派の 閔妃(みんび)は 殺されます。

明治28年。 
全権公使(外交官)である 三浦悟楼(みうらごろう)という 陸軍中将が 
閔妃(みんび)を 暗殺します。



しかし いくらなんでもと 
関係者 48名の日本人が 広島刑務所に ぶち込まれました。

朝鮮の 抗日活動が盛んになります。

奥さんの 閔妃(みんび)から 
幽閉されていた 夫。 高宗(こうそう)は 



小さな箱の中に入って ロシアに亡命し 
親日の父親である 大院君(だいいんくん)の役人を 全員処刑しました。



高宗(こうそう)は 
ロシア公館のなかで 新ロシア政権を 発足させたので 

日本政府は 
朝鮮政府とのコンタクトが 取れなくなりました。

そうこうしているうちに 
朝鮮の民衆が 高宗(こうそう)に 

なにロシアに行ってんだぁ と不振が高まり 
高宗(こうそう)は ロシアから帰ってきました。

朝鮮に戻った 高宗(こうそう)は 
ロシア公館に かくまってもらっていたにも関わらず

まともな中央政府
まともな軍隊
まともな警察 もない状態ですが 

大韓帝国 という ご立派な名前の 帝国を立てました。

名前は大きくつきましたが 内輪もめで 朝鮮の近代化がなかなか進みません。





日露戦争

日本は
ロシアの勢力が 朝鮮半島に入るのが 一番嫌っていたのですが 

日清戦争に勝ちまして 
日本がサポートしながら 朝鮮が近代国家として 自立してくれることを期していたのですが

なかなかうまくいかない 朝鮮の どろどろの 国内の政治でした。

右行こうとすると 左。
左行こうとすると 右。

というような めちゃくちゃな状態でした。

日本は ロシアに怯えているんです。
ロシアも 明らかに 日本征服 侵略 を狙っているんですよ。

日本にある 冬でも港が 凍らない 不凍港 が欲しいわけですよ。
朝鮮半島 遼東半島 ここら辺に 触手を伸ばしていきたいわけですよ。

朝鮮半島を 拠点として 
日本の 対馬(つしま) 壱岐(いき) があって そして九州。
対馬の目の前に 釜山(ぷさん) があるんです。

釜山の 携帯の電波を受けちゃうくらいですから 
60Kmは近い。 すぐですよ。
朝鮮半島から 
九州 西日本 に攻めていく というのが 
ロシアの 日本攻略 となるわけです。

当時 ロシアの強さは 
海軍は 世界で 第3位 
陸軍は 第1位です。

この強敵 ロシアが本気で 日本を狙ったら ひとたまりもない という事です。
朝鮮半島に 
ロシアと 清 が入ってきたら 目も当てられないわけです。
なので 
日清戦争で 朝鮮を打ち取ったのですが 
朝鮮の近代化が 進まないわけです。

そして
清の都 北京で 
義和団事件(ぎわだんじけん) というのが起きるんですね。

清には 色々な外国の勢力が入り込んでいて 
清国内で 外国人を排斥せよ! という運動が起きます。

当時 清で1番力を持っていたのが 
西太后(せいたいごう) という女性です。



西太后が 外国人排斥 に乗っかって 
いきなり諸外国に 宣戦布告をしちゃいます。

清は 人口 経済も そこそこあるのですが 
近代化 されていませんから 
西洋の国と 一戦交えたら うまくいくわけないですよ。

結果 義和団事件といって 

北京に
各国の 行使団 があるのですが 
農民の起こした 外国人行使団排斥運動に  
清国自体が 後押しして 焼き討ちしてしまうんです。

日本も 北京に 行使官 を出していて 

8か国(イギリスの植民地のインドも含めて)が



連合軍 を結成するんですね。

この連合軍が あっという間に鎮圧。 
北京の 紫禁城(しきんじょう) を制圧してしまいます。



この小競り合いも 終結しましたので 
じゃあみんな 帰ろう 帰ろう とするのですが

唯一 
ロシア軍だけ 満州辺りに 居座っちゃうんですよ。
1年経っても 2年経っても 
ずっ~と居座ってるんです。不気味なんです。

ロシアが 朝鮮に入ったら 即戦争です。
朝鮮半島を 要塞化されたら やられちゃいますから 
その時は即 開戦。蹴散らさないと。

今の 尖閣(せんかく)諸島 みたいなもんです。
ちょろちょろ 漁船が入ってきますよね。
尖閣諸島に 中国が上陸した途端 戦争ですからね。 

ロシアさん 満州辺りに 何の用事があるんですかね?
義和団事件はもう終わりましたよ。
みんな帰りましたよね。そろそろ帰りませんか?

交渉するんですけど いやちょっと と 居座っているので

これは いつかロシアと 対決しなければならない時が来るかもしれない 
という事で 
研究を積み上げていくんですね。

その間にも 
欧米が アジアに どんどん植民地をつくっていくんですね。

日本は幸いにも この時 
明治33年ですから 

富国強兵で しっかりとした軍隊をもって 
そう簡単に日本は 侵略できないとこまで来てますけど

アジアの国には 吹いたら飛ぶような国が 多かったわけですよ。

とはいえ 
まだ日本は 弱小国なので 
ロシアと戦ったら 世界が味方してくれるのかが 気になるところでした。
ヨーロッパや アメリカ と 外交をして 友好を高めて 積み上げてきたんです。

小村寿太郎が 



イギリスと交渉をして 日英同盟 を結ぶんですよ。



日本が 明治維新後 初めて同盟を 結んだんですけれども
ロシアと対抗できる 最大の環境を 手に入れたんです。

日米とも 当時は良好でした。

日本は 最大限譲歩した提案を ロシアに出すんですね。

満州に ロシア人がいましたけども 

満州から朝鮮に入ってこないでね。
南下してこないでね。
干渉しないでね。
朝鮮は 日本が 保護しますからね。

という お互いの権益を認めましょう という
満韓交換論です。

ところが 日本みたいな小国が 
ロシア皇帝様に 何言ってんだ。こんなもん結べるかって 
拒絶してくるんですね。
日本を甘く見てたんですね。

満朝交換論を 拒絶されたらもう 戦争しかない という事です。



しかし
明治天皇は 本当に戦争を避ける方法はないのか。
と 
御下問になるわけですね。

そして また議論をします。
でも やっぱり戦争しかない という事になるんです。

明治天皇は 
御前会議で 日露国交断絶を 裁可なさいます。
このころは 
食事も喉を通らない という事になってしまい 
食事を あまり召し上がらないという事でした。



御前会議の後 奥に お入りになって 

今回の戦いは 朕(ちん)が意思にあらず 
しかれども ここに至る これを遺憾ともすべか

今回の戦いは 私の意志ではないんだけれども 
どうしようもないところに至ってしまった。
この戦争におよんで 
万が一 負けるような事があったら 
私はどのようにして 歴代天皇と国民に対して 顔向けができるのか。

戦争に負ける という事は 国が亡びる という事です。
戦争に負ける という事は 日本が 植民地になる という事です。
日本が全員 奴隷になる っていう事なんです。

方法がない 方法がない と言うけど 
じゃあ 戦争が失敗したら どうするんだよ
という事で

明治天皇は 人知れず 涙を流した という事です。

当時の アメリカ大統領は 
日本が 成長しているのを 喜んでくれているかのような 
親日の セオドア・ルーズベルトです。



日本からは 日露戦争の前に 
ハーバード大学を卒業している 金子堅太郎を アメリカに派遣します。
しかも 
セオドア・ルーズベルト大統領 と 金子堅太郎は 
ハーバード大学の 同窓生です。



今度 ロシアと戦争するんですけど  

えぇ!大丈夫なの? みたいな会話をして

アメリカの大統領に 事情を説明して 理解と協力をしてもらって 
最後 
戦争終結の時は アメリカに 仲裁 してもらうところまで計算して

事前にアメリカと すり合わせが終わっているわけです。

三国干渉で 遼東半島を 返さなくてはならなかった事に 
日本人は 相当怒ってるんですね。

遼東半島を 落とさなくてはいけないというのが 
日露戦争の目的です。

日露戦争の 3つの戦闘は

旅順(りょじゅん)攻略作戦 と 
奉天(ほうてん)開戦。

大連(だいれん)の先の 旅順 という港と 
奥にある 奉天 という街。

この2か所を 落としていくわけなんですね。



あと 
ヨーロッパの方にいた 世界最強 と言われた 

ロシアの バルチック艦隊が



アフリカから ぐるっと回ってきて 駆けつけるわけですよ。
そして 日本海に入ってくる。
そこで 
日本海海戦 が行われます。

海軍は 日本海海戦。
陸軍は 旅順 と 奉天。

下関・広島と 国内にも 拠点がありましたが
大事な作戦拠点を どこに持ってきたかというと 

ソウルです。

そして 明治37年 日露戦争が始まります。

2月8日 
旅順にいた ロシア艦隊を攻撃するのと同時に 

今まで 清の属国だったのが 立派な名前になった 
大韓帝国の ソウルに入場します。

そこで 
ソウルを使わせてもらうから という事と 
なぜ 
日露戦争に至ったかを よく説明をし 

日韓議定書を結びます。



内容は
大韓帝国は 
外国の侵略に対する 日本の行動に 便宜を与える。  
朝鮮半島の 道や 港を使ってもいいですよ という事です。

その代わり 日本は 大韓帝国の 独立を保証する。           
日本が守るからね という事です。



日本の承認なしに 
大韓帝国は外国と条約を結んではいけない。   
韓国は 勝手に 外商しないでね という事です。

別に日本は  
朝鮮半島が欲しいわけではないんです。
朝鮮が 独立国 となって 自立してくれればいいんです。

日本は 日本列島を守るだけなんです。

問題は 戦争が始まったら お金が尽きちゃったんですね。
日本は お金がない。
そこで
大役を仰せつかったのが 

日銀副総裁の 高橋是清 です。



この人がいなかったら 
日露戦争 勝てなかったんじゃないかなと思います。

戦費調達。
日本円を 刷ったからといって 大丈夫ではないんです。
外国から 資源とか 武器とか 入れてこないといけないので
当時 
日本円は 国際的に 価値がなかったので 
世界は 日本円を受け取らないんです。

外国から お金を借りるしかなかった。
借金をして 戦争をする という事です。

これを 
高橋是清(たかはしこれきよ) 1人でやったんですからね。
この人は 
総理大臣も 大蔵大臣もやった人です。

日本の近代において 
かなり 重要な役割をしてくださいました。
あだなが だるまさん です。

昭和恐慌 から抜け出せたのも この人のお蔭です。
でも 
惜しくも 2・26事件で 暗殺されてしまいます。

1番信用されるのは 正貨といって 
金(きん)であり 

イギリス紙幣のポンドは ペッグ(固定)だったので 金(きん)に替えられたんです。
戦費調達は 
ポンドを調達して 金を調達する事なんです。

日本はもともと 
金の出る国でしたが 金の保有が少なくなり 
ポンドを借りて 金に変えるしかありませんでした。



船で ニューヨークの投資家に 会いにって 話をして 
今度は
イギリスに行って 金融の中心地 ロンドンで 戦費調達をしようとするんです。
しかし 
当時 日本が ロシアに勝つ なんて 誰も思ってませんので 

もし 日本が負けたら 賠償金をとられる側だから 
貸した金は 返ってこないじゃないか と見られていたんですね。

そのころ
朝鮮 と 清の 境目にいる ロシア軍を
日本が抑える事になるんです。

その話が世界に流れて 

日本 もしかしてやるかも となり 

ドイツ生まれの アメリカの銀行家。
グローバルな 金融財閥 クーンレーブ商会の
ジェイコブ・ヘンリー・シフ。

または 
ヤーコブ・ヒルシュ・シフ。
その 
ヤコブシフ という人が 投資に乗り 

高橋是清と ヤコブシフ との 縁で 形勢が逆転していきました。



結局 
投資家たちから 1億3千万ポンドを調達して 
日露戦争をやりきる事ができました。

日露戦争は 
高橋是清と ヤコブシフ の信頼関係のお蔭で お金が借りれた
にもかかわらず

松方正義(まつかたまさよし)という人は
薩摩の下級武士の出ですが



暗殺された 大久保利通の代わりとして
パリ万博に行き

国際金融資本家さんの
アルフォンス ろすチャイルド と会っています。

そこで
こいつはいい という事で 松方は命令を受けて 
指示通り

日本銀行をつくり 金本位制(きんほんいせい)をつくりました。



中央銀行をつくり
そんな事をしたら 外国に牛耳られる

伊藤博文は 反対しました。

この人は 日清戦争で貰った賠償金を
ロンドンの口座に入れています。

本当の 大アジア主義は 
もっと上手い手段 があったかもしれないのに

国際金融資本家さんは
日本のために しっかり考える人よりも

金 名誉 に近寄る人の方が 使いやすいんですね。

何が何でも 日清戦争 と 日露戦争をする。
実は 
この戦争は 実は ロシア革命の一環で
お金がなくても この戦争をするべき と 押していたのは 松方です。

この人の血縁が
先の大戦の 
戦後 日本が アメリカに占領された時の体制に 脈々とつながっているそうです。

日露戦争の 陸戦では

遼東(りゃおとん)半島の先 大連(たいれん)の街に 
旅順(りょじゅん) という軍港があり
この軍港 旅順 を見渡せる山 があり

その高さが 標高203mだったという事で 



203高地 という名の 旅順要塞を 
ロシア軍が 抑えているわけです。

そこを落とすのが 大変だったわけです。

日本軍 約13万人が 投入されています。
亡くなったのは 1万5千人です。10%以上です。

重たい傷を負った 負傷者は 4万5千人です。 
軍事要塞を落とすというのは 結構大変なんです。

でも 
世界の歴史から見ると 死傷者を 少なく抑えられた方です。
要塞 や 城 を落とすのは大変なんですね。 

その後 奉天開戦です。



日本軍と ロシア軍 合わせて 60万人ですよ。
大群同士が ぶつかり合ったんです。

日本軍とロシア軍の 死傷者37万人です。
世界の陸戦史上 まれにみる でかい規模の戦闘ですよ。

日本軍は 死者 1万6千人 負傷者は 6万人。

この2か所で 日本人死者 3万人超えです。

そこで 日本軍は 勝つわけなんですけれども
日本軍の大将 乃木希典(まれすけ)の 自分の2人の息子も 戦死しています。

明治天皇が 
当時の参謀総長の 山縣有朋(やまがたありとも)に 



くれぐれも 敵の将兵たちを侮辱することのないように
名誉を傷つけることのないように せよ と命令を出します。

有名な
乃木希典とステッセリの 水師営の会見です。
歴史 人物② リンク



明治38年。
5月27日 日本海海戦。

普段はヨーロッパにいる ロシアのバルチック艦隊が 駆けつけます。
これを 
迎え撃ったのが 日本海軍。

軍艦 三笠 の 東郷平八郎司令官長 率いる 



連合艦隊です。



敗戦すれば 日本は ロシアに併合されてしまうのです。
この海戦は まさに祖国防衛戦でありました



Z旗 を掲げ



皇国ノ興廃 此ノ一戦二在り

皇国とは
万世一系の天皇(すめらみこと)のお在します 日の本つ国であり 
その命運が この一戦にかかっている と告げたのであります。

日本は ロシアを撃破し 奇跡的な勝利をおさめ 
世界の列強として 認められたのみならず
植民地化された国々に 勇気と 希望を 与えたのであります。

世界が ビックリしちゃって 

バルチック艦隊を ほぼ全滅。
日本の弱小の 連合艦隊は ほぼ無傷。

日本海海戦で 
ロシア軍の船は 21隻 沈没。 6隻 拿捕。中立国に拿捕 6隻。             
日本は 水雷艇 3隻。 沈没。 
                     
ロシア軍の死者数は 4830人。捕虜 6106人。   
日本軍 死者 117人

日露戦争で 3ヶ所 日本は勝ってしまいました。

アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルトは 

 

狂喜乱舞して 日本の勝利を喜びます。
金子堅太郎に 手紙を書いていて 
文章の最後に  BANZAI!!! と書いています。



そして セオドア・ルーズベルト アメリカ大統領の仲裁で 

ポーツマス条約が結ばれます。

ロシアに 
朝鮮における 日本の優越権を 認めさせました。

日本はこれから 朝鮮に関与していくので ロシアは関わらないでね。
という事です。

旅順と 大連の 租借権です。日本が使いますよ。
という事です。

樺太の 南半分は 日本のものになりました。



あと 
沿海州 カムチャッカ半島周辺での 日本の漁業権 を認めさせました。

多くの ロシア人捕虜は 日本に連れ帰り 
お客様 のように扱うんです。

四国の 松山に連れていかれた ロシア人捕虜には 
医師 通訳 薬剤師 看護士 に 洋式のベッド 洋食。

病室には 2・3日ごとに 切り花が 飾られたっていうんです。

日本兵が 捕まった外国で 
和食だしてもらった事が あるんでしょうか?
多分 ないと思います。

そして 日本は
もう ごたごたしたくないので 
負けたロシアから 賠償金はとりませんでした。

しかし 日本内で 
賠償金を取らないことに 怒った人々がいました。 

国民をあおるように 報道され
日比谷焼き討ち事件 が起きてしまいました。



臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。
明るい 未来に希望をもって 今の苦労に耐える。
めちゃくちゃ強い ロシアに
有色人種が 白色人種に勝った。近代で初めてです。

華々しい戦果でした。
とはいえ 
3万人以上 日本人が死んでますからね。

明治天皇は
そのことを知っているわけです。

明治天皇の憂いは 日本人の死者だけではありません。
ロシア兵が死ぬことも 心を痛めているんですね。

本来であれば 
戦争を回避したかったわけです。
回避できなかったとしたら 
一日も早く できるだけ戦死者が少ない状態で 終戦に持ち込みたいわけです。

明治天皇に 華々しい 戦況が伝えられても 
明治天皇は 表情を一つも変えることがなかった と伝えられております。

それどころか いつも厳しい顔をして 
うむ うむ と聞いてらした という事なんです。

そして 日露戦争の最中(さなか)に詠まれた 
有名な 御製(ぎょせい)があります。

よもの海 みなはらからと 思う世に 
など波風のたちさわぐらむ 



よもの海は 4つの方向の海です。
世界の海は 1つに続がっています。

世界の海は 1つであるのに なぜ波風が立つのであろうか
なぜ 人々は争い 戦争をするのであろうか

結果はともかく 戦争に至ってしまった という事自体が 
明治天皇にしては 悲しみであり 苦しみなんですよね。

この後 
日本は 韓国併合します。

韓国を 保護国のまま 近代化させて 

ゆくゆくは 独立させていくのか。 
なんなら いっその事 併合していくのか。

意見が分かれていたんです。

併合すると 朝鮮人が 日本人になってしまいます。 
インフラ整備や 産業や 教育や 色々な面で
朝鮮と 日本に 格差があると だめですよね。

今までも 朝鮮に 資金協力 をしてきましたが 
これ以上の 朝鮮への投資は 負担が大きすぎると

保護国まま 独立に導こう 
という方が 優勢だったわけです。

ところが 
できれば 併合はしないほうがいい という考えで 
朝鮮の よき理解者だった 

伊藤博文が



明治42年
黒幕が いるのかもしれませんが
安重根(あんじゅうこん) という朝鮮人の青年に 



ハルピン駅で 暗殺されます。

これによって 保護国ではなく
もう朝鮮を 
日本に 併合した方がいいんじゃないか と 世論が変わります。

日本の負担は大きくなるけれども 
併合までもっていこう という事に決まりました。

明治43年 日韓併合条約 が結ばれました。

失脚した 高宗(こうそう)から 
息子の 純宗(じゅんそう)皇帝になりましたが



朝鮮の病は 悪化する一方で 打つ手もない。財政も破綻している。
なので 
日本に統治してもらうのが 一番いい。

と言っています。

保護国 より 併合 の方が 格上なのです。

併合すれば 国籍も日本になるので 
政治にも参加できます。総理大臣にもなれますよ。
保護国 の方が植民地に近いです。

植民地にする時に 国籍なんか渡さないですよ。

いつ ベトナム人が フランス国籍を取りました?
いつ フィリピン人に アメリカ国籍を得ました?
いつ 香港人が イギリス国籍を取ったんです?
いつ インドネシア人に オランダ国籍を渡しましたか?

併合して 韓国は 日本国になり 
朝鮮人は 全員 日本国籍を持ったんですよ。

小学校をつくり 
鉄道を敷いて 
発電所つくって 
帝国大学もつくって 
世界最大のダムもつくって
インフラ整備に 日本本土よりも 大きなお金をどんどん 朝鮮に投入して 

日本と
同じレベルに引き上げなきゃいけないから



日本にとっては 負担が大きいんですよ。

欧米列強が 植民地を持つ というのは 
すぐ利益を出すためです。
植民地の人の 労働の成果を 吸い上げるんだから。

よく韓国を 日本が植民地にした 
と言いますが 

植民地という 言葉の定義次第でしょうよ。

実態は
日本人が 働いたお金を 朝鮮に上納して 
日本人が 負担して 負担して 負担して。

これ 逆植民地じゃないんですか?

なぜ そこまでしたかというと 

ロシアと 中国に 
朝鮮だけは 彼らに入ってきてほしくない。
朝鮮に入られたら 日本は終わりです。

明治43年 日韓併合してから 
昭和19年 までの間に 

14億円以上 朝鮮に出しています。

朝鮮から なんも 吸い上げてないんですよ。

朝鮮王 と朝鮮皇族 もつくりました。
保証もしました。

朝鮮に こんないいもの あるじゃない 使いなさいよ と 
もともと朝鮮にあった ハングル を教えたのも 日本人です。



そうこうしている間に 

1911年。 
辛亥革命(しんがいかくめい) が起きて 
清が 滅亡して 中華民国 ができるわけです。 

ロシア革命 が起きて 
ロシアが 滅亡して ソ連 になるんです。

明治45年 7月30日。
明治天皇 崩御。59歳。

明治天皇は何をした人ですか?
といったら 
何をした というのは 一言で言うのは難しい。

ただ 
明治天皇が いらした御蔭で 
みんな一致団結して 力を合わせて 日本を近代化することができた。

いいうなれば 
一歩間違えれば 国ごと無くなっていた かもしれないところを

日本を 短期間に 近代化に導いた。
日本を アジアの端っこの小国を 列強に並ぶ 力強い大国に押し上げた
そういう存在だった と思います。

次の 大正天皇。 
明治天皇のお子様が 直ちに ご即位になられます。
大正天皇の時代に 日本は完全に 世界の大国入りを果たす事になります。



日露戦争の時に 
高橋是清(たかはしこれきよ) が借りてくれた 日本の借金も 

大正時代に 返済ができました。
お金を 借りていた立場の日本が 
お金を 貸す立場にもなりました。

ただし 物事が急に進展すると 歪みが出てきます。

経済がよくなった結果 何が起きたかというと 
お米の価格が上がってしまいました。

お金持ちは どうって事ないかもしれませんが 
ぎりぎり生活している人は 困ってしまうわけですね。

価格が 上がる とわかると 
買い占める人がいるんです。すると さらに価格が上がります。

米騒動 というのが起きます。



政治不信も起こります。
幕末からの 薩摩・長州 から 

桂太郎内閣が 組閣した時に 護憲運動が始まり 



そして 寺内正毅内閣から 



原敬内閣になり 

原敬(はらたかし)は 平民出身で 
一般の人から総理大臣が出た という事で

立憲政友会(りつけんせいゆうかい) といって 
選挙を通しての 政治の流れを 大きく変える事になりました。



憲政の常道(けんぽうのじょうどう) といって 

常に行わなければならない原則。基本のルールがありますが

憲法 というのは 
ザックリと 大まかにしか書いていないので 
具体的な運用というのは 

慣習の積み重ねなんです。

細かいことは 実際に積み上げていって 
悪いものは 正される。
良いものは 残っていく。
というように 運用でカバーしているんです。

そういう 基本ルールの上で
やりながら 向上していく。 

原内閣ができたことによって 
かなり精度の高い 民主主義が動き始めた という事です。

吉野作造(よしのさくぞう)は



民主主義(デモクラシー)というと 

上下関係で 民が主権を握れるのか?
と 考える人が出てきたり

この時は 
ラジオも始まって 
新聞も精度よくつくられるようになり 
雑誌も出始めました。

言論という 色々な人が発言をして 議論が闊達に行われるようになったんです。

これは
自己主張 が優先ではなく

民本(みんぽん)主義 という 
民のための政治 が行われるかどうか が重要
と いう考え方を 典掌 担当するんです。

リンカーンの 人民の 人民による 人民のための 政治

政治の理想を語った という事です。

天皇はの幸せは 国民の幸せだから 
天皇があってこその 民主主義 民本主義 という事を伝えています。

美濃部達吉(みのべたつきち)は
この人は 憲法学者で

天皇機関説 というの出して 
昭和に入って 議会で 大問題となりました。



天皇 というのは 国家機関だ という話なんです。
それだけ聞くと 不敬だ となるのですが

今の日本国憲法を見ると 

天皇の権能 と書いてあります。

国会を召集するとか 
内閣総理大臣を任命するとか。

天皇という国家機関が 総理大臣を任命するわけです。
そういう 
条文の天皇は 国家機関の天皇ですよ。

でも
天皇が崩じた時 

皇子が直ちに即位する と書いてあります。

この条文の天皇は 国家機関ではないですよね。
国家機関 というのは 死なないじゃないですか。

天皇が亡くなった時 とは 
亡くなるのは 生身の人間です。

同じ 日本国憲法の中にも 

国家機関 という意味で使っている意味

生身の人間 として使われている天皇は

同じ文字ですけれども 意味が違うんですよ。

天皇 という器。玉座。地位 があり 
そこに 天皇 という 生身の人間 がいらっしゃる。

玉座は 国家機関 としての天皇で 
そこに
座っていらっしやる方も 天皇 とお呼びする。

陛下 御機嫌はいかがですか? って 
国家機関に 御機嫌もないんですから。

天皇 という地位に 
天皇という方が 付いていらっしゃるわけだから 

両方あるはずなんですね。



大正時代は こんな議論も 自由闊達にできる時代でした。

大正14年 25歳以上の 男子全員に 
普通選挙法が施行されました。
女性の選挙権は もう少し後になります。

共産主義 の影響もあるんでしょう。
社会運動が 起きてきて
労働者の権利 の主張も行われました。

そんな中の
第一次世界大戦です。

ヨーロッパで起きた戦争ですが 日本は参戦して 戦勝国になります。 

イギリスと ドイツが 戦ってますから  
日英同盟を結んでいるので 集団的自衛権で 
日本は 
山東半島にいる ドイツをやっつけるわけです。

山東(さんとん)半島と そして青島(ちんたお)を抑えます。 

清から 中華民国になった後 
結局は 
権益を中華民国に 引き渡すんですけれども 
支那大陸の ドイツの権益を 取ります。

それから
赤道から南側は オーストラリアの委任統治となり

ドイツが植民地にしていた 南洋諸島の 広大な面積。
国際連盟から 
委任される形で そのまま日本が統治することになりました。

マリアナ諸島から
サイパン島 
テニアン島 
パラオ諸島 
マーシャル諸島 
ビキニ。

全部 日本だったですよ。
パラオにある コロール島 という島に 
南洋町(なんようしょとう) という 南洋諸島を統治する 行政府が置かれます。
紙幣も発行しました。
歴史 人物② リンク

グアムは アメリカが抑えてます。

このまま マリアナ諸島を しっかり守っておけば 
ここから B29が 飛び立ち 

東京大空襲や 広島・長崎に 原爆を落とせなかったんですね。

第二次世界大戦で 占領したと思われがちなんですけど

第一次世界大戦の結果で 日本が勝手に取ったわけではなくて



植民地として持っていたもの 
それを 
ドイツは 放棄させられ 

南洋諸島周辺の 常任理事国は 

日本しかないでしょ
という事で 
国際連盟からの 委任統治 することになっただけなんです。

あと ドイツが抑えていた
清の  山東半島(さんとんはんとう)と 青島(ちんたお)の権益を 
日本は 一旦受け継ぎます。

辛亥(しんがい)革命の後 中華民国に返すんですけれども 
その時 
対華(たい か)21か条要求を出して 

21個も 
日本が あれせい これせい と
無理難題の 好きな事を書いた と言われますが

実際には 
第一次世界大戦後の ワシントン会議で 
10か条に落とし込んでいますので 

対支那(たい しな)10か条要求 というのが正しい言い方です。 

第一次世界大戦というのは 
戦っている兵隊たちが 何で俺たち この国と戦ってるのか? と
意味がわからないって戦っているんです。

大正3年。 
1914年 
ボスニアの サラエボ というところで



オーストリアの皇太子が 
セルビア人の若者に 暗殺される という事件が起きました。
これが 引き金になってしまうんですね。

普通 戦争というのは 
解決困難な懸案があって 
ついに 軍事衝突する というイメージがあると思うのですが

第一次世界大戦は 
もめてないし なんで ここを攻めているのか
わからないまま 戦っている兵隊たち だったと思うんですね

これは プログラムで起きた 戦争なんですよ。

宣戦布告というのは 

これから攻めるぞ! と言ってから 攻めるんです。
宣戦布告しないで攻めると 国際法違反ですから。

①オーストリアとハンガリーが セルビアに 宣戦布告します。





②ロシアが 軍が暴走して 総動員をかけます。
万が一にかけて 兵隊を集める。



③ドイツは 地政学的に 力のある国に囲まれているので 
ロシア総動員のため 
ウチも 万が一に備えて と ドイツも 総動員をかける。



ロシアと ドイツが にらみ合う形になる。

④ついに ドイツが ロシアに宣戦布告します。



⑤フランスも 総動員をかける。



ドイツが先に ベルギー を潰したが
                         
  

ドイツは 次は ロシアへ という フェイクニュースで 
実は

⑥ドイツは フランスを瞬殺。



⑦イギリスが総動員をかけてから ドイツに宣戦布告。

  



どこの国も 何かあったら大変だから 戦わせろ 戦わせろって 
軍と民衆が暴走して 総動員をかけて 集まってきて

ヨーロッパのほぼ全土が 戦場になりました。



恨んでてとか 揉めてるとか何もなく  

いきなり ドンパチ始まっちゃったですよ。

日本は ヨーロッパの地中海まで 艦隊を派遣しています。
ドイツの 潜水艦から 商船や輸送船を護衛したんです。

大正7年。 
1918年 
第一次世界大戦が終結しました。

大正8年。      
パリ講和会議 

第一次世界大戦後の 連合国と ドイツの締結
ベルサイユ条約が締結されます。国際連盟が発足します。
今の国際連合の前身です。

日本は 国連の常任理事国になります。5大国の一員になるんですね。

そこで 日本は 人種差別撤廃 という提案をしました。

国際社会で
人種差別撤廃 が議論に上がったのは 人類の歴史上 この時が初めてです。

アジア人が ひどい 差別 をされてきているのを 見てきましたので

日本が 有色人種の中で 唯一 大国に入ったわけですよ。
日本が言わなくて 誰が言うんだ という話ですよ。

もう 肌の色で差別なんて やめませんか? という話を出したわけです。

賛成多数 だったのですが 全会一致 にならなかったので 
この時は 否決されてしまいました。

有色人種の国の植民地 に対して都合が悪くなるのか
後出しジャンケン みたいに

全会一致にしようぜ と言い出したのは



アメリカの ウッドロウウイルソンです。

この後 第二次世界大戦を経て 国際連合 ができまして 
人種差別は 条約として結ばれることになりましたけれども

世界で初めて 人種差別は撤廃するべきだ と真剣に提案をしたのは 



日本だったのです。

第一次世界大戦というのは 
プログラムで 開戦 開戦 開戦 となっちゃったわけで 

始まった以上 負けていい戦争は無いので やるしかないので
結局 誰も悪くないんですよね。
そして 
勝った奴が 正しい。
負けたやつが 悪だ となるんです。

これが
第二次世界大戦 の遠因 といいますか

敗戦国のドイツに ものすごい 天文学的な 巨額な賠償をかけ 
戦勝国は一切 賠償しなくていです という事になり

全部 ドイツのせい。ドイツが悪い。以上。
とやったわけです。

ドイツは 
工業力があり 稼げるので すぐ立ち上がってくるんですよ。
賠償金を 返せちゃうんです。

っていうかさぁ 
何で俺たちだけ 賠償金払ってんの?おかしくね?  という話で

ベルサイユ条約なんか くそくらえだ!と
民衆の関心をさらっていったのが ひっとラ~です。

世界征服 に向かってしまうんです。

そして 第二次世界大戦となるんです。

その時に 
日本は ドイツと組んじゃうだから
お友達を間違えると 人生棒に振るんですよ。



当時 アジアの独立国は タイ と 日本だけです。

思い起こせば 幕末の時は 弱小国でした。
ペリー来航から 約50年。 わずか半世紀後です。
日本は 国連の 常任理事国になります。

経済規模 軍事規模と 大国になった。 5大国の一員になるんですね。

第二次世界大戦が終わって 戦後の 経済復興を果たして 
高度経済成長で 初めて豊かになったぁ と思ったら大間違いで

実は 大正時代の日本って すごかったんです。

日露戦争の後 ロシアは急に 国力が落ちました。

日本は 
対米戦争で 負けた後 日本国は残りましたが
普通は 
戦争で負けると 国は滅びます。

ロシアも 超大国ですが 日本に負けてしまいました。

再建に取り組もうと していたのですが

第一次世界大戦終結の 前の年
大正6年。
1917年
ロシアで 2つの革命が起きました。



2月革命 と 10月革命です。
これを合わせて ロシア革命 といいます。

2月革命は  ロシア帝国が 滅びます。

10月革命は 社会主義を 競合している共産党が 
絶対的な権力を握って 
社会主義国家 共産主義国家の ソビエト が成立します。

ロシア帝国がなくなり ソビエト が成立するということになります。

共産主義の思想の原点は どこから来ているかというと フランス革命からです。



フランス革命の後 

マルクス主義 という



お金持ちの ブルジョワジー が
労働者 プロレタリアート を苦しめているんだ と

社会主義 共産主義 というのが 形成されていって

戦争に負けて 経済もよくない ロシアの状況の中で 

ラスプーチン という 自称お坊さんが 



ロシア皇族に近づき 国を混乱させたんです。
それで 
民衆が 激怒して やってられるか と 民衆の放棄が起きて

あとは
コミンテルン という 
社会主義革命を起こそう とするグループが 上手にマッチしちゃったんです。

共産主義勢力が 乗っかってしまうわけです。
そこで 
不満と一体となって 
実際に 2月革命を 起こして ロマノフ王朝・ロシア帝国を 滅ぼしてしまうんですね。



その後 まともな国ができれば良かったんですが 

10月革命によって
共産党のトップ レ~にん 率いる 
共産党が 他の勢力を圧倒してしまい 
一党独裁制 ソビエト連邦 をつくっていきました。

世界初の 社会主義 共産主義を 表号する国ができるわけなんです。
世界征服 を目論んでいるんですね。

ロシア帝国が 潰れて ソビエト連邦 となり とんでもない 狂暴な国に なってしまった。
革命のためなら 手段を選ばないんですね。
なんでもするんです。武力革命です。

よその国も 全部 革命を起こしてやるって 

コミンテルンっていう組織が あっこっちにできたわけです。
日本にも コミンテルン日本支部の共産党 ができたわけです。

労働者を主役とした 
社会主義
共産主義国家を建てる。手段は選ばない。
闘争だ!武力革命だ!暴力革命だ!
というのが 始まりです。

始めは 社会主義 共産主義 というのは 
それなりに期待されたんですよ。

産業革命以降 
自由主義
資本主義に 取りこぼされた人もいるんですよ。

なんだ 自分たち 貧しいじゃんか。資本家はいいよ。お金もあって。 
労働者でも 
いいところで仕事してる人は 給料が高くて いいかもしれないけど
かたや 
賃金が低くて ぎりぎりの生活をしている労働者もいるわけです。

自分はちっとも 幸せになれない。奴隷と一緒じゃない 
と 不満を持つ人もいるわけです。

そういう人にとっては 社会主義 共産主義というは バラ色に聞こえるわけですよ。



国土も 会社も 工事も 全部みんなのもの。
私有財産は認めない。
みんなで 配分するから 金持ちもいないし 貧乏人もいない。
みんな 平等に分け合って 与えられる。

そしたら みんなで 幸せになれるんじゃなぁ~い?
これを
ユートピア とよんだんですよ。人間にとっての 楽園ができるということです。

これは 
国際金融資本家さんが関わって



レ~にん が立ち上げ 
すた~リん が 受け継いでいくんですけれども
理想を追い求める これは 机上の空論ですよ。

こういう風になったら こういう風に 豊かな国になるはずだ という
頭の中で つくりだした国の体制なわけです。

試行錯誤しながら 徐々に出来てきたものでは ないんです。

革命で ドンっ!てやりましたけど 



貧しい人からは 希望の星として ぜひやってくれ!

全ての持ち物は みんなの持ち物で みんなで財産を共有して 

みんなで幸せになれる。労働者が主役ですよ~ と
言われて 労働者は期待したわけです。

確かに 当初はうまくいったんですよ。
この後 世界恐慌が起きて 
これが 第二次世界大戦 につながっていくんですけど

ロシア革命が起きて ユートピアに向かって 壮大な実験をするんですけど

レ~にん から始まり 
すた~リん 5か年計画 というものを結んで メキメキとうまくいったんですね。

世界が世界恐慌であえいでいる時に 
ロシアだけは
影響を受けなかったんですよ。世界の景気の流れなど 一切関係なし。

全員の財産を共有して 順番に工場をつくる ダムをつくる 発電所をつくる 
ソ連の中だけで ぐるぐる回して 5か年計画をやっていった。
どんどん経済を発展させていった。

でも
結局 個人財産を 認められないわけですから 

やっても やらなくても 同じ収入なわけですよ。
そうなるとですね 共産主義 社会主義の弊害がでてきます。
それは

みんな 手抜き するようになるように なっちゃったですよ。



手抜きしたって 
みんな同じ収入だから 変わらないんです。

個人財産を 持てないんだから 
頑張ったって みんなのものですから。

誰が頑張るんですか。
頑張る人は 馬鹿をみます。
手抜きするのが 一番得をするんですよ。

みんな 平等 ってしたら みんな働かなくなるって 
誰も気付かなかったんですかね。

マルクスから始まって マルクスレーニン主義。

実際つくってみて やってみて 
え?これ みんな まともに働かないじゃん っていう。

全体主義ですから 個人の自由 は制限され 
金持ち も認められませんからね。
資本家 も認められません。

それじゃあ 楽しみも無いわけですよ。

誰も頑張らないし 
所詮 努力して当たったところで 自分の財産にならないんですからね。

誰が 
自分のアイディアを 具現化して 挑戦しますか。

何もしない。日々工場行って 
言われたことを 手抜きしながらやってれば みんな同じで

手抜きしただけ 得をする。



人間を駄目にする 
そういう制度じゃないのか というのが わかってきたわけです。

自由主義は 切磋琢磨して いいものを出していきます。
社会主義の場合は 創造力 を産ませないんですね。

努力しない。 改良しない。 工夫しない。 クリエイティビティが無いんですもの。
国が 経済が 発展しないんですね。

ソ連も 崩壊する事になるんです。

共産主義 社会主義は ものすごい狂暴なんですね。
レ~にんが 力を持って どうしたかというと 

粛清(しゅくせい) をしていくんですよ。

自分たちと 考えが合わない連中を どんどん 殺していくんですね。
ロシア革命で ソ連ができた時も たくさんのロシア人が ロシア人によって殺された。

一党独裁 になるんです。
他の考えを認めない。

考え方の違う奴は 片っ端から殺していくんですね。

文化大革命も すごかったですよ。

政治批判したら 逮捕でしょ。
なんでこんな狂暴になるんですかね。

人間は 少しでも 
心豊かになって 自由になって 幸せになりたいって 気持ちがありますから
不自由で 抑圧された世界って いやですよね。

そして
日本支部の 日本共産党ができるわけですが 

日本としては ものすごい 警戒をするわけですよね。
彼らが どれほどの血みどろの 闘争を繰り返してきたのか



個人の自由も財産も 認めない こんなものが 日本に入ってきて

低賃金で働いている 労働者と結びついて 
そうだ!そうだ! って
日本も 共産革命なんか起きたら 大変なことが起きますから。

これは 何とかしないと と
治安維持法 という法律ができました。

先の大戦で 
政府が日本人を 戦争に かり立てるために 
強制的に使った 悪しき法 と言われていますが

元は 
共産革命が 起きないようにするためのものです。

合法・非合法 関係なしに なんでもやる。 
共産革命は 武力闘争ですからね。

暴力革命を起こさない 治安維持法なんです。
この法律が 

違う方法で悪用されて 変な方法で使われた 
という事は 由々しき事でありますけども
これは 
共産革命を防ぐ という目的で つくられたという事です。





満州事変

大正時代は 15年まで。
大正天皇は 47歳 という若さで 崩御 あらせられました。



その時に 摂政をお勤めになられておりました 
裕仁親王が 天皇に即位あそばされました。



大正の明るいイメージから 
昭和は混とんとした 
不安で 暗くて 自由が失われていくような感じで 
昭和の時代に入っていきます。

支那方面で ややこしい事が起きてくるのですが 
その一つが

明治44年
1911年の 辛亥の年 の革命で
翌年 清朝は 滅亡して 
孫文(そんぶん)を 



臨時の大総統とする 中華民国 が成立しました。

しかし 
袁世凱(えんせいがい)が 独裁化を強めて 孫文は亡命し 
袁世凱が 正式な大総統に就任するという



辛亥革命(しんがいかくめい)が起きて 

清朝が滅亡してますよね。後継国家が決まらない。

これ以降  
支那大陸(中国大陸)では 統一政権が無い。
いくつもの政府が並び立っている状態になっています。
まともな 統一政府がない状態です。

いちおう
中華民国成立という事で 孫文 が立役者になりますが 
その後継者となったのが 

蔣介石(しょうかいせき)ですね。



蔣介石は
南京(なんきん)に本拠地を置きまして 国民政府 という政府を立ち上げます。
でも 大陸を治めているのではありません。

もう一人
張作霖(ちょうさくりん)。



この人は 北京政府 というのを立ち上げているんですね。
張作霖は 満州の人ですから 
満州+北京 を抑えているという事です。

ここで 内ゲバですよね。 どっちが主導権を握るのか ってことです。

昭和3年 蔣介石 と 張作霖は 戦闘をすることになります。
やめてほしい事に 国民政府と 北京政府は 抗日活動をあおるんですね。

日本は 
朝鮮は 日本の一部であったり 満州鉄道と 権益を持ってます。
その
満州鉄道を守る為に 関東軍(かんとうぐん) がいるんですね。



関東は 
中国の地域の名前で 万里の長城の起点になる 山海関 というのがあり 
そこから東と西で 呼び方がありまして

そこから 北京寄りを 関内。
外側を 関東 と呼ぶので

東京周辺の 関東にいる軍隊ではありません。

関東軍は 何のためにいるのかというと 
主になる目的は 
南満州鉄道 を守るためにいるんです。

でも実は 裏任務 があります。
それは
朝鮮があって 満州があって ロシアがいるんです。ロシアは ソ連 になってしまいましたね。
ソ連が 南下してくるかもしれないんですよ。



一応 日露戦争を 勝ちましたし 第一次世界大戦で 革命が起きて 
へばってるとは思うんですけども 

いつソ連が また力を付けて南下してくるかもしれませんからね。
だから 

関東軍が 南満州鉄道を守りながら にらみを利かすという 
裏任務 を帯びて 関東地域にいる という事なんです。

抗日活動に騙された民衆が 日本人を殺害したり 商店を焼き討ちしたりという事がおきてきます。

6月に 張作霖(ちょうさくりん)爆破事件 というのが起きるんですね。



国民政府の手から逃げる途中 
満州(まんしゅう)の方に戻ろうとした 奉天(ほうてん)で
列車が爆発して 張作霖(ちょうさくりん) は亡くなりました。

この 張作霖爆殺事件ですが

関東軍の一部が 自作自演で 日本人がやったんだ と見られていました。

まだ これは 今だわからないんですけれども 
もしかしたら 
日本人がやったように見せかけておいて
北の 大きな赤い国の 特務機関がやったんではないか と。

関東軍内での 漏れ伝えもなく 
誰がやったの? 
と 迷宮入りしちゃったんですね。

昭和天皇に
その時の 日本の首相は 見つけ出して 厳罰に処しますと言いながらも 
犯人が見つからず わからないままでした。

水面下で どんな力が働いているのか。

すると
当時28歳の 昭和天皇は 真っすぐな方ですから 

北京政府の 軍閥のトップですよ。
日本人が殺めた となると ちゃんと犯人を捜しさない事には。 

わからないなんてけしからん! と 激怒 てしまったそうです。

なぜ 日本は アメリカと戦争をしなければならなったのか。
気づいたら アメリカとの戦争の入り口に立っていた というのが実態です。

ソ連が
樺太から 北海道に入り込まないように 国防をする というのもありますが



当時 満州は 日本の生命線 と言われていました。

朝鮮・日本を守るには 満州に防衛線を張る。

満州を抑える事によって 満州も 朝鮮も 安定的に発展する。

まともな 統一政権のない 中国本土によっても 
日本は 主導的な役割を果たすことができる。
そして
満州は 資源が豊富なんです。
日本が経済発展をするうえで 満州を抑えておくと 農業も発展する。

満州の大きさは 日本の3・5倍くらいです。
満州は 朝鮮半島の北です。

朝鮮半島が ソ連に抑えられると もう日本はすぐにやられてしまうという事で 
日本の 国防を考えたら

ソ連や 欧米列強が 朝鮮半島に入り込まないか 
という事が 重要なわけです。

なので 明治時代に 保護国 ではなく
日韓併合しましたから 朝鮮は 日本になってしまったわけですね。

なので
日本は 
朝鮮人も 日本人なんだから 
この人たちの命も守らなくては となります。
すると 
朝鮮の北に 緩衝帯 が必要となってくるんですね。

それが 満州なんです。

日露戦争の時 日本は勝って ポーツマス条約を結んだ時に 
南満州鉄道 の権利を取得します。
その結果 

満州の人口が だいたい 3000万人くらいです。
満州には 軍人・一般人 日本人が 20万人住んでたんですね。
満州鉄道を経営するという事です。

当時 中国大陸は 清朝が滅びて その後は内乱状態で 
軍閥がたくさんあり 一枚岩ではありませんでした。
満州に戻る途中で 張作霖(ちょうさくりん)は爆殺。

張作霖の息子が 張学良(ちょうがくりょう)。 
その息子が引き継ぎました。



そして 張学良政権として 満州を抑えます。

お父さんと違い 
蔣介石(しょうかいせき)の方の 南京国民政府に就きます。
抗日運動も激しくなります。

日本人は
満州鉄道を どう守るのか。
満州全体を 日本にする必要はないのですが ソ連が南下してきたら えらいことですから 

ソ連が 入ってこなければいいんです。
朝鮮人は 日本人だから 守る。それだけでした。

そこで
石原莞爾(いしわらかんじ)です。



当時 関東軍 作戦主任参謀 という肩書でした。
作戦を立案するトップである司令官の アドバイザーです。

南満州鉄道を 守る事。
ソ連が 南下してこないようにする事。
日露戦争のリベンジをしてくる。わかっているんですよ。

石原莞爾は 確固たる思想の持ち主で
世界最終戦論 という 

欧米を 率いていくのは アメリカ。
アジアを 率いていくのは 日本。
そして
このまま 日本が経済発展していった先には 
アメリカ陣営 と 日本陣営が ぶつかる時がくる。
それが
世界最終戦になる という事なんです。



これは 昭和16年からの 対米戦の事ではなく 
もっと先に 
日米の争いで 世界の秩序が入れ替わる と予言している人なんですね。

その時に向かって 満州は抑えておかないとだめだ という考え方でした。
地政学的に 

樺太を抑える。 
満州を抑える。

それによって 日本列島の 入り口を抑える事ができるんです。

本土でドンパチ じゃないんです。入り口を塞ぐ。
革命が起きて まだ ソ連は強くないんですよ。
今 抑えておかなければ 何とかなる。

満蒙領有論(まんもうりょうゆうろん)。



世界最終戦が起きた時に 日本は国を守る事ができる 
という考え方をしていました。

蔣介石 と 張学良は 反日という考え方です。抗日活動をします。

そこで
石原莞爾は 自作自演の 満州事変 をするわけです。

明治の時から 日本の敵は ロシアだって決まっていたんですよ。
ロシアは アジアに触手を伸ばします。侵略しようとするわけです。

ロマノフ王朝 



は 終わりましたが 今度は ソ連連邦ですよ。

民主主義とは違い 
独裁 統制経済で 世界征服 をしようとしているですね。
この人たち 力つけたら大変な事になる という焦り があったんです。

昭和6年9月18日。 
東北部の 奉天(ほうてん)郊外の 柳条湖(りゅうじょうこ)で 
満州鉄道の 線路が爆破され
日本運は 中国側の仕業 としたのですが



実は 日本軍の自作自演だった

柳条湖(りゅうじょうこ)事件 というのが起きます。
これは そのまま 満州事変 へとなっていきます。

満州は絶対に抑えなくてはいけない。

抗日運動は激化してくるわけですよ。日本にどんどん 嫌がらせをするわけです。
ソ連も 5か年計画で強いものになってきます。

今しかない。
石原莞爾は それを計算しつくしています。
そこでの 自作自演 ですよ。

柳条湖付近の 満州鉄道の線路を 爆破し

これは 張学良がやったんだぁ と言って 
関東軍が動いて行って 
張学良の軍隊を 蹴散らしていく ということです。

張学良は 23万人の 国民党軍を率いています。
それに対して 関東軍は 1万人 しかいないんですね。

1万人で 23万人 と戦うわけです。 こんな戦力の差があって

わずか 5か月後 昭和7年2月。 
ハルピンという
一番北の方を占領して あっという間に 
日本の面積 3・5倍ある満州を 軍事制圧しちゃったの。

これ ヨーロッパでも アメリカでも大ニュースになるんですよ。
そして
石原莞爾は一躍 時の人。
世界中の政治家とか軍人で 
石原莞爾を知らないって人 いないぐらいの有名人になっちゃいました。

戦争の天才 と言われています。

戦争理論は
集中 と 突破 です。



どんなに 戦力が小さくても 一点突破 なんですね。
集中して ドーンと突くと そこは  突破できるんですね。
歴史 人物② リンク

点 ができれば 次の点 に向かって 集中 して突破する。 
そうすると もう一つの点ができる。

点と点を結び 線にして
あっという間に 点を撃破していって 線をつくり 
それを面にして抑えていく。
ハイヒールのかかと で蹴ったらすごい痛い の理論です。

慎重に判断して 
今 行くっ ていったらバーン とやります。でもすごく慎重です。

この後起きる 支那事変(いわゆる 日中戦争)で 
日本軍は 
中国大陸の広いところで どんどん戦争をするんですけれども

これを一貫して 石原莞爾は反対していました。

後輩が 俺たちもやるぅ!って うまくいかないんですよ。
東条英機とのことなど 東京裁判の時の記者に 語っています。

満州事変は 
日本の
本国政府
陸軍省 
東京の参謀本部 の許可もなく 

関東軍が勝手にやっちゃったんですよ。

爆破事件だから 
あのぉ ここ攻めていいですか?って言う間もなく 行ってるわけですよ。

そして 制圧 しちゃったわけですよ。

日本本国では みんな目が点で 



石原 何やってんだ みたいな感じで やっちゃったんです。

そして
どうなったかというと 
満州占領しちゃったんですけど どうしましょ っていう話になって

えぇ!占領しちゃったの?よくやった!って 日本国内で大絶賛です。



ここで止めておけばよかったんです。

満州事変 で止めておけば アメリカとの戦争は 無かったかもしれません。
第二次世界大戦 日本は 戦勝国 になっていたかもしれません。

結果オーライで 石原よくやったね という事ですが 
よく考えたら 

本国の命令無視で 許可なく 戦いまくって
良い成果だしたら 褒められちゃうって 悪しき先例ができちゃって

まずいですよね。
軍が軍を統率 できていないんだから 
メチャクチャなことになりますよね。

石原莞爾だからできたのであって 

だから次 支那事変で 
後輩たちが わ~っ て暴走してやっちゃったわけですよ。

国際的非難など考えて 日本が軍事 外交を担うにしても 

たてまえ上 満州国 という 独立国 という事にして

  

「五族協和」

五つの民族が 
和気あいあいと手を取り合いながら 協力しあいながら みんなで発展していく。

満州は 
満州族で 漢民族 じゃあないんですよ。 

少数民族の 満州民族と 漢民族 
そして日本民族。
モンゴル系の人もいれば 朝鮮系・中間系の人もいて
差別なく 理想的な国家をつくろうという ビジョンを目指します。

しかし 実際には実現しません。

愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ) ラストエンペラーですね。



清国の 最後の皇帝です。

愛新覚羅家 って 満州族 なんですが 

少数民族の人が 大帝国 清を治めてたんです。
しかも 浪人中。
国が潰れて この人 皇帝 やめさせられちゃってたんです。

そこで
すごい事 思いつきますね。

日本は 溥儀に 

満州国の皇帝になってもらえませんか?って頼むわけですよ。 

溥儀皇帝は 
いつか 清朝を復興させる 
という想いをもって 浪人中だったんですけれども 

石原莞爾が 満州 抑えちゃったから 
新しい国をつくるんで 良かったら皇帝やってもらえませんか?
という落としどころです。



愛新覚羅溥儀は 
まず満州から そしてまた清朝の復活をすると これに乗るわけです。

関東軍と 溥儀皇帝と 
完全に一致していないこともあったでしょうが 皇帝に また復活するという事になりました。

犬養毅(いぬかいつよし)内閣は 満州国を 承認しない という立場をとりました。
そしたら 5・15事件で暗殺されちゃうんですよ。



次 斎藤内閣 ができるんですけれども 世論に押されて 満州国を承認。

独立国 として名乗り そして満州族のトップを 皇帝に据えたましたが



しかし
外国から 日本が支援したから 満州は独立できたが 

傀儡国家(かいらいこっか)だと 
日本の 操りの国 と言われました。

溥儀皇帝は 天皇陛下のも お会いしているんです。



じゃあ
アメリカの 独立戦争の時はどうなんです?
フランスから 資金援助を受けて 

イギリスから アメリカは 独立できたんです。
自由の女神は パリから 独立おめでとう って来てるんですからね。



パナマは? 
パナマ運河は アメリカ経済にとって大事なんです。
パナマはもともと コロンビアでしたが アメリカが支援して独立したんです。
そしてアメリカは 
パナマ運河の 権利を取得します。 

国際社会から ものすごく 批判 されました。

ここで止めておけばよかったのですが 
これから 泥沼の戦い に進んでいきます。
気づいたら 
アメリカとの戦争の入り口に立ってたんです。
気づいたらもう 行くしかない という事になってしまいました。

有色人種が こんな活躍した例がないですから。

アジアの独立国は 日本 タイ トルコ の3つ しかありませんでした。

でも
欧米列強が これまで何をしてきました?

アフリカで 何しました?
南米で 何したんですか?
アジアなんて どっかの国の 植民地ばっかりじゃないですか。
ハワイで 
テキサスで 
フィリピンで 

何したんだって話ですよ。

この後の 第二次世界大戦に 日本は負けました。

そうしたら 
ビルマ フィリピン マレーシア ベトナムもそう。
アジアの国々が 独立したわけですよ。
その時 
独立を 支援 するどころか 

自分たちの植民地が 勝手に独立するのを 欧米は妨害したんですよ。

日清戦争 の後の 三国干渉 もそうでしたが

日本が 何かすると 欧米列強は 面白くないのかよくわかりませんが
日本は 白人の中で 唯一 有色人種の国での 常任理事国 でしたが 

国際連盟を脱退をし 国際社会に背を向けることになりました。

満州鉄道 爆破の後



イギリスの リットン伯爵が団長の



リットン調査団により 

満州国は 
日本の侵略であり 傀儡国家(かいらいこっか)であり とんでもない。

満州から出ていけ と 国際社会から 審議されるわけです。

しかし 当時の満州周辺の 政権の状態は 

餓死する人が多くて 死体はごろごろ。それくらい 荒れ果てた様子で 
3000万人の 満州人は 不満 を持っていて

もし
関東軍の 満州国設立が 不当なことであれば

地元の人が黙っていませんよ。フルボッコです。
おい 日本何やってんだ 勝手に国を建ててんじゃねぞ と ならなかったんです。
満州人による 反抗がなかったんです。



むしろ 歓迎 されてるんです。

だいぶ後になって 他の日本人が
高飛車な振る舞いをしたりして 暴動が起きた時もありました。
しかし 
満州国建国の段階では 民衆からの 反抗 はなかったんです。
併合ではなく 独立国をつくったわけですよ。

これは
今日から ここ日本だよ ではなくて 
ここは 満州国だよ。満州族も みんなの国だよ。

そして 
五族協和 理想的な国をつくっていこう という想いで
支援 投資したわけです。
満州の労働力を吸い上げる なんてことはしていないんです。

戦後から 日本人も いまだに 

満州事変 満州建国は 悪い事。侵略だ。傀儡国家だ。不当だ。
と教えられ 信じてますけども 

正当もいいところです。
地元の満州人には 歓迎されてるんだから。

いきなり来て はい。ここは 俺の土地 とか
アヘン売って みんな レロレロに させたとか 

日清戦争の後 三国干渉で 

日本出てけって 追い出して
下関条約で ロシア フランス ドイツ の3か国が 
日本が得た 遼東半島を 清に返させて 自分が居座るとか。

オタクここ取るの?じゃあウチはここ取るわ みたいな

そんな 
世界の常識に 照らし合わせたら 何の問題もないですよ。

よく 軍が暴走した。 軍が 軍が と言われますが
軍も 陸 と海に 分かれていて
軍政 と 軍令 も分かれていて 組織が違うんです。



軍人 と言っても 
統帥部 の人間もいれば 今の 防衛大臣的な 軍政の 陸軍省・海軍省もあり 
艦隊勤務もあれば 野戦部隊に行っている人もいて

満州事変は 現場で わざと暴走しましたからね。
それは 
陸軍省も 海軍省も止めようとしたけれども 石原莞爾は止まらなかったんですね。



作戦を立てて 軍を動かすところが
陸軍は 参謀本部
海軍は 軍令部

これからの 2つを合わせて 統帥部 と言いますが
この 統帥部の 力が強くなっていくんです。

統帥権干犯問題 という おかしな事もありますが 
本来 軍を動かすだけの部署が 軍の編成まで力をもってきてしまった。

こういう 小さなことの積み重ねが 
本来 暴走しないように 権力を分立して切り分けてあるものが

気づいたら 暴走していくことになります。

世界は
世界恐慌で 
ドイツ イタリアが 危険な方向に走っていきます。

イタリアは ムッそり~にが率いる ファシスト党が 政権を取ります。
そして 
エチオピアを侵略して 植民地にしてしまう。

ドイツは  そもそも 何で 第一次世界大戦は 
ドイツだけのせいなんだ。ドイツだけが 賠償金を払うんだ。
と 
ベルサイユ条約を破棄するのを あおっていったのが
ひっトラ~です。

最初は民主主義の 選挙で選ばれた人ですが 
ある時 パッと議会も停止して 一党独裁になってしまいました。
民衆はそこまで 見抜けませんでした。

国際連盟から脱退して 世界征服を目指していきました。
あらゆる手法を使って 周辺地域を占領して行き

ついに
昭和14年 ポーランドに攻め込む形で 第二次世界大戦が勃発しました。



よく 日本 と ドイツが 一緒かのように言われるのですが 全然違いますから。
日本は 4権分立して 1党独裁じゃ ありません。

ソ連は すた~リん体制の中で どんどん軍拡を進めて 
世界恐慌とは 無関係で

ソ連の 統制経済 というのは 

これ必要ね。お前 これつくれ。
ここで これつくる。
必要な人は ここで買って。

みたいな 
経済の在り方を 国が決めちゃうんですね。

価格が自由に決まる なんてないんです。
5か年計画で ガンガンやるから 意外と成長しちゃうんですね。

そこで日本は 
満州事変があり
2・26事件があり
青年将校たちの 反乱が起きて 



徐々に日本は 戦時体制の方に 傾いていくという事です。

陸軍の中で 2つのグループに分かれていました。

統制派 というのは 
軍が国政を 掌握するんだ。
高度な軍事国家をつくろう という考えです。

それに対して 2・26事件を起こした

皇道派 というのは 
天皇を中心とした 
昭和維新 を断行して 国家改造をするんだ。という考えです。

結局 両方 陸軍が国を動かすんだろ という事で 同じなんですけども。

昭和11年。 
1936年 2月26日。
1400人以上の 兵隊を動かす 中核にいる青年将校 22人。

彼らは 天皇の周りには よくない輩(やから)がいると 
天皇にへばりついて 
天皇を間違った方向に 導こうとしている奴らがいると 

君側の奸(くんそくのかん)に天誅(てんちゅう)をくらわす って言うわけですよ。

要するに 今の政治に 不満を持っている というわけですね。

誰が天皇を 惑わしているのだ。と 

その一人に上がってしまうのが 
高橋是清(たかはしこれきよ) だったりするんですけどね。



高橋是清がいた お蔭で 日露戦争で勝ったんですよ?
昭和恐慌から 抜け出したのも 高橋是清の お蔭です。

その 日本の立て役者みたいな人を 君側の奸(くんそくのかん) って殺しちゃうんだから。
今まで頑張ってきた人を 次々と 殺していきました。

この皇道派っていうのは 
今でいう 共産 社会主義にちょっと近いんです。
財閥や資本家も 労働者を苦しめている。
弱者の救いをするんだ みたいな。

まず 総理官邸が 襲われます。別の人が 間違って殺されたんですけど 



岡田啓介首相は 間一髪で逃れました。

次 
陸軍省参謀本部
警視庁
東京朝日新聞社
東京放送局(NHK) が 1400人に占領されました。

クーデターを起こすというのを 
海軍はあまり良く思っていなかったので 東京湾に 艦隊を送るんです。
もしかして 
陸・海で戦闘が始まるんじゃないかっていう空気も出てきたんですね。

青年将校は
政治と 資本家の腐敗。日本の癌だ と。
今 ここで天誅’てんちゅう)をくらわして 一掃して 
昭和維新を断行する!それでこそ 日本の未来があるんだ。
きっと 
昭和天皇は 私たちに見方をしてくれるはずだ と信じていました。



参謀総長も 青年将校たちを 応援したい気持ちがあるので
昭和天皇に 決起集書を読み上げるんですよ。

すると 昭和天皇は
そんなものを 朕に 世も聞かせて どういうつもりだ! と。

そして 実際に 反乱が起きた知らせを聞いたとたんに

昭和天皇
激怒 ですよ。  何たることをしてくれたんだと。



昭和天皇が 何といったか。記録に残っています。

徹底的に 鎮圧せよ!

統帥部の 軍を動かす 言葉。

天皇自身が 軍を動かすことは ありませんよ。
総理が生きているかも わからない。大臣もみんな めった刺し。

でも まだ参謀総長は 
青年将校たちは 何か考えがあって とか ごにょごにょ言ってるから

馬を用意せい



と言うと
私が 自ら 錦の御旗(みはた)を持って 鎮圧に乗り出す!



と おっしゃっいました。

天皇が自らって ヤバくないですか?

承久の変で
源氏が滅亡した後 
この時の 執権 北条義時を討とうとした

第82代 後鳥羽上皇じゃないんだから。



昭和天皇は 私が 自ら現場に行く! と ブチ切れて 



やっと
参謀総長が わかりましたぁ~! こちらでやりますぅ~! って 
初めて 参謀本部が 動いたんだから。

鎮圧せよ! って言っても 聞かないんだから 私が行く!と。
そこまで言わせて やっと 

あ~ 天皇が怒ってるわ~ と気づいて 鎮圧です。



昭和天皇は 

以前 張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の時の

田中儀一首相の 苦い経験があったので 
輔翼(ほよく)・輔弼(ほひつ)・翼賛(よくさん)の者 

下からの 進言には逆らわないようにしていたのですが

この時2・26 と
終戦の時の 2回だけは 積極的に 自分の考えを実行した。
と おっしゃってます。

立憲主義の国の 君主ですから 意思決定のプロセスは 決まってますから 
天皇が介入するって事は ありえないんです。

ポツダム宣言受諾の時も 荷が重すぎて
政府と 統帥部が 意思決定できなくなっちゃったんです。

昭和天皇が ポツダム宣言受諾 と決めたんですよ。

この 2回だけは 
自分の意見を 積極的に述べて 事を決めたと このようにおっしゃってます。

昭和天皇は 普段は受け身ですけども 

ここっ!という時は 
パっ!と出ていって 

物事を決めるんですよね。実に ご立派な天皇だと思います。

この後
軍部大臣現役武官制 というのが復活するんです。

陸軍大臣と 海軍大臣が 
大臣は 軍人でなくてはいけない という事なんです。これは 大問題です。
なぜかというと
軍の了解を経ないと 政治ができなくなるんです。

陸軍の中で 2つのグループに分かれていた
統制派ですよ。 
軍が 国政を掌握するんだ。高度な 軍事国家をつくろう という考えです

軍が暴走した と言いますが 
軍が 政治を 掌握するようになっていっちゃうんです。

その時 倒された内閣です。



憲法は ちゃんと 
三権分立 もっと言えば 四権分立までしているので 

帝国憲法は 悪くないんです。

こんな状態で 支那事変が始まっちゃいますから 
軍の意向で 政治も動いて行ってしまいますので
ブレーキをふむ人がいなくなっちゃったんです。

唯一 ブレーキをふめたのが 石原莞爾 だったんですよ。



石原莞爾は 東条英機と対立して 失脚させられちゃったんですよね。

もう一人
昭和天皇の弟宮で 秩父宮様。
この方が 陸軍の軍人で 作戦の拡大を反対していたんですけど
結核で倒れてしまって 退役しちゃったんです。



どちらかがいれば 
対米戦争はなかった と言われるんです。





支那事変

学校の教科書は 日中戦争 と書いている場合が多いです。

いろんな言い方があって 
日華事変とか
日支戦争 とかがあります。

戦争というのは 

国と国がお互い 宣戦布告 をして戦う。
戦争と ちょっとした こぜりあいは 建付けが違うんですね。

日本軍と 中華民国 という国。

中華民国と言っても 日本の戦国時代みたいな感じで 
統一政府はないんですよ

それぞれ 軍閥があって 
この地域は この人が治めてる みたいな感じで分割されています。

そして
イギリスの管轄地があったり ドイツがあったり 
欧米列強が ここはウチの所 ってやってるから ぐちゃぐちゃになってたんです。

ですので
中華民国 といっても 中国大陸全体を抑えているわけではない ということです。

中華民国の首都が 南京 というところです。南京政府 と呼んだりすることもありますし



国民党政府とか 
中華民国 とも 言いますし みんな同じことです。



日本軍と 国民党軍の小競り合いが始まったのが 

昭和12年7月7日。
盧溝橋(ろこうきょう)事件です。

小競り合い 小競り合い 小競り合いが どんどん大きくなっていって 
気づいたら 全面に発展するんですよね。
これは 戦争 ではなく 事変(じへん) です。

宣戦布告をしていないので 戦争と言わないんです。

日本と 中国が 戦争したという事実は ないんです。

ですから 

日中戦争 とは言えないんです。
まだ 中華人民共和国は できていませんから。
これは 戦後できた国です。

なぜ中華民国が 宣戦布告をしなかったかというと 

アメリカとか ドイツとか から 軍事支援を受けているわけです。
宣戦布告をすると 



軍事支援が 受けれなくなるからです。

中国大陸を昔から 支那 と呼んでいたんです。
昔 自分たちの事を 自分たちが 支那 と言ってたんです。
日本人が 付けたわけではありません。

支那 チナ と聞き取り 欧米人が CHINA チャイナ としたんです。
何で
日本人が 支那 と言うと差別だ とか言うんですかね。

教科書で 日中戦争 と書かれている事が 多いのですが
日本でこの動乱の事を 

支那事変 と閣議決定されています。
なので 
支那事変が 正式名称です。

北京の郊外に 盧溝橋 という場所がありまして



そこで 
日本軍と 国民党軍が 小競り合いになってしまいました。

当時 北京は 義和団事件(ぎわだんじけん)がありまして 

義和団 というのは 山東地方で 
神剣(しんけん) を使い 
そして 義和拳 という拳法で 漫画みたいに
刀や 槍にも やられない と ヤタタタタタタタタタァァー!
と 敵をやっつける事ができる という 集団 です。



当時 山東地方 を ドイツが牛耳っており キリスト教を布教しようとしたので
それを
義和団 は 外国人やキリスト教の宣教師を 襲撃しながら大きな集団になりますが

1900年
6月。
北京を占領し 日本と ドイツの外交官を殺害 教会を襲撃しました。

清の権力者であった 西太后(せいたいごう) が 
北京に住む外国人を人質にして 欧米列強に 宣戦布告した

これが 義和団事件 です。

西太后は 義和団 を支持して 欧米列強に勝てるかも?と勘違いします。

北京の 公使館区域の 4000人以上の 外国人たちは 
100日間 龍城され
清の正規軍と 義和団とに包囲され攻撃を受けます。

そこで
日本軍の 公使館付き武官 柴五郎中佐(リュウトナン・コロネル・シバ)



安藤大尉と他8名は
イギリス大使館 正面の壁に穴を開け 

数百人の 清国兵の乱入 と
青龍刀 を持って アヤヤヤァァーッ! と襲いに来た 義和団を

安藤大尉は 軍刀で 座頭市(ざとういち)のように 瞬く間に バサバサバサッ! と
あっけなく 片づけてしまった とに事です。

以降 
支那大陸の いくつかの国かに それぞれ軍隊を置いているんです。

なんで 日本軍が 北京にいるんですか?
といったら 
勝手に攻めていったのではなく

国際条約 にもとずいて 日本は北京周辺に軍隊を置いてたんですね。

ところがある日 日本軍の宿営地に 銃弾が撃たれるんです。



やられた!って見てみたら 

国民党軍側から 撃たれたって事で 応戦するわけですね。
ところが

国民党軍も 変な事言ってるんですね。



ある時いきなり 
日本軍のほうから 銃弾を撃たれた。って言うんですね。
それで 応戦したって言うんです。

当時 
国民党軍 と 共産党軍が 覇権争いをしていたんです。

盧溝橋のところでは 国民党軍 と 日本軍が それぞれ宿営していて

後でわかったんですけれども 
日本軍の宿営地 と 国民党軍の宿営地があって 

お互いが 先に撃ってきた って言うんですが
実は 
共産党軍が 間にきて 両方に向けて撃ったって言うんですよ。



そうすると
日本軍も 国民党軍も あれ?撃たれた!ってなって 
お互いが おのれぇ! となって撃ち始める という事なんです。

恐ろしいですね。昔の三国志(さんごくし)の時代から 

3つに分かれて 
うまく 両方の2つを 喧嘩させたりしますから。
シレ~ッ と間に入って 両方撃つという よく考えつきますね。

それで 日本軍 と 国民党軍が 本格的な戦闘に発展してしまったという事なんです。

決起盛んな 青年将校たちも いきなり撃つって事は できないじゃないですか。
でも 撃たれたんだから 
よし やるか? と出ていくわけですね。

満州事変で 
石原莞爾が自作自演で 爆発事故を起こして 満州を軍事占領してしまった。
それを 日本政府も 参謀本部も 追認してしまうんですね。

満州事変で やめておけばよかったんですが 

歯止めが利かない中で 
俺も 手柄を立てたい とチャンスを狙っている 若手がいるわけですよ。

日本の 陸軍・海軍 共に

政治的な仕事をする 軍政 が 陸軍省・海軍省。

作戦・実行をする   軍令 が 
陸軍は 参謀本部
海軍は 軍令部  に分かれています。

この時の 
参謀部総長は 閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王。皇族です。 



軍令部総長は 伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王。皇族なんですよ。



参謀本部 と 軍令部を合わせて 
統帥部 といって 軍の作戦を立てる部署ですが 

統帥部のトップは 両方 宮様でしょ? お飾りなんですよ。

結局 参謀次長・軍令次長など その下にいる人が 実権を握っちゃってるんです。

日本軍と 国民党軍が 戦闘に発展してしまった 

  

4日後
参謀部総長 閑院宮が

盧溝橋で事件が起きまして もしかして くすぶるかも しれません 
と 昭和天皇に報告をします。

明治のころから ロシアが南下してくる事を恐れているので

この時  36歳 昭和天皇は



もし 万一 ソビエトが 立ったら どうするのか? とお聞きになります。

すると 参謀総長 71歳 閑院宮は



陸軍では ソ連は 立たないと 思っております。 とお答えになります。

それに対して 昭和天皇は



それは 陸軍の独断であって 
もし 万一 ソビエトが 立ったら どうするのか? とお聞きになります。

すると 参謀総長 閑院宮は



致し方ございません。 

と言うわけですね。

7月21日
軍令部総長 伏見宮とも  昭和天皇はお話になっています。



支那の事は 大きくならなければよいが 困ったものだ。 と おっしゃっています。

あと
当時は 近衛文麿(このえふみまろ)が総理大臣でした。 

近衛文麿に 

もう この辺で 外交交渉により 問題を解決できないのか? 
と おっしゃっています。

ですから 戦線拡大していく中で
昭和天皇は 何とか早く 治めてほしい と語っているのです。

近衛文麿 はこんな状況です。



支那事変は コントロールされた事なんですね。

実は
7月29日
通州事件(つうしゅうじけん) というのが起きるんですね。

これは
日本の教科書には 基本的に出てこないんです。

盧溝橋事件の ちょっとしたドンパチで 全面戦争に入っていくんですよ。

何で こんなに拡大していったのか を知るには 
通州事件を 避けては通るわけには いかないんです。

これは 何かと言うと 通州(つうしゅう) という所で 
日本人 大虐殺事件 が起きるんですね。

中国人部隊が 
通州にいた 日本軍 110人を 全員殺しました。
通州には 日本人の民間人が 385人 が住んでたんですけども 
そのうち 223人が殺されました。

しかも この殺され方が 尋常ではなくて
(ショックを受けると思うので 決して 検索しないでください。
おどろおどろしい事件の事が 書かれていますので)



猟奇的殺人ですわ。 何だ これは?って事になって
日本で 大問題になったんですよ。

当時 日本は 
中国大陸にそれなりの権益を 持っていますから
満州事変で 満州国もあり 満州鉄道もあり 北京に駐在してますし 
日本人もたくさん住んでましたよ。

通州 という小さな街で 

300人以上の 日本人が 猟奇的殺人にあうんですね。

これで 
日本人 ブチ切れるわけですよ。ふざけるな! って事になって

戦っている 国民党軍が 抗日 抗日ってやり玉にあげてですね 

日本人を見つけたら 襲ったりしてたわけですよ。

盧溝橋事件自体は 

共産党軍が仕組んで起こした と考えられています。

共産党としては 
国民党軍 と 日本軍が戦ってくれれば  

あのぉ~ お手伝いしましょうか~ みたいに
漁夫の利 といって利益を得るわけですよ。

あれ?対立していたはずの 

国民党軍と 共産党軍が 



対 日本。抗日でもって 手を結んじゃったわけですよ。 
厄介なことになりました。



この時
昭和天皇の1つ下の弟宮 
秩父宮(ちちぶのみや)殿下は 



イギリスの ジョージ6世の戴冠式に招かれていまして 
ヨーロッパに いらっしゃるんです。

帰る時に 急遽 ドイツに寄ったんですね。

なぜかというと
日独伊三国同盟 はまだ 締結されていないのですが 
なんか 日本と ドイツが連携する という流れがあったわけですよ。

それを進めていたのが 外務省であったり 陸軍だったわけです。

もう1つ下の 弟宮の



高松宮(たかまつのみや)殿下は 海軍の軍人ですが

兄 秩父宮(ちちぶのみや)殿下は 陸軍の軍人です。 
せっかく ヨーロッパに行ったので ドイツが どんなものか見てこよう という事で 
予定を変更して ドイツに寄りました。

昭和12年。
ニュルンベルクの 古いお城に招かれまして ひっトラ~ とランチをしました。


30代前半の 昭和天皇の弟宮。 秩父宮(ちちぶのみや)に 

最敬礼で迎えて 恭しく丁寧に 人と接するのを 
初めて見たという
ひっトラ~の 秘書をしていた人の 手記が残っています。

秩父宮は 人を観察するのが 得意な方なんです。

通訳が ドイツ語を 英語に翻訳して 
秩父宮に話していくわけです。

秩父宮は英語ができますので 自分は英語でお話します。

食事が始まった時は 緊張気味でしたが 
お酒も出ていたのか わかりませんが 

ランチ中盤には だんだん冗舌になってきて 

すた~リんの話になった途端に 
ひっトラ~は テンションが上がっていって 机をバンバン叩いて 批判をして

私は人間として 信用できません!私は彼を信じない! って 机バンバンして 



それを聞いていた 秩父宮は 
最初 にこやかに聞いていたんですけど

ヤバいな と思ったらしいんですよ。



ひとしきり話を聞いた後
静かに 口を開いて



一国の最高責任者として 民族を指導し 世界の平和に貢献しなければならない 
重大な責務のある あなたのような方が 
他国の代表者を そのように毛嫌いしたり また 恨んでも よいものでしょうか。

と さわやかな英語で さらっと言ったそうなんです。

そしたら
ひっトラ~は やっべ~っ! って事になって 



急に顔が硬直して それ以降 一切政治の話はしなくなって
当たり障りのない話しか しなくなった というんですね。

その様子を見た 秩父宮は あいつはヤバイ と。
あんな奴 信用して組んだら えらい事になる。

という事で 

ドイツと組んではいけない ドイツと組んではいけない 

必死になって動くんですよね。

秩父宮の上司 作戦部長は 石原莞爾。



2人の考えは 
和平 和平 和平。暴走を抑える側になっているわけですね。
しかし
秩父宮が 戴冠式に出かけて 7か月かけて ドイツから帰ってきた時には 

石原莞爾は すでに失脚されていました。
どんどん 対米戦争に 近づいていくわけです。

昭和12年12月。 
南京攻略があり これで 国民党の本拠地が 陥落するわけです。



国民党のトップの 蔣介石(しようかいせき)は 



南京を捨てて 重慶(じゅうけい) という山奥の方に 引きさがるんですね。

よく
南京大虐殺 と言いますよね。
日本人が 南京を攻めた時に 30万人殺した ってわけですよ。

よく外国の軍隊で 規律の悪いところは 街を攻め落とすと 

片っ端から盗みを働いたり 女性を犯したり 
そういうことを 平気でする
レベルの低い 軍隊というのが世界には あったわけなんです。
住民を 皆殺しにするまで 戦闘が終わらないんですよ。

昔の戦闘は 発掘された遺跡をみたらわかります。 

日本って そういう文化あります?
日本って 寸止め するんですよ。

幕末 戊辰戦争でも 
江戸城を攻めるぞって時に 話し合いで 無血開城 なわけでしょ。

函館戦争。五稜郭の戦い。



トップは 榎本武明(たけあき)。
負けて 処刑されるのかな と思ったら 



君 優秀だからさ ウチで働かない?
君の能力を 明治政府で生かそうよって 逆スカウトされるんですよ。

攻め滅ぼすって やらないんですね。途中で やめるんですよ。
これが 日本人の戦い方です。

日本軍に もちろん中には 変なのもいると思うんですけど 
基本的に 軍規を守ります。

占領してね そこで盗みを働いて 住民を傷つけたり 

そういうことは 軍人として してはいけない事 と
ものすごい厳しいルールがあるんですね。

30万人も 虐殺するような戦闘方法は とってなかったんですね。

それを 30万人やった って言うんですから。
そりゃ あんたたちの文化だろって 話ですよね。

日本軍が 南京を攻めた時に 南京の人口は 20万人ですよ。
20万人しか住んでないのに 

どうやって 30万人殺すんです?



馬鹿らしいでしょ。本当に。

それから 日本人が占領して 1か月後に 
南京の人口が 5万人増えているんです。
もし 
大虐殺が起きた という場所に 誰が住むんですか?
もし 
30万人が殺された という恐ろしい街に 
のこのこと 住み始める新規住民が 5万人もいるですよ?
そんな馬鹿な事 あります?

虐殺なんて 噓です。
南京大虐殺 そんなものは ありません。



民間人を連行して 
そもそも 20万人しかいないのに 30万人を虐殺した?

ただ
国民党の軍人の中には 変な戦闘方法に 従事した人が たくさんいたんです。

戦争といっても ルールがあるんです。

便衣兵(べんいへい) 
というのがいて
軍人が 民間人の格好をして戦うんです。カモフラージュできますでしょ?

これは 国際法上 禁止です。
軍人というのは 

軍服を着て 戦うんです。
戦争は 民間人を殺してはいけない という ルールがあるから
民間人の服 を着ている人は 撃っちゃいけないんですね。

軍服 を着ている人しか 撃っちゃいけないんです。

この時 国民党 の多くの兵隊が 



私服を着て 銃も隠して うりゃあぁぁ~ っていきなり撃ってきたりしたんですよね。

そういう 
国際法規を破って 違法な戦闘方法をした軍人を 捕まえて処刑したんですよ。
おそらく 
そのことを 大虐殺 と言われてるようですよ。

この後の 中華じんみん共和国 がそういう風に言ってきました。

アメリカ側も 
嘘だろうなぁ とわかっていても あまり突っ込まなかったんですね。
なぜならば
アメリカは 広島と長崎で 30万人焼き殺していますからね。

日本人が南京で 30万人殺してると 釣り合うじゃないですか。

日本人が 野蛮 である 
という情報は アメリカにとっていい情報だったわけです。

日本人は邪悪で だから 原爆を落として 戦争を止めてやったんだ 
って言えるじゃないですか。
原爆を使っちゃった以上ね。

日本が いや そんなことしてませ~ん と言っても 
だまらっしゃい! みたいな感じで 今まで来てるんですけどね。



昭和12年7月 から始まって 12月に 南京を攻略するんですけれども
昭和20年 終戦まで続くんですよ。

8年ですよ。 そうとうの お金と人員を割いてますから

中国でやるんだったら アメリカなんか相手にせずに 

アメリカと 戦争やるんだったら 
中国で 力を損耗してる場合じゃないんですよ。
日本みたいな 資源のない国が 両方やってますからね。

本当の敵は アメリカでも 中国でもない。

ソ連だったわけですよ。

それをわかっていて 石原莞爾は 満州事変 をやったわけです。
支那事変は 必要ないんですよ。

満州を抑えるのは 国防上 必要だったわけです。
南京を抑えても 何もないんですよ。
目先だけの事に 陥ってしまっているですね。

国民党軍 を支えていたのは 1つは 米軍 です。
蔣介石の軍隊に せっせこ物質を運んで 武器・弾薬を供給していたんですね。



何と! もう1つは ドイツ です。

日独防共協定 を結んで 
間もなく 日独伊三国同盟 に向けて話をして 

日本と ドイツは 同盟関係 に入ろうとしているうんです。

そういう中で 何で 日本と戦争をしている 国民党軍に 
武器を渡します? これ 裏切りでしょ?

しかも 
軍事顧問を派遣していて 戦争のやり方を教えてるんですよ。
日本は ドイツ軍と戦ってたのと同じなんですよ。

ドイツは しれ~っと 黙ってやってたんですけども 



どっかでバレる という感じで

中華民国に滞在していた 

ドイツ大使の オスカー・トラウトマンが 和平工作 をするんです。
これで 
国民党軍と 戦争が終わるという 直前までいくんですけども

日本軍が 国民党軍の本拠地 南京を抑えたもんだから 

和平をするのに もっと 有利な条件で話ができるんじゃないかって
和平まで あと 1歩のところで
今度は 日本政府が ひっくり返しました。外務省が 強気にでちゃったんです。

抗戦派の 武藤章(むとうあきら)が



いなくなったので 

秩父宮の上司  
新任の 陸軍参謀本部 作戦課長の 
河辺虎四郎(かわべとらしろう)が



必死になって 和平にもっていこう 戦争を止めようと しているのですが 
外務省が ひっくり返したんですね。

昭和13年1月15日。
大本営政府連絡会議 が開かれます。

当時
行政・立法・司法 と 軍をどう動かすのか という

作戦担当の 統帥部 の 四権分立だったわけですよ。
その 
統帥部 というのは 陸軍と海軍に分かれているんです。 

戦争になったら 陸軍と海軍は 一つになって立ち向かわなければならないので
陸軍 参謀本部 
と 
海軍 軍令部本部
この2つが 一体となったのが 大本営 です。



そして 大本営 と 政府 が連絡し合い 会議をするのが 大本営連絡会議です。

ここで 
オスカー・トラウトマンが 和平工作をしてくれていて 

さあ そこに乗っかろうという
支那事変の 和平方針が決まるんです。

ここで やめておけば ここで 和平が成立していれば 
たぶん 対米戦争はありません。

日独伊三国同盟とか 
ベトナムに進駐したとか
この後も 
いくつか アメリカとの戦争をするのに向かっていく 重要な局面があるんです。

この支那事変で 国民党軍の 蔣介石 と戦うために 色々やったことで

気づいたら 
アメリカとの戦争の 入り口に立ってたんです。

ですからここで 国民党軍と 和平を成立していたら 

アメリカとの戦争は 無かったと考えられます。
ここは
日本の運命を決するほどの 最後のチャンスだったわけです。

そこで 秩父宮が動きました。少佐なので あまり位は高くないんですよ。

多田駿(ただはやお)参謀次長は 



今の 会社の例えると 
課長から見て 社長ぐらいにあたるので 意見など言える立場ではないのですが

ここは 日本の運命を決するところだと 
皇族として聞いてほしい 
と 
4つ上の位の 上司 参謀次長の 多田駿に意見を言いました。

お兄様である 昭和天皇の意見を聞いて 

和平 か 戦争を継続するのか 決めてほしい。 
御前会議を 開いてほしい。 と伝えました。

多田参謀次長は

大変有難い ご意見ではありますけれども  それは賛成できない。
なぜならば 
大日本帝国憲法の規定により 天皇は 非政治的でなくてはいけない。
従って 
この重大な 戦争か 和平か を天皇陛下に下していただくという事は 

私たち臣下としての責任の放棄であり
そして この責任を

天皇陛下に 負わせることになってしまう。
それは 憲法上あってはならない。

と答えるわけですね。

だから普段 天皇陛下は 政治決断 をなさらないんです。

そして 昭和13年1月15日。
大本営政府連絡会議 が開かれるんですが 

政府は 戦争継続。
翌日 
国民政府 を 対手(あいて)とせず と 政府声明が出ました。

有名な 第一次近衛声明です。



蔣介石(しょうかいせき)の国民政府との 
和平交渉の 打ち切り を宣言しました。  



日本の新聞は
熱烈に この声明を支援し 社説には

徹底的に 国民政府壊滅 と 煽っています。



赤いものに操られた
泥沼の長期戦。支那事変に入っていきます。

秩父宮殿下は それ以降 
参謀本部の中でも 言葉数が 少なくなったというんですよ。

満州事変以降 参謀本部の主流派は 早期解決 和平を求めてきた。
参謀本部は やめようって言っているのに 

現場では 
どんどん行っちゃうわけですよ。政府もやる気なわけですよ。

長い間の 参謀本部の取り組みは 完全にここで 散(つい)れてしなったわけです。

1月26日。
秩父宮は 



最後のチャレンジをしに 昭和天皇のところに行きます。
これは 禁断の意見具申です。

参謀本部は 和平交渉の打ち切りに 反対であります。
これ以上 この戦争を継続するべきではありません。
国民党政府との 和平交渉を 再開するべきです。

昭和天皇の 裁可 を受けた後ですが 
もう一回ひっくり返してくれ と言っているんです。

昭和天皇は ずっと聞いたまま 一言も言葉を発しなかった
と言うんですね。

ところが最後に



今になって 言うくらいなら なぜ初めに言わなかったか。

このように おっしゃったそうでございます。

政府と 統帥部 の決定事項ですからね。
責任のある者が言うならともかく 
責任の無い者が言う というのは 何を言っている という事です。





日独伊三国同盟 対米戦争へ

まだこの時点で アメリカと 戦う というのは 既定路線には なっていませんでした。

石原莞爾
川辺寅四郎
秩父宮殿下 などの 和平派は 北進論 なんですね。
日本の敵は ソ連 なんだという事です。

必ずソ連との 最終決戦があるはずなので

昭和14年 
日本の 満州国 と モンゴル人民共和国の 境での 日ソ国境紛争



ノモンハン事件で ソ連とドンパチ やってますからね。



米英と組んで ソ連を叩く という事が ありえたんです。

こんな
蔣介石下り(くんだり)と こんなとこで戦っている暇もないし 
お金も使ってる場合ではない という事です。

それに対して
どんどん戦争を拡大して 蔣介石を叩くべきだ というのは 

南進論 に直結するんですね。

アメリカが 南の方から 蔣介石に 武器を援助していたからです。
なので
南の方を ベトナムにまわりこんで 抑えなくてはいけない。
そして 南の方は 石油とかゴムとか 戦争に必要な 資源があるんですよ。



でも それをすると アメリカは面白くないですよね。
気づいたら アメリカとの戦争の 入り口に立ってたんです。

昭和13年 の段階で 国家総動員法 を成立させています。
戦時体制に入っていきます。

戦うために
生活必需品よりも 軍需品を優先して つくらなくてはいけない。
配給制になったり 
人を 軍事工事に集めなくてはならないので 
食料生産 生活必需品の生産が 停滞します。

これによって 
国民生活に 影響が表れてくるわけですね。
戦争をするために 経済統制をしていく。

近衛文麿を中心にした
昭和15年 
大政翼賛会(たいせいよくさんかい) がつくられます。 
既存の政党は 解散をして 
大政翼賛会 という 1つの政党にまとまったんです。



そして メディア 新聞は 国民を煽ります。

この年は 紀元 2600年。
日本書紀によれば 
神武天皇の御即位から ちょうど 2600年にあたる という事で 
日本全国で お祝いをした年でもあります。

零戦の 0(ぜろ) は どこから来たかというと 2600 の下 2桁が 00ですよね。
鉄砲 飛行機 戦車も 
新しい武器をつくった時 何年制 というのをつけるんですね。
例えば 自衛隊の 1997年制 だと 97式戦車 っていうんです。

なので 2600年。00式。
零戦は正式には 航空母艦に乗せる という事で 
零式艦上戦闘機 といったわけです。 
で 



零戦 と言うようになったんですね。

あと
1940年
昭和15年は 東京オリンピック が予定されていました。
ところが 
日本は 支那方面で かなり激しく戦闘を していましたので 
国際的非難や 大会会場をつくったりする 資源 や 物資が足りないという事で 
中止にしたんですね。



幻の オリンピックとなってしまいました。

昭和14年に ドイツが ポーランドに攻め込む。 

これで第2次世界大戦が始まりました。

始まった直後 フランスが陥落しました。 
フランスって 世界大戦が始まるたびに 即占領されるという
毎回 敗戦国のはずが 
なぜか戦勝国にいるという 不思議な感じですが。

ドイツは あっという間に 周辺諸国を併合していきました。

日本は 
支那方面で 戦闘継続中ですので 
ヨーロッパの戦争には 介入しない という立場をとります。

そして 
秩父宮が ひっトラ~に ドン引きしましたが 

日本は 日独伊三国同盟 を結びます。



お友達を間違うと 人生棒に振る事になりますからね。
大凶 もいいとこですよ。

誰と仲良くなるか 距離をおくか。
国家も同じです。
どの国と 友好関係を持つか。
最初から 最後まで ドイツに裏切られるわけですよ。

日本では 
ドイツが ヨーロッパに快進撃をしている と伝えられてきますので 
バスに乗り遅れてはいけないと

ドイツに追従しろ みたいな流れができるんですね。

2回目の 近衛文麿内閣だったのですが 
近衛文麿が ドイツと仲がいいんですよ。
ドイツべったりになって 

ドイツ大使は 大島浩。



イギリス大使は 白鳥敏夫。



ここら辺が 案逆することになります。

もし 
三国同盟 を結ぶとなると 
日本も 参戦義務 があるのか。
同盟だからって 日本が戦う必要のないところに 
強制的に 攻め込まなくてはならない 

というのはまずいだろと
昭和天皇は 大変 ご懸念になってらっしやいました。

ところが 
大島大使と 白鳥大使が 天皇を だまくらかすんですね。

参戦義務 という 大変重大な事ですから 
天皇の知らないところで そんな話をしてきては いけないんです。

大島大使と 白鳥大使は  
三国同盟の話をを進めて 参戦義務を 勝手に結んできちゃうんですね。

昭和天皇は またもや ブチ切れです。



当時 陸軍大臣は 板垣征四郎ですが 



昭和天皇は 板垣を けちょんけちょんに叱るんですね。

元来 出先の 両大使が 何ら自分と関係なく 参戦の意を表したことは
天皇の 大権を犯したものではないか。
かくの如き場合に あたかもこれを 支援するかの如き 怠惰を取る事は 
甚(はなは)だ おもしろくない。
また 閣議ごとに 逸脱せる事を言うが 如きは 
甚だ おもしろくない。 

参戦は 絶対に不同意。
参謀総長は アメリカは イギリスに 加担せずと申しておるが 
これはいかがかと思う。
アメリカが イギリスに加わる時 
日本は 経済断交を受け 物道計画 拡充計画を 吞まならず 
従って 対ソ連戦備も 不可能である。

と 
昭和天皇は 明確におっしゃるわけなんですね。

戦争の前に 外交で行けと。



なので 陸軍は 
秋丸次朗中佐 を置いて



どういう 突破口があるかという 資料や統計データを集め

秋丸機関(あきまるきかん) という



戦争は 精神ではない。経済だ という認識の下

戦争経済研究機関 という シンクタンクを創って
民間の方も含めて 
世界的レベルの優秀な 100数十人の学者 や スタッフが研究していたんです。

国民の生活が どんなに悲惨になるか も正確に予想をしていました。

国力を 客観的に分析し 戦略を考えていて
何も 無謀に戦争を行ったもではないんです。

事実
昭和12年まで 繊維工業で 日本の経済は伸びていました。

昭和13年から 15年頃
ドロ沼の 支那事変で 経済力をぶっ込んだから

7割は アメリカの輸入にすがり続けるわけで
なので
日本から アメリカに喧嘩をしかける なんてありえないわけです。

イギリス アメリカとの 戦争シュミレーションも研究されていますが
この時点では アメリカと 戦争をするという考えは 微塵もない。

でも もし戦争になったら と 
アメリカは 経済封鎖をしてくる
八方塞がりになる 活路を見出しておく という機関をつくったのが

昭和14年の秋頃から
難局を どう突破できるか という組織なわけです。

ABCD包囲網や 



ハル・ノートの 前段階です。

日本の仮想敵国は 昔から 南下してくる ロシア。
ソ連なんです。

アメリカ国民も もう若者を殺させるな と
アメリカも 日本と 戦争をする気はありません。アメリカの参戦は在り得ません

アジア諸国を占めていたのは 大英帝国だった。
イギリスは インド洋を 船で通っていたので 物流を遮断して

来たる世界大戦は インド洋戦争だ
という 結論を出しているんですね。

フィリピンを占領したとしても アメリカに外交で すぐ返すので
日本と アメリカとの戦争。太平洋戦争 という事は 全く考えていません。



東条英機も アメリカとの総力戦を 構えるのではない。
でも
経済封鎖が もし起きた場合など 色々と研究した結果
そういう事でなら  勝機があるかもしれない

という事でなら と最終決断したのが
あの 大東亜戦争 なんです。

そういうで事なら の 最終の決断を
陸軍は 戦争へ暴走した という話になって
戦後 ずっと私たちは 誘導されてきたんですね。

もともと
陸軍は 精神力だけで戦うんだ! というのではありませんでした。



戦争は  経済
という事をわかっていたんです。

特攻 など
現場前戦の 1万人の兵士よりも
国内にいる 10万人の労働者 の方が大事だと

これが 戦争戦力を決める という事を
陸軍は はっきりと見極めていたわけです。

計画 戦略 考えて やるべき事は全力を尽くして 
ところが後半は 

日本は 原爆まで落とされて もう 精神力しか残っていませんから
そういう言葉が出てきたわけです。

戦争回避の 外交を中心に考え 
でもその 議論の対象にもならなかった ハワイを攻撃した。

封印されていた その背景には 何があったのか。



戦争がしたい人々。
秋丸機関 に入り込んでいた 赤い日本人

陛下も
陸軍指導部も
政府元老たちも

圧倒的に アメリカは 
大きく豊かで 軍事有力も 大きくなる国なので

絶対 アメリカと戦争はしない という方針だったんですね。
でも どうやったら 不況を乗り越えられるか 
という 研究をしたわけですけれども

赤い人々と 国際金融資本家としては
どうしても 日本 と アメリカ が戦争をして

日本に負けて欲しかった。

そのためには
昭和天皇 をして この戦略なら 日本は勝てそうなので
開戦をやむを得なし という 裁可(さいか)を頂くような 
絵が 必要だったわけです。

その絵 を描いたのが
潜り込んだ 
赤い人たち 経済学者 メディア関係者 なんですね。



南に 降りて行って
西に 向かって イギリスを封鎖 陥落する。

東への 太平洋は戦略ではなかった。

インド洋で 大英帝国を叩く。

ガンジーが待っている



インドに行って インドを独立させる。
そして

もし インパール作戦が成功して 突破したならば

エジプト ブリテン島から
中近東に来た エルヴィン ロンメル将軍と握手をする。



という ビジョンがあったんですね。

ロンメル将軍は 
ドイツ軍には珍しく 戦闘に 住民を巻き込まないなど 
道徳的だった人 と言われています。

海上ルートを封鎖して イギリスに勝てる 
という絵が 妥当だったわけです。

連合国は 負けるかも と
イギリスのチャーチルも アメリカのスチムソンも
この戦略なら 
枢軸国が 地政学的には勝つ。

日本は 勝てたはずだ と書き残しているそうです。

だから
日本も ドイツも 開戦したんです。

この議論で 絶対やってはいけない
と言われた事が

ハワイ 真珠湾攻撃。 

アメリカを 怒らせない事。
戦争をしたくない という アメリカ世論を そのままにしておくという事。

それを
全部 ひっくり返す事をやったのが 
パールハーバー。アリゾナ炎上です。



戦争をしたい アメリカ大統領。
戦争は儲かる 国際金融資本家。
国内では
赤い経済学者 と 海軍の有名な人たちです。



東京裁判で
余計な事を しゃべられたら困りますから
不自然な形で 終末しています。

戦後の占領下で
座して死を待つくらいなら 日米開戦だ!

そういう証言をしろ と言われたのか

初めは
アメリカと戦争するつもりは 全くなかったわけですが

全くの 嘘のプロパガンダを
現代の私たちは 摺りこまれてきたわけです。

陸軍は 巣鴨拘置所行き なんですね。
そして
実際に 処刑される時は 
7人とも 
態度が 立派だった という風に記録されています。

そして異常に 
煽り立てる 日本のメディア 新聞 
それに乗る国民。 

秋丸機関の 調査書は
日本は アメリカとは戦えない という報告にも関わらず

実際のところは 精密に分析されていて
追い込まれて やむを得ず最終的になった時には 

こうすれば 勝てる可能性があるぞ
という
必勝の書 だったわけです。



この報告書の 表向きは
軍部が暴走した 戦争に踏み切らせたんだ
という 
特定の思想 世論などへ誘導する という意図をもった行為。
プロパガンダ に使われてしまった。

最終的には
経済封鎖で 物流で負けたのですが

元を正せば
情報戦。策略で負けたんです。

唯一 太平洋戦争は しなくていい戦争だった。

日本は 無謀な戦争をした という事しか教えていないので
これは 教科書には載っていません。

そして 泥沼にハマり
しなくてもいい戦争に 突入するわけです。

昭和15年9月16日。
三国同盟を結ぶ 閣議決定がされます。

この時の 近衛文麿総理に



昭和天皇は



ドイツ イタリアの如き国家と 
そのような 緊密な同盟 を結ばねばならぬような事で
この国の前途は どうなるか。

私の代はよろしいが 私の子孫の代が 思いやられる。
と おっしゃっいました。

この時代の政治家は 一体どうなってしまったのでしょう。

国際金融資本家から 将棋の駒のように使われ
自ら
国策研究組織なる シンクタンクを立ち上げ

新聞は 赤いものが 煽って操って
メディアも 国民も 戦うぞ!って盛り上がっちゃって

日本の未来は どうなるんだ と 天皇陛下だけ 沈んじゃってるんですよ。
そして これからの世の中の流れを ちゃんと見ていました。

さらに 昭和天皇は 近衛文麿総理に言います。

この条約は 非常に重大な条約で 
このため 
アメリカは 日本に対して すぐにも 石油や鉄くずの輸出を 停止するだろう。
そうなったら 
日本の自立は どうなるか。
こののち 
長年月に渡って 大変な苦境と 暗黒のうちに おかれることになるかもしれない。



その覚悟が お前にあるか?

近衛文麿は


どこまでも 粉骨砕身 お約束いたします。
と言います。

さらに 昭和天皇は 近衛文麿に言います。



アメリカに対して もう打つ手が無い というなら 致し方あるまい。

しかしながら
万一 アメリカと 事を構える場合には
海軍は どうだろうか。 
よく 
自分は 海軍大学の 頭上作戦では 
いつも 対米戦争は 負けるのが常(つね)である という事を聞いたが
大丈夫だろうか?

自分は この時局が 真に心配であるが 
万一 日本が 敗戦国 となった時
いったいどうだろうか。

各の如きが 到来した時には 
総理も 
自分と苦労を 共にしてくれるだろうか?

この
昭和天皇の

お前も 私と苦労を共にしてくれるか
の問いに

自分も 及ばずながら 精神 御奉公申し上げる覚悟でございます。



と 
近衛文麿総理は答えています。

近衛文麿は 終戦後 戦犯に指定されます。そして 自決しました。

あら?
生きて最後まで 天皇にお供 するんじゃなかったんでしょうか?
本来なら 東京裁判で しっかり言うべき事は言う。
本当に 自決だったのでしょうか。

開戦時は



東条英機ですが 

その前に 
日本をアメリカとの戦いの 入り口に導いていったのは 



近衛文麿総理ですよ。

9月27日 三国同盟が ベルリンで調印されます。

そして 支那事変が起きてから ずっと和平のために動いていた 
秩父宮(ちちぶのみや)が 
当時は 不治の病だった 肺結核に倒れてしまい 軍人現役を引退します。

療養生活をしながら 
弟である 高松宮(たかまつのみや)と連携を取り 激励しながら 
ああ動け こう動け と指示を出します。

しかし ブレーキをふむ人が いなくなってしまったんですね。
石原莞爾と 秩父宮がいたら 三国同盟は猛反対したでしょう。

  

秩父宮殿下が 疾病に倒れなかったら 大東亜戦争は起こらなかったかもしれない。
もし 起こったとしても こういう形にはならなかっただろう。

と 石原莞爾が 終戦後 このように語っています。

秩父宮が 倒れてからの 1年間で 
アメリカとの戦争の流れが 固まっていってしまうわけです。

ここからが 日本の悲劇です。

対米戦争の回避不能点

ハル・ノート が出されて 開戦 というのは有名ですが 

もちろん その通りなんですけれども
ハル・ノートの時点で 回避できたかっていったら 回避できないんですね。

では なんで ハル・ノートが でてきたかって事なんですけど

それが
日独伊三国同盟 を結ぶ前に

北部仏印(ほくぶふついん)。
仏印 とは 
フランス領 インドシナ。 現代でいう所の ベトナムに 日本軍が進駐しました。
これが無ければ ハル・ノートは無いんですよ。

日独伊三国同盟 が結ばれると 
アメリカは速攻 日本に対して 鉄 の輸出を禁止しました。



ほら 来ました。
昭和天皇のおっしゃっていた通りになってきました。

ベトナムは 当時フランス領でした。
何で フランスの植民地に 勝手に 日本が入ってくるんだ といったら

フランスは 
すでに 敗戦してます。
第二次世界大戦が始まったすぐに 瞬殺です。
なので
日本が ドイツに頼んで ベトナム入るよ~ と進駐しただけで ドンパチはしていません。

ベトナムの北部から 
アメリカが 軍事物資を 国民党軍に 援助している事がわかっていたので
蔣介石を援助するルート。援蔣ルートを 遮断する事。



蔣介石を 負かす事ばかり 気にしていて 

アメリカが 軍事物資援助しているのを切ると
アメリカが 怒るという事が 完全に抜けているわけですよ。



しかも ベトナムの対岸。先には フィリピンがあります。
フィリピンは アメリカ領です。
何の断りもなく 目の前に 日本がやってきて 

アメリカは 
おい。ケンカ売ってんのか? になりますよね。

ひっトラ~を信用して ムッソリーニを信用して。



そして

昭和16年4月。 
日ソ中立条約 を結ぶんです。 すた~リん ですよ?



その 2か月後の 6月
ソ連と 中立条約 を結んでいるはずの ドイツが 
ソ連に 攻め込んだんです。

ドイツと 同盟を結んでいる 日本も 
ドイツの 戦争相手の ソ連と 敵 という事ですよね?

中立条約って 意味ないですよね?

6月に ドイツが ソ連に攻め込む という事を ドイツから聞いてれば 
4月に 日本は ソ連と 中立条約を 結ばないですよ。

本当に中立を守ってくれる 相手ならいいですよ?

昭和20年8月。 終戦直後 何が起きました?
ソ連は
日本に 侵攻してきましたよね。戦争終わったのに。

気が付けば 敵に囲まれてたんです。
中国大陸 で 国民党軍。



経済封鎖 をアメリカから受け



南はオランダ・イギリス 



北は ソ連。



全部を相手に 戦争なんかできませんよ。
日本は 常に ドイツに騙されてきました。

何の意味もない 三国同盟ですわ。
結んだ途端 
アメリカから 敵国認定 されちゃったんだから。

日ソ中立条約 を結んで 2か月でしたが 
意味ないからと 

松岡洋右(ようすけ)外務大臣が破棄しようとしました。

だんだんと明らかになってきましたが
戦後 GHQによって 

全ての希望を青年に懸けて居る
という
松岡の 興亜の大業 という主張は 没収図書とされてしまいました。

この人は 戦後の東京裁判史観での視点からは
A級戦犯 として 
日本を軍国主義に引っ張った 罪深き外交官である
という 決めつけが激しいのですが



松岡洋右(ようすけ)は若い頃 
アメリカの大学に行き 苦労をし アメリカをよく知っています。
アメリカと戦ってはいけない。
外交戦略が大事なんだ と。

いずれ ソ連は 日本の敵。 だから破棄して 今 ソ連をやってまえ。
そうしたら 今ならアメリカと組める
と言っていました。

せっかく結んだんだから まあまあ みたいな軽い感じで 
これを却下したのが 

周囲に あの牙城の人たちがいる




近衛文麿総理大臣です。

7月に 南部仏印 に進駐します。

ベトナムの 南といえば マレーシア シンガポール。
これはイギリス領です。

その下にある インドネシアは 
オランダ領です。

フィリピンは アメリカ領ですよね。

南に進む という事は 米・英・蘭。アメリカ・イギリス・オランダ と
対立する事になるんですよ。



万一に備えて 開戦拠点を確保する。
あとは 石油 ゴムを そこからいただく。

これが 南部仏印進駐の理由です。



これは まんまと騙されたんですよ。工作員は蔓延しています。

アメリカの ルーズベルト大統領は
アメリカは 攻撃されていないので ヨーロッパで戦争に参戦する理由がないんです。 
本当は 
関与したかったんです。アメリカの軍事基地を ヨーロッパに置いて 
権益が広がりますから。

誰か攻めてきて くれないかなぁ

日本が攻めてきてくれれば 三国同盟で 
アメリカは ドイツを攻められるんですよ。

しかし
大統領選で 自分は戦争をしない という事を公約に 当選したんです。

日本と 戦争をするのであれば 
先に 引き金 を引くのは 
日本でなくてはならない。自分からは戦争を 仕掛けられないんです。

南部仏印で 日本が進駐してきたので 

アメリカは チャンス到来。
なんだ日本。勝手に入ってきて コノヤローってなり 
日本に対して 

石油は売らない。日本の財産凍結。とやったわけです。

当時 日本側は 
アメリカと オランダから 90%以上 石油を買っているんです。
アメリカ と オランダは 同盟関係です。



そして
ABCD包囲網が しかれました。
 
A は America アメリカ。
B は British イギリス。
C は China  中国。
D は Dutch  オランダ。



4か国 合同で 経済制裁をかける。
アメリカが 石油を売らない って言ったら 日本経済は終わるんです。

日米関係は 友好でした。

支那事変で 
日本は 中国大陸と戦いましたよね。あれがあったから 
アメリカと 対立関係になったんです。

アメリカは 参戦したいから 日本からアメリカに 先に手を出すよう
蔣介石(しょうかいせき)を助けるんです。

日本軍と 国民党軍の蔣介石と 
早く結んでおけば 日米と こじれる事はなかったんです。

 

日本側は アメリカと オランダから 90%以上 石油を買っているのに 
そこと戦争するっておかしいでしょ?
わずか 半年くらい前まで 日米は友好国だったんです。

いきなり 日本と アメリカの 戦争が起きるんですけど
アメリカに 攻め込むなんて たぶん 軍人たち ビックリしてたと思いますよ。

明治時代から 
日本の敵は ロシアだ ソ連だって 
ソ連が攻めてくる時の 訓練をしてたんですよ?
アメリカと戦う って訓練してないんです。

気が付いたら 対米戦争の入り口に立っていた。



まんまと 南部仏印してしてくれた。
日本に 経済封鎖をしたら 日本は攻めてきますよ。
そして 
日本が 絶対に吞めない要求 を出してくるわけです。

それが ハル・ノート です。

そうしたら アメリカが期待したとおりに ハワイを攻めてくれたんです。
奇襲攻撃 を受けられて アメリカは ショックなはずが 

やったぁ~! 日本が アメリカを攻めてくれた!

これまた
周囲に あの牙城の人たちがいる
ルーズベルト大統領の 高笑いが聞こえてくるようです。





当時の
首相 近衛文麿。



参謀総長 杉山元(すぎやまはじめ)



軍令部総長 永野修身(ながのおさみ)  



アメリカは大丈夫です。何もしてこないです
って 
とうとう ここまで来てしまいました。

今の我々は
これから日本が 
どんな状況に立たされても 戦争を上手に 回避するために
現在の教育で

東条が悪い だけを 教えて



何になるんですか?
開戦時の 総理大臣 
東条英機(とうじょうひでき)だけが 悪いんじゃありません。

なぜ あの戦争が始まったのか を

をしっかり分析して 2度と 失敗を繰り返さないように

誰の どの判断がいけなったのか 

どの点まで 立ち返る事ができたのか 回避する事ができたのか

これこそ 
学校で教えなければならない事 じゃないでしょうか?

アメリカは 日本の 
外務省と 
海軍の 暗号電報を すでに解読していました。
日本の中で考えている事は 全部お見通しだったわけです。
これは 全て記録で残っています。

とうとう 対米戦争の回避不能点まで来てしまいました。

ABCD包囲網が出されて

木戸幸一(きどこういち)内大臣に 昭和天皇は

南部仏印進駐が やはり
アメリカの 対日圧迫を 誘発したではないか。

おっしゃっています。

木戸内大臣の日記に残っています。



あの3人は 

大丈夫ですぅ。全然心配いりません。
と 言っていたんですが。 

殴ってみろ 殴ってみろって 
アメリカが言って 
本当に 日本は殴っちゃったんですよ。殴っちゃおしまいなんですよね。

もう 
石油が入ってこないので 何か月しか持ちませんよ。

対米戦争 をする準備をしつつ 和平もする。
和平にならなかったら そのまま戦争ですよね。

昭和16年9月3日
大本営政府連絡会議で 対米戦争に向かう 国策会議が開かれます。

この2日後 
こんな事が決まりなした~と 
政府と 統帥部のトップ。あの3人が 宮中に来るんですよ。 

報告・連絡・相談 のような意味である 内奏(ないそう) と言われるものは 

事前に 
こんな事が 可決されました どうでしょうか と 
天皇陛下に 事前に見ていただく。

これは 
どういう意味なのか?こういう場合 どうするのか? など 

天皇陛下の 強烈な鋭い質問。 御下問(ごかもん)があるわけです。
内奏(ないそう)で 決まったことを 
上奏(じょうそう)で 却下できませんから。

上奏は 正式に上がってきて 
天皇陛下が はい 裁可(さいか)。 
というもので 
あまり やりとりはないです。

対米戦争の準備ですから 内奏も 緊張感があります。

杉山元 参謀総長が 内奏 の様子を 日記に残しています。

昭和天皇  
なるべく 平和的に 外交でやれ。 
外交と戦争の準備は 並行させずに 外交を先行させよ。


杉山元     
本 告白要領の主旨は 外交の推進にあります。
戦争はどうしても 外交が まとまらぬ場合の 手段であります。


昭和天皇   
南方作戦は 予定通り できると思うか。


杉山元     
海軍と 共同研究の結果によれば 南方領域攻略作戦は 
だいたい 5か月にて 終了しうるものと考えております。
フィリピン 1か月半。 マレー 約100日。
蘭印攻略を経て 約5か月 と見ます。


昭和天皇     
予定通りに進まぬ事があるだろう。
5か月 というが そうはいかぬ事もあるだろう。


杉山元      
従来 陸海軍で 
数回研究しておりますので だいたいの予定通り いくと思います。


昭和天皇    
上陸作戦は そんなに 楽々とできると思うか。



杉山元     
楽々とは思いませぬが 陸海軍とも常時 訓練しておりますので 
まず出来ると思います。


何を聞いても できます。問題ありません。と答えてくるので
徐々に 昭和天皇は 不満を 募らせていくんですね。

昭和天皇   
九州の上陸演習では 船が非常に沈んだが ああなれば どうか。

杉山元     
あれは 敵の飛行機が撃滅される前に 船団の航行を始めたのであって 
ああは ならないと思います。


昭和天皇   
天候の障害は どうか。

杉山元     
障害を排除して やらねばなりません。

昭和天皇も 何か粗(あら)がないかと 
バンバン 聞くんだけど 
バンバン できます。問題ありません。大丈夫です。と 答えてくるので

最後 聞くことが なくなってくるんですね。
しばらく 沈黙があって



昭和天皇  
予定通りできると思うか。



一瞬 杉山が 詰まった瞬間に 
昭和天皇が 大変 きつい事を言いました。

昭和天皇  
お前は 支那事変 勃発時に 
陸軍大臣として 蔣介石(しょうかいせき)はすぐ参る。 
と 言ったのを記憶している。
だが
4年の長きに渡り 今だ まだやれぬではないか。



杉山に ズブーッ!って感じで 刺さって 固まりました。


すぐに やれるって言ったじゃない。でも 4年以上できないじゃないか と。
何言ってんだ。って感じで

あまりにも 
できます できます 問題ありません。って
今 答えてたのに 
いや お前。 蔣介石 できてねぇじゃねえか!って話ですよ。

これは突き刺さりますよね。

そこで杉山は  
いゃぁ~。支那は 奥地が開けておりますのでぇ~。


そしたら

昭和天皇    
支那の奥地が広いというなら 太平洋は なお広いではないか!




これで 杉山元は 何も言い返せなくなってしまったんです。

蔣介石 できなかったじゃないか。
太平洋 5か月で できます って言ってたけど 
支那より もっと難しいじゃないか!

天皇陛下に 嘘つき呼ばわりされて 
言い訳したら 太平洋 もっと広いぞ と言われ

それで しばらく しぃ~ん ってなって



ついに 何か言わなきゃ 何か言わなきゃ って
海軍の 永野修身が 
助け船 を出すわけです。海軍だけに。



日米の関係を 病人に例えると 手術をするかしない の瀬戸際で
手術をしなければ 段々 衰弱。
手術をすれば 助かる 望みもないでもない。

統帥部は 
外交交渉を希望しますが 不成立の場合は 思い切って手術をする。

杉山も 
まだ 力のあるうちに 国運を 打開する必要がある


このような事を言うんですね。

その後
昭和天皇は 大きな声を出します。



絶対に 勝てるか!!!



と 聞くんですね。

杉山は   
絶対とは 申しかねます。しかし 勝てる算 のある事は申し上げます。

すると
昭和天皇は 呆れた様子で  

あぁ わかった。  
と 言って出ていってしまった と いう事です。

ていうか 
手術しなければいけない状況に 誰がもっていったんだ って話です。
そこまで もってったのは 誰なんだよ って事ですよ。

アメリカ との戦争の入り口に立って こんなことになるとは思わなくて 



やるしかありませんって。

何を言っているんだ って感じですよ。

この結果 対米戦争で 300万人 死んだんですよ。

こういう事 何で学校で教えないんです?

どこを 何を間違えたか 
ここから 学び取らないと駄目でしょう。

ちゃんと 学び取って
これから どんな厳しい状況 に立たされても 
どんなに 想定外 の事態が起きても 

難を振り切って 戦争を避ける事ができるんですよ。

戦争は 絶対にしちゃいけないんです。

何歩も 先を読んで 目先だけじゃだめです。
対米戦争に至るまで完全に 目先の事だけ ですよね。

あ こうなった。 あ こうなった。 

俺はやって見せるぜっ!太平洋で暴れて見せます って



必要ない ハワイの真珠湾攻撃で アメリカを怒らせてしまった。

気づいたら アメリカとの戦争の 入り口 に立っていて 
もう回避できませんって
そんな馬鹿な事 ありますか。

ここは オブラートに包んじゃダメです。徹底的に追求しなきゃダメです。

内大臣の 木戸幸一が そうとう怒っています。



内大臣は 天皇の 政治向き秘書 です。拝謁を取り仕切るんですね。

明治維新の時の 長州(ちょうしゅう)の
木戸孝允(たかよし・こういん・桂小五郎)の孫です。

この人が いなければ 多分今の日本はない と思います。

木戸幸一は 学習院で 近衛文麿と 同級生なんです。
それから 京大に行くんですけども。

急に 天皇陛下に 

対米戦争しますから 政府で このように決めましたので 
要領を見てください。 
それで

できます できます って ホンマか?みたいな。

木戸幸一も 近衛文麿 に対して 怒ったそうです。

 

次の日 上奏がありますが 
こんな重大な 対米戦争の開戦の決定を 通していいのかって 話ですから

木戸幸一が 
原義道(はらよしみち)枢密院議長 と 



昭和天皇に 根回しをします。

内奏で 天皇の御下問があって 
持ち帰って 訂正 はありますが

上奏されたら

政府と 統帥部の 決定事項を 
天皇が 覆すことはできません。
一度 裁可 されたものはひっくり返る事はありません。 

決まった事項だから 取り消す事はできないんだけれども

外交の成功を 主に進めろ と 
御警告を 陛下が発してください
と 
昭和天皇に 木戸幸一は言うわけです。
だいたい 
御前会議で 天皇陛下の ご発言はないんです。
ご発言 自体が異例な事なんです。

原嘉道 枢密院議長には

外交と 戦争の どちらに軸を置くのか
といういう 質問をしてくれ 
と 事前に渡してあるんです。

御前会議が開かれました。

原 枢密院議長が 外交と 戦争 どちらに軸を置くのか と伺っても

杉山 と永野 は
昨日 昭和天皇に けちょんけちょんに言われたので 
だんまりを 決め込んでいるんです。



すると 昭和天皇は

事 重大だから 
私から 両統帥部長に質問をする。

宣告 原枢密院議長が 述べたのに対し 
両統帥部長は 一言も答弁しなかったが どうか。
極めて 重大なことであるから 
統帥部長の意思表示が なかったことを自分は 遺憾に思う。

昭和天皇は ポケットから 1枚の紙を 取り出します。
そして
明治天皇の和歌。御製 をお読みになったんです。



よもの海 みなはらからと 思う世に
など 波風のたちさわぐらむ

2度 お詠みになりました。



朕は この御製を 佩用(はいよう)して 
故 大帝の 平和愛好の精神を 詳述せんと努めておる者である。
今回の決定は 
国運を賭して 戦争ともなるべき 重大なる決定であるから 
統帥部においても 外交工作の成功を もたらすべく 全幅の協力をなすよう。

昭和天皇は
日露戦争の開戦時 明治天皇が お詠みになった御製でした。

世界の海は 1つであるはずなのに なぜ波風が立つのだろうか。
なぜ 人々が殺しあい 憎しみあい 戦争をしてしまうのか。



戦争を憂う 天皇の獄中を述べた 和歌です。

これを わざわざポケットに 用意していたんですね。
2度 お詠みになりました。 
 
天皇は 政治的発言はしてはいけない。
政府 統帥部が 決定したことを ひっくり返してはいけない。
これが 限界でした。

外交を優先する と いうことになりましたが 
ルーズベルト大統領は 日本に 攻めてきてほしいわけですよ。



日本が下手(したて)になって 
話し合いしましょうとか 公開情報しますよって 何を言ったって 

そんなもんいらない 油も金属も 売らないって じゃあね。
ってなるわけですね。

甲案 乙案 って 
外交交渉しようとしても 埒(らち)が明かないんですね。
そして
最終的に出てきたのが ハル・ノート だったわけです。



ハル・ノートは 
到底 吞むことのできない内容が 

最終通告 として出てきたわけですよ。
こんなものを見させられたら 
誰だって無理だって思う 内容だと語られますね。

具体的に 何が書かれていたかというと

日独伊三国同盟を 事実上 空文 化しなさい。
要するに 破棄しなさいという事。

中国大陸から 完全撤兵しなさい。仏印からも撤兵しなさい。

蔣介石政権を 承認しなさい。

今 考えてみれば 
あんな戦いになって 全部失うくらいなら 
ちゃちゃっと撤兵しておけば よかったんじゃないかという風に思いますけども

当時は
蔣介石との戦い 4年間位続けていて たくさんの軍人が 命を落としていますし
お金もかけてますし 南京も落としてますし

じゃあ
今までに 死んだ日本軍の命は どうなるんだ とか 
膨大な戦費。保証もないんですよ。

こんなもん 国民が納得するわけないでしょう。

南部仏印も放棄する。
そして 
日独伊三国同盟を破棄。

これまで日本軍が 
汗水たらして 犠牲をはらいながら積み上げてきたものを 
完全に放棄しろ ってわけです。

ルーズベルト大統領が じわじわ で追い詰めると 時間がかかるから

こんなの無理だ。アメリカとは 埒(らち)が明かない 
と 思わせないといけないので
あえて 絶対吞めないような 無理難題 を書いて出してきたわけですよ。

それを見て 全員絶望してしまうわけですね。

近衛文麿が 和平交渉したけど 上手くいかない。
もともと この人 ドイツですから。お公家さんだし。

結局 近衛文麿は



当時 陸軍大臣の 東条英機 と対立して 
内閣を投げ出す事になるんです。

次の総理は 誰がいいか ってなった時

近衛文麿の意見としては 東久邇宮(ひがしくにのみや) が
総理がいいのでは と言うんです。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう) この人は 陸軍の軍人です。

これから戦争をする以上 
皇族が一気にまとめてやった方が まとまるんじゃないの? みたいな。
東条英機も みんな いいねいいね と言って話が まとまりかけた時

それは 駄目だ! と入っていったのが



内大臣 木戸幸一です。

総理大臣経験者が わさわさ 集まってきて 重臣会議 というもので 
誰にしようか決めるんですよ。
重臣会議の 議長を務めるのが 内大臣なんです。

そして
木戸幸一は 

次の内閣は 和平 を成立させなければならない。
でも 
万が一 和平が失敗したら 開戦 を指揮しなくてはいけない。

そうすると
戦争を 決定する可能性のある 内閣になります。
もし 
皇族が 内閣総理大臣をして 戦争を決定し 
万が一 その戦争に負けたら 

日本はどうなりますか と。
皇室は滅びますよ。

戦争を決定する内閣に 皇族総理は 駄目です! 
と このように言うんですね。

戦争が始まる前に 敗戦について述べたのは

昭和天皇と 木戸幸一 の2人だけです。

もしこの時 東久邇宮内閣が成立していたら



A級戦犯として指名され 処刑されていたのは 
東条英機 ではなく 東久邇宮になったでしょう。

そうしたら 
皇室は 滅びていたでしょう。
国ごと 滅びますよ。天皇がなくなりますよ。

ですから 開戦を決定するかもしれない内閣で 
皇族総理は 絶対に駄目だと。

みんな 絶対に 勝つと思っています。
戦(いくさ) するんだったら 皇族がいいんじゃないのぉ~? と 
みんな浅はかですねぇ。

戦争に負ける事になったら 

何十万人 何百万人 日本人が死ぬかもしれない。
その 恨みを 一身に背負う人物が 皇族でいいんですか?

今の日本があるのは 木戸幸一のお蔭です。
この人がいなければ 間違いなく 皇室は残っていません。

開戦決定 の時は 東久邇宮は 駄目だ と退け
終戦処理 の時の内閣 として 東久邇宮内閣 を立ちあげたんです。

昭和16年9月13日 
に決定した 帝国国策遂行要領を 白紙に戻せ。

東条英機に 初めから白紙の上で 総理をやりなさい

これが 陛下からの 伝達事項です。
という事を 木戸幸一は 東条に伝えました。

天皇陛下のお言葉によって 
政府と 統帥部 が決定した国策が 一旦 白紙に戻る。

戦争準備 白紙。

これが
白紙還元の御諚(ごじょう)。

わが国 憲政史上 初めての事です。

東条英機に これを条件として 内閣総理大臣に 任命したんです。
それ以降
東条英機は 一生懸命 平和を模索します。



結局 
ハル・ノート を突き付けられる という事になり
開戦を決定していく流れになります。



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