すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 人物 ②


幕末志士

織田信長 と 豊臣秀吉 は 
根っからの 皇室を愛し 皇室を守ろうという 勤皇家 でした。



具体的に 言い出したのは
明治中期 ですが

日本人として 意識しだしたのは

100万石都市 と言われて
もう 戦乱も起きないだろうと 江戸幕府の下
下水も敷かれ 文化 文楽も生まれ

武家 公家 町民 に関わらず
みんなが対等な立場で ものが言えてきたのが

江戸中期 です。

この時は
日本ではなく 日の本 と言われていたのかもしれない。
そして

日本の国 というのは
どういう形を しているのだろうか

香取神宮のある 千葉に生まれた
伊能忠敬(いのうただたか)が 測量し 



長い年月の努力があったからこそ
それで 
みんなが 形として 見れるようになった事で
日本国 という意識が出てきて

それから 明治維新になっていくわけです。

そもそも
江戸幕府を立てた 初代徳川将軍
徳川家康 は 頭がいい人で



武家や 大名は こうあるべきと 縛り付けをした
武家諸法度 を出し

よその勢力が 天皇 と 直接結びつかないように
力を付けないように

参勤交代 で お金を使わせ  
街には お金を落とさせ 経済を回し

天皇が 将軍を 
任命さえしてくれればいい。

戦国時代から 貧乏になってしまった 朝廷に 
お金は回すけれども

江戸幕末の 権威も 権力も 全て 
天皇から 発せられている事を利用して

徳川幕府 は



大政奉還 になる
264年間
朝廷 を フル活用するわけです。

天皇を 独占する事。
面会も 文通 使者も駄目。

天皇と アクセス できない システムを つくったんです。

いくら 御所が広いって言ったって 
一生そこで過ごせって言うわけですよ。

幕府は 京都に
朝廷を監視する組織。

朝廷と 接触するための 外交機関
京都所司代 を置きました。

天皇 を監視し 
朝廷 を監視し 
天皇に 徳川家以外を近づけてはいけない。

ところが
孝明天皇 は 



天皇を スルーして
日米修好通商条約 を 結んだ徳川幕府に 対して

他の藩 みんな
一致協力して 外国人にあたるように 
という事を 水戸藩へ

戊午の密勅(ごぼのみっちょく) を出しました。

徳川本家の 将軍家のみが 
天皇 と やり取りができるので

水戸藩は 
古くから朝廷の 徳川の親戚すじの親藩で 

徳川御三家 でしたが



それですら 
水戸藩 徳川斉昭(なりあき)に お手紙は禁止でした。



しかし
水戸藩は 孝明天皇 からの お手紙を受け取ってしまった。
お手紙を出した 朝廷側の人間。
お手紙を受け取った側の 水戸藩の人間。 
ほとんど

安政の大獄(あんせいのたいごく)で 捕まって 処刑 されたわけです。
幕末の志士 も
安政の大獄 で捕まっています。

将軍本家しか 天皇 に アクセスしてはいけないいんです。

禁中並(きんちゅうならびに)公家諸法度


禁中 とは 皇居 の事です。
公家 とは 朝廷 に仕える 家臣 の事です。

並びに は And アンド ですね。
天皇皇族と その家臣たちの ルールです。

第84代 順徳天皇 が 



1221年。禁秘抄(きんぴしょう) という 
天皇 が 自ら書いた 天皇マニュアル があるのですが

ここに 天子 第1に 御学問在り って 書いてあるのです。

それを 徳川は 禁中並公家諸法度 で

天皇 は 勉強して下さい。
そして
天皇は 外禁止 って 書いてあるんです。

書かれている事は 納得感 あるものですが

徳川 如きが 何を勝手につくってんだ って 感じで
不敬にも 程がある という話です。

豊臣秀吉 の時代に 京都に建てた
第107代 後陽成(ごようぜい)天皇 が 
聚楽第(じゅらくだい) に 行幸なさってから



それから 軟禁状態に近い 天皇は
御所 から 外に出た事がなく

しかし 幕末 

孝明天皇は 関係ねぇ って



250年 ぶり くらいに

外国 を討ち払う ための
攘夷祈願 に
石清水(いわしみず)社 と 
賀茂(かも)社 に行っちゃったんですよ。

天皇 ができる事は 祈る 事です。
そして
幕府を 激励 する事です。



報告を 受ける事で
あぁ~ 今 こういう状況なのね と 知る。
しらす存在なので 

状況を 把握する事で 祈れるわけです。

幕府に 頑張れぇぇと 激を 飛ばす。 
朝廷 と 幕府が 一体となって 
この難局を 乗り越えて行こう とするわけなんですね。

国民を 愛する姿勢は  
おじい様の 光格天皇 譲りで 



気概も 受け継がれています。

そして
嘉永6年。
1853年。
ペリー来航 です。
アメリカの軍人は 艦隊を率いて 日本にやって来ました。
手も足も 出なくなっちったんです。

幕府の首脳は ペリーが やって来た時には
日本の 軍事力 と アメリカ の軍事力 は 話にならない
あぁ これは 無理だ と 悟っています。



明治維新の原点は どこかというと
背景に 何があったか という事です。

19世紀に 国際金融資本家 と言われる人たちは
ヨーロッパで 経済 政治を 牛耳っていました。

そもそも 国際金融資本家が 歴史書に出てくるきっかけは
ウルバヌス2世 という 11世紀のローマ教皇が



聖地奪還 という名目で 十字軍を提唱するんです。



号令を かけられたわけですから 集められた側は
忠誠心を 示さなくてはならないという事で
鎧や甲冑(かっちゅう) 兵隊の準備などのために どうしたかというと

ある民族の 金貸しに借りて 武器をそろえた
というところから 
にわかに 猶(ユ)金融が ヨーロッパ全土で 勃興してきた。

貨幣経済 の時代になると
お金を印刷するのに 金(きん)が必要になってくる。
すると
王室の金(きん)を資産として 貨幣経済を 
猶金融は 牛耳るようになってくるわけです。

資金の 運用係 調達係 として
世界の王室から 徴用されてきた 
というのが 現実ではないか と。

この方たちは
国を 失われていたわけですから
財産は 金(きん)や宝石。すぐに持って脱出できるもの。
そして
世界中に 根を張って
情報ネットワーク を持っているわけです。

なので 明治維新のこの頃
アメリカに 目を付けて
アメリカこそが 世界の覇権 を取る国になるだろう と着想していました。

国際金融資本家の 代理人として 
オーガスト ベルモント という人が



金融 産業を支配し
アメリカ社会の エスタブリッシュメント。実力ファミリーと結びき
その中に ペリーファミリーがいました。

お兄さんは 米英戦争の英雄。
弟が 日本に来た マシュー ペリーです。

この
マシュー ペリーの娘と ベルモントは結婚をしました。
そして この結婚 数年後に  ペリーは日本にやって来ます。




ペリーは 日本人こそ 器用で 真面目だし
我々に追いつく と書き残しています。

結論としては
幕末 明治維新。戊辰戦争も
朝廷 幕府。薩長を絡め 日本の政権交代の
ドラマのシナリオ を作ったのは

フランス パリ と イギリス ロンドンの
国際金融資本家 の方なんだそうです。

その事を
勝海舟も 西郷隆盛も 知っていた と言います。



なので 日本を戦場にしない という事で
江戸城は 無血開城になったわけです。

有名ですが
坂本龍馬の 薩長の武器を 飛び回って調達したのも
龍馬が
イギリスの グラバーの使いっ走り だったという事です。




グラバー の ジャーディンマセソン商会は
国際金融資本家さんですから

戊辰戦争で使われた 大砲 鉄砲 制服は
アメリカの 南北戦争の お古です。

10年そこらで 下級武士の人たちが 
全部 創造。クリエーションしたわけではなく 
指導どおりやった という事です。

自分たちは 下請けだ と解っていたかもしれないけれども
しかし 
明治維新の志士たちは
夢と 希望と 情熱を持って 立ち上がり

下請けから 伸し上がろうとした。
アジアの国で
こんな段階を 上がっていこうなんて 他にないですから。

そして 本当に伸し上がっていって
今度は 生意気だっと言われ
でも 
日本は 独立するんだ と言って
満州事変に 向かって行ったわけです。



国際金融資本家さんは 
ナポレオン のヨーロッパ制圧からの時代から
力があるわけです。

工業をやるのには 外資 と 技術 の導入ですから
まだ 弱小の日本だけでは できない という話です。

幕末から 明治維新 
大正時代には 第一次世界大戦で 日本は戦勝国となり
しかし
第二次世界大戦では 
しなくていい 大間違いの太平洋戦争の ドロ沼に入っていくわけです。

アメリカ大統領が 日本を追い込んだんだけれども
日本も 戦争に向かって行った風潮があって

通称 秋丸機関
歴史 近代①リンク

日本の勝てるはずの戦略に 携わった学者たち
そして
近衛文麿(このえふみまろ)本人の 野望もあったとの事ですが



近衛内閣の周り

そこには 赤い人々や
太平洋を調査する会 と称する 国際金融資本家さんがいて

団体として 日本を包囲して 占領政策まで思い描いていた
という風に 続いていくわけです。

ペリーが やって来た時から すでに

吉田松陰 の
松下村塾 が源流になり
日本人が 鼓舞する雰囲気 を促すと共に

対立させながら コントロールをするという




世界の すごい力 と シナリオがあったという事です。

なので
江戸の街 京都の街 簡単に制圧されてしまう という風に 見たわけですね。
だから
開国するしか なかろう と思うわけなんですが

孝明天皇は そうではなかった わけなんですね。

朝廷 は 真っ2つ です。
江戸幕府も 真っ2つ です。

公武合体派 と 尊王攘夷派 の 2つ に分かれて

開国 が嫌だ と言っている人は 始末されて 終了です。

江戸時代の 天皇は 物言わぬ 天皇 でした。

ところが
孝明天皇は 物言う 天皇。開国は アカン! と。



朝廷 と 幕府 の 力関係が 入れ替わってしまうんです。

これから 幕末の 志士たちは
本当の 動乱に入っていきます。


坂本龍馬
中岡慎太郎
後藤象二郎
高杉晋作
久坂玄瑞
木戸孝允(桂小五郎)
西郷隆盛
大久保利通
大村益次郎
江藤新平
伊藤博文
井上馨
岩倉具視
吉田松陰
勝海舟
土方歳三
近藤勇
  :
  :
  :
明治維新を 成し遂げた偉人たちは わずか100名です。
命をかけた 人たちです。

しかし
現在も 同じです。

世界それぞれの 民族の特性 を生かした
それぞれの 役割りを織りなす 十字に組む美しい世界が



グローバリズム 地球市民 
という言葉で 制圧されてしまうかもしれません。




吉田松陰

29歳で 亡くなっています。
しかし
吉田松陰の 志 は 門下生に受け継がれ 明治維新の原動力になりました。

その間に 松下村塾で あれだけの門弟を 2年内で育て
今でも 多くの人に 影響を与え続けている という事は すごい事です。

安政6年。1859年 10月27日
江戸最大の拘置所である 伝馬町牢屋敷 で処刑されました。



処刑直後は 東京荒川区南千住の寺院に 埋葬されます。

その後
文久3年。1863年。
松陰先生を慕う 門下生 
高杉晋作 や 
伊藤博文 などによって東京世田谷区に



松陰神社を建てて 御霊を祀りました。

出身地
山口県の 萩(はぎ)に 吉田松陰が祀られている 松陰神社があります。



その左隣にある お社が 松門神社 として 
吉田松陰の門下生 50人くらいを お祀りされています。。
有名どころで言えば 

伊藤博文


高杉晋作


久坂玄随(くさかげんずい)


など たくさんの方が 祀られています。

萩の松陰神社は
明治40年。 内務大臣をされた 野村靖や


門下生 伊藤博文。
明治の元勲が中心になり 建てられたわけです。

自分にとっての師匠 というだけではなく 
日本を 立て直した 日本を 近代化させた 原動力となった人物という事で 
国家としても 顕彰をしたい という事で 萩の松陰神社が建てられました。

吉田松陰は 萩藩士の 次男として生まれ

5歳の時 吉田家の仮養子となり 
6歳で 養父が急逝したために 吉田家を継ぎ
そこで 
山鹿流兵学師範の 
叔父 玉木文之進に指導を受ける事になります。



価値あるものの為に 
感情を捨てる 己を捨てる という事を厳しく学びます。

流れた頬の汗を 手で拭った瞬間 制裁を受けます。

汗が出る。暑い。不快。 

これは
私 という 自分のための事であり

公(おおやけ)の精神とは違う。
公(おおやけ)のために 
命を尽くし 世のため 人さまのために 価値ある想いを持ち 行動をする事。 

という教育を受けています。

また 周囲の人からも 教育を受け 

10歳で 藩校明倫館の兵学師範として 教壇に上がり
11歳の時には 藩主の 毛利敬親 の前で 兵学講義もしています。

19歳で 藩校明倫館の 兵学師範 として 本格的に授業をしました。

21歳の時 
この頃の 欧米列強による日本の危機感 を覚えた 吉田松陰は
外国船に対する 日本の防備を知る必要があると 

南は九州 長崎から 
北は 青森まで 
約5年ほどで 日本各地をまわりました。

嘉永6年 1853年。
ペリー来航により 軍艦4隻 が神奈川県浦賀沖に現れ 日本に開国を迫りました。

翌年の
安政元年 弟子の 金子重之助(しげのすけ)と共に 
静岡県 下田に再来航した 軍艦に乗り込み 

アメリカに 密航をお願いしますが
失敗します。



東京の伝馬町伝馬町牢から 山口県 萩の山牢獄に投じられました。

獄中 
命 一緒に賭けます と 
吉田松陰が 自分が言い出した事に ついてきてくれた 
金子重之助が 先に死んでしまいます。

この悔しさとか 恥ずかしさとか 無念さ というものが 
吉田松陰 という人を 大きく変えていった と思います。 

野山獄で 松陰は 
1年2か月 の間に 600冊以上の 書物を読み

獄中で一緒だった 何人もの囚人に 牢の中で 講義をしたり 
それぞれの囚人たちの 個性・才能を引き出し
得意な分野の事を  教え合うなどもし 看守も聞き入るほどだった とのことです。

安政2年。1855年。
吉田松陰は 獄から出てきました。

獄中の講義が いつの間にか 評判となっていました。
近所の若者から 
わざわざ 志ある 熱い想いをもった若者など 吉田松陰を訪ねてやってくるようになりました。

幽閉の身でありながら 実家の 杉家で 松下村塾(しょうかそんじゅく)  
を始める事となります。 

松下村塾。



吉田松陰の勤王の出発点 楠木正成(くすのきまさすげ)の話や

松下村塾の壁に掛けられていたのが 
楠木正成。大楠公(だいなんこう)の墓碑銘です。



大楠公 楠木正成の事績 精神を 吉田松陰が語り 
門弟たちが 耳を傾けていた という風に伝わっているわけです。

南北朝時代の 日本が危機に陥る時は 
外国からの 出来事もありましたが

大事なのは 
皇室を 中心に 日本がまとまっていない状態。

これが危機なんだと事を 門弟に伝えました。
志を 日本人が共有して 一丸となって事に当たっていく。
という事を
呼びかけたわけです。

吉田松陰は それぞれの 門下生の 個性を引き出し
一見 短所と思われそうなところも 

直す のではなく 
それを 全体のために 

活かす というやり方をしています。

例えば
高杉晋作の 



頑固で 負けず嫌い 
を活かして 高杉を 勉強をさせるために 

1番 頭のいい 久坂玄瑞 を



高杉晋作の 目の前で褒めたり
2人を 一緒に呼ぶ時は わざと 高杉を悔しがらせるために

久坂。高杉。 
と 
久坂玄瑞 の方を先に呼んだりして

負けず嫌いの高杉は 勉強をして メキメキ成果をあげ  
持ち前の行動力で 頭角を現すようになった
と言うのは 
有名なエピソードです。

身分に分け隔てなく 
従来 教育が受けれないような人々も 志をもって 松陰の下に学びに来て

自主性を促す。 自分の想いを人に きちんと伝える事。
資質を見抜き 長所を伸ばし

そして 
松下村塾の開所は
わずか 2年ほどでしかありませんでしたが 
大勢の これから日本を動かしていくという 若者を 輩出していきました。

その 吉田松陰の師匠は 佐久間象山(さくましょうざん) です。



ほんのわずかな期間 佐久間象山から 学んでいるのですが 
エッセンスを組み取って 実行に移していく。

いい先生に出会える という事は幸せな事です。
高杉晋作や 久坂玄随や   



坂本龍馬も



江戸から 
佐久間象山の 長野県の塾へ訪ねて行って 
当時は 
スマホや インターネットなんかありませんから

遠くても 話を聞きたい と出かけ

会えなかったら 
この人のエッセンスを引き継いでいる人は どこにいる と

また探して会いに行く。

国のために役立つために 

何を 吸収して
何を しなければならないのか 
何を つかまなければならないのか

必死になって 考えた時代なんです
熱意です。

吉田松陰という人の すごいところは 

人にも 指示を出しますが 

まず自分がやって見せる。 
そして
これだけの日本の危機なのに 

武士として 誰一人 国の危機に立ち向かわない。命をかけない。

だから悔しいから 
まず
自分が死んで見せよう という事を 留魂録に 書いています。



普通の人間は そういう発想にはなりませんよね。

誰かが やってくれないから 自分もやめる。
この人に 頼んだけど頼りにならん。 
と言って 
その人の悪口を言う。

じゃなくて 
まず自分が 何ができるか。
やれるだけの事をやって 倒れて見せる。

というところが 吉田松陰の すごいところ かと思います。

しかし
松下村塾での過激な一面を 幕府は聞きつけ 
吉田松陰は 安政の大獄(あんせいのたいごく)のリストにあがり
捕まってしまいます。

松陰は 聖人君主ではなく 

傷ついて 傷ついて 傷ついて

もう 私を 狂人 と呼んでくれ とか 
もう 私を ほっといてくれ とか
もう 私は 早く死にたい とか 

そういう事も 書き散らしている時期もあるんです。



伝馬町の牢に繋がれていた 吉田松陰は 
明日 刑場の露に消えるという時

親心を想うと どのように感謝していいのかわからない。
その深い想いを 

辞世の句(じせいのく) にしたためて 
爽やかに 刑場の露と消えていきました。

親思ふ こころに まさる親ごころ 今日の音づれ 何と聞くらむ

私たちは 
親のお蔭で この世に生うけ 育てられました。

子どもは 親を想います。
しかし 
母親 というものは 子どもが親を想う以上に 子どもを想うのでしょう。

さらに

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

この身はもうすぐ 朽ちるけれども 
大和魂 を残して 私は去っていきます。

大和魂
に火が付いて みんなが新しい世の中を求めている中
師匠が 志半ば 朽ち果てて それを聞いた 弟子たちは 

魂が 揺さぶられ 
心が 震えた に違いありません。

この想いを継いでいこう と。

そして これからも 霊の元つ国 日本の再生に 
五色人類の 安寧を祈って。







勝海舟

文政6年。1823年。
旗本。 今でいう 国家公務員。 
三河武士 の流れを組んでいる家の 長男として生まれました。
でも 
すごい貧乏で 今の年収で 90万もいかないくらいの収入です。
月7万くらいです。

徳川幕府からは 裏切り者 と言われ 
維新の志士からも いつも命を狙われているんですね。

あいつは スパイ 何じゃないかと 
どっちからも 色んな事を言われて 孤独な人なんですけども

将軍を最後まで 守り抜いたのは 勝海舟です。



貧乏であっても 武士の家なので
剣術 と 禅の修行 は すごくやっています。
師範代の 剣の使い手だったんです。

それで 食べていけなくは なかったんですが 
それはしなかったんです。
それよりも 学問がしたかったみたいです。

自分の人間性を練ったのは 剣 と 禅 と言っていますが 
職業にする事はなかったんです。

刀の 束(つか) の所に 
刀を抜かないように 紐(ひも)でくくっていたって言うんですよ。

辻斬り(つじぎり)が 横行していた時ですよ。
でも
自分は 人を切らないって 決心していたんです。

勝海舟を 暗殺しようとして 来るわけですよね。
いきなり
部屋の中に入ってこられても  勝海舟は 座っているわけです。

お前の刀は 長いから 天井につっかえるぞ 
とか
切るなら みごとに切れ。俺は おとなしくしててやるから。 
って言ったりして

相手の 殺気 を抜くんです。

坂本龍馬も 暗殺のために訪れていますが 



この時は
勝海舟の 妹で お順 が対応しているです。

勝海舟はいるか と入ってきた 坂本龍馬に

そんな無礼者に会うような 
私の兄は そんな馬鹿じゃないぞ と言うんです。

龍馬が 刀の束にてをやったら 
お順が すかさず なぎなたを持って

お相手仕(つかまつ)る って言うんです。

龍馬が 申し訳なかった と謝ると 
順も 
では お通しいたします 
と 
相手が態度を改めたら 引きずらない。

そして 
譲位思想 を持っていた。 
坂本龍馬は 勝海舟に 
コテンパンに 変えられてしまうんですね。

勝海舟は 
俺は 剣 と 禅 しかしてない
と言うんですが 本当は 凄い努力をしているんです。

長崎で 
オランダの海軍軍人 カッテンディーケの下で 海軍を創設もしているんです。



なので 
肚(はら)の座り方が 半端じゃなかったのと。 
先見の目。世界を見る目を持っていたんでしょう。

勝海舟は  
こんな事では 欧米列強にやられるぞ と 
先が 見えていた人で 

でも
維新に向うのに 散々な不遇な目 に合うんですね。
しかし 
段々 日本の危機になってきた時に 
やはり 勝海舟は正しかったんではないかと 
人々から 起用されていくんですね。

勝海舟がいなければ 
戦わずして 江戸城を幕府から明け渡す 
という 
江戸の無血開城は 成し遂げられなかったんですね。
これは世界に 誇れる事です。

無血開城に向けて 作戦がありました。

①江戸 焦土作戦。



朝廷から 官軍が攻めてきた時に 
江戸を焼き払い 逃げ隠れる場所を無くして 戦いやすいようにする。
そのために 
義があって 誇りある 
火消し・ヤクザの 任侠の人たち 35人ほどを 組織したんです。

もしの時は 火を放つようにと。一瞬にして 火の海にしてくれ 
と 頼んでいます。

勝海舟は 
任侠(にんきょう)の人たちとは 信頼関係もあり 資金を与え 
お願いします と 直々に 1件 1件 挨拶にも行っています。

当時 町人と 武士の接点がある 
任侠(にんきょう)の人たちは 

よし! 俺たちに任せろ。この命に代えても 
みたいな感じになるんですね。
義侠心の塊みたいですから。

警察も使えない。 
いざという時の治安維持に 動いてほしい と 根回しをしていました。

江戸の庶民の 生命と 財産を守る為の対策は 
密かに 
千葉の房総半島の 川という川に 小さい船を 停泊させたんです。
そして 
川を下って 大きな船に乗り換えて 

木更津 とか 神奈川に 
江戸の庶民ごと逃がす 手配もしていました。

この当時 勝海舟の他に 
誰が庶民の事まで 考えていたでしょうか。

②徳川慶喜(とくがわよしのぶ) 亡命作戦



将軍の命を どう守るかって事なんですよ。

イギリス行使の ハリー・パークス のところに行って 
朝廷から 官軍が攻めてくるかもしれない 
と 事情を説明すると
パークスは 

横浜を出港しようとしていた 
アイロンチック号 という イギリスの軍艦の艦長に 

出港を 1か月遅らせて 
今から 品川沖に 行ってほしいと伝え

もし 
西郷隆盛との 談判が不調に終わった時は 
徳川慶喜公を 

頭を剃って お坊さんの法衣を着せて 
アイロンチック号に乗せて イギリスに亡命させる。

公私 の感覚のレベルが 一般人と違うんでしようね。

自分は 徳川に 三河以来 仕えてきた。
幕臣として 将軍に対する 忠義 というものを 
形で現わしていくんですね。

さらに 勝海舟は パークスに 
何日かしたら ここに 
西郷という奴が来るから 宜しく頼む と言っておいたんです。

すると 
本当に パークスのところに来たんですよ。

パークスは


西郷隆盛に


慶喜公と その一派。そして 
江戸の罪もない 庶民に対して 

即ち 戦争を起こしたとしたら 
イギリスとしては 
いくら日本が 新政府樹立をしても 
非難する事しかしないだろう と言いました。 

そして
徳川慶喜の 護衛にあたっていた

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)と
 

西郷隆盛の
 

駿府談判が行われます。

徳川家の 
処遇や 戦闘回避の条件を 協議しました。

勝海舟は
無私の心になって 鉄舟(てっしゅう)が 西郷のところに行ってくれたから 
無血開城ができたんだ と言っています。

功績を譲る という言葉ですね。

そんな 思いつく限りの事をやった 勝海舟を 

幕臣の 仲間たちは  あざ笑ったんです。 
別にそこまでする必要は なかったんじゃないか と。

動きもしない。あ~だ こ~だ と 議論ばかりして 
それでいて 慌てている人たちが言う事か 
と 思いますけど

実際に 頭と身体を使って 必死になって
徳川慶喜の事はもちろん 

庶民の事まで 守ろうとしているのは 勝海舟 なんです。

でも 勝海舟としては 達観しちゃってるんですね。
それでも  
俺の味方をする者は 1人もいなかった と 
ふっと もらした言葉が 残っています。

そして
自分は ここまで 手配充分に やれる事は やったので 
西郷隆盛との談判に 打って出る事ができたんだ と言っています。

だから 
西郷隆盛と 会った時に 気迫 があったんでしようね。



思いついて やれる事は全てやって 天運を待つ。
とことん 真を尽くして 感謝で努力した人に 

天は微笑むんですね。

どこに その 粘り強さがあるのかと言うと

25歳 の時に 

当時の蘭学。オランダ語を学ぶ人が求めた 
辞書で 
ドゥーフ・ハルマ というものがあります。
全58巻 あるんです。

勝海舟は 貧乏なので 
ある人から 
1年間の約束で 10両 で貸してもらったんです。

でも 
10両のお金も ないんですよ。
どうしたかというと

半年かけて 写本。今で言う筆写。 58巻を 書き写したんです。
それを 売って お金をつくって それを借りた レンタル料に当てて

それから 
残りの半年で 今度は 自分の分の 写本をしたんです。



当時 和紙ですから インクがにじんでしまうので 
紙に塗料みたいなものを 1枚 1枚ひいて

インクも 自分で調合して 
鳥の羽を削って ペンの作成も 全部自分でやったんです。
ハンパじゃあないです。

58巻 自分の分を 書き終えて 
最後に 
ある文章を書いたんです。
 
弘化4年の秋に 写本をはじめた。
そして 中秋の 2日に終了した。 

豫(よ)貧 骨に至り。   
私は 骨に染みるほど貧しかった。

夏の夜に 蚊帳(かや)なく 
冬の夜に 襖(ふすま)なし。      

布団もなかったので その辺に ごろん と寝ているわけですよ。

日夜 机に寄りて眠る。    
どうにも ねむたくなっったら 机に伏して眠る。
はっ と起きて また写本をする。

それどころか お母さんは病気で 寝ている。
妹たちは幼すぎて 
自分たちが置かれている 極貧の状況は 

いったい何なのか 理解することができない。

ご飯を食べる時 薪(まき)がないから 
お母さんが 柱を削って 火を起こして
わずかながらの お米を煮炊きする。

困難ここに至り。また 感激を生じて   

そういう 絶望的な苦しい中で 
でも
自分は この 喉から手が出るほど 欲しかった。
学びたかった 蘭学の本を 2部 写本したぞ! という感激。

勝海舟 25歳 の時です。

お金がないから 無理 とか
食べるものがないから 他の事をして 働かなきゃ とか

そうじゃない。

どんな 境遇であっても 言いわけが無いんです。
その状況の中で でもやるんですよ。
自分の信念を 貫くんですよ。



そして
無血開城 の後

西郷隆盛は 逆賊 と言われて
せめて 
自分にできる事として 一手に引き受けて 
最後は 西南戦争で 逝ってしまうですけれども

勝海舟は 
西郷隆盛の事を すごく好きだったんです。

明治17年の 西郷隆盛の 7回忌の時に
そのころ 
明治天皇の 侍従であった 山岡鉄舟に 

何か 西郷隆盛に対してできないか と話をし 

それが 
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと しんのう)に 
話が伝わり
有栖川宮様から 明治天皇に お伝えしたところ

明治天皇も 
西郷隆盛の事が ずっと心に気にかかっていて

西郷隆盛の長男の 
寅太郎を ドイツ留学させて 
軍人としての教育を 官費でやる という事をされました。

そして
鹿児島にある 南州墓地。西郷隆盛の 大きなお墓ですが 
その傍に 勝海舟の碑 があります。

その碑に

ぬれぎぬを 干そうともせず
子供らが なすがまにまに 果てしき君かな 勝海舟

と書かれています。



勝海舟の 
表には出さなかった 涙が 流れているような 歌碑です。

その後
篤姫 や 和宮(かずのみや)様の努力もあり 
徳川家 を留める事ができました。

徳川慶喜は 
徳川家を 潰した人だとして 
公人から 私人 として暮らしていました。

その 慶喜を

明治31年
明治維新以来 初めて 
明治天皇 と 皇后 両陛下の 皇居に参内をして

皇后陛下から 直々に お酌をいただいたりする事ができて
つまり
名誉回復 ができたんですね。

もちろん 
この蔭には 勝海舟 が色々と手をまわしてたんです。

この 
明治31年 
徳川慶喜の 立場の復権 をしたところで 

勝海舟的には 明治維新が 完結したんだとと思います。







西郷隆盛

西郷隆盛 の写真は ご本人ではないそうです。

よく見る 鉛筆描きの肖像画は 
イタリア人 エドアルド・キヨッソーネが



日本政府から 頼まれて描いたものです。



写真も1枚も残さなかった 西郷隆盛ですので

西郷隆盛の 
1番下の弟の顔 その他 親戚の顔を 
合成して
限りなく似せて描かれた との事です。

銅像も その肖像画を元に つくられました。

西郷隆盛 という名前も 
本当は お父さんの名前が 隆盛 で

実名は 隆永(たかなが) だったのですが 
王政復古の位階 を朝廷から授かる時に 
お父さんの名前になっており 

当然 西郷隆盛は 気付いていたのですが 

お父さんの名前の 隆盛 で 朝廷から来たのだから 

明治6年から 西郷隆盛 で通した という事です。

子どものころは 
勉強も嫌いだし 親の言う事も聞かない時も 一時期あって 
侍従にしかられたり 変人扱いされて
すこし 
人より 価値観の違った子ども だったと言われます。

なぜなぜ坊や みたいなところもあって 興味旺盛で
なぜこうなる なぜ?なぜ? と

何のために と 
自分の頭の中で 整理をしていくんでしょう。

何のために 何故 これをしなければならない? 
と 幼少期を育っていき 

鹿児島の 郷中(ごじゅう)教育。教師無き 教育。
先輩が 後輩を教育していく というところで 

薩摩藩 11代藩主 島津斉彬(なりあきら)が



西郷隆盛の事を 
こいつ おもしろい奴だ と 引き抜くわけです。

薩摩の武士が 気合を入れる時など 
チェスト! というのは 

本当は チェーツ゚! だそうです。
13歳のころ襲われて チェーツ゚!と声を出した。
というのは有名です。

この時 右腕内側の神経をを 切っています。

3日間高熱にうなされ 一命はとりとめたものの
そして 
右腕が伸びなくなり 刀は 使えなくなったのです。

そこで 1度 挫折しています。

武術を諦め
そして 勉強をするようになり 
鹿児島の 郷中(ごじゅう)教育 で頭角を表してきます。

島津斉彬に仕えるようになりますが 順風満帆ではなく 
挫折 と 復活 とが続きます。

島津斉彬の 突然の訃報で 
西郷隆盛は 嘆き悲しみ
京都清水寺の僧侶 月照(げっしょう)に説得され 



島津斉彬の意思を 継ぐ事を決意しました。

しかし
将軍継嗣問題 をやっていた時までは 
普通の政治家 だったと思うのですが

たぶん
西郷隆盛の 性格が変容するのは 

月照が 
安政の大獄で 追われている最中に  

もう死のう 
というところで 
錦江湾(きんこうわん)に飛び込んで
ところが

月照だけが 死んでしまって 



自分は 回復には 1か月かかったと言われますが
生き残ってしまった。

この負い目ですよ。

大正生まれの方々に聞くと 
自分の同級生が 特攻や 戦地で たくさん 亡くなってます。

生き残った 自分の人生は 
おつり の人生だ とおっしゃっている方もいらして

西郷隆盛の 凄み というのは 

月照と入水(じゅすい)した後は 
たぶん 
おつり の人生 と思ってですね

その後
奄美・ 徳之島・沖永良部島 と 島送りになり 
一見マイナスのようにしか 一般的には見えませんが



島に送られて 復活してきた 西郷隆盛は

人間離れしていて 神様みたいな人 
と 表現される事もあります。

命もいらず 名もいらず 
官位も 金もいらぬ人は 始末に困るものなり。

この始末に困る人ならでは 
艱難(かんなん)を共にして 国家の大業は 成し得られぬなり 

自分の命 以上に何があるんだ。これを理解できた時に
人は 自分の命 を大切にするんだ 

というような精神を 島から 持って帰ってきています。

当時の人は 
100年先 を見すこしているような 
人間離れした感じに 思えたんでしょうか。

子どもと接し
手紙
コミュニケーション とういう事を大切にして 
色んな人の事を 理解しようとし
情報収集力も 非常に優れた人だったようです。

与えられた環境で コツコツやり続ける。
それを 全うし続ける。
そして 言い続ける。

踏んだり蹴ったりの 状況の復活をするのです。
そして 志を 貫き通す。
失敗しても 立ち上がって 立ち上がって 立ち上がって 行く。

日本のために 
自分ができる事は 何か

と 最善を尽くしてやっていった。

吉田松陰も 弟子が 先に死んでいるんですね。
ペリー来航の時に ペリーの船に乗り込もうとして 
弟子の 金子重之助が 

先生 私も一緒に行きます って言うわけです。
普通の意味の 先生 と 弟子 じゃあないんです。



命 一緒に賭けます という人が 

吉田松陰の 
自分が言い出した事に ついてきてくれた人が 
先に死んでしまった。

この悔しさとか 恥ずかしさとか 無念さ というものが 
吉田松陰 という人を 大きく変えていった と思うんです。 

偉人 と伝えられる人は 
最初から偉かったのか 凄かったのか というと 
多分
普通の人たちが 
人生の深みが グっと深まる時を 神様からいただいて

神様に近い存在に 段々なっていく。

それは
試練 を経て 
幾たびの 苦しみ を経て 
艱難(かんなん)を経て 

初めて志に難し と 西郷隆盛が伝えています。

人間 苦労をすればするほど 
歪んでいく人が ほとんどなんですけど 

苦労をすれば するほど 
宝石が磨かれていくように 光っていく人もいる。

吉田松陰 と 西郷隆盛 が

明治維新の そういう稀有(けう)な 例であって
予言者であり 実現者 であった という事は 

近代日本が 良心的なスタートを切った という事を 
信じるに至る 事実だと思います。

吉田松陰の 情熱。


西郷隆盛の 徳。


坂本龍馬の 行動力。


共通点は 何がしたいか ではなく 

自分の 命の危険を感じながら 生きていたと思うのですが 

この命を どういう風に使うか 
というところで 

現代の私たちも 
そういう事を考えながら 日々の時間を過ごしていくと
大きなことはできなくとも 一隅を照らすように 

自分の与えられた 
命を使う という字のように 使命感 に気付くかもしれません。

明治維新 というものの 魁 となった 薩長同盟。

本当の史実と 教科書用 とがあり 
当時の人たちの 心の隙間を読む事で 

本当の歴史観がわかってくるのだろうな と思います。

自分だったら この時 どう動いただろうか と  
そして 

西郷隆盛  


桂小五郎(木戸孝允)


小松清簾(きよかど)  幕末の 名ネゴシエーター。交渉人です。


坂本龍馬 薩長同盟の密約の 龍馬の裏書。


勝海舟  
大久保利通 

他に
サポート役の 薩長同盟の道をつくっていった 
クローズアップされない
多くの方々が たくさんいたからこそ できたんです。

心で読む という事を 昔の人は やってきたわけです。

薩長同盟も 
西郷隆盛の真意は どうだったのだろうか と考えると

薩長同盟 というより 薩摩密約同盟 みたいな

西郷隆盛と 桂小五郎(木戸孝允) の 密約 で進んでいった。

長州の 6か条を受け止めて 長州を立てて 



欧米列強の侵略を 防ぐために 

先を薩摩は見ていたのかなぁ と感じます。

薩摩的には あまり利(り)になったものは あまり無いんです。
長州はもう 西洋とドンパチ やってましたから 

西洋のすごさを 身に染みて感じていたのは 
薩摩かなぁと。

ですから 日本が
植民地化 されないようにするためには という事を
薩摩は考えて
長州と 組んだんではないでしょうかねぇ。

徳川を というのもあったでしょうが 
地政学的にも
もっと先の 侵略される危機。 
西洋に すでに目を向けていたんではないでしょうか。

日本を今一度 洗濯いたし申候(もうしそうろう) 



坂本龍馬は 
脱藩武士ですが 若いし 使える。行動力がある。

西郷隆盛が 坂本龍馬を かっていたのは 事実だと思います。
坂本龍馬が 狙われる時 西郷隆盛は 助けるんです。

坂本龍馬 の辞世の句は

世の人は 我を何とも 言わば言え 
我が成す事は 我のみぞ知る 



世の中の人が 自分の事を 何と言っていてもいい。 
自分が 成し遂げようと 思っている事は
自分が知っている。
これを 今 自分がやらなければ 

という 辞世の句。
人と 人を 結びつける。
そして 熱さ 情熱 と 行動力のある人でした。

坂本龍馬は 歳の誕生日に 
京都の近江屋で 暗殺されました。

お互い 
人の話をよく聞いて かみ砕いて 

自分が成すべき事を 
すごく 
たけた人たち だったのではないのか。

自己アピールするよりも 

人の意見を じっくり聞いて 
相手を知る というところから 始めて行く。

そういう対人関係を つくっていく 両者 だったのでは と思います。

スピードを意識して 
危機管理 の判断が いち早くできる人たちが 
優秀な 
偉人だったのではないかなぁ と感じます。

慶応3年 1867年。
武力によらない 大政奉還 のための工作に 奔走します。

12月9日 王政復古の大号令 が発布されました。



慶応4年3月。
幕府側の 勝海舟 と会談し 
ここで 江戸無血開城 が盟約され 



4月11日 
江戸城明け渡し が行われました。

江戸が 火の海になる事を免れたのです。

西郷隆盛は いったん 明治政府に入って 
軍隊の基礎をつくって

しかし 
明治政府は 運営がなかなか上手くいかない。
旧士族の 反乱が相次ぎ

廃藩置県で 
藩主が 県知事になるわけですが

福岡藩の 財政が困窮 していたので 
明治政府とそっくりな 
偽札紙幣 を印刷して使用していた という事件を

黒田藩の 福岡偽札事件 といいますが

その辺から  
法律が変わったり 恩 とか 
考え方の違いで

大久保利通ら と
意見が対立するようになりました。



その後
朝鮮との国交回復。いわゆる 征韓論です。

征韓論 という言葉のイメージから

何やら 西郷隆盛が  
朝鮮半島に攻め込んでいく。
そして 
征服し 植民地にする事を 目論んだんではないかと
という印象があり

イケイケどんどん 朝鮮半島に乗り込むぞ と 
よく勘違いされますが

征韓論の 征は 
征服 朝鮮征伐 の 征ではなく
正しき行い という意味です。

今は  日本史なっていますが 
戦前までの日本人は  
国史 と言って 日本書紀 の勉強をしたわけです。
そこには 
神武東征 の話もありますから まさに 東征 という字があります。

ロシアが南下してくる 脅威に対して 
当時の 朝鮮半島。 李氏(りし)朝鮮の人たちに



このままでいたら 東洋は全部 植民地にされちゃうよって 

目覚めてもらおう
という事を
ちゃんと メッセージとして 伝えに行こうよ としたわけです。

ところが
当時の 朝鮮半島は 儒教国家なわけで 
儒教国家は 対面 を大切にするわけです。

1人で 西郷隆盛がやって来た となると 
向こうは何も 権威 を感じてくれないわけです。

政府の高官が来る という場合は
何百人も 兵隊を従てえて ゾロゾロとやって来る。

ゾロゾロやって来ることで 
それだけ 李氏朝鮮の王様に対して 権威を表した事になり

では 言う事を聞いてやろう となるわけです。

李氏朝鮮の王様は 内容が 素晴らしいとかではなく 
陣立て や体裁 形。
形式 を非常に大切にするわけです。

そういう所に
ロシアの 南下の脅威に対して 対策の話をしに行くためには 

陣立てを用意して 
大勢で 行かなければならなかったわけです。
そこに 
失業した お侍さんたちを 連れていった 
という事だったんです。

征伐しに行く 征服しに行く 
ではないんです。



正しい事を 伝えに行くのに 
陣立てを 用意しなければならない 
という事を 
日本政府に言っているだけなんです。

話し合いの下 解決をするために 
朝鮮に行く という事だったのです。

征伐 戦略なら 
万単位 の軍の人数が必要なはずですが
それを 

豊臣秀吉 も 同じく

豊臣秀吉は ボケたとか 支配欲で とか言われて
戦後の歴史教育では 
朝鮮征伐をしに行く という事になっていますが



世界を 丸く 1つにしていく。
織田信長の 志 を引き継いで行っただけんです。

西郷隆盛の
征韓論は 外交をする目的。
朝鮮と同盟を結んで ロシアの南下に対応しよう という事でした。

西郷隆盛が
板垣退助 に当てた 手紙の一節  

軍を用いて 朝鮮を 
という所だけ 
クローズアップされています。

朝鮮と 国交を結ぼう派 と 

      
日本国内の 近代化 と 財政を改善派 の対立の結果 


朝鮮への派遣は 幻となりました。

江藤新平 
板垣退助らと共に 下野(げや)し 薩摩に帰りました。
薩摩で 私学校を開設し 教育に専念しました。

政府から 色々な 挑発をかけられ 
いつのまにか 
義 の戦いから 利 の戦いになってきたことに 

薩摩は 乗らないようにしていましたが

薩摩の 私学校の生徒が 
弾薬庫を 移動するという事で 
新政府の 陸軍の施設を 襲う事になってしまって 
国家の反逆 という風になってしまった訳です。

これがきっかけで
最後の 西南戦争 となってしまいました。

薩摩を 戦火にしたくない との想いで 
1万3000人 全部の軍の人たちを 率いて 鹿児島から出ました。

ラストサムライ。 
西郷隆盛が 薩摩が 全部引き受けて 

西郷隆盛自身が  自分の身体を貸して   
西郷隆盛自身が  つくった 日本の軍隊を 

これだけ 強くなったんだ と見守ったんでしょうか。



明治10年 1877年。 
西郷隆盛は 城山で 自刃したのです。

西郷隆盛は 号 は 南州(なんしゅう) です。
代表的な書は 
敬天愛人(けいてんあいじん)。



天を 敬愛し
人を 愛する。

天は 人々を 分け隔てなく 愛してくださるから 
自分を 愛する心をもって 人を 愛せよ

と説きました。
義を重んずる 大和心が 脈々と息づいています。





高杉晋作

天保10年。1839年。に
今の 山口県 萩市に 
長州藩士の家の長男として生まれました。

もともと 高杉家は 
毛利元就からの家臣であり 毛利家に仕えてきた家でした。



安政4年。1857年。
8歳 の時から付き合いのある 1つ年下の 



久坂玄瑞(くさかげんずい)に誘われて

吉田松陰 の開いていた 
松下村塾(しょうかそんじゅく) に入り 
一生涯の 師匠となる 吉田松陰に出会います。



吉田松陰から たくさんの事を学び
情熱
死生観 
学ぶ事の大切さ など

高杉晋作の 生き方に 
大きな影響を与えられていきました。



安政6年。 
長州藩から 江戸から 萩(はぎ)に帰る事を 命ぜられ

安政の大獄で 江戸の小伝馬町の牢に 投獄されている
師・吉田松陰に 

いずれは 長州で お会いできるでしよう。
その時に またお目にかかりたい。
と 書簡を送りましたが

その 10日後 
吉田松陰の 死罪が決まって その日のうちに 執行。
斬首となりました。

弟子たちに当てた 
吉田松陰の 辞世の句です。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
留め置かまし 大和魂 

私の身は この武蔵野の地で 朽ちて果ててしまっても
やむにやまれぬ 
結果がわかっていても 私。自分を捨ててでも 
未来のために 
正明清直の想いで 公の精神を持って やらねばならない。 

その 大和魂は 留めて置いてほしい



師の 志半ばの想い と 死に対して
高杉晋作は
悲しみ と共に 
吉田松陰の その想いを受け継いでいくのだ と 心が打ち震え 

倒幕を決意します。

尊王攘夷 とは
欧米列強に 開国をした幕府を倒すための 口実のようなものであり

長州 と薩摩が 最終的に組んで 
一橋(徳川)を 倒すのですが

幕府も 
皇室をないがしろにしながら 
逆賊になりたくないので 尊王 と言い

孝明天皇の



妹の 和宮親子(ちかこ)内親王を



将軍 徳川家茂に嫁がせ 親戚になって身内となり 
公武合体 をしています。

長州は 
政治から 250年間 はじき出されていますから 

尊王攘夷を言って 幕府を攻撃する。
太政大臣の家系の 
三条家。三条実美(さんじょうさねとみ)



と つながりがあり 朝廷でも 発言ができます。
なので 
政治に参加する事が できるようになっていました。

お互いが 大義名分 という事で 
教科書で言われる 
完全な 対立概念 ではないかもしれません。。

文久2年。1862年。
8月。
高杉晋作 と 久坂玄瑞らが 
英国公使館を焼き払います。

今で言えば
在日米軍基地に 爆弾を投げこむような 危ない人たちですが
幕府を困らせる思惑が あったようです。

でも 言いかえれば
維新 と言うのは 命がけ という事なんです。



ちょうど 薩英戦争 をしていたころなので 
英国公使館 を焼き払われて 
さすがのイギリスも いい加減にしろ と怒り出します。

文久3年。
5月。
長州は 下関で 
仏米蘭  
フランス・アメリカ・オランダの軍艦に 砲撃します。
でも 返り討ちにあいます。

長州という 今で言う 山口県が 
フランス・アメリカ・オランダに 喧嘩を売っても
負けちゃいますよ。

オランダにしたら 
250年間の友好国が 
いきなり大砲を打ってきて ビックリですが

レベル的に オランダにしたら 
山口県がぶつかってきた。 
交通事故にあったぐらいの ものですけれども。

当時 
イギリス と 薩摩の 薩英戦争が起こり 

イギリスには
アメリカ・支那・ロシアを 
恫喝 砲艦外交 をしていた 

やり手の イギリス政治家 
パーマストン がいる事もあり



高杉晋作は 
上海に行った時の経験から 

国が乗っ取られる怖さ と イギリスの怖さ 
を知っています。

なので 
砲撃対象にはしていません。
そして
勝ち目がない 戦はするな と 言っていました

6月。
身分に囚われず 一緒に戦う人間は 集まれ!
と 奇兵隊を 形成しています。



8月。
クーデターにより 
天皇を中心に 異国を排除するんだ という人々。
過激な思想をもつ 

尊王攘夷派 が 京都から 追い出されます。
8月18日 の政変です。  

公家で 政治家の 
三条実美や 長州も 追い出されます。

京都を監視するために 
幕府側の 新選組 が置かれます。



元治元年。1864年
6月。
池田屋事件。 新選組に 
長州の 尊王攘夷派が 殺害されます。

7月。
禁門の変(蛤御門 はまぐりごもん の変)。  

池田屋事件に 長州藩が怒り                   
京都御所の 
蛤御門(はまぐりごもん) の付近で 

幕府(一橋) 
薩摩
会津 と 

長州藩 が激突。

長州藩は 退廃します。
久坂玄瑞は 敗死。



数日後 幕府は 
長州征伐 をしてくれる 藩 を募集しますが 
喜んでさせていただく藩は いなかったのです。 

8月。
4国の艦隊による 下関砲撃。

再び
長州は 下関 関門海峡で 
仏米蘭 フランス・アメリカ・オランダの軍艦に 砲撃します。
この時の軍艦は

恫喝 砲艦外交 をしていた 
イギリス政治家 パーマストンが



リーダーになってやって来ました。



下関戦争・馬関戦争です。

山縣有朋(やまがたありとも)が幹部の 
奇兵隊は 一方的にやられて 

外国と戦う時は 慎重にやらなくてはいけない という事を学習します。
結果
イギリスを加えた 4国艦隊の反撃にあい 
長州は 砲台を占拠されてしまいます。



9月。
仏米蘭英 4か国との 講和会議に
長州藩の代表として 赴いた 高杉晋作は

この 4国 
フランス・アメリカ・オランダ・イギリスへの 艦隊砲撃は 
長州 がやった事だが

元はと言えば 
幕府が 開国をしようとしている事からの 出来事なので

外国船の 下関通過は 承諾するが

賠償金は
艦隊砲撃をした 長州ではなく
幕府に 請求するように と言いだし

そして
下関の南端の 彦島(ひこしま)を 
4国に貸す という要求は 断固反対。

もし それが無理なのなら

30万人の 長州人が 
武器を持って ゲリラ戦を仕掛ける! と言い

外国人相手に 

日本っていう国は こんなすごい国なんだぁ! 

古事記を 朗々と暗唱して見せました。




高杉の
突然のパフォーマンスに 

通訳の イギリス外交官の 
アーネスト・サトウ は




何て 外国人に 訳して伝えるねん? と

高杉は
どうやら 日本は神の国だから 土地は渡せん。 
と 言っているらしい
と 伝えました。

そして
パフォーマンスの勢いで 煙をまいて 
ぽかん とする 4か国と講和しました。




しかし 結果は
長州は 日本中と 仏米蘭 
そして 
英 イギリスに 喧嘩を売って フルボッコでした。

高杉晋作についてきた人たちも 

もう 幕府に謝罪しようよぉ 
と 俗論党(ぞくろんとう)となって 離れていってしまいます。

高杉は 孤独となり 北九州に逃れます。
そこで 新たに仲間を増やそうとしますが 
失敗。

馬関戦争をやってしまった人たちが 弾圧を受け 

長州 外国と喧嘩して 何やってんだ 
と 
幕府に 長州の軍艦が 引き渡されそうになります。

高杉晋作は 
長州に舞い戻ってきて 山縣有朋たちに 説得をしますが 
またもや 失敗。

それでも
高杉は 仲間を増やそうと 決起 を呼びかけます。
長州藩のクーデター。

功山寺(こうざんじ)決起です。

誰もやらないのなら 1人でも 立つ!

1里 行けば 1里の 忠。
2里 行けば 2里の 義。

1kmでも前に進めば その事によって 正義の姿を示せるんだ。
負けたわけではない と

3000人 に向かって 倒幕に向かって
勝つはずがないのに 1人から 立ち上ったんです。

そして応じたのは
伊藤博文 ただ 1人でした。

長州にいた 三条実美に 挨拶をして
カッコよく 馬に乗り 満月の夜に 1人で 出撃。




翌日には 
伊藤博文の 声かけもあり 83人が集合し

奉行所 と 海軍局 を襲撃して 
武器と 兵糧食と 軍艦 を入手しました。

最終的には 
山縣有朋 も加わり 

高杉晋作 と 仲間たち 
200人の 力士隊と 遊撃隊。
長州藩諸隊を率いて  

慶応2年。
6月。
大田・絵堂の戦い とよばれる 第2回 長州征伐は

小倉城 を落として 幕府は 1300人 で戦って 

高杉らが勝ちます。

山口県 周防大島の 奪還に成功します。

この
高杉 1人で決起し

伊藤博文 の声かけで集まった 
長州のクーデターから

事実上 
幕府の権威は 大きく失態します。

高杉晋作たち 長州人は
政治と 軍事が 分かれている 

帝国憲法の原型を つくっていたわけで
本能的に そうするのがいいと 知っていたんですね。

そして
政治は 桂小五郎(木戸孝允)



靖国神社 の待ち合わせ場所 で有名な人


       
軍事は 大村益次郎 に任せ



高杉晋作は 
坂本龍馬と 仲良しの 
グラバーに頼んで イギリスに行きたかった。



政治が 得意な人
軍事が得意な人 に任せ
形(かた) を残した後は

高杉晋作。
自分は 身を引いて 

この後に
高杉の その弟分の 伊藤博文 が 帝国憲法をつくるんですけど 
なぜ 高杉が イギリスに行こうとしたか。

当時 イギリスは 世界最強の国だったから。
あの国はなぜ強いのか。
その秘訣を探りに行きたい。

志は 遥か 遥か イギリスへ。

しかし
慶応3年。1867年。
4月14日 深夜 に 

大政奉還を見ずして 高杉晋作は

肺結核で 
この世を去ります。

高杉晋作の 辞世の句。

面白き こともなき世に おもしろく 

そして
高杉晋作を 看病した尼僧。 
野村望東尼(のむらもとに) が

すみなすものは 心なりけり 

と 
高杉の句に 下の句を 添えました。

それを決めるのは 自分の心 という事でしょうか。



破天荒 だけれども 想いが熱い
高杉晋作は

享年27歳 でした。





エルトゥールル号事件


本来 
日本人なら 知っておいてほしい出来事です。

エルトゥールル号 というのは 
当時 オスマントルコ という国の軍艦です。
この船が 日本で沈没してしまった という事です。



これにより 日本と トルコが親密になって 100年を超えるんです。
それを 
トルコは語り継がれているんです。

トルコの人は 教科書にでていますから 
みんな知っているんですけど 

日本人は あまり知らないんです。

どんな事件だったかというと

明治23年 1890年。130年前ですね。
和歌山県の 串本町 というところの沖合で 
エルトゥールル号が遭難してしまうんです。



そもそも 何で
エルトゥールル号が 日本に来たか と言いうと

オスマントルコの正式な 使節団が 日本に送られました。

600人近い人が 船に乗っかって 
そして 
トルコから 日本まで来るわけですから 
往復だけで 何か月って話ですから
国際親善 外交するって 大変な事だったんです。

エミン・オスマンパシャ提督 率いる使節団が 日本にやってきて 

明治天皇から 
オスマントルコの皇帝に 親書。
お手紙と 勲章を 与えられたわけなんです。

ただ エルトゥールル号が 老朽化していて 
トルコまで帰るの大丈夫かしら って感じだったんです。

実際に 沈没した日が
9月16日  紀伊大島で 座礁します。 

2日前の 14日に 横浜を出港したんです。
日本側は 今 台風シーズンだし 船は古そうだし 
南の方へ シンガポール マラッカ海峡を通って 
インド洋に出てって

危ないから やめなさいよ と 伝えたのですが 
出ていったわけですよ。
気象衛星ひまわり も ありませんから 
お達者で~ って 見送ったんです。

エルトゥールル号 座礁しただけなら まだいいんですけれども 
台風の中 深夜浸水して ボイラーが 水蒸気爆発をおこし 
船が 木っ端みじんになってしまいまして

約500人 亡くなっています。

生き残ったのは 69人です。

ドッカーン! とすごい爆発音 だったので 串本町の人たちは 
何だ 今の!? と 見に行ったら 

座礁して 暴風雨の海に 投げ出された大勢の人々 
ほとんどが 死んでしまっていますが
命からがら 泳ぎ着いた人もいますが 
言葉も通じず 



でも
串本町の人が 救出して 
みんな ずぶ濡れで 
生き残った人を 家の中に入れて

貧しい漁村の 串本町の人たちですが 

着るものを用意したり お茶を飲ませたり 
食べさせたり 暖をとらせたり 
大丈夫かっ って

中には 意識不明の人もいたでしょうし  
一生懸命 看護をしました。



この事を 明治天皇が お聞きになって 

こりゃ大変だ って事で

即日 
医師と 看護士 を乗せて 
海軍の通報艦 八重山(やえやま)を 急行させます。

こんな小さな漁村に 約500人の遺体が海岸に うちあがるんです。
それを引き上げて 
埋葬して お墓を立てて みんなで拝んだわけです。

生存者 69人は 家に帰るの どうすんの?
って話ですけど

日本政府が 軍艦 比叡(ひえい) と 金剛(こんごう)。
この 2隻 の軍艦に 69人 を乗せて 

日本海軍が 遥々オスマントルコまで
連れて帰るわけですよ。

それで 
たくさん亡くなってしまったけども
埋葬もし 救助してくれて 有難うございました。
よくぞ 送り届けてくれました って

大変な 歓迎を受けたわけですね。

なので トルコの人は この時 日本人が 
献身的に 尽くしてくれた と
100年以上語り継がれて 

現在でも トルコの教科書に 書かれているくらいなんです。



なんと この
明治23年から 95年後。

昭和60年。1985年。

イラン・イラク戦争 という戦争がありまして
この時に

イランにいる 日本人が 
イランから 出国できず 日本に帰って来れなくなったんです。

この時の イラクの大統領が サダム・フセインです。

3月20日 午後2時以降 
イラン上空を飛ぶ 飛行機を 民間機・軍用機 一切関わらず

全て 撃墜する という声明を発表しました。



もう数日の間で イランから出なければ 
イラン上空を飛ぶ飛行機は 全部 撃墜されてしまうので

世界中の政府は 
自国民を救出するために 軍用機や 民間機を飛ばしたりして
自国に 帰らせる という事をしたんですが

今だったら 
自衛隊が 救出する事は可能ですが
当時 日本は 
自衛隊の 海外派遣は 一切不可能でした。

そこで
日本政府は どうしたかというと 日本航空。
当時 国営航空会社ですよ。
日本航空に イランまで飛んで 
日本人を 救出して欲しい と頼んだんですね。

わかりました と
飛行機を飛ばす準備 をしていたんですけども

国営の日本航空の 労働組合が 反対したんです。 
じゃあ この時 
イランに 215人いた日本人 どうなっちやうの?って 話ですけども

打つ手がなくなって 日本政府は困ってしまったんです。

そこで当時 イランに駐在していた 
日本の外交官 
野村豊大使が 困り果ててしまい

イランにある トルコ大使館に 連絡をするんです。

そういう事なら 
トルコが 救命機を出そう と
イスメット・ビルセル大使が 言ってくれました。

実際に トルコ政府が 
トルコ航空 2機をチャーター してくれて 
その2機で 
215人の日本人全員 イスタンブール経由で 日本に帰る事ができたんです。



その2機が イランのテヘランから 飛び立ったのが 

サダム・フセインが 撃ち落とす と言ったリミットの
1時間15分前でした。

出発が 1時間でも遅れていたら 
イラク軍に 撃墜されていたかもしれないんです。
本当にギリギリの タイムトライアル という感じでした。

そんな危険な中 トルコの大統領。
当時の オザル首相は 

トルコ人パイロットとか 自国民を 危険にさらしてでも 
日本人を救出する 
という事をやったわけなんです。

当時の 駐日トルコ大使の 
ネジアティ・ウトカン という方が 語っています。

エルトゥールル号の事故に際し 
紀伊大島の人たち 日本人が成してくださった 
献身的な救助活動を

今も トルコの人たちは 忘れていません。
私も
小学生の頃 歴史の教科書で 学びました。

トルコでは 子どもたちでさえ エルトゥールル号 の事を知っています。
今の 日本人が知らないだけです。

それで 
テヘランで 困っている 日本人を 助けようと 
トルコ航空機が 飛んだんです。

美しい話ですね。

この時 
95年前に トルコ人が 日本人に助けられた。
このことを
現在だと 130年前です。 

日本人に 助けられたんだよ と 
ずぅ~っと 教え続けてきて 
トルコの人は みんな知っているわけです。

イラン・イラク戦争の時 
日本人が困っている。  
じゃあ 95年前 世話になったんだから 

ようやく 恩返しができる時が 来たじゃあないか 
という事で 
トルコ航空機 を2機 飛ばしたわけです。



明治23年 トルコまで 2隻の軍艦を出す。
また
危険もあるかもしれないし 大変な経費がかかってますよ。
多くの日本人が 危険を承知で トルコまで 
69人を 送り届けてくれた っていう事を考えれば

この時 飛行機を派遣するくらいの 度合いは大したことない。

喜んで 恩返しをさせてもらおう 

飛行機を飛ばしてくれた という事です。

トルコの人は みんな学んできて知っている 
エルトゥールル号のお話。

ようやく 日本の教科書に載ってきましたけど 



日本人は 知らないまま 大人になってしまいました。

トルコ人と 会話する時 
エルトゥールル号では お世話になりました っていわれて

日本人は 
はっ? 何ですか?エルトゥールルル? 新しいスイーツですか?
なんて 
話がかみ合わないわけです。

トルコ人 
えっ?! トルコ と 日本の友情 知らないの? って。

やはり
国際人 として 日本人も 知っていてほしいと思います。







水師営の会見

水師営の会見 というのは 
日露戦争の 旅順(りょじゅん)攻防戦 があった時の事です。

旅順を落とすのも 
203高地や 閉塞作戦など 色々ありまして 

かなり日本側も 大きなダメージがあったんです。

明治38年1月1日 
旅順要塞の ロシア司令官 ステッセリ中将が 降伏 を申し入れます。
これを受けて 
翌日2日 降伏文書の調印が 行われるんですけども

この場所が 水師営なんです。
一般的に 水師営というのは 海軍の基地の事をいいます。

旅順にあった 海軍の基地の近くの民家で 行われたんですけども

水師営の会見 と言われています。

この時の 日本側の大将は 
乃木希典(のぎまれすけ)。



明治天皇が 
山縣有朋(やながたありとも) を通じて 乃木大将に電報 を打ちます。

敵の軍隊も なかなかあっぱれだったと。
だから 
くれぐれも 敵の将兵たちの 名誉 を傷つけるようなことはするな。
と 御下命がありまして

乃木大将は 
敵の大将 アナトーリィ・ステッセリ将軍に会う時 
降伏文書に 調印をする時



普通だったら 
武器を持たない状態で 来させるんですね。
でも
軍人にとって 丸腰で
何の武器も持たずに 敵の前に出るというのは 
最大の 屈辱なんですね。

そこで 乃木大将は

サーベルを 下げたままいらっしゃい 
という風に 言うんですね。

ステッセリ将軍も 
そんな事あるのか? と 驚いたと思います。

会見の場所に 各国の報道陣も 来ていたのですが 
世界中のメディアが ビックリしたらしいですよ。

サーベル付けたまま来させて 大丈夫ですか?と。
いきなり 切りかかられたら
あんた どうするんですか?って話ですが

せめてもの 帯剣を許す という事で
剣を 腰に差したまま来なさい ということでした。



ステッセリ将軍が 乃木大将に 切りかかる。

そんな事はせんだろう。 

軍人としての
最低限の威厳を 保たせてあげようという事で 
帯剣 を許したわけですよ。

ステッセリ将軍は

乃木将軍に 感謝して 
明治天皇に 感謝するんですよ。

こんな立派な人たちと戦って 負けたんだという事なら 
本望だ と言ったわけですよ。

自分が戦争に負けて 
こんな待遇を受ける なんて思ってなかった って言うんです。

ステッセリ将軍は 本国に帰ったら

国賊 と罵られて
職業を失い とんでもない事になるんですけれども 

乃木大将は 
自分の給料の一部を ずうっと
ステッセリ将軍に 仕送りをし続けたわけですね。

日本は 戦争に勝った時 このように振舞いました。





乃木希典

二宮尊徳(にのみやそんとく)は 
薪を背負いながら 本を読んで勉強していましたが


乃木希典(のぎまれすけ)は 
足ふみ脱穀機 を踏みながら 本を読んで勉強をしていた。



長州藩士の出身で 
第2次長州征伐に 参加しています。
その後の 
西南戦争にも 従軍しています。 
そして ドイツに留学。

日清戦争で 従軍し 旅順を占領。
台湾征討にも 従軍しています。

そして 日露戦争です。
陸上戦を指揮していたのが 乃木希典でした。



領土拡張を図る 
帝政ロシアの 軍事的脅威に直面し 
国の運命をかけて ロシアと戦いました。

旅順攻防戦において 
乃木希典大将率いる 第3軍は
累々たる 屍を超えて 
203高地を進撃し ロシアを撃破したのであります。

南下政策をとる 当時ロシアを 
いかにして食い止めるか というのは
当時 
日本の最大の関心事でした。

ロシアは 日本を 
明らかに 植民地にする勢いで 南下政策を進めてきたわけです。

そして できれば 
日本と ロシアは 話し合いをして 戦争をしないように という事で 
そうとう譲歩して
日本がロシアに出した 提案があったんです。

これが 拒絶されまして
戦争しかない という事になりまして

当時 ロシアは 3大帝国のうちの 1つでした。

日本が 実際ロシア軍と戦って 勝てる見込みがあるのか
と 疑問視されていたわけです。

それでも もう行くしかない
という事で 

気合と 作戦で 乗り越えていく 
という事だったわけです。

日本海海戦も パーフェクトゲーム で
日本は勝ちましたけども

陸上戦は そうとう苦労しました。



というのは

ロシア軍は 機関銃を使ってましたから。
人類の陸戦史上 
機関銃が 初めて用いられたのは 日露戦争でした。

ところが 日本軍は 
単発的な銃しか ありませんでしたから

戦法そのものを 何度も練り直して 
そして 多くの死者が でたわけなんです。

よく 
乃木希典は 旅順攻防戦で 
あんなに死傷者を5万人近く出して 損害を追って 
戦下手だ 
と 言う人がいますが

従軍看護師の ナイチンゲールが有名ですが



クリミア戦争の一局面で 



フランス・イギリス軍は 
ロシア軍の立てこもる セヴァストポリ要塞で 
10万人以上の 死者 を出しました。



さらに 
格段と強くなった 旅順要塞で 
乃木大将は 死傷者 5万人だった。

なので 
クリミア戦争の時 以上に 
乃木大将は 
外国の戦争から比較すれば 少ない損害で 旅順を陥落させています。

でも
この戦いを 何とか制する事ができましたが 
日本側の損害が 大きかったものですから

乃木は駄目だ。外せ。 
という意見も そうとう政府内 軍の中であったんですけども

いや。
最後まで 乃木にやらせろ。と いう風におっしゃったのが

明治天皇でした。

乃木希典は 
自分の息子を この 日露戦争で 亡くしてるんですね。
それでも 
最終的に 日本を勝利に 導いたわけなんです。

そこで  日露戦争後の
ステッセリ将軍との 水師営の会見です。

乃木希典は 西南戦争などで 

左目を失い
片腕 片足に 銃創。銃弾で受けた 傷を負っています。

日露戦争の後

自分は 片手 片足が 残っているから 
食事もできるし タバコも吸える。
けれど 

戦争で 両手を失った者は 
一服の清涼剤としての タバコも吸えぬ。
それでは あまりにも 可哀そうだ

ご自分の 年金を担保にして お金を借りて 
試行錯誤の上 乃木式義手 を 完成させています。



しかし 
ご自分の体験から 
愛のこもった 機能性の高い 乃木義手が

ある事で 歴史から完全に 
埋没 させられてしまう事になってしまったそうです。

明治45年。
明治天皇が 崩御あらせられました。



この後 乃木希典は 
明治天皇の 後追いをしてしまうんです。

この時
乃木希典は 学習院の院長を 仰せつかっていました。



乃木には 子どもを与えよう 
というのが 明治天皇からの 思し召しでした。

自分の子どもが 戦争で亡くなっれいる と。
その代わり 
乃木には たくさんのこどもを与えよう と。

そして
昭和天皇や



第2皇子 秩父宮殿下 は 
この 
乃木大将から 色んな事を教わるわけです。

昭和天皇は 



幼少のころは 



迪宮(みちのみや)殿下 というお名前で



学習院初等科に 入学と共に

乃木希典は 明治天皇から 
学習院院長に 仰せつかりました。

迪宮(みちのみや)殿下は 乃木大将の事を

院長閣下  院長閣下 

と言って 尊敬されておられました。



乃木大将の教育方針は 

皇孫といえども 良くない行状があれば 遠慮なく矯正し
なるべく 質素で 勤勉な習慣をつける事にありました。

たとえば 
通学の際は
雨の日でも 外套(がいとう・最も外に着る上着) を着て 
馬車ではなく 歩いて通われるように。
とか

真冬でも
火鉢にあたるより 運動靴を駆け足されたら 暖かくなる。
などと 
直接 御注意申し上げた との事です。

また
迪宮殿下は よく
相撲をとるのを 好まれたので



ズボンの膝や 靴下に穴があき 
その都度 
新しいものと お取替えをされておられたのですが

着物に 穴があいているのは 着ないほうがいいが

つぎのあたった着物を着るのは
ちっとも 恥ずかしい事では無い。

と 乃木大将は伝えました。
すると
迪宮殿下は 学校から帰られると

着物の 穴があいている物に 
つぎを あててもらいたい。 と おっしゃっいました。
早速 つぎをあててもらうと

これでいいんだ!  と満足されておられました。

月日が流れ 
昭和28年。
外套(がいとう・最も外に着る上着)の襟が 破れている事を 
女官長がお伝えすると

昭和天皇は
外に出る時は別だが 普段 家で行き来するような時は
つぎをあてておけばよい とおっしゃいました。

乃木院長から 質実剛健 を教えられておられたからです。 

また
昭和50年。 訪米前に アメリカの週刊誌 タイム の記者に



私は 多くの人々。とりわけ 
乃木将軍に 深い影響を受けました。
将軍は 
私が 学習院に進学した時の 院長でした。
と 語っていらっしゃいます。

そして
大正元年
9月1日。

昭和天皇の元を訪れた 乃木大将は 
江戸時代初期の 儒学者 

山鹿素行(やまがそこう)の 中朝事実(ちゅうちょうじじつ) 
という本を 熟読しなさい
と言って


万世一系の天皇を 戴く(いただく)
日本という国。
皇室を中心とした 我が国の 政治や伝統が 書かれた本を
昭和天皇に 渡すんです。

この時 迪宮殿下は 
皇太子となられておられました。



その本は  
ここが大事 というように 朱を入れ 書き入れをして 
乃木希典 自身が
写本 したものでした。

立派に ご成長になるよう これをお読みいただきたい 
と渡すのです。

そうしたら
昭和天皇は 気付くんです。

乃木閣下は 
どこか 遠いところへ 行ってしまうんでしょうか?

という風に 声をかけた。

自決する という事を
何となく 幼心に 感じていたのかもしれませんね。
そして その 3日後

明治天皇の 大喪の礼 が済みます。

大正元年 
9月13日。
乃木大将は 奥様と共に 自決しました。



乃木希典の
中高一貫 特別教育の 
御学問所を 新設する必要がある という構想に基づいて

東郷平八郎元帥を 総裁(校長)とする
東宮御学問所が 発足しました。





東郷平八郎

薩摩 鹿児島出身の 東郷平八郎は



14歳で 薩英戦争に参加。
戊辰戦争で 東北で戦っています。

西郷隆盛に頼んで イギリスに留学。
そして 海軍軍人になります。

日清・日露戦争が 先の大戦後しばらくは 
侵略戦争だった と言う人が結構いらしたわけです。

日露戦争の勝敗が 最終的に決定したのが

日本海海戦。
日露戦争の クライマックスですから 
日本と ロシアとの戦いであるのですが
それに留まらず

ヨーロッパの 侵略国家軍 
対 
それをさせない とする 心ある国家の戦い。



それを代表していたのが 日本 だという事です。

なので
日本海海戦を 今で言えば 
世界中が 衛星中継で 
手に汗握って観ていた という感じだと思います。

日本海海戦で 日本が敗れれば 

あ~やっぱり ヨーロッパには 
日本なり アジア軍は 敵わないじゃないか。
だから 
ヨーロッパの 植民地政策は この後も続くんだ。
そして 
アジア・アフリカが 独立するなんて事は 2度とないんだ 

という風な
国際社会 国際情勢が 確立してしまった
かもしれないところを

なんと 日本が 
日本海海戦に 勝ってしまった。

何も日本が
有利だったわけではなく 
日本の海軍の 3倍くらい兵力がある ロシアに

大変な不利な情勢の中を 勝った。
しかも
大勝利を治めた 奇跡的な勝利だったわけです。

ある艦隊は 
旅順(りょじゅん) ウラジオストクに 中心はバルト海に と
3つに分かれているうちに 

ロシア本国から バルチック艦隊がやってきた。
これを どう迎え撃つか。



乃木希典の 
陸からの 旅順攻略で 旅順湾内の艦隊は 全滅したので

東郷平八郎は 
海からの 日本海での バルチック艦隊を
迎撃をしやすくなりました。

もともと日本は 6隻の艦隊を持っていましたが 
2隻が 触雷。
水中兵器に触れて 沈んでしまい
4隻になってしまい

それに対して ロシアは 主力戦艦 8隻と 
それに次ぐ強さの戦艦が 3隻ありました。
艦隊だけでも
日本よりも 
3倍近い 戦力差があったわけですね。

その時に
東郷平八郎は 

戦術は 有名な T字戦法です。 



まっすぐ敵に向かって行けば 
前のを向いている 大砲しか撃てないのを

敵に 船のわき腹を見せる。
それによって
こちらは やられやすくなりますが 
そうすれば主砲が 全部 敵の方に向けて撃てる という 

まさに 肉を切らせて 骨を断つ。
自分自身も傷つく覚悟で 
相手に 大きな打撃を与える という手法を 苦心の末に行った。

その T字戦法だけをやっていても 
砲撃した弾が 当たらなければ 意味がないですから
この時の決戦を 迎えるまでに

百発一中の砲 百門は 
百発百中の砲 一門に如かず

のスローガンの下に 猛訓練を行ってきました。

明治38年。
1905年。5月27日。

ヨーロッパから 日本海 極東に回路してきた 
ロシア バルチック艦隊を 砲撃します。
この時
大本営に打電したのが

敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は ただちに出動 
これを 撃滅せんとす。

本日天気 晴朗なれども 波高し 



の一報です。

軍艦 三笠(みかさ) の
東郷平八郎司令長官率いる  連合艦隊 は
ロシアバルチック艦隊を 迎え撃ちました。

バルチック艦隊が 日本に迫ります。
敗戦すれば 日本はロシアに 併合されてしまうのです。

この海戦は 正に 祖国防衛戦でありました。

東郷元帥は

皇国の興廃 この一戦にあり と宣しました。



皇国とは 
万世一系の 天皇(スメラミコト)のお在します 
日の本つ国 であり 
その運命が この一戦にかかっている と告げたのであります。

最後 という意味の Z(ぜっと)。 
もう後が無いぞ という事です。
Z旗を掲げて 全軍の士気を鼓舞しました。

各員一層 奮励(ふんれい)努力せよ 

日本は ロシアを撃破し 奇跡的な勝利をおさめ 
世界の列強として 認められたのみならず
植民地化された国々に 

勇気と 希望 を与えたのであります。

日本海海戦 は 
日本の船は ボート3船くらいしか やられなかったのが
ロシアの戦艦は絶滅。

世界の戦史で 最強の勝ち方をした パーフェクトゲーム でした。



大国に いじめられていた 小国の人々に
歓びと 勇気と 元気と 非常に大きな 感動を与え

エルトゥールル号 の恩を抱いて下さっている トルコは
日露戦争で 
日本が 大国ロシアを破った という事で
生まれてきた子に トウゴウ と名前を付けたり

トウゴウ通り トウゴウビール も存在するとの事です。

東郷平八郎は 世界史最強の提督 として
昭和8年 国葬され
世界中から 弔電もきた との事です。

乃木希典 と 東郷平八郎は のコンビは

日本のみならず 
世界史上みても 偉大な軍人の トップ層に列せられる方で 
崇敬されていたのですが

戦後は
この2人が おとしめられてきました。

日本人以上に 外国の人が この2人を知っていたりします。

乃木大将 と 東郷元帥 の
名誉回復は



日本人の 名誉回復に つながる事になると思います。





阿南惟幾

阿南惟幾(あなみこれちか)は
幼少期 小柄な体格ながら 剣道は かなりの腕前でした。



徳島で 中学生となった 阿南は
剣道の大会 に出ていた時に 
小柄な体格ながら 
意欲盛んで 気迫もあり 上級生にも負けじとする姿から

乃木希典から 
早期受験をして 活躍する事 を勧められています。

明治天皇から 信頼が厚い 
この時の 乃木希典の姿が 

今後の 阿南の 軍人人生の範となっています。

当時の侍従長は 鈴木貫太郎(すずきかんたろう)。
鈴木貫太郎への 尊敬の念を抱き 



阿南(あなみ)は 侍従武官を務め 
昭和天皇とも 親交を深め 
また
昭和天皇からも 阿南は 信頼も厚く 

昭和天皇のもとに 上奏に行くと 
昭和天皇は 椅子も用意させて 長時間話し込んだり



阿南(あなみ) を  あなん あなん と

あだ名なのか そう覚えてしまったのか 
親しげに呼ぶようになりました。

昭和9年。
東京陸軍幼年学校の 校長となった 阿南惟幾(あなみこれちか)は

その日のうちにできる事は その日に処理をする事。
自分の顔に 責任を持つ事。
難しいと思われることから 手をつける事。

など 熱意ある 生徒の心に響く 接し方をしており

5・15事件 や 2・26事件 の 
青年将校の反乱 が起きてしまいましたが

青年将校の 
精神的教育を特に 注力しています。

説教ではなく
膝を付き合わせて 語り合い 
自宅に招いて 食事をさせたり

青年たちが 何を考えているのか
青年たちを知ろう。
そして 
青年たちと 語り合うのが 好きだったようでした。

しかし 
2・26事件は



普段の温厚な 阿南惟幾からは 
想像ができないような 厳しい口調で 
幼年学生に

これは 軍にとって 非常に悪い事だ。 

から始まり 

青年将校の
殺人をしてまでも という クーデター事件の行動が 

天皇陛下が 御心を痛め 悩ませた事に 
怒り と 憤慨。

天皇陛下に 敬い 慕う想いが 
公私 とは何なのかわからなくなり 感情に現れたと 
痛感したのでした。

昭和20年。
1945年。

阿南は
日本の敗戦が 自明になって最終的に
終戦を決断をする時の 内閣。 

鈴木貫太郎内閣の 陸軍大臣となります。

8月9日 深夜に ポツダム宣言受諾が 決まりました。

阿南陸軍大臣は
天皇の地位の保証は 本当にされるんだろうか。

そこを 
ポツダム宣言受諾の 条件に入れろ!
という事を
言っていたんですけれども

天皇の地位の保証をする 
という点に 
変更は無いんですよね? 
という 了解の下で 
ポツダム宣言を のみますので という内容を
アメリカに伝えます。

すると
アメリカ側から 返答がありました。

天皇の権限は GHQ の下におかれる って書いてあるんです。

そこで
阿南陸軍大臣が 激怒するんですよ。



ほ~ら 信用できない相手じゃないか
こんなもん のめるかぁ!ってやったわけですよ。




アメリカの世論は 日本を叩きつぶせ なので

そこで あえず正面から答えずに 
アメリカは 斜めから答えるわけですよ。
天皇の地位を保証が あるのか ないのか。

広島 と 長崎に原爆が投下されましたよね。
もう 3発目は ないんですよ。
それで 
ソ連が参戦してきますよね。

もし 
ここで 日本が受諾しなかったら 逆にアメリカは 困っちゃうんですよ。
それこそ
本当に アメリカが 日本に 本土上陸作戦をやって 
3万 5万 7万 それぐらいの
アメリカの兵隊を 死なしてしまう事になりますから。

原爆を落とすまでは 日本に降伏されたら 困るわけですね。
原爆を 使ってみたいんだから。

でも 原爆を落とした後は 
直ちに 降伏してほしいんです。

しかし 日本の要求に
アメリカが
寄り添うような感じだと 今度は アメリカ国民に攻撃されてしまう。
だから
日本には 降伏してほしいんだけれども 
アメリカ国民に対しては 日本に譲歩した というように見られたくないんですね。
そこで
正面から答えずに 斜めから答えたわけです。

だから 
天皇の地位の保証を認めない と言ったら 終戦にならない。
かといって 
はい。認めるよって 正面から言ったら 体裁が悪いわけですよ。

日本の閣議で大もめですよ。

アメリカが日本に 本土上陸してきても

まだ 日本は 7000機の特攻機を 用意してたんだから。



7000機の特攻機が 雨あられのように 突っ込んでいくわけですよ。

何隻沈んだでしょうね。
1万人や 2万じゃきかないですよ。
日本との戦争を終わらせるシナリオの中で 
一番最悪 なシナリオになっちゃうわけですよ。

だから
頼む。ポツダム宣言吞んでくれ って感じなの。
追い詰められているのは アメリカの方ですからね。

日本は2回目の 御前会議が開かれました。

場所は 皇居の10m下の 地下室です。



メンバーは
鈴木貫太郎総理が議長で 閣僚と軍部首脳 合計 7人。



いかにして 戦争を終わらせるか。 

ポツダム宣言を受諾すべきだ という意見と
地位の保証が無いんだったら 最後まで戦うべきだ という意見と

涙を流しながら 話し合い
外務省と 陸軍省との意見が出つくしたところで 

なぜ受諾するのか 
昭和天皇が ご発言をなさいます。



下村宏 情報局総裁が 手記に書き留めていました。

反対側の意見は それぞれよく聞いたが 
私の考えは この前に申したことに 変わりはない。

私は 
世界の現状と 国内の事情とを 十分に検討した結果 
これ以上 戦争を継続することは 無理だと考える。

国体問題について 
いろいろ疑義がある という事であるが
私は 

この回答文の 文意を通じて 
先方はそうとう 好意を持っているもの と解釈する。

先方の態度に 一抹の不安がある
というというのも 一応はもっともだが
私は そう疑いたくはない。

要は 
我が国民全体の 信念 と 覚悟の問題 と思うから 
この際 先方の申し入れを 受諾してよろしいと考える。
どうか皆も そう考えてもらいたい。

更に
陸海軍の将兵にとって 武装の解除なり 保証占領 というような事は 
まことに 耐えがたい事で
それらの心持は 私にはよくわかる。

しかし 
自分はいいかになろうとも 万民の命を助けたい。

この上 戦争を続けては 
結局 我が方が 全く焦土となり 
万民に これ以上の 苦悩を嘗めさせることは 

私としては 実に 忍び難い。

楚囚(そしゅう)の霊に お答えができない。

和平の手段によるとしても もとより 
先方のやり方に
全幅の信頼を おきがたい事は 当然ではあるが

日本が 全くなくなる という結果に比べて 
少しでも
種子が残りさえすれば 更に復興という 光明も考えられる。

私は 明治大帝が
涙を呑んで 思い切られたる 三国干渉当時の ご苦衷(くちゅう)を忍び
この際

耐え難き耐え 忍び難きを忍び 

一致協力 将来の回復に 立ち直りたいと思う。
どうか 

私の心を よく理解して 
陸海軍大臣は 共に協力し よく治まるようにしてもらいたい。
この際 
詔書を出す必要もあろうから 政府は早速 その起案をしてもらいたい。

以上は 私の考えである』

このようにおっしゃいました。



昭和天皇は しばしば 頬を拭(ぬぐ)われ



一同は 感極まり
中には 床にひざまずいて 泣いている者もいました。

昭和天皇が 
御聖断 を下された時の 御心境を詠まれた
御製です。

身はいかに なるともいくさ とどめけり 
ただ たふれゆく 民をおもひて 

これによって 
ポツダム宣言の受諾が 最終的に決定したわけです。

ご自分の 身はどのようにになっても 戦争をとどめる
それはただ 倒れゆく国民の事をを想って。

玉音放送は 
ポツダム宣言受諾の詔(みことのり)です。

開戦の詔 と共に 戦争が始まり  
ポツダム宣言受諾の詔 で戦争が終わりました。



日本は
何が決めてとなって ポツダム宣言受諾を 決めたんだろう 
という事を 考えていただきたいんですね。

原爆を落とされたからなのか。これは違います。

ソ連が参戦して 

本土決戦になって
50万人の米兵が 上陸してくるかもしれない と兵力を 全部結集して 
7000機の 特攻機を飛ばして 
何とかアメリカ上陸占領を 阻止てやろう

捨て身になって必死に と考えていたんですよ。

ところが
50万の米兵をやるんだって イチかバチかなのに 
更にそこに後ろから 
150万のソ連軍が バーッて襲いかかって攻めてきたら 
もう無理です。

でも一部 
若手の青年将校の中では 
冗談じゃない。こうなったらクーデター起こすぞ 
という グループがあったわけなんです。

では 日本は
何を決めてとして ポツダム宣言受諾を 決心したのか。

これは実は 
原爆投下でも ソ連参戦でもないんですよ。

じゃあ何が 終戦の決めてだったかというと

日本は ポツダム宣言受諾を決めたのは
原爆投下や ソ連参戦ではない。

天皇の地位を保証 です。



映画にもなりましたね。



8月15日の未明 

阿南陸軍大臣は 自決しています。
この時の 陸軍大臣が 阿南惟惟だから
無事に 終戦できたと思います。

阿南陸軍大臣は 和平派なんだけども 
表面は 主戦派を装っていたわけです。だから よかったんです。

今 自分が 和平を口にしたら 
速攻 殺されて 
めちゃくちゃなクーデターになるって わかっているから

そうだ。お前らの言う事はわかっている。
しっかりと お前らの気持ちを 閣議で 
ちゃんと 総理大臣にぶつけてくるから。伝えてくるから! 
と。 
とにかく待ってろ 軽はずみに決起するなよ。
まず俺が言ってくるから
と言って 
なだめて なだめて 決起を留まるようにして 

ポツダム宣言 こんなもん吞めるかぁ!日本が終わるぞぉ!
って閣議で 
泣きながら ぎゃんぎゃん やるわけですよ。



でも 阿南陸軍大臣は本当は 和平派なんです。

よく 昭和天皇の
鶴の一声で 戦争終わったよね という人がいますが

じゃあ なんで 戦争を始めて
早く 戦争を終わらせてくれなかったんだ と
天皇批判 として言われる事があります。

事はそう簡単ではありません。
新聞や メディアが 煽り立てていったわけですよ。




一番 やる気があったのは 国民だったんですよね。
国民が 政府に対して 
なにやってんだぁ!まだアメリカに 攻め込まないのか 弱腰!
と 
国民全体の世論が 
なぜ攻め込まない!という風になってたんです。

国民は すでに戦う準備はできている。
あとは 開戦の号令を待つのみ!



という 社説を書いたのが 新聞なわけですよ。

昭和天皇独白録で
もし あの時 戦争反対 なんて言おうものなら 
天皇は殺され 誰も制御できない めちゃくちゃな状態のまま
戦争に至っただろうと 
昭和天皇自身が 語ってらっしゃるんです。

あの時 
空気 といいますか 
思ってても 戦争反対なんて 
口に出せる者は いなかったんですね。

終戦を決めても 
それでも クーデター事件が起きたんですよ。

陸軍大臣にしても 参謀総長にしても
もし 和平 を口にしていたら おそらく殺されています。

しかし ソ連参戦によってもう。 お手上げ。
もう無理 となったわけです。

そこで間髪を入れず 
鈴木貫太郎総理が 
昭和天皇の 御聖断を引き出して 終戦を決定しましたね。
このタイミングだから 終戦が決定できたわけです。

しかし 戦争継続。最後まで戦う! 
という想いをもっていた 青年将校たちがいたわけです。

決起するにあたり
私たちが クーデターを起こして 
最後まで 戦争を遂行するんだ と言って
クーデター計画を 陸軍大臣に見せます。

そこで だめだっ と言ってしまったら 
殺されたしまうと大変ので

そうか そうか 
と 
お前らの気持ちはよくわかる よくできた計画だ と。
でも
まだ 動いてはいけない。君たちの気持ちは 私が伝えてくるから と
阿南陸軍大臣は 閣議に行きます。

阿南陸軍大臣は 
昭和天皇の お付き武官をしていた経験があるし



そして
鈴木貫太郎総理とも 仲がいいんです。

鈴木総理も 侍従長を経験していましたし 



昭和天皇の若かりしころ
昭和天皇の 海軍のお付き武官もしていました。

同じような時期に 
阿南惟幾も 陸軍のお付き武官をしていました。

昭和天皇はいつも あなん あなん  と呼んでいた。
昭和天皇の 信任も厚いわけです。

何とかここで チャンスをとらえて
終戦にもっていこうとしている事も わかっているわけです。
でも
ここで ポツダム宣言受諾に賛成 
なんて一言でも もらしたら殺されてしまいますから。

実際に 決起に 乗らなかった将校たちが
次々に殺されています。
和平派は 片っ端から殺す覚悟ですからね。



もし 8月14日の時点で 阿南陸軍大臣が殺されていたら 
どうなったか。

今と違って戦前は 1人でも大臣が欠けたら 
内閣総辞職 です。

ポツダム宣言を 
受諾を決定して これから 外交手続きも経て 
終戦手続きを 始めなければいけない
その矢先 8月14日に 内閣総辞職になったら どうします?

じゃあそこから
重臣会議を開いて 
誰を総理大臣にして それから 組閣ですよ。
その時に 
和平派の 陸軍大臣を決められると思います?
組閣前に 倒閣できちゃうんです。

誰が大臣に立てるのか 
陸軍省から大臣を出す 出さない そんなこと 
4日も 5日もやってたら
せっかく 
昭和天皇が 2回目の 御聖断を下した にもかかわらず 
戦争を終わらすチャンスを
見す見す 逃してしまう事になります。

だから
阿南陸軍大臣が ここで殺されるわけには いかないんです。
辞表を出して 辞任になり 内閣総辞職も しなかったんです。

そのためには
どうしたらいいか って言ったら 
阿南陸相は 和平派である という事を
ひた隠しにするんですよ。

わかる。
でも 今は動くな。と 抑えて 抑えて 抑えるんです。
そして 
主戦派らしく ポツダム宣言受諾は 
断固として 反対であるぅ! と 演じ切るわけです。

閣議の 途中の休憩の時も 
阿南陸軍大臣は 陸軍に電話をするんですよ。

今 これこれこうで 俺は こう言ってやった。
君たちの気持ちはわかるから まだ動くな。
と 
盗聴しているかもしれないので 強行路線を演じ切るわけです。

一度 散会して 陸軍省に戻るんです。
実際は
ポツダム宣言受諾に向けて もう 微調整の段階でしたが

その時も 
大臣どうでしたか?!
何とか阻止してみせるぞ! と 部下をなだめ 

決起を 先延ばしにしようとするんです。



重要なのは ポツダム宣言受諾の詔です。

耐え難きを耐え 忍び難きを忍び  

有名な玉音放送の元は 詔(みことのり)です。

政府が起案します
御名御璽(ぎょめいぎょじ)といって 
昭和天皇の 裕仁(ひろひと) という署名が入ります。

そして 
天皇御璽 という 天皇の実印が 押されるんです。
あと 
全閣僚の署名が必要です。

鈴木貫太郎総理大臣 以下 
全 国務大臣の 署名が揃わなくてはだめです。
1人でも署名が欠けたら 詔 にならないんです。
なので

阿南惟幾が 殺されちゃ まずいんです。

阿南陸軍大臣は 
昭和天皇のお言葉が出た 詔(みことのり) に署名してあるので 
根っからの主戦派 ではありません。



でも実際 
阿南陸軍大臣を 殺そうが 殺さまいが 
間もなく 8月15日 未明 
阿南陸軍大臣は 自決します。

映画の中でも 阿南の切ないセリフが 
いっぱいあるんですけれども

とんだ 貧乏くじを引いたものだ 

最後 自決するんです。

阿南だから クーデターを起こす連中も 信用してついてきましたよ。
何で最後 
陸軍が めちゃくちゃになるような クーデターが起きなかつたかというと

阿南陸軍大臣が 自決したからですよ。

この戦争を 継続できなかった。 
責任をとって 詔書にサインした後 自決してるんですよ。

サインするまでは 死んじゃだめなんです。
生きてサインをする。

サインし終わったら 
死ぬわけですね。

生きて 和平に持ち込み
自ら 命を絶って 

陸軍の 
何で終戦なんだぁぁ と言っている気持ちを 

陸軍トップ 阿南陸軍大臣が自決する事で

何万人 へたしたら 何十万人もの クーデターになりそうなところを 
数名の 決起で抑えた。

日本の陸軍のトップが
自決することによって 

多くの陸軍の兵隊たちの 気持ちを慰めたんです。
クーデターを 後に 後に まわしつつ  
最後まで戦うぞ! という人を 

最後 自分が自決して 
見事に為し遂げ 全て丸くおさめたわけなんですよ。

今の 日本があるのも 
阿南惟幾のお蔭 と言っても過言ではないと思います。

御聖断は下った。不服の者は まず この阿南を斬れ。
阿南を斬ってからやれ! と言い放ちました。  

本当は 自決するつもりなのですが。

将校たちは 号泣して その場に倒れこみました。

しかし
実際に決起して 反乱を起こしてしまいます。



ソ連が参戦の 後だから 小さい反乱で済んだんです。
ソ連が参戦の 前だったら 
とてつもないクーデターが起きて 成功したかもしれません。

8・15事件です。 青年将校が反乱を起こします。
この場に及んで まだ起きる クーデター。



5・15事件や
2・26事件より


進んだかもしれませんね。皇居を占領しましたので。

和平を求める難しさです。

戦争を始めるのは 簡単でも 
終わらせるのは 難しい という事なんですね。

終戦の日 未明にクーデター事件がおきます。
あと一歩で成功するところまでいってるんですね。
皇居を 決起した青年将校に 軍事占領してしまったんです。



2度目の 御聖断が下ったのは 8月14日の夜ですよ。

決起の 1時間くらい前に  
夜11時半を過ぎてから 

玉音で
昭和天皇が ポツダム宣言受諾の詔を
マイクの前で読み上げ  

当時の東京放送局の人たちが 当時の 宮内省ご政務室で
レコード盤に 録音 収録をするんですね。
深夜ですよ。

2組用意するわけです。



青年将校の反乱軍は

皇居を お守りする聖英。
天皇を お守りする特別な軍隊の 近衛師団に行くんです。

皇居に乱入して 
近衛第一師団長の 森赳(たけし)を 殺してしまうんですね。

そして
反乱兵たちは 近衛師団長の ハンコを盗みだすわけなんです。
そこで彼らは 師団長命令書を 偽造して 

そこに盗んだハンコを 押すわけです。
これによって 
近衛師団の軍が 動いてしまうわけですよ。
そして皇居を 軍事占領してしまいました。

彼らは 何を焦っていたかというと 

正午 12時に
予定されていた 玉音放送を阻止して クーデターを起こし 
軍事政権をつくる。
そして 戦争を遂行。それをしようとしていたんです。

翌日
8月15日 正午12時
日本本土だけではなくて 

満州から 朝鮮から 南洋諸島に至るまで 
全地域で 玉音放送が行われることになったわけです。
重大な発表があるから 聞くようにと。 

録音された 2枚のレコード盤は

午前10時から 正午12時に 

阿南陸軍大臣の指摘で変更された 放送時間まで 
東京放送局ではなく 皇居の宮内省であずかってください となっていたお蔭で



録音を終えて帰る時 反乱兵につかまった 東京放送局人たちは 手元にレコード盤を持っていなかった。
もしそこで レコード盤を持っていたら 反乱兵に打ち砕かれて 玉音放送はありませんでした。

玉音盤を探す。宮内省の建物・事務室 片っ端から どこだぁ とひっくり返していくわけですよ。
徳川侍従が気を利かせて 皇后宮職事務室内の金庫室に隠し入ってますから わからなかったんっです。

今度は 天皇の御璽。天皇の実印を盗みだそうとするんです。
偽の詔を発行しようとしますが 御璽が見つからない。
もう 明け方が近づいてくるんです。

各省に決起を促したけども 結局 どこも応じなかったんです。

東部軍が 鎮圧に動きます。
近衛師団を抑えていって 皇居が解放されました。

反乱兵の青年将校たちは 全員 自決です。

そして
8月15日 の朝を迎え お昼12時に 玉音放送が流されるんです。



深夜0時から 明け方 6時まで 5・6時間くらいの間の出来事なんですけれども
ソ連が参戦して もうポツダム宣言受諾しかない 
と言う風になった後でも なおクーデターが起きるわけです。

何が言いたいかと言ったら ソ連参戦前に 和平 なんて口に出したら 

世論。反乱分士を 抑え込みながら確実に 終戦へ持ち込むというのが どれほど難しいか という事なんです。

一つを一つを 丁寧に丁寧に見極めながら 薄氷を踏むような想いで 
一歩間違えたら 終戦が水の泡になってしまう。

こういう緊張感の中で それぞれの役割りが しっかり果たされ 

阿南陸海軍大臣は 反乱兵たちの気持ちを なだめ なだめ なだめ
最後 
自決する事で 反乱を最小限に抑えた。

陸軍大臣として 終戦の手続きを全て終えた 阿南陸相は 鈴木貫太郎総理を訪ねました。

総理には これまで大変 ご迷惑をかけました。深くお詫び申し上げます。

鈴木総理は
あなたの事は 私が一番よく知っているつもりです。有難うございました。
と言いました。



同時期に 昭和天皇の側近として 共に仕えた2人は お互いの心をよく理解していていたのでした。
阿南惟幾は いとまごい 別れの挨拶に来たんです。

8月15日
玉音放送が流れる日の 午前5時。

官邸で 割腹し 自決しました。
誰の手も借りず 介錯もありませんでした。
絶命するまで どれほど苦しんだでしょうか。

敗戦の責任と 戦場に散った将兵たちの 無念の想いを
陸軍大臣である 自分が全て 背負っていく 気概が ありありとうかがえます。



「一死以て(もって)大罪を謝し奉る(たてまつる)」
「神州不滅を確信しつつ」

辞世の句は
「大君(おおきみ)の 深く恵に 浴し(あみし)身は 言ひ遺す(のこす)べき 片言もなし」

昭和天皇に対する忠誠心が伝わってきます。

この功績は 大きな功績ですよ。
この人が この時の陸軍大臣だったお蔭で
この人が 貧乏くじをひてくれたお蔭で

国は守られた という事です。

阿南惟幾 という人が 
身をもって終戦を実現させ 日本を滅亡から救った 偉大な軍人だったのではないでしょうか。



真岡郵便局「9人の乙女」

昭和20年8月15日
終戦したのにもかかわらず ソ連は 戦争をやめる気配がないんです。
南樺太を取りにきます。



南樺太の
真岡に 艦隊から 艦砲射撃して 上陸作戦が敢行されます。
南樺太で 一番栄えていた 豊原と
北海道からの 入り口になっている 大泊(おおどまり)。



日本は
武装解除 しているのに お構いなしに攻めてきます。

南樺太の人も 玉音放送を聞いたんですよ。ラジオから流れる 昭和天皇の お言葉を聞いて
あぁ これで 戦争が終わった と思ったんですよ。

お互い 攻めないようにしようね と
日ソ中立条約 を結んでいたので 
日本は ソ連 を攻める なんて考えていませんし

そもそも
ソ連が攻めてくる なんて 考えてないわけなんですよ。

8月15日の終戦の後 
8月20日 南樺太の真岡を ソ連が上陸してきた時の

真岡郵便局に務める 電話交換手 9人が 青酸カリを飲んで 命を絶った おぞましい 悲しい出来事があります。

当時は 真岡郵便電信局 といって かつては郵便と 電話と まとめて郵便局が担当していました。
電話は 今は番号を押せば 交換業務は 全自動でやってますから すぐ相手につながりますが
昔は 受話器をあげると 郵便局の交換台につながるんです。
「はい 交換です」 
「すいません。何丁目の ○○さんにつないで下さい」
「はい。わかりました」
って言って 人間が コードを抜いたり 刺したりして つないでたんですね。



ソ連は 南樺太 50°線で戦闘が起きていて
真岡も豊原も おそらく これから占領されるって わかっているわけですよ。

これは 社会インフラですから 占領される その瞬間まで 電話交換業務は行わなければならないんです。

これから 占領されるという状況で 
家族の安否 とか どこに集まるとか 緊急の電話を みんな電話するんです。
郵便局が 止まってしまったら 電話が通じなくなってしまうんです。

戦争中だろうが 戦闘中だろうが 占領をうける瞬間だろうが 電話交換業務は 続けなければいけないんですね。

そこでどうしたかと言ったら
8月16日 誰か残ってくれるかと 残留者を募ります。

みんな 北海道に 引き上げる事が決まっていて 引き上げが始まって いるんです。
でも 電話交換業務はやめるわけにはいかない。

間もなく ソ連軍が入ってきますよ。 誰が残るのか。
すると 真岡郵便局。私残ります!って ほぼ全員 だいたい 18歳から 22・3歳くらいの 女の子たちですよ。

ところが 
気持ちはわかるけれども 家族の事情があるはずだから 今日はいい。
本当に残るのか ご家族と相談をしてこい。 また明日聞くから と 一度帰ってもらいました。

そして 残留組が 20人 決定しました。

10人 10人で チームを組んで 12時間 2交代制 非常事態勤務体制の 決死隊 が組まれました。

ソ連軍は
8月20日 未明の明け方 霧の中 急に真岡に対して 艦砲射撃をします。
そして 上陸作戦が始まります。



この日の前の夜から夜勤で 電話交換をしていた 次の日の未明に
バーン! ドーン! と砲撃され 阿鼻叫喚 です。
一斉に 電話交換業務が 忙しくなるわけですよ。どんどん電話が鳴るわけですね。
「はい 交換」 と言って つないで 「はい お話ください」って 未明から フル稼働になるわけです。
今だったら ライン とかありますが 電話が 早朝未明に一斉に鳴りやまないで 
それを どんどんどんどん 女の子たちは つないでいくわけですよ。

そのために 残ってるんです。
戦闘状態になった時に 業務を 遂行するために 女の子たちが残っているわけです。

しかし ついに真岡郵便局が 被弾します。
真岡郵便局も 艦砲射撃をうけてしまう距離。海からそんなに遠くないんですね。

大変だ! と言って駆けつける 非番の局員や 女の子たちもいたんです。
でも 実際に 実弾が飛び交う中で 駆けつけようとして 殺された人もいるんですよ。

駆けつけようと 上田さん という郵便局長は ソ連軍に逮捕されています。

そして 12人で 鳴りやまない電話交換業務を 遂行していきます。

最後 いよいよ ソ連軍が占領に来ます。
占領をされる という事は  
占領地の女性は 全員とは限りませんが 片っ端からレイプされる というのが実状です。

なので いざ という時のために 護身用として 
みんな 青酸カリを ポケットの中に入れていたんですね。

ギリギリまで 業務を遂行し 最後 青酸カリを飲んで 果てる。

生きていると 乱暴されたり 恥ずかしめの果て 殺されたりとかという 恐怖心の中で 
せめて 最後は 綺麗なまま 死にたい という事で 
青酸カリを飲んだ 女性がいたわけなんです。

真岡が ピンポイントで 艦砲射撃を受けて 上陸をされていて
他の場所は まだでしたので
真岡郵便局から 今 こういう状況です! と連絡をしていました。

12名の乙女の中の 渡辺照(てる)さん が
真岡の北に 泊居(とまりおる)という街がありまして 最後の やり取りを 泊居郵便局と しています。

泊居郵便局長に
これから 全員で自決します と伝えるんですね。

局長は 死んだらだめよ! 叫び続けましたが

交換台 に 弾丸が飛んできます とか  誰々さんは もう飲んじゃいました とか 死んでしまいました とか

もう どうにもなりません。 皆さん 長らくお世話になりました。さようなら。さようなら。

という 別れの言葉を最後に 一切交信が途絶えてしまいました。



ほぼ時を同じくして 豊原郵便局も 真岡郵便局から連絡を受けています。
青酸カリを飲まないで 逃げなさい!早く! と伝えましたが
しかし 
真岡局の交換ランプは消えて 二度とつく事はありませんでした。

その結果 12名いた内の 10名が 青酸カリを飲みました。
1人 服毒量が少なくて 助かった人が生還したんですけども 9人 が亡くなりました。

その後 真岡郵便局長は 逮捕されていましたが 何とか釈放されて
自決した話しが回ってますから 自分の部下たちの遺体を 引き取りにいかなくてはならない という事で
真岡郵便局に行くわけです。

その時の 手記が残っています。

8月20日。班長さんで 高石さん という方は 班長席に うつぶせた形で 絶命していたらしんです。
この日の早朝から たくさんの電話交換をしていた その交換書。記録の綴りが 業務日誌と一緒に ぴしっと束ねられていて

交換台のプラグを 握ったまま うつぶせになって絶命していた人
交換台の前で コードを握ったまま 倒れこんでいた人
耳に着ける ブレストを付けたまま 全員倒れていた という事です。 

最後の最後まで 電話の呼び出しに 交換台から離れずに
業務を遂行していた様子がわかったそうです。

局長の上田さんは 最後まで 職務に対する責任感を見た と思いを書き記しています。


地上戦が行われた 沖縄で
沖縄陸軍病院や 防空壕での 負傷兵の治療 排泄物の処理 死体処理などの任務で
最後は 米軍から 防空壕に ガス弾が撃ち込まれ 多くの学徒が死亡。自決。
という 



若い女性が 命を絶った ひめゆり学徒隊 の悲劇もあります。

北海道に 引き上げなさい と言われていたけども 決死隊 として残った女の子たちがいて
最後の最後まで 職務を遂行して果てる。
17歳から 24歳の 20歳前後の 若い子たちです。

普通の郵便局員です。
軍人ではありませんが 靖国神社に祀られています。

その他 真岡郵便局の殉職者は 全部で 19人です。

8月25日 豊原占領。
ここは 病院ですよ! と 白旗を上げているのにも関わらず
それでも ソ連軍は 空爆をしました。

8月28日から 9月1日 北方領土 占領 ですよ。

8月15日の終戦。日本は武装解除してるんです。
それなのに その後 民間人 3700人 が死亡しています。


昭和43年
昭和天皇と 香淳皇后が 稚内にいらっしゃいました。

晴れていると 稚内から 樺太が見えるんですよ。
そこで 
9人の乙女たちの事を聞き 悲しみ 涙を流し 和歌をお詠みになりました。

昭和天皇の御製は
樺太に 命をすてし たおやめ(乙女)の
心を思へば むねせまりくる

香淳皇后の御歌は
樺太に つゆと消えたる 乙女らの
みたまやすかれと たゞいのりぬる





東日本大震災の時に 天使の声が 最後まで響いていた と言われますが

南三陸町の町役場の 防災課に勤めていた 遠藤未希さん という女性の方。
結婚が決まっていた という若い女性ですけれども
最後の最後まで

津波が来襲しています 早く逃げてください!
高台に 逃げてください!

時々刻々と変化する内容に合わせて 何メートルの津波 6m 8m 10m と伝え
始めは 津波が来ています から 津波が来襲しています と危機感をあおる風に 工夫しながら
住民に避難を呼びかけました。

そして 南三陸町を襲った 津波は 10m以上ですよ。
南三陸町の 町役場の鉄骨だけ残って 全部流されてしまいました。



そこに防災課があって そこで遠藤さんは マイクをずっと持っていたわけですよね。
そこに
巨大津波が どぉーん! と南三陸町の町役場にぶつかる瞬間まで
遠藤未希さんの 避難を呼びかける声が 町中に鳴り響いていたわけです。

その直前 屋上に逃げようという 上司の指示があったんですけれども
屋上の高さより さらに 2m高い 津波が来ているんです。

アンテナの 上の方にしがみついていた ほんのわずかな人は 生き延びましたが
それ以外の 屋上に逃れた 職員たちの ほとんどが流されてしまいました。

結局 遠藤未希さんも 亡くなってしまいました。

恐怖心もあったでしょう。
でも
最後の最後まで 住民に避難を呼びかけ続けた その遠藤さんの 職務に対する 姿。
まさに
艦砲射撃をうけて 交換台に銃弾が刺さってくる 最後の 最後まで
職務を遂行する 

9人の乙女たち とかぶるものがありました。

戦前は お国のために 死ぬ なんていうのを 良しとした。
だから この子たちは 洗脳されて そういう生き方をしたんだって まとめるのは 簡単ですけれども

じゃあなぜ この現代において 20代そこそこの 若い女性が
最後の最後まで
職務を全うしようとしたのか。

戦前だから 洗脳されていたわけじゃないんですね。

日本人として 人々の 命に係わる仕事。 責任感のある仕事を 
危険を承知で 最後まで全うする という意気込みが

戦前の女性にもありましたし 

戦後だって
これだけ 自由な世の中だってね 
危険を承知で 最後まで職務を全うした 責任感のある方が いらしたという事なんです。

賠償金よこせとか 娘を返せ とか 管理体制はどうなってたんだ とか 文句はいくらでも言えますが

最後まで 住民の命を守ろうと 必死になって職務を続けた 娘の事を 
誇りに思う 
と言うコメントを ご両親がなさってらっしゃいました。



ウズベキスタンへ抑留・ナヴオイ劇場

ウズベキスタン は中央アジアにある国です。
しかし 当時は ソ連の一部だったんです。 ソ連邦の崩壊でできた 1つの国が ウズベキスタン なんです。



シベリア 57万人 抑留 の時に 
ウズベキスタンに 抑留されていった人たちもいるんです。
ウズベキスタンには 2万3000人。 ウズベキスタンは シベリアほど寒くないので 致命率が低いんですけども
そのうち 884人が死んでるんですね。

ソ連 4大劇場のうちの1つ。 ナボイ劇場。



これは 日本人の抑留者が つくったというんですよ。
いきなり 2万3000人の 日本人が送られてきて 働くわけで ウズベキスタンで話題になるんです。

日本人 働き者だねぇ って事になるわけです。

他に どういう人が働き来たかというと

日独伊 です。 ところが 
日本人と ドイツ人・イタリア人の働き具合とが 全然違うんです。
日本人は 黙々と働いていて 他の国の人は 怠けてばかりいたらしいんですね。
日本人の 働く という姿勢が 明らかに違うんです。

強制労働。抑留ですよ。奴隷みたいなものです。
時間になって ぱぁ~っと みんな帰るのに
日本人は いや まだここだけ やらせて下さい なんて 強制労働なのに サービス残業してるんですよ?

その 日本人の姿を見て ウズベキスタンの人は 大感動したらしいんですね。
そして
日本人は 模範 だと。 
日本人は 働き者。手抜きしない。
日本人は 信頼できる。嘘をつかない。

日本人のように なりなさい という事になって
日本人のように なりたい という風になっちゃったんですって。

当時 大人たちは いいか あの日本人のような 立派な大人になれ と
子どもたちを教育するようになった という事なんです。
そういう人から教わった子たちが 今のウズベキスタンの 若者たちの親です。

強制労働なのに 
みんなで智恵を出し合って どうしたら もっといいものができるだろう と工夫して 話し合って
必死に 仕事をしているのが伝わってくるらしいんです。

ウズベキスタンの首都 タシケント という 第4収容所に 収容された 約457人が ナボイ劇場の建設にあたりました。
隊長を務めたのが 永田行夫さん という方です。
この方が リーダーとなって もともと建設途中だったものを 内装とか 外装を完成させました。

奴隷のような扱いで  
ノルマ達成ができなければ 食事の量を減らす という仕打ちがあります。
食事の量の違いを 分け合って 一緒に頑張ろう としていたのを 見つけられて
呼び出された 永田さんは 

ソ連では 働いて自分がもらったもの。個人の所有は認められていますよね。
その 個人の所有物を 自由に処分するのも ソ連で認められた 自由ですよね?
私たちは
自分が 多くいただいた食べ物を 分け与えてるんだから これは認められるんじゃないですか?

私たち日本人は 
働いた量が少なくて 食事の量が少なくなった人に
ノルマを働いて 食事の量もきちんといただいた人は 個人の所有物をとして 少ない人に分け与える
という事を 毎日やるから
初めから みんな 食事の量は同じに してくれ。
そうしたら そちらの手間も省けるでしょう。
って言って 

毎日 みんなが同じ量の食事にしてもらった という事です。

また 
言われた仕事だけやって 十分だ と普通は思うのですが

彼らは どういう風にしたら もっといいものになるか 
457人の中には 軍人とはいえ 
手に職があるとか 建築士とか 工事現場監督みたいな人など 専門的知識を持っている者が 知識を出し合い
地震国から来ている 日本人なので 耐震構造にも そうとう力を入れたらしいんです。

昭和22年に ナボイ劇場が完成します。
日本人 チームとして 力を合わせて つくった ナボイ劇場を見て
ウズベキスタンの人は 感動をして 
仕上げも丁寧だし 日本人の ものづくり やっぱすごいね! って事になったそうです。



しかし
昭和41年に 大地震が起きるんです。
ウズベキスタンは 見渡す限りのがれきの山で とてつもない状態になり
首都のタシケントは 普段は地震がないところで 起きたものですから ほとんどの建物は倒壊しました。

大きな建物で 残ったのは ナボイ劇場だけなんですよ。
そして
ここを 避難所として使ったんです。
それを見た ウズベキスタンの人たちは さらに感動して

日本人の建てた建物だけが 残っている。
ただ がんばり屋さん というだけではなく 
知識・経験を集めて いいものづくりを してくれたんだ。 日本人は すごい! となったんです。

平成8年 にソ連が崩壊して ウズベキスタンは 独立国になりました。
この時まで ナボイ劇場には 
日本人捕虜 がつくりました という プレートがあったらしいんですけれども

プレートが書き換えられ 表現が 改められました。

極東から 強制輸送された 数百名の 日本国人が このナボイ劇場の建設に参加し その完成に貢献した

という言い方になりました。



当時
永田さんの下で 働いていた方で

感電したり 死んだ仲間もいたが みんな必死になって仕事をした。
ソ連 4大劇場として 今も使われている。
今 捕虜だった人たちが ナボイ劇場に招かれて 音楽会に参加したりという 交流があり
日本と ウズベキスタンの友好の劇場 として大切にされている という事は 嬉しい。
そういう 歴史的な建物に 携わることができて 自分は幸せだ というような主旨の事を おっしゃっています。

仕事に対する考え方。ものづくりに対する考え方。
今の 日本人も しっかりと 受け継いで いかなきゃいけない事だと思います。



パラオ・ペリリュー戦い 中川邦男 中将

パラオは 日本の真南に 3200km離れた 南洋の島国です。
パラオ諸島は 16世紀の 西欧列強の 大航海時代に スペインの植民地となりました。

その後 スペインから パラオ諸島を買い取ったのは ドイツでした。
今度は ドイツの植民地になってしまいました。

ヨーロッパで起きた戦争ですが 日本は参戦して 戦勝国になります。

第一次世界大戦の結果で 日本が勝手に パラオ諸島を取ったわけではなくて
ドイツが植民地 として持っていたもの それを放棄させられたものを 

南洋諸島周辺の 常任理事国は 日本しかないでしょ
という事で 
国際連盟からの 委任統治することになっただけなんです。

南洋諸島の広大な面積。
国際連盟から 委任される形で そのまま日本が統治することになりました。

マリアナ諸島から
サイパン島 テニアン島 パラオ諸島 マーシャル諸島 ビキニ。
全部 日本だったですよ。



パラオにあるコロール島 という島に 南洋町 という 南洋諸島を統治する 行政府が置かれます。紙幣も発行しました。



パラオの 先住民の人口は 約6000人。
スペイン統治前の 1/10 になっていたと言います。

日本は 稲作や野菜 果物 の栽培を伝えました。
缶詰や ビールの工場の建設したり
道路をつくり 橋を架け 電話をひき 学校 病院 など インフラ整備をしました。



しかし 日本は 遥か大きな素晴らしいものを パラオに残しました。


昭和16年 
に 連合軍と 日本との 大東亜戦争が始まりました。

日本は 翌年 パラオ南部の ペリリュー島に 飛行場をつくりました。
1200m の滑走路2本 もつくりました。



日本にとって パラオ が太平洋防衛上の 重要な拠点だったからです。

アメリカは フィリピン奪回と マリアナ諸島をとりたい。
なぜならば

東京大空襲をした 長距離爆撃機 B29は マリアナ諸島から 飛び立ってるんですね。
広島・長崎に 原爆を落としたのも サイパンのすぐ脇にある テニアン島 という小さい島から 飛び立ってるんですね。

たくさん爆弾を積める 長距離爆撃機 B29 というのは 30mある 大きな飛行機で 



滑走距離が長い 陸上の基地のじゃないと 離陸できません。

航空母艦から 離陸できないんです。長い地上の 滑走路が必要なんです。
航空母艦から 離陸するできるのは 小さな飛行機だけです。 
なので
大きな飛行機の
B29 を離陸させる場所が マリアナ諸島 なんです。

という事は 日本が マリアナ諸島を 死守できたら
東京大空襲はありません。
東京大空襲をした 長距離爆撃機 B29は マリアナ諸島から 飛び立ってるんですね。

広島・長崎に 原爆を落としたのも サイパンのすぐ脇にある テニアン島 という小さい島から 飛び立ってるんですね。
日本が マリアナ諸島を 死守できたら
広島・長崎に 原爆を落とす事もできませんでした。

日本中 焼かれるという事は なかったんです。
なので
マリアナ諸島が落ちたら 日本は終わりなんです。

それがわかっていたので 何としても マリアナ諸島を 死守。
ペリリュー島を 防衛しなければ なりませんでした。

ペリリュー島の 守備隊長は

中川邦夫中将です。任期当時は大尉です。



中川中将は 熊本出身です。
日頃から 物静かで 笑顔の素敵な隊長でした。

中川中将が パラオ・ペリリュー島に赴任してきたのは
昭和18年。
6月。

今度は どこの任地に?
という
奥様の問いに

永劫演習さ

と答えています。 永劫演習 とは生きて帰還が望めない 戦場 という意味です。

昭和19年。
9月。
太平洋艦隊 司令長官チェスター・ニミッツ提督の指揮の下
アメリカ軍は パラオ・ペリリュー島を攻めに着ました。

当時
ペリリュー島には 899名の 島民がいました。

ペリリュー島の人たちは 差別することなく接してくれた 日本人と共に仲良く生活をし 
一緒に パラオの歌や 日本の歌を歌ったりする ようにもなっていました。

パラオが 植民地されていた時とりも 平和で 豊かにになった事を とても喜んでいました。



そんな時の アメリカ軍のパラオ攻略でしたので
パラオの村人たちは 集まって 

日本の兵隊さんたちは 人数が少ない。
自分たちも きっと役に立てるはず。
自分たちも一緒に戦おう と みんなで話し合いをした結果を

温厚な 中川隊長なら聞いてくれる と思い 訪ねていく事にしました。 

この考えは パラオの村人みんなの 総意である事であり
私たちも 一緒に戦わせてください! と
中川中将に 強く申し出たのでした。

中川中将は 彼らの目をじっと見つめながら 真剣に そして黙って聞いていました。 
パラオの人たちの話が終わった後の 沈黙の中

突然 驚くような大声をあげました。

帝国軍人が 貴様ら 土人 と一緒に戦えるかぁぁぁ!



村人は一瞬 何を言われたのかわからない感じで 耳を疑いました。
自分たちの事を 土人 と言った?

みんな呆然として
そこから出た 帰り道 みんなショックで 泣きました。

一緒に戦うという事を 断られたからではありません。
怒りではなく

あんなに仲良くしていたのに あんな言葉を言われて

植民地にされていた 国の人たちとは 日本人は違っていた。
同じ人間だ。同じ仲間だ。対等だ。
と 励ましてくれ 信頼していたのに 

あれは見せかけだったのか

集会所で 待っていた村人に報告をして みんな ただただ 失望の想いで 悲しくて泣いてしまいました。

それから何日かして 
ペリリュー島の人たちは パラオ本島に 強制的に 移住をするように と
日本人が用意した船で 
砲撃に あわないよう 日没時を選んで 島民たち全員を 移動させました。 



港には 誰も日本人の見送りは いません。
島を去らなければいけない事も 悲しかったけれども

それ以上に
仲間 だと思っていた 日本人に裏切られた事が 悲しかったのです。

汽笛が ぼぉぉぉ~ と鳴り 
船が ゆっくりと 岸辺を離れ始めました。

すると 次の瞬間です。
ペリリュー島に残る 日本兵の全員が ジャングルの中から 浜に走り出てきました。 

そして
住民たちと 一緒に歌った 日本の歌を大声で歌いながら
ちぎれるほど 手をふって 見送っているではありませんか。






ともに過ごしてきた 兵隊さんの 顔 顔 顔・・・。
日に焼けた 日本人の兵隊さんたち ひとりひとりの姿が見えました。

何と 先頭には 笑顔で手をふる 中川隊長 の姿。



その時 船上の住民たちは 全てを理解しました。

我々島民を 戦火に巻き込むまい としたのだ。
日本の 兵隊さんたちは 我々の命を 助けるために 
心を 鬼にして あえて あんな態度をとったのだ。

遠く岸辺に見える 日本兵に向かって 
住民たちも 涙でかすむ目を 必死にあけて ちぎれんばかりに 手をふり続けました。

その時の 日本の兵隊さんたちの 笑顔 は
戦後何年経っても ペリリュー島の人たちのまぶたに ずっと焼き付いたままだったそうです。

昭和19年。
1944年。9月12日。
ペリリュー島の戦いが始まりました。



日本軍 1万人。 対  米軍 4万8000人。

米軍の持つ 火力は 日本軍の数百倍です。
猛烈な 爆撃と 沖合からの 艦砲射撃を 日本軍に浴びせます。

その 砲撃は 何と 17万発。 
これは 1人の日本兵を倒すのに 1589発 の砲弾を使用した計算になるそうです。

ジャングルは 完全に焼き払われました。

9月15日。
3日で 占領する と言った米軍の海兵隊が 2万8000人 上陸をしてきました。

対する 日本軍は

実は
地下深く掘った 壕 の中で 米軍の上陸を 待ち構えていたのです。



1人用の 壕。タコツボ を無数に掘り
自由に行き来できるよう トンネルでつなぎ 地下壕や 洞窟は 何と 500か所以上ありました。

米軍が上陸して来た 水際の戦闘は 壮絶でした。
上陸を じっと穴のなかで 時を待っていた 日本軍が 反撃を開始始めたのです。



この戦闘で 島の海岸が アメリカ兵の血で赤く染まりました。
今でも この海岸は オレンジビーチ と言われています。

10月30日。
アメリカ軍 第一海兵師団が 全滅しました。
この時の 米海兵隊の司令官は この惨状への疲労から 心臓病を発病した とも言います。
将官が 倒れるほどまでに すざまじい戦いだったのです。
主力部隊の損失率が 4~6割を超え 戦闘能力損失で 米軍の差し替えが続きます。



3日で落ちる と言われた ペリリュー島の占領は 70日 も続く激戦になりました。

しかし
その間 日本軍には 補給が一切ありません。食料も水も無いのです。
夜 せめて怪我をした仲間のためにと 泉に水を汲みに行けば 
待ち構えていた アメリカ軍の猛火に遭いました。

水場の近くは 日本兵の死体が 重なりあっていました。

徐々に劣勢に陥っていきました。
アメリカ軍の 火炎放射器と 手榴弾によって 日本軍の洞窟陣地は 次々と陥落していきました。



11月24日。
弾薬も底をついた日本軍は ついに 玉砕を決定します。

軍旗を奉焼し 
残存兵力 わずか 55名 による 
最後の総攻撃に際して ペリリュー島から 日本本土に向けて 電文が送られました。

その言葉は 「サクラ サクラ」。

ペリリュー島守備隊全員が 桜花の如く 散った事を 遠い本国に知らせたのでした。



中川州男隊長
村井権治郎少佐
飯田義栄中佐 

の 3名は 割腹自決を遂げました。



そして
残る将兵は 翌朝にかけて 最後の突撃攻撃を 敢行しました。

こうして
11月27日。
ペリリュー島は ついに陥落しました。

アメリカ軍の上陸開始から 2か月半 が経過していました。

アメリカ軍の司令官 ニミッツ提督は 命を捧げて 愛する祖国を 守ろうとした 日本兵に
強く心を打たれ 

この島を訪れる もろもろの国の旅人たちよ
故郷に帰ったら伝えてくれよ
日本軍人が 全員玉砕して 果てた
この 壮絶極まる 勇気と 祖国を想う 心根を。

と ペリリュー島守備隊の 勇敢を讃えて このような詩をつくっています。

ペリリュー島の戦いで
日本軍 戦死者 1万695名。

米軍   死傷者 1万786名。  戦死者 2336名。 負傷者 8450名。

そして
島の住民は 死者 負傷者 0名。



中川隊長の 異例な奮闘に対して
昭和天皇は
11回の 嘉賞と 3度の感謝状を与えられています。

中川州男中将 享年 47歳でした。

戦闘が終わった後 アメリカ軍は 米兵の遺体を 埋葬しても
日本兵の遺体は 放置されたままでした。

戦闘終結から しばらく経って
島民たちが 島に戻ってきました。

彼らは 島中に散らばる 日本兵の遺体を 一つ一つ きれいに片付け 埋葬してくれました。



ペリリュー島の戦いは 住民に 1人の犠牲者も出さなかった事で知られています。

終戦後パラオは アメリカに統治されました。
しかし
島民たちへの 教育かおろか 島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは パラオ本島と一緒になり 独立運動を開始しました。
そして

ようやく 戦争から 36年目 の
昭和56年。
パラオは 自治政府の パラオ共和国 となりました。

その パラオが アメリカの信託統治を外れて 名実ともに 独立国となったのは
なんと
平成6年。
1994年。 の事です。

パラオ国民の間から デザインを一般公募した結果 全会一致で採用になったのですが

独立した パラオ共和国の国旗は



周囲の 青 は太平洋。
真ん中の 黄色い円は 月 を表します。 月は 太陽が出ないと輝くことができません。
つまり 月は 太陽によって 支えられ 月としての生命を持ちます。

そして パラオの 国旗の満月は
日本の旗 とは違って 中心から少し ずれています。

中心だと 日本に失礼だから とわざと 中心を外したのだそうです。

パラオの人たちの 慎み深い態度に 畏れ入る感じです。

太陽は 日本国です。
日の元つ国 です。



戦争中に 日の丸を抱えて 使命を背負って 
強力な 米兵と 交戦した 日本軍将兵の 勇敢さと 純粋さに 大いなる魅力と 尊敬を捧げているのです。

このような 史実を 日本人は あまり知らないのです。
この時の
日本兵がとった行動を 我が身に振り替えて 考えてもらえrばと 思ううのです。



硫黄島の戦い 栗林忠道 中将

戦後の学校教育で 軍人を取り上げる授業は 意図的に避けられてきました。
かなり前に
日露戦争の日本海海戦に 勝利を導いた 東郷平八郎元帥が 教科書に登場した時は 大騒ぎでした。
軍国賛美 なのだそうです。

2006年の アメリカの監督映画で  硫黄島の戦い も認知されてくるようになりました。
アメリカ人なら 誰もが知っている バトル・オブ・イオウジマ。
ちなみに
イオウジマ は アメリカ側の 呼び方で 日本の正式名は いおうとう です。

日本の対戦国 アメリカでは 
学校は 勿論の事 
国立アーリントン墓地に イオウジマ・メモリアル と称される 
25mの 巨大ブロンズ像を建てて 国が顕彰しています。



アメリカで 優れた軍人 のアンケートをとると 
ベストテン以内に 栗林中将 の名があるといいます。



先の大戦。 大東亜戦争(太平洋戦争)の末期
日本は アメリカ軍に 追い詰められ 苦戦を続けていました。

アメリアは グアム・サイパンを取れば 日本中 空爆できます。
でも
B29 とて 怯えながら空爆してるんです。
日本に近づいたら いっぱい戦闘機が飛んできて 攻撃をうけちゃいますよ。
下から 高射砲で ダンダン撃たれたら B29だって くらっつてしまいます。
護衛機を付けて 一緒に飛び立っても 護衛機は 燃料が尽きて 帰ってこないといけない。

そこで 硫黄島なんです。
日本と グアム・サイパンの ちょうど間くらいに位置しているのが 硫黄島 なんです。



なので 日本は硫黄島を死守しようとしたわけです。 2万3000人くらい 硫黄島に投入してるんですけども

米軍は ここが 欲しかったんです。
ここを抑えて 突貫工事で一気に滑走路をつくって 航空基地を整備すれば 

B29の 護衛機 を飛ばせるんですよ。

B29は サイパンから来ますよね。
そして 硫黄島に差し掛かったら 護衛機を上げて
B29を いっぱいの護衛機が 護衛しながら飛んで行って 
護衛機に 護衛されながら 爆撃できるわけですよ。
周りの戦闘機が 蹴散らしますから B29は 空爆に専念できます。

だから
本格的な爆撃は 硫黄島を落としてからです。
飛行場・滑走路がある 硫黄島は アメリアは絶対手に入れたい場所だったんです。

裏を返せば
硫黄島が 日本本土防衛にとって 大変重要な拠点であり
日本が 絶対に譲れない島でした。

硫黄島は 硫黄ガスが吹き出し 地熱のため地中は 50℃~6お℃もあります。
地形は 169mの 摺鉢山(すりばちやま) があるだけで 島全体は平坦です。



兵士にとっての 悩みは 真水 が手に入らない事でした。
川は無く 井戸を掘っても 硫黄臭い水しか出ません。
雨水を溜めて確保しますが 
雨はめったに降らず ボウフラがわいた雨水は 飲むと下痢をします。

燃えるような 乾きと 激しい下痢と 高熱と
硫黄ガスと 高温と 睡眠をとる事もできなかった と言います。

この 硫黄島を守るために 派遣されたのが

栗林忠道中将 を司令官とする 約2万1000名の将兵です。

栗林中将は
明治24年。
1891年 長野県の 松代町に生まれました。

陸軍大学を出て アメリカに留学。
陸軍きっての アメリカ通 と言われた 栗林中将は 米国の 巨大な工業力を知り尽くしていました。

硫黄島に派遣された 当時は
病弱な妻と 3人の子どもと 東京世田谷に住居を構えていました。
硫黄島から 東京の家族に 41通もの手紙をだす 家族想いの父親でした。

硫黄島の日本軍は そのほとんどが それまで一般市民として 生活をしてきた 兵隊さんでした。



しかも
物資に窮乏し 米軍に比べて著しく 兵器と 弾薬が欠乏していました。

兵の数  日本軍 2万1152名   米軍 6万1000名
大砲         23門            168門
戦車         1個連隊          3個連隊
戦艦砲        0              14250t
航空力       75機             4000機以上

栗林中将は
米軍と まともに戦ったら 殲滅(せんめつ)。皆殺しにされるのが 明らかなので
今までの 水際撃退作戦 から 方針を変え

硫黄島 全島に
地下 10mから 20mに 穴。壕を掘って 続げて 洞窟陣地をつくり



米軍が 硫黄島に上陸して来て 空からも爆撃されていて。
その間は 
この 地下の陣地にこもって しのぎ

米軍を 上陸させてしまったら
そこで
地下から飛び出して 神出鬼没の ゲリラ戦に挑む という作戦でした。

圧倒的に戦力が優位の 米国に対し 持久戦 に持ち込む決意でした。

しかし 
日本本土からの 硫黄島への輸送船が 次々に沈められ
洞窟掘り工事に必要な セメントなど 物資が不足し

洞窟の中は 硫黄ガスと 高温で 作業は 5分ともたず
交代で作業して 1日 1mを掘り進むのがやっとでした。

水は 1日 4人に 水筒 1個分しか支給されません。

栗林中将は 自分も みんなと一緒に 食事と 水の特別扱いを許さず
硫黄島 全島を回って 陣頭指揮を執りました。

敢闘の誓い と 栗林中将がつくった 
6つの誓いを 兵のみんなで 口々にして 苦しい作業を進めました。
こうして
総延長 18Km に及ぶ 地下壕が掘られ 
摺鉢山内部にも 6Kmの 蜘蛛の巣状の 地下陣地が はりめぐらされました。



まだ 工事の途中でしたが 決戦の時が来ました。

昭和20年。
2月16日。午前8時。
ついに アメリカの 大艦隊が現れました。



米国は 5日間で 硫黄島を占領する計画でした。 

おびただしい数の軍艦が 硫黄島を包囲し 3日間で 飛行場 800機の空爆と
戦艦による 5000t の 戦砲射撃がおこなわれ
摺鉢山の 1/4 が吹っ飛び 島は焼き尽くされました。

俺たち用の ジャップは 残っているかい?
と 沖合で見ていた米兵は 言ったそうです。



そして
艦砲と ロケット弾 9500発 を加えた後 
数万人の アメリカ兵が 続々と上陸していきました。



日本軍からの 攻撃は一切ありません。
米兵は 大半の日本兵が すでに死んだもの と思い 米兵は上陸。



3Kmの海岸は 3万人の米兵 と 無数の機材で あふれかえっています。

栗林中将は この時を待っていたのです。

突如 
日本軍が 一斉に砲撃開始。
これまでの アメリカ軍の 爆撃を 地面下で 大地震のように揺れる中

じっと 耐え 忍んでいた 日本兵の 猛反撃が炸裂しました。

正面と 左右の 3方から 
日本軍の 砲撃が集中し 米軍の戦車が 吹き飛びました。

アメリカ兵は 大混乱。大パニックです。

その日の 18時には

米兵の死傷者 2000人を超え
さらに

上陸から 
3日間で 死傷者 5000人を 突破したので 

この
状況の 報告をされた ルーズベルト大統領は 息をのみ 
これ以上の 死傷者数。 不利な状態である事は 
アメリカで 報道されなくなります。

でも このままでは大変だ という事で 
続々と また兵隊が 派遣されてくるのです。

アメリカ兵は 硫黄島では 1mごとに 戦闘があった と証言しています。

硫黄島の戦いの時 
アメリカの兵隊が 上官に送ったメッセージが残っています。

もう お願いだから 俺たちを あんな狂った島に連れていかないでくれ
って 書いてありました。

精神的に 
PDSE 
(強烈なショック体験・強い精神的ストレスが 心のダメージとなって 
時間が たっても その体験に対して 強い 恐怖を感じる)

になって 戦場復帰ができない 若者が ほとんどだったんですよ。

確かに アメリカは勝ちましたよ。
勝ちましたけど
ものすごく 怖かったみたいです。

アメリカ兵も 日本兵も 大事な未来を担う 同じ若者たちです。



硫黄島を守備した 
日本兵は 2万3000人です。

それを 取り囲んだ 
アメリアの 機動部隊は 17万人 です。

2万 対 17万 勝負にならないですよ。

これほどの 戦力差があったら アメリア側は 簡単に勝てるはずだったんです。
短期間で 無傷で勝てるはずだったんです。

しかし やはり
物量に もの言わせる 米軍は 1歩1歩 前進していき

摺鉢山(すりばちやま)の頂上に 
6人の兵士が 力を合わせて 星条旗 を立てている有名な写真。

上陸 5日目の 23日。
これが
全米の新聞のトップを飾ります。



この 星条旗 をめぐっての 秘話があります。

当時 通信兵 で 志願兵として 硫黄島 に派遣された 
秋草鶴次さんの著書 の中から

何と 
この後 山頂には 2度 日の丸 が 翻った というのです。

米軍が 星条旗を 掲げた翌日

地下 に潜んでいた 
摺鉢山(すりばちやま)守備隊の 日本兵が 



これを
引きずり降ろして 日の丸を 掲げた。

秋草さんは 
摺鉢山の頂上に へんぽんと翻る 日の丸を見て 思わず 涙が 頬を伝った。

と 書いています。

これに 気付いた 米軍は この日の丸を 火炎放射器で焼き
再び 星条旗を掲げた。

ところが
この 2度目の 星条旗も 
日本兵は 奪い取り もう1度 日の丸を掲げた。

よく見ると この日の丸は

やや 赤茶けた色の 日の丸だった。
これは

日本兵が 自らの 血をもって描いた 急造の 日の丸だったのです。

しかし
これも 引きずり下ろされ 3度目の 星条旗に 変わった。

以来
日の丸が 摺鉢山にたなびく事は ありませんでした。



15歳で 横須賀海兵団 に入り

17歳の時に 硫黄島に 通信兵で 赴任となった 秋草鶴次さんは

俺は 絶対に 死なない。生きる方法を 考えるんだ。

壕(ごう)の中で 見つからないように
咳や くしゃみは 元より 呼吸さえ普通にできない。

とにかく 何か 口に入れたい。
ドラム缶 の 重油。ガソリン。口に入れたが とうてい 飲めたものではない。
雨水を 待つしかないのか。

焼き芋の皮 に付いた 炭も食べるんだから と 
そこにあった 木炭を 食べてみた。
身体に付いた 蛆 も食べた。

米一粒 水一杯 の 貯えもない。

何とか生きていれば 誰かが迎えに来るか 助けてくれるのか。
いつ 食べたか いつ 水を飲んだか 記憶も無い。

時に 壕の中で 大きな 破裂音が響く。
また 誰かが 手榴弾 で自決したのだ。

大健闘する 日本軍ですが
補給が 一切ないために 飲まず 食わずで 弾丸にも 事欠き 
全滅が 目の前に 迫ってきました。



志願兵 として 硫黄島 に派遣され 生き延びた 
壮絶な日本の 少年兵の 気概 が伝わります。

極限状態になった 日本兵たちは いっそ死んで 楽になる という道に惹かれましたが
しかし
栗林中将は 自爆 や むやみな 突撃を禁止し 決して 玉砕 を認めませんでした。
地獄のような 過酷な 状況にある兵に 

なぜ 玉砕 を禁止したのでしょうか。
それは 
栗林中将が 妻に宛てた手紙からわかります。

絶対 勝ち目のない戦いゆえ 
最後は 玉砕 しかない事を 全ての兵士は わかっているが

一刻でも 長く 島を守る事

を 命ぜられていたのだ という事です。

ここで 
自分たちが 頑張る事によって

懐かしい 祖国日本が 少しでも長く 空爆 を受けないように。
そして

愛する 家族と 日本の勝利を信じている 国民が

1分 1秒でも 命長らえるように と願っていたのです。



1日でも長く 硫黄島を守り抜き 時間を稼げば

それだけ 本土にいる 人々が 疎開もできる。
その分 
多くの日本人の 命が救われる というのです。

無差別に 日本本土に 爆弾を落とされて 愛する家族や 大切な人を
理不尽に 死なせるわけには いかない。

苦しくても 耐え抜いて 絶対に 硫黄島を 渡さない!


この 
死んでしまったほうが 楽かもしれない 状況の中
誰も 投降しようとしませんでした。

それは

常に 陣頭に立って 己に厳しく律する 栗林中将の 司令官としての姿勢。



それが
どんなに 過酷な 辛苦をも 
共に乗り越えられる 強い 結束力を 生み出していた という事。

して
情愛を 部下の兵士に 注いできた事です。
ゆえに 兵士たちも 

司令官と共に 死を決し 命をかけて 応えたのではないでしょうか。

この 持久戦に 

米軍も 追い詰めても 追い詰めても 戦闘が 楽になる気配が見えず
お互いが 生き地獄のような 戦いが 続きました。

こうなると
米軍は 地下壕を 1つずつ 
火炎放射器や 爆弾で 潰していくしかありません。



火炎放射器が 届かない
奥深い 地下壕は 
出入口から ガソリンを 大量に流し込み 火をつけ 

内部を 焼き尽くしました。

ブルドーザーで 入り口を塞いで 生き埋め にもしました。

これ以上ないほど 奮闘した 日本軍 でしたが
とうとう 
島の北辺りまで 追い詰められ 残る兵力は 900人 ほどになっていました。

3月16日。
栗林中将は ついに 日本本土に 訣別の電報を送りました。

戦局遂に 最後の関頭に 直面せり。
17日 夜半を期し 小官自ら陣頭に立ち

皇国の必勝と 安泰を 祈念しつつ 

全員壮烈なる 総攻撃を敢行する。

(中略)

ご期待に反し 
この要地を 敵手に委ぬる やむなきに 至れるは
誠に恐懼(きょうく・恐れかしこまる事)に 堪えず
幾重にも お詫び申しあぐ 

そして 
栗林忠道 辞世の句 です。

「 国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て 散るぞ悲しき 」


もはやこれまで と 
全員で 突撃を決行し 玉砕 の覚悟を 決めたのです。

本土に 打電した後も まだ戦える と
10日間の抵抗を続けました。

最後の攻撃は
3月26日 の 夜明けでした。

栗林中将は 残存の 400人 の先頭に立ちって 攻撃しました。
そして

アメリカ兵 約170人を倒し 



硫黄島守備隊は ここに 全滅 したのでした。

最後の最後に ほぼ餓死状態で 生き残った 
秋草鶴次さんら 63人は 捕虜となって 移送されて行きましたが

昭和21年
1月4日 浦賀に帰還します。

この時 
負傷して ついに歩けなくなった 栗林中将は

屍を 敵に渡すな と 

部下に 言い残して 自決しました。

部下は 
遺体を 大木の根元に 埋めた後に 自決 してしまいましたので

栗林中将が どこに埋められたのか 今もわかっていません。

将軍自らが 突撃した。
国を守る 崇高な使命を果たそうとして 壮絶な 最後を遂げました。

栗林中将は 今も 硫黄島のどこかに眠っています。



2万人 ほどの日本軍が守る 硫黄島という 小さな島を占領するのに
圧倒的な 戦力を持ちながら

米軍は 2万8000人もの 死傷者を出してしまいました。

祖国を 愛する 大切な人を守るために と 自分から志願してきた隊員たち。

硫黄島の他 太平洋諸島の島々の戦い。
特攻作戦や 沖縄の戦い など

日本人の勇敢な戦いぶりは 米軍に 恐怖心を与え
連合国は
日本への 無条件降伏 を放棄して 

一時停戦 
という ポツダム宣言 の提示に切り替えました。

ポツダム宣言の 提示によって 日本は終戦への 機会 をつかんだのですから

日本の将兵の 犠牲は 
決して 無駄死に などでは ないはずです。

天皇を残し 議会も残し 日本国 が残ったわけです。

戦後 
日本精神の弱体化 という 問題はありますが 

硫黄島守備隊の 奮闘が 

後の
国際社会における 日本の地位に 
大きく影響をおよぼしていると思います。
ですから 

今 という時代を 迎えることが できているのです。

栗林中将が 最後の総攻撃 を前に 兵士に

予が 諸君よりも先に 敵陣に 散る事が あっても
諸君の 今日まで捧げた 偉功は 決して消えるものではない
いま 
日本は 戦いに敗れたり と言えども

日本国民が

諸君の 忠君愛国の 精神に燃え 
諸君の 勲功を 讃え

諸君の 霊 に対し 涙をして 黙禱(もくとう)を捧げる日が いつかくるであろう
安んじて 諸君は 国に殉ずべし 

戦後 日本は繁栄し とても豊かになりました。

しかし

私たちは 私たちのために 命を投げ出してくれた 硫黄島の兵隊さんたちに

黙禱 を捧げてきたでしょうか。

慰霊どころか

栗林忠道 という名も 
兵士たちの 功績も 

忘れ続けて来たのではないでしょうか。
もっとも 
教えられ 伝えられてこなかった 封じ込められてきた という事はありますが

国民が 涙を流して 慰霊してくれる事を 
信じて 亡くなった 兵士たちに対して 申し開きができません。



平成6年。
2月。

小笠原諸島 復帰25周年 を記念して

今の
上皇陛下と 上皇后陛下 両陛下は 硫黄島を ご訪問されました。

上皇陛下

〇精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき
〇戦火(いくさび)に 焼かれし島に 五十年(いそとせ)も主(しゅ)なき 蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ

上皇后陛下



〇銀ネムの 木木茂りゐる この島に 五十年(いしとせ)眠る み魂悲しき
〇慰霊地は 今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ


硫黄島で亡くなった 日本兵の多くは 
火山の島ですから 地下要塞 みたいなものをつくって そこに潜んでいたんです。
島は 水を得にくいですね。

水が欲しい 欲しい という
水分が枯れていって 死んでいった方々が たくさんいらっしゃるわけです。



上皇陛下の 御製           精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

栗林中将の 辞世の句        国の為  重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき


栗林中将の 辞世の句の一文の 悲しき を掛けあわせ 引用なさる形で 
御製をお読みになりました。



両陛下は 国民を代表して 

あなたたちを 決して忘れてはいませんよ


鎮魂と 感謝の意を お伝えになったのではないかと。
もれなく 1人 1人の 国民を想う 大御心 とは こういうものではないか と思います。

私たちも 何かに気付いた者から 

語り継ぎ 目には見えなくとも
守るべきものを 守っていきたいと思います。



東条英機

東条英機は  裁かれた戦犯として 罪深い人だ 極悪人 と 戦後教育で教わるのですが

実際のところ どうだったんでしょうか。

戦後つくられた 歴史観で 東京裁判史観 一色に洗脳されてきたんですけれども 実際に 何があったんでしょうか。

一般的に言われる 
戦争犯罪者 というよりも 戦争責任者 なのではないでしょうか。

東条英機の 遺言書も 改ざんされていない 
東条英機の 良心の 血の叫び のような 正式な遺書が きちんと残されています。

東条英機 という人は 平たく言うと
普通の日本人だった と言います。



実直で 涙もろい 人情家 頑固で というような評価がありまして 
キャラクター像で言えば 波平さん。 昭和の親父像という感じだったようです。

下々の人には すごく優しいのですが 直近の者には かなり厳しい という事で
メモ魔 とか言い方 もあり 細かい指摘もあって 上司だったら 厄介だなぁ というあるようですが

独裁者 というイメージが強いという事を よく言われます。

しかし
真面目は 真面目 なんだけれども 
そこまで 恐れられるタイプ だったんでしょうか。

車中での 部下の証言で
熊本で聞いた 世間話の中で ある一家がいて 妻と 子ども 3人の家族なんですが
そこの 旦那さんが 戦地に赴くことになってしまい 
お子さんの 下の2人は 引き取られて 1番 小さな子を抱えて やりくりをしていたらしいんです。
でも
その 旦那さんが 亡くなられてしまったんだと。
その後 子どもは どうなっちゃうんだろうね なんて世間話をしていたら

東条英機が
戦争は 不幸な人を生んじゃうよね と言い 
その場で その家に 送ってやれ って
今でいう 10万円 くらいを ポッと差し出したそうです。
実際 
旦那さんが亡くなったという ご家族を 東条英機は知らないし 直接 関係はないけれども



そういう行動にでる というのは 人間的な愛情を感じますよね。
とりあえず 独裁者 のイメージは 湧かないエピソードです。

インドシナに 進駐した時も 
ゴムが手に入る地域ですので 軍部に回すと タイヤとか軍備に使用できるのですが
そこを まず一旦差し止めして

今 日本国内で 一番困っているのは 子どもたちだ と 
ゴムまり の生産をさせて それをまず 配給で配る という事をされました。

もともと 東条内閣は 
戦争回避のために 日米戦争をしないための 組閣された内閣でした。

東条本人は 退役を考えていた時期だったのですが

首相になりなさい と言われた時に 

家に帰ってきて 
家族に 俺 ちびりそうだった と漏らしていたそうなので 想定外 だったようでした。

私を 首相にしろ と 野心家のイメージを植え付けるような 話もありますが 
東条自信 本人は 
青天の霹靂。想定外の出来事だった との事なんです。

しかし
一時期は 6つくらいも 役職を兼務したがために 下に想いが 伝わらなかったんだろう と
昭和天皇は おっしゃっておられたそうです。 
これは
恐怖政治のように 全部 よこせ 俺がやるんだ と取られがちです。 

また
2018年 東条の発言をまとめた



湯沢内務次官メモ が見つかりました。



東条が 日米戦争開戦の前日 開戦の経緯説明を 昭和天皇にされた時に 

陛下が なにも おっしゃらずに理解された。
そして東条英機は この戦争は 勝った と 高揚した と書いてあるメモが見つかった



という 
報じり方を されたのです。

実際 メモには 高揚した とは書かれてなかったそうですが

東条英機が 開戦に向けて 喜んだ という位置付けで 
新聞社が 高揚した と書いて報道したかったのか よくわかりませんが

昭和天皇も
戦争の前に 最後まで 外交で行く。

物資を確保するために
南に降りて行って 石油を取る。
そして 西へ行って 戦うとしたら インド洋なんです。
アメリカとの 太平洋じゃないんです。
太平洋の  小さな島々に行ったって 意味がない。

海軍軍令部総長 永野修身(ながのおさみ)が



最後の 開戦に至る ドタバタの中で上奏して やっちやったのが
真珠湾攻撃 なんです。

この言葉が有名な



太平洋で 暴れまわってみせましょう と言ってる 
イケイケ山本五十六(やまもといそろく)以外は



アメリカを 怒らせちゃいけないって
連合艦隊のメンバーは 反対だったんです。

戦略 作戦については 首相の東条英機には 権限がない。
開戦前日 
昭和天皇に経緯説明をする その前日の夜 自宅で 

皇居に向かって 
布団の上で 
正座して 
嗚咽している 東条英機の話も 家族からの話で あるんですね。
それを 聞いて 見たのは 妻の かつ子 ですが



かつ子の 憶測でしかないんですけども

そもそも 東条内閣の誕生は 日米戦争の 回避 が目的で 
それを 達成できなかった。 
陛下に対する 申し訳なさで 泣いてらしたんではないか という話があるんです。

そうすると
この戦争 勝ったって 仮に 東条が言ったとしても 
その言葉の 奥底に潜む想いは

本当は 回避しなくてはいけなかったのに できなかった無念さもあるでしょうし
それを 
陛下に対して 報告しなければならない 申し訳なさ

でも そこで  負けます。
とも 言えない 
色んな複雑な感情が あったはずなのに 

高揚した 

という言葉 が 1つ 新聞に載っただけで 完全に印象が変わってしまいますよね。

真面目な東条首相は 昭和天皇からの ご親任が 厚かったという事です。
本当は 昭和天皇も 総理大臣も 
戦争を 回避 したかったんだと思いますね。

東京裁判で
日本の 海軍の戦犯は 0。誰もいません。日本海軍はベースが イギリスです。戦勝国の国です。 
日本の 陸軍のベースは ドイツ。 敗戦国です。

戦犯者。責任は 全て陸軍でした。
いわゆる 
海軍善玉・陸軍悪玉 というものです。公平性で見ると 何か腑に落ちない感じがしますよね。



東京裁判の戦犯者として 東条が 刑務所に連れていかれる という時に
東条英機は 
ピストル自殺を図った という話がありまして
これも 本当に自殺する気が あったのか とか 色んな説が ありますが

これも誤解されている事がありまして

そもそも 東条英機は 自決。自殺をする 予定ではなかつたんですね。
実際に その前日に メディアのインタビューを 自宅の前で 受けているんです。

だから
逃げも 隠れも しないし 
ただ 何をして待っていたかというと 官憲。警察関係の役人による 連行を待っていたんです。

待っていたら いきなり 
MP(米軍陸軍憲兵隊)が 東条邸を 囲んだために 自決したという話ですが



これは かなりの問題であるって事を 知ってらっしゃる方は かなり少ないです。

自決未遂が 起こった後に   

当時 外務大臣だった 重光葵(まもる)が 私邸も 公邸も 焼けてしまって無いので
帝国ホテルで 夜食をとっていた時に その 自決の報 を聞くんですね。

重光は ビックリして
GHQの本部まで いきなり MPが来て 東条邸を囲んだ。 話が違うと クレームを言いに行っているんです。約束が違う と。
その約束というのは



基本的には 連合国側に対しては 逮捕者の名前は 通告しますが
逮捕に関しては 官憲の手によって 行いますよ。
なので 連行は GHQは 手を出さないでくださいね っていう 合意を結んでいたんです。

それを いきなり 東条邸に MPが来た。 GHQとの約束が違う。どうなってるんだ と言うと

すると
あれ? 1週間前に 逮捕するって言ったはずですが と言われたんですが
これも 嘘で 
あまりにも嘘が多くて サザランド議長に どういう事になってんだ って聞くと

あ~そうだった。すまん すまん。 の一言で 終わってしまいました。
敗戦国は ずいぶん下に見られてたんです。

東条邸に 記者とか たくさん入ってきて
その悪態が 酷くて

略奪の限りも つくされましたし 
記者が 第一報を取りたいので 東条邸に 電話が 1個しかないので 順番に電話の前で待っていると

東条英機が死ぬか 賭けをするんですね。

自決未遂 していますから 中には記念品だ とかいって血を持って帰ろうとする者もいたり
カメラマンが到着して 入ってくると いい画が欲しいって 
息が ぜいぜい はぁはぁ の状態の東条を 
足を組ませたり 鉄砲の位置は こうだとか のやりようですから



このことは
東条英機 としては 懸念していた事なので
MP(米軍陸軍憲兵隊)が 来たら 何をされるかわからない。

国家の恥を さらしたくない  
恥ずかしめを受けたくない ということで 想定外の 自殺しようとしたのですが

未遂で終わったのには

①心臓の位置が 人より若干 違っていた。
②本人は 左利きだった 
③自分の拳銃を 使っていないんですね。
これは

東条英機の次女の 満喜枝(まきえ) の旦那 
古賀さん という人が 自決で使った 銃を使っているんです。

昭和20年8月15日 の宮城(きゅうじょう)事件。
青年将校が 近衛師団参謀と中心になって起こした クーデター未遂事件がありました。



古賀さんは 近衛師団長をやってましたので 何かよからぬことをするんじゃないか
という話が 回っていて

東条が
軽はずみな行動をするな と
これは 陛下のご命令だ という事を 伝えるんですね。
古賀さんも はい。わかっています。と約束したんです。

まあ 古賀は 何も起こさないだろうと と思っていたけれども 
宮城事件が 起こってしまいました。

古賀さんは 東条との 約束を守ろうとしたんですね。

でも もうすでに東条との約束をした 前日に 連帯式の署名が行われていて 
古賀さんは 最年少だったんので 断れず署名した後だったんです。

宮城事件の当日を迎えてしまい 古賀さんは現場にいきます。そこには 高級参謀は誰も 来なかったんです。



古賀さんが 青年将校たちに 指令を出す側になってしまいました。

クーデター事件未遂なので 
自分が責任をとらなくてはいけない となり 切腹して 口に銃を入れて 自決する という事に
なってしまいました。

その時の拳銃なんです。

国家の恥を さらしたくない ということの自決でしたが 未遂となって
恥ずかしめを 受けてしまったのでした。

結果責任はありますが 戦中・戦後の 経緯・原因は 複雑なようです。戦争の原因は難しい。

靖国神社は 
A級戦犯を祀ってあるという事で 靖国参拝をするだけで 戦争を美化するものだと 言う方々がおります。

人種差別を受け 資源も絶たれ 追い詰められてしまったので 
日本から 戦争をするように 仕向けられてしまったんですね。



東条は 家族に 
開戦した時の 総理大臣なんだから 
戦後 俺の 自己弁護だけは絶対にするな と言っていたとの事です。

東条暗殺計画 未遂も含め いくつかあったらしいのですが
東条内閣が 倒れて。

計画中心だった 三浦義一 という方が その後直接 東条に会った時に 意気投合して
戦後の 家族の事。後処理は 俺がやってやる と約束をし

東条英機を 倒そうとした人が 東条家を 守り 

戦中 戦争を讃えていた 国民の多くが 
戦後 戦争の責任は 東条英機にある と言うようになりました。

敗戦に至るにあたり 
街を歩いていたら 石を投げれれるは 殴られるは 学校にも行けないは 
ご家族 遺族は ご苦労をされました。

世の中が 勝手に動いてしまう 難しさがあります。
もし 先の大戦のように 間違いを おこさないようにするならば 
断固とした決意と 行動をもって 正しい歴史に変えていくしかない と思います。


東条内閣は 歴史上 初の民族の平等宣言。大東亜会議 が東京で開催しています。 







石原莞爾

東条英機の先輩が 石原莞爾ですが 



満州事変をやったのは俺だぞ!
なんで俺を 戦争犯罪人にしないんだ!と怒っていました。

自分が戦争犯罪人に指定されたら 

東京裁判を根こそぎ 吹っ飛ばしてやるという勢いだったわけです。

日本に原爆を落とした アメリカの張本人が 第一級の犯罪者だ!と
ぎゃんぎゃん言いたかったようです。

それされたら
世界に報道されちゃうじゃないですか。
だから 
石原莞爾を 訴追すると 火の粉がかかるというか 
やばそうだから 本当に 東京裁判が 吹っ飛ぶ可能性があるというか

だから石原莞爾を ほっとけ という事かもしれません。



昭和21年の
5月3日から 
東京裁判が始まるんですけれども 

石原莞爾は 病気をしていまして 逓信(ていしん)病院に入院中でした。

GHQは 石原莞爾を戦争犯罪人ではなく 証人として東京裁判に呼びます。

東条英機を A級戦犯に持ち込むためには 



東条英機と 仲が悪かった 

石原莞爾に色々しゃべらせたら 東条は不利になるんじゃないかという
意図があったのですが 

病院で 石原の 検事からの 事情聴取が始まります。
東条英機は 悪い奴だ と言ってほしいわけです。
しかし

初めから 石原はけんか腰ですよ。

なんで俺を戦犯にしないんだ から始まりました。
そして

今度の戦犯で 誰が一級の悪人か?と聞かれると 

そしたら始まるわけですね。

にやり 
とした石原莞爾は 

それを聞くか?と言って 
じゃあ答えてやろう。それは トゥルーマン大統領である。
と始まります。



枕元から 一枚のビラを検事に渡して これを読め!とやるわけです。
それには

もし 
日本国民が 銃後の後に軍とともに協力するならば 
老人・子ども・婦女子を問わず
全部爆撃する。
だから 平和を祈願して反戦体制の気運をつくれ

と書いてあるじゃないかと。大統領名で出されている。
これは何だ!

国際法では 
非戦闘員は 爆撃するな と規定があるにもかかわらず 
非戦闘員を 何十万人も殺した。国際法違反である。このビラが立派な証拠だ!
と述べるわけです。

そしたら検事が

一番悪い奴は 東条って言ってほしかったのに
トゥルーマン大統領 って言われて困っちゃうわけですね。

検事は そんな事は無い とそのビラは脅しじゃないかと言ったら 
石原は 

はっ!?何言ってんの 脅し?   

広島・長崎に何落としたんだと。

第一級の戦争犯罪だ!!!  と言うんです。

検事は石原に 



あんたは 満州事変に関係ありますよね。

から始まり 
起訴されている 26人に対して 色々聞くんですよ。
すると

知らない と 一言。
同じ質問に答えるのですが 検事がしつこく聞くので
最後は

知らねえっつってんだろ!

の 恫喝です。

検事も けんか腰になって 
じゃあ明日まで思い出しとけ と言われたら 

石原莞爾は ブチ切れて 

バカヤロー!お前は なんて失礼な事を言うのかっ!
私は知らない と言っているんだ。
知らないものを どうやって思い出すんだ。
知らないと 思い出すのは 別の事だ。

無礼者ぉぉぉ! と怒鳴り上げるわけですよ。




こんな話 いっぱい伝わっているんですよ。

ソ連の検事から 尋問 を受けた時の話で
日本の 国体 とは何か?と聞かれて 

それは 天皇を中心でなければ 日本は何も始まりません。と答えると

すると
ソ連の検事が クスクスッと 
少し馬鹿にしたように 笑いを浮かべたんですって。

そしたら まぁ~ブチ切れた 石原莞爾は 

は?お前 今 笑ったな? といくわけです。




冗談じゃない。お前は すた~rんを信奉してるんだろう。
すた~rんの言うことは 誰も反論もできないし 批判もできない。
こういう
絶対的なものを 信仰というのである。
お前は その信仰を持っておきながら 
他の信仰をあざ笑うとは 何事か!

無礼者ぉぉぉ!出ていけ!もう俺は何も喋らない!

通訳が 
まぁまぁ 
この人はソ連の軍人で そこそこ位も高く それなりの方なんですよ って言ったら 

人の信仰を あざ笑う奴とは 会話もしたくない。出てけぇぇぇ!

ってやるわけですね。



翌年
昭和22年
5月。 
石原莞爾の地元の 山形県酒田市で 療養生活をしています。
証人として 呼び出しを食らうんですけれども

療養中ですので もう東京には行けませんと言ったら 
東京裁判が 山形県まで出張したんですよ。



これ 石原莞爾だけですよ。

証人として 酒田法廷でも 相当 吠えるんですよ。

対米戦争の 勝算について話をしました。

日本の戦力は
アメリカに対して 非常に劣弱ではありましたけれども 
作戦よろしければ 必ずしも 敗北 するものではなかった。
と述べるんです。

そうしたら どよめくんですね。

日本は
アメリカと戦争して 馬鹿じゃなの? くらいになっているのを 

やりようによっては 勝てたよ



って言うので 
みんな そうなのか~ みたいな感じになったわけです。 

この人以上に 戦争が巧みな人はいませんから。

法廷が終わった この日の夜 
各国の通信社の記者が 

石原さん あの時の言葉 どういう意味ですか?
あなたが戦争を指揮していたら どんな戦争をされたんですか? 
とか 
根掘り 葉掘り聞くんです。

石原莞爾は
2時間以上 演説をしちゃうわけですよ。各国の記者を前に。

もし私が戦争をやったならば

補給線を 確保するのに
ソロモン ビスマルク ニューギニアの諸島を 早急に放棄し 資源地帯防衛に転じ 
西は
ビルマの国境から シンガポール スマトラ中心の 防衛線を構築する。
そして
中部は フィリピンの線に交代。
他方 本土周辺及び サイパン テニアン グァム の内用海洋諸島を 一切難攻不落の要塞と化し
何年でも頑張り得る体制をとると共に 
外交的には
支那事変解決に 努力傾注する。
とくに
サイパンの防備には 万全を期し この拠点は断じて確保。
日本が 
真に サイパンの防衛に 万全を期していたなら 米軍の侵入は防ぐことができた。
米軍は
サイパンを 舵手できなければ 日本本土空襲は困難であった。
それ故 サイパンを守り得たなら 
ボロボロなガタガタの飛行機でも 何とか利用できて
レイテを守り 当然 五分五分の持久戦で 
断じて負けてはいない。

このように述べたんですね。

石原の戦法は
「集中」 と 「突破」 ですから

ハイヒール戦法。
女性が 男性を蹴っても 大けがを負わせることはないです。

でもハイヒールの かかとなら別です。
力が弱ければ弱いほど 分散したら まともに戦えません。

力が弱い時こそ 集中して 「一点突破」で ドーンと 突くわけですよ。
ハイヒールの角で バーンって打つ みたいな感じ。

それで 点 を確保する。



迅速に 点をいくつか確保して 線をつくり 線と線をつないで面を抑える。

こらが石原の戦法です。

弱くても 互角に強い相手と 戦ってしまう。
集中して ここと ここと ここは 難攻不落にする。

確かに
それをやられたら 米軍はなかなか勝てなかった。
それを聞いた 外国の通信社の連中も 

はぁ~それなら そこそこ日本も戦えたでしょうね~ となって

続いて

戦時中 日本の軍隊は悪い事をした というは部分もあるだろう。
しかし
戦場の興奮によって 戦闘員を侵害するのは 往々にして在りうること。

もちろん
忌むべき行為ではあるけれども 
これらの
偶発的な事件と 計画的な 大虐殺と 根本的に違う。

トゥルーマンの行為こそ 
戦犯第一級中の第一級の行為。



今日いかに 戦勝国がこれを抗弁しようとも
公正な第三者と 後世の人類によって

歴史的な 審判を受ける事は免れ得ない。
一国の大統領 ともあろう者が かかる野蛮行為を あえてして 
しかも
少しも恥じるところがない。
我々はこのようなものを相手にして戦った事は 何とも恥ずかしい。

と述べたんですね。

日本軍って
民間人の 無差別虐殺とかしてませんからね。
それやったのは アメリカですから。

外国の記者たちは 

いやぁ ゼネラル石原の話が聞けて 勉強になったと良かった とか言いながら 
炎天に水をあびたような気持ちです
とか言って 礼を述べた人もいたらしいです。



ところが
石原の発言は 言論統制下にありますから 
日本のメディアでは 紹介される事はもちろんないわけです。

東条英機と 石原莞爾は 
犬猿の中だったんですね。
現役時代大げんかして 石原莞爾が負けて 左遷されたわけです。



ところが
昭和17年 ミッドウェー海戦で 空母4隻沈められて 

いよいよ 日本どうすんの?ってなった時

東条英機は
先輩の 石原莞爾を呼んで 

いったいどういう風にしたら この戦争勝てるのか って聞くんですよ。
すると 石原は 

それはいい方法がある。
お前がすぐに辞めろ。
あなたが戦争を指揮していたら絶対に勝てないよと。 
戦線を 縮小 しなければならないけど 君には無理だよね。 

と言ったそうです。

マッカーサーから
GHQから 
トゥルーマン大統領が 第一級だとか 

この人 ものを規せずに何でも言える すごいわ 
という
一定の敬意受けて

法廷を取材していた 日本の記者から 

あなたはよくぞまぁ 何でも言ってのける。
日本人の中の 日本人だ と語った記者もいたそうです。







ジョー・オダネル

終戦直後の 日本に 占領軍の 一員として アメリカ軍のカメラマン として 日本に滞在した時に
カメラ撮影を 任務された人です。

後々に アメリカ人が見た
日本人の 生きる姿を通して 日本人の心 を学ばせてくれた方です。



オダネル氏は
日本の  真珠湾攻撃 の時に 日本に強い怒りを 抱いていたと言います。

リメンバーパールハーバー。
日本が アメリカに 奇襲攻撃をかけた。日本は 卑劣な国だ。
これは アメリカ国民の 世相です。

海兵隊の入隊を希望していましたが 
銃を構えるより 写真を撮れ と 占領軍カメラマン として 訓練終了後
海兵隊 と共に サイパン島から軍艦で 日本の九州へ上陸する事になりました。

ジョーは 日本に向かう この艦上で 原爆投下も 日本の降伏も 知りました。

広島・長崎に 新兵器が 投下されて 何万人もの 人々が死んだ と聞いても
実感としては 何もつかんでいなかった と言います。

長崎県 佐世保の海岸に 着いた時 ジョーは 23歳でした。



辺りを見渡しても 日本人の姿は どこにもいないようでしたが
いきなり 藪の中から 日本兵が 現れ ゆっくりと 手を後ろに回して
白旗 を揚げたのです。

そこで初めて 戦争が終わった事を 実感しました。

日本に対して 敗戦国 くらいの思いであったのでしょうが 
それから 写真を撮っていく事で 
ジョーは 敗戦の焦土化した 日本の様子や 日本人に触れ 想いが変わっていきます。



敵国の アメリカ人 にも関わらず
食事を用意したり お茶を出してくれたり
空襲で 奥さんを亡くした 佐世保市長は 
どうして 撮影に来た アメリカ人の自分に 夕食を用意したり
別れる時に 丁寧に頭を下げ 親切に ドアのところまで 見送るのか。最後は 握手まで。

また 福岡県 八幡地区で
敵国のアメリカの飛行機が 撃墜されて パイロットは 亡くなり
でも
十字架の お墓を立て敵国の人間を 丁寧に葬って 花も供え という姿の日本人にも会いました。

佐世保の滞在の後 広島に行きました。

これが 広島?

想像していたイメージ とは全然違う。 街などなかったのです。
瓦礫と 破壊された建物。 街は跡形もなくなっていたのです。
地面は 柔らかく 方角など まったくわかりません。



全てが 灰色と 黒の 石やコンクリートの塊で 建物も見当りません。
辺りは 嫌な臭いが立ち込めていて 息をするのもつらいほどでした。

カラスは わずかに残った人の肉を狙っているかのようです。
全く人気が無い。

そして 数えきれないほどの 人間の骨。
もう骨しか 残されていない。
自分が 今 どこにいるのかもわからなくなりました。

何千 何万 という人が住んでいたはずの街が 

たった 1発の 爆弾で廃墟 と化してしまったのです。



ここを 我々は グラウンド・ゼロ と呼びました。

広島の人骨だらけの荒地に 呆然と立ち尽くし 
人間が 同じ人間に 犯した信じがたい行為を思いながら
言いようのない 悲しみに襲われました。

かすかに抱いた憎悪は 裏返してみれば 自分の国が 広島を破壊してしまった という
罪悪感 だったのです。

その後 長崎市内に行きます。
任務は 原爆投下後の 長崎を記録する というものです。



かろうじて命のあった人々も 皮膚が溶けて 垂れ下がり
指が全部 くっつくなどして 道端でうなっている人。

そうした惨状を目にする 心の準備が できていませんでしたが
与えられた 任務を 全うするほかありませんでした。

どんな悲惨な状況であっても 子どもたちは たくましく





女の子たちは 川で洗濯をし 
男の子たちは 野球を楽しんでいました。



忘れられない少年で
足が 1本無かったので 杖を突いて歩いていました。
杖が 大きくて歩きずらそうだったので ナイフで削ってあげて サイズをあわせてあげました。

その少年と親しくなり 毎日 訪ねてきてくれるような仲になりました。

軍の飛行機が 定期的に飛行機で落としていってくれるので
それを その少年 や 家族に分け与えました。
しばし 楽しい時間を共有しました。

しかし 少年は 訪ねて来なくなりました。
足の傷口から細菌に感染して 亡くなってしまいました。
少年の 家族が 彼が使っていた 杖をくれました。

また
長崎の 小高い丘の上から下を眺めていると 白いマスクをした男たちが 目に入りました。
彼らは 60㎝ ほどの深さに掘った 穴のそばで作業をしています。
やがて
10歳 くらいの少年が 歩いてくるのが 目にとまりました。

おんぶひもを たすきにかけて 幼子を背中に負っています。

この少年の様子は 重大な目的を持って この 焼き場 にやって来た
という 強い意志 が感じられました。
しかも 裸足です。

少年は 焼き場のふちまで来ると 硬い表情で 目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は ぐっすりと眠っているのか
首を 後ろにのけぞらせていました。

少年は  焼き場の ふちに 5分か 10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの 男たちが おもむろに近づいて 赤ん坊を受け取り 
ゆっくりと葬るように
焼き場の熱い灰の上に 横たえました。

まず 幼い肉体が火に焼ける ジュー という音がしました。
それから まばゆいほどの 炎が さっと舞い上がり
真っ赤な夕日のような炎が 直立不動の 少年の まだ あどけない頬を 赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる 少年の唇に 血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が あまりにきつく噛み締めているため
血は流れる事も無く ただ 少年の 下唇に 赤くにじんでいました。
夕日のような 炎が鎮まると
少年は くるり と きびす(かかと)を返し 沈黙のまま 焼き場を去っていきました。

あの少年は どこへ行き どうして生きていくのでしょうか。

この少年が 死んでしまった弟を つれて 焼き場にやってきた時
軍隊の影響が こんな幼い子供にまで及んでいる事を知りました。

アメリカの少年は とても こんな事はできないでしょう。



直立不動 の姿勢で 何の感情も見せず
涙も 流しませんでした。

側に行って 慰めてやりたい と思いましたが
それもできませんでした。

もし そうすれば 
彼の 苦痛と 悲しみを 必死でこらえている 力を くずしてしまうでしょう。


佐世保に 上陸してすぐに タバコと交換で 日本人からカメラを譲り受け 私用のカメラ としました。
初めは 帰国したら 母に見せよう と軽い気持ちでしたが
しかし 
帰国後は そのカメラで撮影したものを 母に見せる事も無く

1946年6月3日
海兵隊を 名誉除隊して 一般市民に 戻った事が嬉しく 生活を満喫していましたが

日本からの荷物を そのままにしておけず
トランクの蓋を開けました。

そこには  原爆投下直後の 街や 人の姿。 
どうして こんな恐ろしい写真を撮ったんだろう と 
あまりにも 恐ろしい写真のネガは 急いでゴミ箱に捨てました。

軍用バック には 靴下 下着 ズボン ブーツ 靴 そして
海兵隊の制服が 出てきました。

すると 今まで感じた事のない 思いが押し寄せてきて
急に
自国が 散々痛めつけた 何の罪もない 日本人の前で 
まるで 勝利を 誇示するかのように 征服を着ていた自分が 恥ずかしくなりました。

日本で出会った人々は パールハーバーとは 何の関係もなく 温かい人々ばかりでした。

制服一式を 裏安庭で焼き

もうこれ以上 見れない とト写真は ランクに閉じ込めて 屋根裏に 45年間 閉まってしまいました。
日本で 見聞きしたものを 全て 忘れたかったのです。

1948年。
ホワイトハウスの部署で 
トゥルーマン大統領 付きの カメラマンをする事になりました。



トゥルーマン大統領に 尋ねる瞬間が ありました。

私は戦後 海兵隊のカメラマン として 広島・長崎で写真を撮りました。
大統領は 原子爆弾を 落とす事に 躊躇はなかったのですか?

すると トゥルーマン大統領は

もちろんだ! 不安や 疑いだらけだったよ。
しかし 引き継がなければ ならない事が 山ほどあったのだ!


ルーズベルト前大統領 から トゥルーマン副大統領 が大統領に 昇格した時の事です。

その後も  アメリカ大統領付きの カメラマンとして仕事に邁進し
気が付けば 40年余り が過ぎていました。

1989年。
カトリック系の施設で 1人の シスターが 
広島・長崎で 被爆した 被害者の鎮魂の 意 を込めて作った という

Once(ただ1度だけ) という題の 
炎に 焼かれる 等身大の 男の像を見た時



廃墟を もたらした 爆弾を 自国が投下した事実に
深い悲しみ そして 激しい怒り を覚え

当時の事を 思い出すのは 耐え難い苦痛でしたが
長い間 何も感じていないふりを してみたり
悲惨な 思い出を 無視しようとしてきました。
しかし

この事に 直面しない限り 自分の傷が癒されない と気付き

かつて撮影した 写真を使って 核戦争の 恐ろしさを 伝えていかなければ ならない と自覚したのでした。

原爆投下は戦早期解決 のためではない。
日本は 空襲で痛めつけられ 戦う力は もうなかったはずです。
アメリカは 戦後 ソ連より 優位に立つため 原爆の威力を 世界に 見せつけるために 落としたのです。

ですから
1945年。
日本で 何が起きたかを 人々に伝え 2度と 同じ事が 起こらないように 呼びかけました。

日本の2つ の街が 地球上から消えました。
その悲惨さは 人間の理解を はるかに超えるものでした。
そんなイメージ を見て 平和を考えない人がいるでしょうか。

死んでいった人々に対して 覚えておく 義務があるのです。
彼らの 死 を無駄にしてはいけません。命の尊厳を 彼らから 学びましょう。
もう2度と このような惨事の 犠牲者になったり 加害者になったりしてはいけない。

終戦直後 日本に 初めて行って 
日本人の 丁寧さに ただただ 驚きました。
大変な時に これほど 礼儀 正しい国民がいるでしょうか。



と 言っています。

1994年。
アメリカの スミソニアン博物館 という場所で 原爆展が 企画されました。
この時に
アメリカの 軍関係者や 退役軍人たちから クレームが上がりました。

スミソニアン側も 再考慮 という事になり キャンセルになりました。
スミソニアンの 本心としては 公平に歴史を  ひもとこうという思いで 始めた計画でした。
何とか
オダネル・ジョー氏の 写真展を組み入れようとしましたが 
相当の 圧力が かかったようでした。

アメリカにとって 原爆は 正義で 誇りで 正しかった という光の部分と 

原爆によって どれだけ多くの人が どんな苦しみを味わったのか という闇の部分を展示する という
このような事は 今まで アメリカで行われた事がなかった 企画だったんです。

とにかく 原爆投下は 正しかったのであって 残虐性をアピールするなんて

全米から 猛烈な反対意見が押し寄せられて 
アメリカの議会の方から 中止要請があり 原爆展を 事実上の中止に追い込まれました。



しかし
アメリカの 過去の行為を正当化するより
原爆投下は 人道的に 間違っていたのでは という考えを持つ アメリカ国民も増えてきている事は確かです。

日本での 写真集の出版や 教科書への 写真の掲載。
ドキュメンタリー番組 の放映もされるようになりました。



アメリカでも 写真集の出版。
戦後 70年を超えて 世界中 いろいろな場所で 写真展や 講演が許されるように なってきました。

オダネル・ジョー氏が
写真は 嘘をつかない。
自分の意見が 写真に 反映される事は避けたい。
見た1人 1人が 何かを感じ 考えるか が大切だ。 と言っています。

2007年。
8月9日。 長崎の原爆投下の日。

オダネル・ジョー氏は あの世に帰っていきました。



光格天皇

光格天皇の 在任中に 大変重要な事が起きました。
これを きっかけに 朝廷の権威が グングン 上がって いきました。

応神天皇 から
戦国時代 から 室町時代 の 足利義満 とか

朝廷の 権威を ドンドン 剝奪していきました。
織田信長 が現れて 多少 皇室は 持ち直しましたけども

江戸時代 になり
徳川家康 になると 生かさず 殺さず みたいな感じで 
朝廷は
虐(しいた)げられ続けてきたわけですね。

ところが
光格天皇 あたりから 朝廷が 幕府を 超えるようになってくるんです。



今度は
幕府の 将軍が 天皇 とか 関白 の 顔色を見ながらではないと
物事が 進められなくなる という風になります。

その転換点 となったのが

御所千度参り です。



これは 教科書 には 出てきません。

第118代 後桃園天皇 が
若くして 亡くなってしまった。後継者が いなかったわけです。



宮家 が 4つ ありましたので
本家 ではなく 傍系 からの

さかのぼって 
第113代 東山天皇 の流れの



閑院宮(かんいんのみや) の皇子 として

光格天皇は 
8歳 で 天皇の位に付く 践祚(せんそ) をされました。

位を 継がない 皇族は
男は お坊さん。 女は 尼さん と決まっていて
光格天皇は
本当は お坊さんになる予定でした。

傍系 からの 天皇 でしょ みたいに
言われたら 恥ずかしい という気持ちが おありだったようで

強い 皇統意識。
天皇としての 自覚が 強い 天皇に お成りあそばしました。

初代 神武天皇 137年 など 
春秋暦 で 数える とか ありますけれども

飛鳥時代 以降
明治天皇 の 45年 より 長いわけです。
昭和天皇 は 63年 と 7日間。

昔の 平均寿命が 短い時代に

光格天皇は
37年間 在位になられ
23年間 上皇 として 君臨なさいます。 合計 60年です。

長期 に渡って 国を しらす 存在だったわけです。

天明3年。
1783年。
日本の 浅間山が 噴火し



アイスランドの ラキ火山が 噴火し 



同じ時期に 大火山噴火が ありました。
これ以降
数年に渡って 世界中 天候不順になり
あちらこちらで 飢饉 が起きたわけなんです。

ヨーロッパ でも 小麦粉が 取れなくなり
フランス革命が 起きて フランス王朝は 滅亡したわけですね。

日本では
天明の大飢饉。

記録では 90万人 が 死亡した と言われています。
人口が 今と 全然違いますから かなり多くの人数です。

100件くらい 農民の一揆 が起きました。
ヨーロッパ も大変だけども 日本も 大変でした。

ヨーロッパ。フランス では 何が起きた かと言うと
1789年。バスティーユ牢獄 に向かって 市民が 行列を組んで 



パンを よこせ
王様たちは たらふく食っているのに 俺たちは ひもじい。
と 歩きだしました。

マリー・アントワネット は 
パンが 無ければ お菓子でも食べれば? 
と つぶやいた という話もあります。

コンコルド広場 で 
ルイ16世 と マリー・アントワネット は ギロチン。
断頭台 の露 と消えました。

じゃあ
日本でも

天皇は たらふく 食ってる。 米よこせぇぇ と なったかと言うと
ならなかったんです。

日本では
正反対の事が 起きるんですね。

東北 は餓死者が ひどかった ようですが
京都の 郊外でも 
死人の 屍の山が 積まれた という 酷い状況でした。



しかし

天明7年。
1787年。6月7日。

御千度 が始まったんです。

京都御所
は 上から見ると 長方形 なのですが ぐるりと 壁で 覆われています。

ひょいと 登れば 上がれそうな 2m くらいの壁 が 
京都御所 1周 1・3㎞。

北京の 紫禁城(しきんじょう) のような 刑務所のような
十何メートル という高い壁に 囲まれて いるのではありません。

その 京都御所 を
たった 1人 の老人が 

飢饉で ひもじい。幕府に 要求しても 反応が無い。
何を思いついたか 

普段
天皇を 拝む という風習は 無いのですが

光格天皇 を 拝もう と 思ったわけです。



そんな 拝める 場所も無いので
京都御所 にやってきて 正門で 
パンパン と 柏手を 打って 祈り始めた わけなんですね。


そして
京都御所 を グルグル 回り始めて 拝んだりしてたんです。

そうしたら
それを 見ていた 周辺の人が

おっ?
俺も 拝もう。私も 拝もう。 って なったみたいなんです。

同じように
京都御所 正面 から拝んで 周囲を回って また 拝んで みたいな 事が
1人 の 老人 から 始まった のが 徐々に 増えていって

この日 6月7日。
40人 から 50人 ですよ。

これが
大ブーム になるんですよ。



3日後。 1万人 です。
4日後。 5万人 です。

初めから 1週間。
6月14日 以降は 毎日 7万人 です。
6月 22日 くらいを ピークに 徐々に 減っていきますが
3か月 続くんです。

江戸時代 に 
何回か ブーム があった
何百万人 参拝に来た って言う
伊勢の神宮の お蔭参り みたいな 感じで

京都の人 だけではなくて 
滋賀 とか 兵庫 とか 大阪 とか 

色んな所から 人が来て 京都御所 を回る という
同じような 現象が 起きた わけです。

これを 
御所千度参り と言うんです。



6月 中旬は 旧暦で 真夏ですから 暑いわけですよ。
そこで どうしたかというと

有栖川宮(ありすがわのみや) から お茶が 配られたり



光格天皇。上皇 から
リンゴが 配られたりしました。



3万個 用意された リンゴが 
午前中には なくなっちゃった ってわけですから。

あと
出店が 500 から 600店 出ました。
ところてん とか
ほとんど 縁日 ですよね。

神社で 
さも 神様を 拝む かのように

京都の 旦那衆から 遊女から ワイワイ がやがや
毎日 7万人 来ますからね。

天皇は 祭り主であり
拝む 存在 なんです。

拝まれる 存在 では ないんです。

天皇陛下の お住まいを 拝む風習は 無いわけなんです。

ところが この時ばかりは
延べ で言ったら 何十万人。 テーマパーク みたいに なってしまいました。



こういう 異常な事態が 起きたわけなんですね。

同じ 飢饉が 起きても

かたや 
民衆 から 引きずりだされ 首を切られ

かたや
とりあえず 拝もう!と言って みんなで  御所に向けて拝む という。

何か 天皇に 要求 するわけでも ないんですよ。

天子様に 手を合わせたら 何か あるんじゃないか
ただ それだけだった みたいなんです。



これで 何が 起きたか といったら

光格天皇 は 
政治的才覚 が優れている方なんです。

強い 皇統意識 を 持っていて 

幕府から 虐(しいた)げられてきた朝廷を

  

少しでも 
権威を 復興させていただきたい という気持ちがあったんです。

ここで
幕府に対して 申し入れをするんですね。
朝廷 から 幕府への 
申し入れは 基本的に 無いんです。

こういう風にしてほしい という
要望 が 申し入れ ですけれども

体制委任の 大原則 があり

天皇は 徳川家康 を 征夷大将軍 に 任命しました。
その後 順番に 
代々 徳川の言う通りに 征夷大将軍 に 任命し続けてきた わけです。

体制委任 したら 
天皇は 政治を執る事は ありません。

現在も そうです。
天皇陛下 が 内閣総理大臣 を 任命して 後は 任せた となりますから
天皇陛下  自らが 法案を 考えたり とか 無いですから。

天皇としては 政治に  何か 口をはさんだり 加わったりする 
余地は 全く無いんです。

ところが 光格天皇 は

飢饉での 御所千度参り って いう状況 は 異常じゃないですか。
天皇との アクセス は 徳川が 独占するわけですから
幕府としても いい状況ではない わけです。

将軍 より 天皇だ となった 事を 
光格天皇 は チャンス だと 捉えたわけです。

  


でも 1歩 間違うと 

体制委任 をしているのに
政治に口を出すとは 何事かぁ。天皇 だまらっしゃい と
幕府 と朝廷 の関係が 壊れる事に なります。

光格天皇 は 
御所千度参り が始まって 人数が 増えてきた すぐに判断をして

6月12日 にはもう

関白 と  
朝廷の 幕府外交担当窓口 の 武家伝奏(てんそう) と
幕府の 朝廷外交担当窓口 の 京都所司代 で 話し合いが 行われます。

6月14日。
窮民(きゅうみん)救済 の 申入(もうしいいれ) を行っています。

江戸時代を通じて 
朝廷が 幕府に 申し入れするなんて無いんですから

文章ではなく 口頭で 腫れ物に触る ような おずおず
と いう スタイル で 申し入れをしています。



これによって 幕府は 500石 の 救い米 を放出しています。
そして
これを きっかけに 幕府は 倒れる 事になります。



先例 になってしまったからです。

民が 困っている
という事に 対しては 天皇は 政治介入 する 余地がある 
という 事に なってしまったんです。

これが 
結果 としては 
幕府を 追い詰めていく ように なっていくのですが

佐幕 と言って 幕府を補佐する。幕府と一緒に 難局を乗り切ろう
としていた
孫の 孝明天皇 の時に 活かされていく事と なります。



これから
幕末ですら
社会は 大混乱 になっていくわけですが

窮民救済 という事であれば 
天皇は 政治的意見を言える という 先例 となってしまいました。

船で来るので 足音とは 言わないかもしれませんが

徐々に 
外国の 軍隊の 足音が聞こえてくるわけです。 

有名な ペリー来航の前後に 多くの列強の国が 日本に やって来て
開国 を 求めるんです。

教科書 には 載っていないんですけども

文化元年。
1804年。
ロシアが 通商してほしい と 要求してきました。
日本は 通商を 拒否 しました。



怒った ロシアは
文化3年。
日本の 樺太を 攻撃しました。

鎌倉時代の 元寇から
525年ぶりに 外国から 攻撃されました。

ペリー来航 と言っても 開国は 要求したけれども
ペリー がいきなり 攻撃してきたわけじゃない じゃないですか。

ロシアは 開国要求 した上に 日本が 拒絶したら
攻撃までして来たんです。

大規模には ならなかった んですけども
翌年の 文化4年。

幕府は 朝廷に 
去年 ロシアが いきなり 攻めてきたんですけども この詳細を

幕府 としては 
朝廷 に ご報告 した方が よろしいでしょうか?
って
聞いちゃったわけですよ。

そうしたら 朝廷は
うん! 報告して欲しい! って 言うわけですね。

そして 幕府 は
わかりましたぁ! って 報告するんです。



ここで また 
幕府は 先例を 自ら つくってしまいました。

  

外交に 関わる問題は 幕府は 朝廷 に報告する

という 
先例 になって しまいました。

現在でも そうですが
官僚 というのは 先例主義なんです。

この後
第120代 仁考(にんこう)天皇 の時



天保の大飢饉 が来ました。

この時には 光格天皇 は上皇です。



大塩平八郎の乱 は 半日で 鎮圧されたので
ショボい乱 だったのですが 

島原の乱 以来 200年ぶり。 武士が 反乱 を起こしたんです。

光格上皇 は 窮民救済 に向けて 
今度は きちんと 文章で
民を 救え と 幕府に 伝えています。

第121代 孝明天皇 の時代になる と



外国から ガンガン 船が やって来て
開国しなかったら 撃つぞ とか 散々言われて 

幕府 対 朝廷 の争いではなく

幕末の中も
朝廷 の中 も
徳川親藩 の中でも

攘夷 か 開国か 2分割されて 
幕末の 大喧嘩 大動乱が 始まるように なります。

何かある度
朝廷 は 幕府に 
報告せよ 報告せよ 報告せよ と なり

  

孝明天皇 は 国民を守る ために
支持を 出しまくるようになります。





孝明天皇

光格天皇 が没し
第120代 仁考天皇 は 病で急に 崩御 になりました。

弘化3年。
1846年。
満15歳で 

第121代 孝明天皇 は ご即位 になります。



この年は
外国の 船が 日本に次々と 渡来してきたので
海防を 厳重にするようにと 勅命(ちょくめい)を下します。

この
海防の勅。 

天皇から 勅命が 幕府に下る というのは
後醍醐天皇 以来 500年ぶりの事でした。



窮民救済 に関わるならば 

天皇 は
国の 危機に当たっては 意見 する事はある。
重要な事は 報告せよ と 言う事はある。

という 形 になってきているわけです。

海防の勅 を 出しただけではなく
孝明天皇 は

自ら も祈り
京都 石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に 使者を派遣しまして

日本周辺の 海が 静かでありますように と
四海静謐(しかいせいひつ)を 祈願します。

天皇 ができる事は 祈る 事です。
そして
幕府を 激励 する事です。

報告を 受ける事で
あぁ~ 今 こういう状況なのね と知る。しらす存在なので 

状況を 把握する事で 祈れるわけです。

幕府に 頑張れぇぇ と 激を 飛ばす。 
朝廷 と 幕府が 一体となって 



この 難局 を 乗り越えて行こう とするわけなんですね。

国民を 愛する姿勢は 光格天皇 譲り で 



気概も 受け継がれています。

そして
嘉永6年。
1853年。
ペリー来航 です。アメリカの軍人は 艦隊を率いて 日本にやって来ました。

黒船 といっても 
実は 金属製 ではないんです。
木造船に 黒く塗っていた だけなんです。

木造船 4隻で もう 手も足も 出なく なっちったんです。



幕府の首脳は ペリーが やって来た時には
日本の軍事力 と アメリカの軍事力 は 話にならない
あぁ これは 無理だ と 悟っています。

江戸の街 京都の街 簡単に制圧されてしまう という風に 見たわけですね。
なので
開国するしかなかろう と思うわけなんですが

孝明天皇 は そうではなかった わけなんですね。

朝廷 の 
天皇の補佐役である 関白は 幕府の言いなりです。



幕府が 開国だ と言ったら 
関白 も 開国 です。

朝廷 は 真っ二つ です。

幕府首脳 は 開国 だと言うのですが

徳川親藩  譜代大名は 反対です。
水戸の 徳川斉昭(なりあき) は 徳川御三家 の1つですよ。



江戸幕府も 真っ二つ です。

ですから
ペリー来航 によって 政局が 大きく動きます。

孝明天皇 が わかりましたぁ 幕府 がそう言うんなら 開国 ですね
開国 OK!となれば

公武合体派(こうぶがったいは) と 
尊王攘夷派(そんのうじょういは)の 2つ に分かれて

幕末の政局が 動いいく事はなかったんです。

開国が嫌だ と言っている人は 始末されて終了です。

江戸時代の 天皇は 物言わぬ 天皇 でした。

ところが
孝明天皇は 物言う 天皇。




孝明天皇 の 外国を討ちち払う。入国させない

という 攘夷(じょうい)のお考えに

幕府 は 
絶対できなさそう なんだけどなぁと言いながら 

解りましたぁ 外国を討ち払いますぅ 攘夷しますぅ。 
でも 時間下さぁ~いって のらりくらり とやってたんですけど

孝明天皇 は
ところで 
いつ 譲位するんだね? と突き詰めるように

孝明天皇 と 
第14代 将軍 徳川家茂 は 約束 するわけです。



朝廷 と 幕府 の 力関係が 入れ替わってしまうんです。

  

これから 
本当の動乱に入っていきます。

ペリー来航 の 
嘉永6年。
1853年。
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) を 結びます。
仲良くしましょうね~ というのが 和親条約なので 中身は あまりありません。

安政3年。
1856年。
タウンゼント・ハリスが やって来ます。

マシュー・ペリー は軍人。 



今回の ハリスは 外交官です。



今度は 
日米通商条約(にちべいつうしゅじょうやく)を 結ぼう というわけです。

お互い 大使館 を置きましょう
盛んに 商売 取引しましょう って事ですから

通商条約 となると ガッツリ 付き合おう って話なわけです。 

この頃から もめます。
大反対 の声が あっち こっちから 上がるんです。

徳川御三家 の 
尾張 と 水戸が 反対 したんですね。



徳川家康からの 江戸幕府始まって以来 

幕府に中で 賛成 反対で ぐちゃぐちゃ になりました。
収集できないほど 幕府は 落ちぶれていました。

時の 老中首座  
今で言う 内閣総理大臣 を務める 
堀田正睦(ほったまさよし)は 困ってしまって 



天皇 の力を借りる事にしたんです。
力のある 徳川の江戸幕府で 今までそんなことは ありませんでした。

孝明天皇 に 
通商条約? うん。 よかろう。 
と 
鶴の 一声を 言っていただこう と  
勅許(ちょっきょ)を いただきに 江戸から 上洛して 京都に入ります。

朝廷の関白ら 公家の 上の方の人たちは 
勅許(ちょっきょ)を下す 朝議(ちょうぎ)が 決定しましたが

孝明天皇は
大反対 でした。



平成の時代に 
色々な人に 電話をかけまくる  ぶっちホン という総理がいたらしいですが

この当時
孝明天皇は あっちこっちに 手紙を書きまくるんですよ。

天皇の 御家来 のように見えますが

幕府に 
公家の 上の方の人たちは 買収されているわけです。
給料 は 幕府から 出ているからです。

第108代 後水尾(ごみずのお)天皇 の時に



紫衣(しえ)事件 といって

御水尾天皇 が 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにごけしょはっと) 
の規定 に反し 

幕府の 了解を得ずに 僧侶に 紫衣着用 を許可した 



と言って
僧侶を 流罪にした事件 がありましたが

関白 とか 公家の上層部の 人たちは 
幕府が派遣している 天皇の 監視役 みたいなものなんです。

孝明天皇 もよく 解っています。
どうしたかといったら

中の上(ちゅうのじょう)あたりの 微妙に位(くらい)がある 公家に 
手紙を 書きまくってるんですよ。

バンバン 手紙を 出しまくるんです。
手紙が 残っています。



頑張れ!
何とか 君たちの 力で ひっくり返せ 
幕府から お金 包まれても 受け取るな とか
通商条約 開国 しないぞ! とやるわけですよ。

何が起きたかというと
クーデター が起きちゃったですよ。

公家は 
あなたは この時間 と 

決められた時に 朝廷に 参内するんですけど
決められていない時に 朝廷に 参内するのは 違法なんです。

88人の 下級公家が 

関白邸 を囲んで 俺たちは 通商条約 認めない と言って
そんなもん お構いなし と 一斉に 列参したんです。 

そこで 勅許(ちょっきょ)拒否 になりました。

それが
堀田正睦(ほったまさよし)に伝えられると 関白の面前で 泣いた って言うんです。 

尾張 も 水戸も 
ほらぁ 開国 認められないってなって 徳川ぐちゃぐちゃ。

すごいお金をかけて 大名行列 を組んで 
江戸 から 京都に  行って

堀田正睦(まさよし) は これは 失脚案件 でした。

老中首座  
今で言う 内閣総理大臣 の 堀田正睦(まさよし) が 京都に行っている間
江戸では

井伊直弼が 大老 に就任しました。

掘田 が ポカ やった という事で
これは 政変です。

普段は置かれていない 大老 というのは 
老中首座 の上の存在です。
大老 言いなり の政治 になってしまうわけです。

朝廷に としては 勅許(ちょっきょ)拒否。
通商条約 しません と答えを出した にもかかわらず

井伊直弼 は 朝廷に無断で



日米通商条約を 締結してしまうんです。

孝明天皇
としたら どうなります? 

マジ ブチ切れるわけです。


  

バカらしい。 天皇なんか 辞めてやる! と言いました。

そもそも何で 掘田は 聞きに来たんだ って言うんですよ。

通商条約 の 意見くれって言うから 
駄目よ って 言ったら 

内緒で 無断で結んだわけでしょ。 

だったら 最初から 聞くなや! って 話です。
聞いたんだったら 守れや って 話なんです。

直ぐに 譲位 の意向を表明した 
怒りと 絶望に まみれた
こんなに苦しんだ 天皇はいるのか 

という内容の 

孝明天皇 直筆の 文章が 残されています。

古書に 記される通り
元来 帝位を 踏むことは 容易なことではない。

唐(から・支那)においては 子孫に限らず 例え平民でも 賢才があれば
皇帝になることができる。

しかし 
日本では 帝位は 子孫による相続が 正流であり 他流を用いない。

統仁(おさひと・孝明天皇)においても 愚かで 才能に乏しいながら
その 血脈が 
違(たが)わぬことを以て 皇位を継いだが 践祚は固く 辞退すべきだった。

去る安政元年(1854)
諸国の変事が 数度あり 

万民が 不安を感じるに至ったのは 皆 統仁の 薄徳によるものである。

謹んで 国を治めるつもりだが 
異国船が度々渡来し 来使節は 和親通商を乞い 表面上は 親睦の情を述べ
実は後年 
日本を併合する 意図の見える条約である。

幕府の閣老を通じて 問い合わせがあり 昼夜考えを巡らせたが 
実に以て
神州(しんしゅう)の瑕瑾(傷付くこと) 許すまじきことである。

しかし もしこれを許さなければ 戦争に及ぶことになる。

人々の気は怠慢で 武備は整わず 諸外国に敵することは難しい。
武士の名目で 例え 平和な治世が続いているとしても 
戦えないということでは 実に 征夷大将軍の職官として 嘆かわしい。

政務は 関東(幕府)に委任してあるので 強くいうと 公武(朝廷と幕府)の関係に影響があるが
条約の一件は どこまでも 許容いたし難い。

昨日 武家伝奏が持参した書状(調印したという報せ)見たところ 
誠に以て 存外の次第 実に悲痛などという程度のものではなく
言語に尽くし難い。

この一大事に 愚かな 統仁 (おさひと・孝明天皇)願うに 

このまま帝位にいて 聖跡を穢しても 実に恐懼(きょうく)にたえず
誠に以て 嘆かわしいことであり 英明の人に 帝位を譲りたい。

とても帝位の居り 万機の政務を聴き 国を治めること 力に及ばず
その上 夷(えびす)一件で 諸外国の申すまま聞いては 

天神地祇(てんじんちぎ・天の神。地上の神))
皇祖(初代天皇)に対し奉り 申し訳なく かつ 所詮意見を述べたとしても

今回のように無視される次第 
実に以って 身体ここに 極まり手足を置く所もない状況に至った。

何卒 帝位を他人に譲ることを決心したので 
早々関東(幕府)へ通達するように。
安政5年。6月28日。 孝明天皇紀。

戦後の歴史学者は
孝明天皇は 

ただの わがまま だと。
ただの 外国嫌い だと。

鎖国だ 鎖国だ とギャアギャア 騒ぎやがって 
という 感じで 評価する 人が ほとんどなんです。

孝明天皇は



欧米列強 や
日米修好通商条約 は 表面上いい事 書いてあるけれども
絶対 将来 彼らは 

日本を 併合するつもりだろう という所 まで 見抜いていたんです。

天皇 が色々言うと 公武合体 に問題が出るので
あまり言うべきでは 無いんだけれども

これに関しては 許す事は できないんだ と 悩んでいるわけです。

ただ 外国が 怖い 怖い ではなく 
ちゃんと 分析しているんですね。 その上で 駄目だ って言ってるのに

無断で 日米修好通商条約 調印されたら 

そりゃあ 怒りますよ。

周りの 朝廷の首脳たちは
陛下 何とか お鎮まり下さい という事で

戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)に つながって行きます。

戊午(ぼご)
という その年の 干支。 年回りに出された

水戸藩への お手紙で



他の藩 みんな
一致協力して 外国人 にあたるように という事を

水戸藩へ 出しただけです。
密勅(みっちょく) でも 何でもありません。

徳川本家の 将軍家のみが 天皇と やり取りができるので
水戸藩 の 
徳川斉昭(なりあき)にも お手紙は禁止でした。



しかし
水戸藩は 孝明天皇からの お手紙を 受け取ってしまった。

お手紙を 出した 朝廷側の人間。
お手紙を 受け取った側の 水戸藩の人間。 
ほとんど

安政の大獄で 捕まって 処刑 されたわけです。
幕府が 公家を 処罰していくわけです。



あんたみたいな 人が こういう思想をやっているから 
こういう事が 起きるんだ って

吉田松陰 



梅田雲濱(うんぴん) 



橋本佐内(さない) など



関係ない人も どんどん 捕まって 処刑されました。
幕末の志士 も
安政の大獄 で 捕まっています。

将軍本家 しか 天皇に アクセスしてはいけないいんです。

幕府も 弱り目になると 狂暴になりますよね。

諸藩が 天皇と やり取りを始めたら 
幕府は滅びると 危機感を つのらせたんでしょう。

その後 何が起きたか といったら

万延元年。
1860年。
桜田門外の変 が起きました。

水戸の浪士に 
大老 井伊直弼(いいなおすけ)は 暗殺 されるんです。



水戸藩 相当怒ったんですよね。

俺ら 徳川御三家 だぞ。
天皇 からの お手紙 受け取って 何が悪いんじゃい。

そもそも あんたが
朝廷の命令に 違反して 条約を結んだ。
それが 事の発端 じゃないのか と。

何で 水戸藩の従人が 次々と処刑されなきゃ なんないんじぁい と

藩士 の立場で 暗殺すると 藩に迷惑をかけるとまずいので
藩を捨ててまで
浪人 となって 待ち伏せて  一気に殺したわけですよ。

大老という トップが 暗殺された。
徳川幕府 にとって 最悪ですよ。
何やってんの?って感じで

ペリー来航以降 幕府は ボロボロなわけです。

公家たちを 弾圧した。
本人は 殺された。

で どうすんの? って言ったら 真反対 に行くわけですよ。

今度は
朝廷と 融和 しなきゃ。 と なるわけですよ。



孝明天皇 様が 
幕府を 信認して下さるようにぃ~ って そこに持っていくんです。
孝明天皇の人気は うなぎ登り ですからね。



周りが
これは 天皇の 言う事は 分があるな 
という風に なってきているわけです。

徳川の 幕藩体制は 天皇の人気にすがろうと 
そこまで落ちぶれたわけです。

朝廷の中にも
幕府の中にも  朝廷と 幕府が 仲良くなって行こうという 
公武合体派(こうぶがったいは)がいるわけです。
その中心が

朝廷 の中心は 岩倉具視(ともみ)。



幕府は 井伊直弼(いいなおすけ)の 次の 
安藤信正(のぶまさ)政権 です。 



こういう 幕閣が 
公武合体派 と 水面下でつるんで 話をつくりあげました。

文久元年。
1861年。
皇女 和宮(かずのみや) の降嫁(こうか) です。
和宮 は 孝明天皇 の妹です。



天皇 の妹が 
第14代将軍 徳川家茂(いえもち) と 結婚をする。



目に見えてわかりやすい 公武合体 です。
こういう事を考えるのは 頭のいい 岩倉具視 です。

しかし 
呼び戻しが 起きるんですね。

誰だ こんなもの考えたのは。
幕府 如きにに 天皇の 妹が 嫁がなきゃならんのじゃ 汚らわしい。

孝明天皇は 外国を討ち払う 攘夷(じょうい) だと言ってるんだ。
将軍 は 開国だろ。とんでもない。

これで 一気に 尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に 火が付くんです。

幕府と 手を組んではいけない。
天皇を 尊重しなければ 駄目だ。 となるんです。

今度は

坂下門外の変 で 
安藤信正が殺される 一歩手前 まで行きました。

幕府の トップが 暗殺未遂 を くらうわけですから 
幕府の力が 更に落ちるんですね。

幕末の 政局は
幕府 と 朝廷 が 喧嘩しているわけではないんです。

ハリス が 日米修好通商条約 を持ち込んだ。

幕府 が 真っ二つ に割れた。
朝廷 も 真っ二つ に割れた。

最初は  開国か 鎖国か だったんですけども



時々刻々 と変化 していくわけです。

孝明天皇 は
攘夷派 で 佐幕派 です。

幕府 の力 を借りて 攘夷 をしようとしています。
幕府 を倒せ なんて  1言も いっていません。
幕府 と共に 攘夷 をしよう と言い続けています。

佐幕 は 朝廷から見て 幕府を支える 意味です。



公武合体 と 同じような 意味です。

対幕府強硬 は  幕府を軽んじる。幕府が なんぼのもんじゃい という人たちです。

攘夷 は 外国を討ち払う という意味です。

開国 は 通商条約  を結んで 外国と仲良くしよう という人たちです。

孝明天皇  の意に反して
幕府首脳は 開国 ですからね。

孝明天皇 は 攘夷 に こだわりました。

そうすると
尊王攘夷派 というのが 出来てくるんですよ。



孝明天皇 が 攘夷 と おっしゃっているじゃないか 

攘夷派 が 尊王 と セット になりました。 

尊王 は 
幕府 黙れ! という 極端な人たち ですから
対幕府強硬 なんです。

方や
孝明天皇 が 佐幕 と おっしゃっているじゃないか

佐幕派 が 公武合体派 となりました。

そして この 2つ のグループ
尊王攘夷派 と 公武合体派 が いがみ合うんです。
殺し合い になります。



日本 は 真っ二つ になりました。

井伊直弼 は 
開国派 であり 公武合体派 でした。

戊午(ぼご)の密勅 で 
水戸藩は 手紙を受け取った時
公武合体 が崩れる だから 余計な事るなぁ と

攘夷 を あおった人たちは 徹底的に 弾圧されました。
尊王攘夷 なんて あっちゃいかんっ て

だから ここで 
吉田松陰 も 捕まってしまうんです。

ところが
井伊直弼 が 桜田門外 で 殺されると
一気に 公武合体派 が シュンっ て 力を失ってしまいました。

幕府の トップも
朝廷の トップ も 公武合体派 なんですね。



下級公家 とか 幕府の
中くらいから下
徳川御三家 も 尊王攘夷派 です。

孝明天皇 からすると 
開国は 一致しないけれども 公武合体 という理念は一致します。
尊王攘夷派 は 攘夷 という点で 一致します。

日米修好通商条約 を 勅許 していれば 
2つの勢力 に 分かれる事は なかったんです。

公武合体派 は 
皇女 和宮の降嫁 をするのですが
安藤信正 の 暗殺未遂の 坂下門外 で また 力を落とすんですね。

今度は 尊王攘夷派 は
公武合体 に 加担 した人を 次々と 暗殺 していくんです。
まさに
天誅(てんちゅう)をくらわす って やつですね。

鴨川 の所で さらし首 になったわけです。

岩倉具視(いわくらともみ) も 寸前の所で 殺されそうに なりましたが



三条実美(さんじょうさねとみ) など 



朝廷の公家 上層部にいた 公武合体派 は 
ことごとく 失脚です。パージ されました。

京都は 尊王攘夷派 が支配するようになるわけです。

幕府は  
孝明天皇 の言う 攘夷 は

絶対 できなさそうだけどなぁ 
と言いながら 

解りましたぁ 外国を討ち払いますぅ 攘夷しますぅ。 でも 時間下さぁ~い って

初めは 
10年 くらいを目途に考えていたのですが

孝明天皇 は 焦りもあり

いつなのか? 早められないのか? と 
京都 から 江戸に 天皇の勅使(ちょくし)を派遣します。

この時に 
江戸時代を通じて 初めて

天皇の勅使が 大広間の 上段 に着座し
将軍が その下座に 平服して 天皇の 勅使を受け取る という

正常な 作法 に変わりました。

  

そして
将軍 徳川家茂 が 京都に 上洛 するのも 229年ぶりでした。

孝明天皇の 妹 和宮が 



徳川家茂のところに 嫁いでいるので
徳川家茂 からすると 義理のお兄様 です。

皇女 和宮 は 1度 天皇の養子 となって嫁いでますから
徳川家茂 からすると 義理の父 でもあるんですね。

その 徳川家茂 が 孝明天皇 と対面します。



初めは 和宮 が 江戸に下って 武家に嫁ぐのを 
孝明天皇は 反対したんです。

でも あまりにも 
朝廷も 幕府も 何とかお願いします と言うので 嫁がせたのですが

徳川家茂 は体が 弱かったので 長い結婚生活 ではなかったのですが
好い夫婦に なったそうです。

徳川家茂 は 京都に上洛 参内(さんだい)した時に
孝明天皇 に 
ところで 攘夷 を督促したけど いつなんだね? と 詰め寄られます。

そこで 家茂 は 苦し紛れに 
5月10日には 攘夷 決行します と 言ってしまいます。

徳川 から
軟禁状態 に近い 天皇は
江戸時代は 御所 から 外に出た事がなく

しかし この時 
孝明天皇は 関係ねぇ って
250年 ぶり くらいに



外国 を討ち払う ための
攘夷祈願 に
石清水社 と 賀茂社 に行っちゃったんですよ。

石清水八幡宮 と 上賀茂神社  下賀茂神社 です。

天皇 の行列に 将軍 が供奉(ぐぶ)するんです。 着き従うんです。
それを
京都の人が見て 幕府 より 朝廷 の方が 上なんだ というのが わかったんです。


  

言い伝えによると 
ここで 高杉晋作が 弱腰で力の無い 幕府 将軍に対して 

 


よっ! 征夷大将軍 ! と 声をかけた という事です。

そして 迎えた
5月10日

将軍 徳川家茂 は
孝明天皇 と 攘夷を 約束はしたけれども 

絶対実行は できない とわかっています。
それから 

全国の 諸大名も やります やります と言いながら 
力の差で 実際に 
外国を追い払う なんてできないのは わかっています。

しかし
全国ある藩で 1藩 だけ やっちゃった所が あるんです。

それが 長州藩 でした。



長州は 今で言う 山口県です。
九州 と 本州の間の 関門海峡 を通過する 
アメリカ ・ フランス ・ オランダの 外国船に対して




5月10日 
次々と 大砲を打ち込んでしまったんです。

これで 外国は 激怒です。 

そして
文久3年。
8月18日。818 の政変が 起きます。

朝廷 にいた 
尊王攘夷派の 公家
三条実美(さんじょうさねとみ)や 長州藩が 追放されました。

これによって 公武合体派が 政権を 取り戻しました。

次に 薩英戦争です。

薩摩 と



イギリス が 戦った戦争です。
きっかけに なったのは 生麦事件 です。

神奈川県 鶴見区に 生麦 という 地名が あります。
そこを 薩摩の 大名行列 が通った時に 
大名行列には 平服する という事が

イギリスの外交官が よくわからずに そこを 横切ってしまったんです。

そして 無礼討ち を されてしまったわけです。

薩摩が ちゃんと 賠償を しなかった事もあり
何 ウチの外交官 傷つけてんだよ って
怒ったのは イギリスです。




キレて 薩摩を 攻めるわけです。

今の イギリス と違って 
当時は 大英帝国 と言って 
世界中に 植民地支配をしていた 大国です。

薩英戦争 って 

大英帝国 と 日本の戦いじゃあないんですよ。
大英帝国 対 鹿児島県 ですからね。よくやりましたよね。

薩摩側は ボロ負けです。

ここで 何が起きたかというと
尊王攘夷派 だった 薩摩が 実際にイギリスと戦ってみて 

こら あかんわ と 



攘夷 なんて 無理っ となったわけです。

薩摩 が 開国派 に寝返ったんですよ。

元治元年。
1864年。
蛤(はまぐり)御門の変 が起きます。



ついに 長州が 御所 を攻撃するんです。
長州 って バリバリの 尊王攘夷派 ですが 

何故 御所 を 攻撃したんですか?

京都御所 には 蛤御門 と言って 
ハマグリ なので いつも閉まっている 門 なんです。
開かずの門 なんです。

ハマグリって 火にかけたら パカって空きますよね。
蛤御門 が開く時は 
火事が起きて 避難 する時だけ 開くんです。



蛤御門 の 前で起きた戦争なので 蛤御門の変 と言います。

御所の 門外 で 戦闘が 起きたのは 
応仁の乱 以来 387年ぶりです。
御所 自体が攻撃 されたのは  後醍醐天皇 の時の 533年ぶりです。

長州 は 
会津 と 薩摩 と意見が 合わず

主張を譲れない 確執 があったわけです。

長州 は 
朝廷を 守っている人たちが よくない人たちだ と 
彼らを 一掃 しなければいけない と 御所 を攻めるんです。



御所 を攻める と言っても 

天皇を 攻める わけではなくて 
天皇を 守っている 長州 から見ると 輩(やから)。連中 が

会津 であり 薩摩 なわけですよ。

 

会津 は 天皇を 守る役割 を任命されて
松平容保(かたもり)は 孝明天皇 を守る 公武合体派 ですので 



それに対して
長州 は 尊王攘夷派 です。

長州の 御所 を攻める行動の 形は
たとえ 朝敵 に見えても 信条は 尊王であるという事で

蛤御門を守っている 会津 と 薩摩 を攻めたわけです。
しかし 攻めたものの 成果は 上がりません。

今度は
長州が
御所 を攻めたという事は 賊軍ですから 誅伐(ちゅうばつ)しなくてはいけない
という事で 

長州 を叩き潰す。

アメリカ と イギリス と フランス と オランダ の 
4か国連合艦隊で 山口県 を 攻める



馬関戦争 が起きるんです。

長州藩 からしてみたら 踏んだり蹴ったり なんです。
戦意喪失 です。
バリバリ 尊王攘夷派 から 開国派の方へ。
しかし 対幕府強硬 です。

薩摩は もともと 尊王攘夷派 でしたが
薩英戦争 で 実際 イギリス と戦って イギリスは 強すぎる と悟って 

むしろ 公武合体派。
幕府の言う 開国をして 
貿易の利益を 外国から取れ という風に なっていったわけです。

しかし

長州に 御所 は攻められるし 
御所で 戦闘があるなんて ありえないし
長州を 攻めるけども 上手く いかないんです。

あまりにも 幕府が ダメダメ すぎて



幕府を 支える価値 ないだろう となってしまって
示しが付かない という事で

薩摩は
開国 と 対幕府強硬 にいったわけです。

ここで 現れたのが 坂本龍馬 です。



悲劇の会津は 公武合体派 に残るのですが

慶應2年。
1866年。
薩長同盟 です。

薩摩 と 長州 は
馬が合うはず ないんです。
水と油 なわけです。覇権争いをしていたんです。

しかし

もともと
尊王攘夷派 で 
馬関戦争 で 外国の強さを知った 長州 と

もともと 
公武合体派 だったのが
開国派 になり  幕府に 見切りをつけた 薩摩が 

犬猿の仲 だった 薩摩 と 長州 が

お宅も? はい お宅も?
幕府って もうダメじゃない?
やっぱ 開国しかない よね? って 一致 しちゃうんですね。

薩長同盟 です。

ここに来て
倒幕派 っていうのが できちゃうんですよ。



倒幕派 ができると 何が起きるか というと
倒幕派 の前に立ちはだかる のは 

天皇です。



孝明天皇 は 公武合体 なので

幕府 と共に一緒になって 難局を 切り抜いて行こう
という事に こだわりがありました。

倒幕派 ができたけども
天皇が 反対している以上 倒幕 はなかなかできませんよ。

この段階で

孝明天皇 が 
倒幕 の 障壁。防波堤 みたいになっちゃったんです。

朝廷から 尊王攘夷派 は一掃されてしまいましたから
天皇 の 攘夷思想を 支える人は 

朝廷には いなくなっちゃったんです。

そこで
外国の 軍艦が来て 

慶應元年 
1865年。
イギリス・フランス・ オランダ の連合艦隊 が 兵庫沖に侵入するという



兵庫開港要求事件 が起き 条約を結べって 

朝廷は 安政5か国条約 の勅許 を与えます。

孝明天皇 の信念。
攘夷 がここで 破られるんです。

日本の中は 
公武合体派 は 開国派 と一緒になり 
そして 倒幕派。

外国を討ち払う と言っているのは 天皇だけに なってしまいました。



幕府を 守る 体制なのか
幕府を 倒す 体制なのか

この 2極対立  になっていきます。

長州藩を 征伐する
第2次 征長戦争 が始まりますが 幕府はうまくできませんでした。
いよいよ 幕府は 面目丸つぶれです。

ここで
徳川家茂 が死ぬんです。


誰を 将軍にすんの? って話が 持ちあがりました。

この段階で
尊王攘夷派 と 開国派 は無くなっています。
もはや もう 開国 しか ないんだから。



公武合体派 と 倒幕派 の 2つ しか ないんです。

でも
公武合体 は 無理でしょう。
幕府は 死に体 になっているんですから。



いよいよ 倒幕 しかないよね
ってなった時に

最後の 障壁になったのは

天皇 です。



ところが 不思議な事に 
倒幕派にしたら 絶好のタイミングで

孝明天皇が 亡くなるんです。

あまりにも タイミングが 絶妙なので 当初から
これは
暗殺 されたんではないか と ずぅ~っと言われてきたんです。

徳川家茂 が死に
第15代 将軍が 徳川慶喜 になり



慶應 2年。
1866年。
12月16日 に 孝明天皇 は 
痘瘡(とうそう) つまり 天然痘 と診断されます。



天然痘 というのは ウイルスですけれども
結構 怖い病気でして 致死率が高いという事です。

かかって
峠を 超えられれば 治る という事ですが
超えられなければ そのまま死んでしまう人が 多かったわけです。

天然痘ウイルス が 初め  体内に増えていって
熱が出たり 排泄があって



峠 を過ぎると  すぅ~と ウイルス量が減っていって
治る という事 なんです。

ウイルス量 が増えたり 減ったり という事は ないそうなんです。

孝明天皇 は
しばらくたって 熱も下がって かさぶた になって取れ始めて

これは 明らかに 峠の山を 越えましたね と
善くなってきたんです。

良かった 良かった 天皇陛下 お元気に成られてきて となりました。

孝明天皇紀 に 
孝明天皇を 診た医師の 拝診記録が 戦後 出てきたんですね。
かなり細かい 病状の変化が 書かれていたわけですね。



宮中の 記録も
病気 が 治った お祝いをしましょう と 
計画の日程まで 立てているんです。

もう完全に 孝明天皇は 治るコースに入っているわけです。

ところが
12月24日 夜 容体が 急変しました。

そして
12月25日 崩御 です。



峠を越えたのに 何で 24日 急変 したんですか?

崩御 の様子なんですが
孝明天皇 の 壮絶な 文言が 孝明天皇紀 にあります。

九穴(きゅうけつ) より 御脱血(ごだっけつ)。

口から 目からも 鼻から  耳からも 
9つ の穴から 血が 噴き出していた という事 なんですね。

それって
天然痘 の症状 じゃ ないんですね。
天然痘 は 熱や 吐いたり 下痢をしたり を 繰り返します。

急性毒物中毒が 疑われるんですが
当時 容易に入手ができた 毒物が

ヒ素 なんです。 急性ヒ素中毒と酷似するんです。
粘膜が ただれていく様子で 
血が 噴き出していた 壮絶な 死 です。

これは 戦後 公表され 



孝明天皇 と 明治天皇 に従事した

伊良子光順(いらこみつおさ) という 
当時のお医者さんの 拝診記録がありますので 

現在の ウイルスと 急性毒物中毒の専門家 と
死後 何時間 経過しています というのを調べる 法医学 の専門家に

孝明天皇の 拝診記録を見てもらって
孝明天皇の 死因 は 何だったのか伺ったところ

天然痘 である可能性は 0%。
じゃ 何ですか? と言えば

急性ヒ素中毒と 断定 までできないが その可能性は極めて高い。
急性ヒ素中毒で 亡くなった ご遺体は ニンニクのような臭い がするらしいんですって。

当時の 拝診記録に 
臭い というのは 書かない方がいい と書かなかったのか
臭い が無かったから 書かなかったのか 

そこまで 書かれていないので
断定は できませんが
急性ヒ素中毒と 酷似 している という事です。

クラスター みたいに なっていたら 
あぁぁ 天皇 にうつっちゃったんだ となりますが

当時
皇居の中に 出入りした人の中で 天然痘 に かかった人は
1人も いないんです。
誰 1人 天然痘 にかかってないんです。

女官 とか 宮中に 出入りできる資格を持つ人 全部見ても 
誰も 天然痘に かかっていないんです。

誰から うつったんだ って 話ですよ。

つまり
孝明天皇 が 天然痘にかかった時点で 既に

生物テロ である 可能性が 高い。
生物テロ と言わない限り 説明が つかないわけです。



かつて
西部開拓で ネイティブ・アメリカン の集落を 消し去るために
天然痘 の菌の付いた タオルを 送り込んだらしいんです。

その タオルを 使った人たちが 
みんな 天然痘 にかかった という事が あるので

唯一
このルートなら 混入可能だなぁ という意見があります。

普通だったら 体内に入れるもので 食べ物に入れると思うんですね。
天皇の 召し上がる お食事は
必ず 毒見が付くんです。

不用意に 食事に 天然痘 を入れちゃうと
毒見した時に みんな 天然痘 にかかっちゃいますから
誰入れたかって わかっちゃいますよね。

天皇が お口になさるもので 唯一 毒見 をしないものがあるんです。
それが
お酒 なんですね。

孝明天皇は 大の 日本酒好きでした。

日本酒に 天然痘ウイルス を入れておけば 
孝明天皇の 口にだけに入るんですね。



ところが
治っちゃったんですよ。

暗殺者からしたら ショックでしょ。至難の業ですよ。
せっかく 天然痘 にかかるところまで 仕組んだのに 
治っちゃったわけですよ。

好くなってきて 久しぶりに お酒を飲もうかなぁ というところで

今度は 違うものを 盛ればいい。

天然痘 は 対抗 ができていますから
次は 毒だ と言って 

毒を 盛ったんではないか と。

これは
今の 医学の知識で言える事なので 当時はわからない。  

天然痘 にかかりました。
善くくなってきたが 急変して 亡くなりました。
これ
天然痘で 亡くなったと思うでしょ。誰も 疑わないですよ。

こういう 生物テロ 暗殺計画が 
行われたのではないか と 分析されています。

倒幕をする グループの中で 天皇 さえいなくなれば 
倒幕を 実現できるんじゃないか

そんな風に思った人が 密かに 実行したのではないか。
それは 
何の証拠も出てこないので 誰かは わかりません。

上の者の考えを 忖度(そんたく)して その人が自主的に動いて
実行したのか わかりません。



昔から 完璧なタイミングの
孝明天皇 の崩御は 怪しい 怪しい と言われ続けてきました。

崩御が 数か月 早ければまだ 倒幕の気が 熟していませんから。

一気に 大政奉還
王政復古の大号令 という流れには ならなかったでしょう。

かといって
孝明天皇が 半年 1年 生きていたら

幕府を倒すのに 
朝廷は 反対するのか。だったら 一緒に倒すぞって

天皇ごと 倒されていた 可能性があります。

それを 考えると 孝明天皇の 亡くなるタイミングが 絶妙なんです。
早すぎても 遅すぎても 駄目でした。



孝明天皇 は
倒幕 に反対 と言い続けました。
そして
開国に 反対 と言い続けました。

これによって 幕末の政局が生まれました。

本来であれば 旧体制として 
幕府と 朝廷。
共に 倒されるのが 世界の歴史の流れ なんです。

ところが
孝明天皇 が 
佐幕 であり 攘夷 という 

微妙な ポジションを取った事によって

日本が 真っ二つ に分れ 
尊王攘夷派 と 開国派 公武合体派 という形で 覇権争いをしたわけですよね。

ところが
現実路線で見たら 倒幕か 公武合体か しかなくなった。
その時に 最後 壁になったのが



天皇 である という事です。

政局 をつくったのが 天皇 でした。
しかも このタイミングで 亡くなる事で 倒幕が 実行された。

ですから 孝明天皇は

生きて 国を 守り
死んで 国を 守った方 なんですね。



孝明天皇 という 非常に 個性を持った方。
後醍醐天皇 を 彷彿とさせる 凄まじい方 ですよ。

光格天皇から 受け継いだ
天皇 としての 自覚を 

何とか 燃え滾(たぎ)らせた事だと思いますよ。

最後
政局 をつくり 死ぬ事によって

大政奉還
王政復古の大号令 ですから。



偶然 なのか 
必然 なのか わかりません。

そして まだ 14歳の少年 



孝明天皇 の 長男であられた
明治天皇 が ご即位 になられます。

孝明天皇は まだ宝算37 満35歳でした。

まだまだ 若く 
お元気で いらしたはずの方が いきなり 崩御 となり

右も 左も わからない少年が 天皇になられた。
これが 明治天皇 なわけなんです。

第15代 将軍 になった 徳川慶喜 は
土佐藩の 勧めもあって 大政奉還 をしたわけです。

大政奉還 をしておけば 諸大名を束ねる役目 としての
何らかの 大きな力を 保っていられると思っていたんでしょうね。

引き続き 徳川 頼む と
徳川は 生き残れる と 思ったでしょうね。

でも ここで
事実上の クーデター。王政復古の大号令 が起き

徳川幕府は 倒されました。
王政復古の大号令 を 描いたのは

岩倉具視 ですから。



皇女 和宮の降嫁 の後
尊王攘夷 の嵐が吹き荒れて 
公武合体派の 公家が ことごとく 一掃されました。

この時に 失脚したのが 岩倉具視 だったわけです。

何年も 
京都 岩倉村 で隠れて生きていたわけなんですけども

その
失脚して 浪人中の間に
明治維新後の 日本の在り方を ひたすら考えていました。



終戦後 多少 変わったところもありますが
今の日本の国家の体制は 
基本的に

岩倉具視 の 頭の中でつくられたものです。

この後

戊辰戦争の始まり。
京都での 鳥羽伏見(とば ふしみ)の戦い。

明治新政府の 薩摩 長州 土佐 を中心とした 新政府軍

奥州 出羽 越後の 奥羽越列藩同盟が 旧幕府軍と一緒になって戦った 日本の内戦
戊辰戦争(ぼしんせんそう)。

函館戦争。五稜郭の戦い を以て 

幕末の戦闘は 終結します。





明治天皇

明治天皇は 何した人 というと 何も しなかったんです。



自分が これをやった とか これを成し遂げた という 
個人の名声 とか 個人の評価 というものには 全く 興味がなかったんですね。

いかに日本が 豊かな国になれるのか いい国になれるのか 人々が幸せで 平和な日々を 過ごせるのか
というのが 最大な関心ごとで

わたくしとか 自分 とか どう評価されるか 全く 何の興味も 無かった人 みたいなんですね。

なんかうまくいったら 国民のお蔭。大臣たちがが 軍人たちが 頑張ったから 努力したからのであって
いい事は 全部 みんなのお蔭。
悪い事が起きたら それは 全部 天皇である 自分の責任 という方で

手柄を持っていく という感んじではないんです。

乃木が 頑張った。
東郷が 頑張った。
伊藤博文が 頑張った。

国民が 努力した。
兵隊が 努力した。



自分が とか関係ないんですね。
だから 何をした って言われても 明治天皇 これをって ないんですね。

普通 歴史上に名を残した王は たいてい これをやった あれをやった って語られますが

本当に偉大な王 というのは 自分で何かをやった とかじゃなくて
ただ 存在するだけで みんんが 1つになって 国民が 最高の働きをすることができる。

そういう国があるとしたら その王は すごい王 だと思います。

明治天皇は 一見 何もしていないんですけども 
全てをした ともいえるんですね。

明治天皇は ストイックで 自分に厳しいです。
そして 誰よりも 国民を愛し 幸せを祈り続ける


戦争の時は いつも 戦場の兵士たちと 同じ気持ちを持ち続けている という

そういう方の 前に出た時に どういう気持ちになるか って事ですよ。

もし 明治天皇 という方が だらしなくて 自分に甘くて という人だったら
総理大臣とか 軍の責任者という立場で 会った時に
まあ 自分も そんな感じで いいのかなぁ って思っちゃいますよね。

明治天皇が ストイックで 自分に厳しい方だからこそ 自分に厳しくなくてはいけないな と思いますよね。

自分の能力が 100だとすると
明治天皇から 頼んだ! と言われたら 120 できちゃうんですよ。130 できちゃうんですよ。

明治天皇という方は 1人 1人を 的確に信認し その力を 最大限引き出していく という
そういう役割を 担ったんじゃないかなぁと思うんです。



大日本帝国憲法が 審議された時も 全ての会議に 明治天皇が臨御されるわけですよ。
明治天皇が 見ていらっしゃる前で 審議するんです。
どれほどの 緊張感が 走ったと思いますか。
私利私欲。 党利党略。 いろいろな 有象無象の こうなったら うち等のグループ 得する とか
頭をよぎる隙間も なかったはずです。

誰よりも 日本を愛している 明治天皇が 見てらっしゃる。




その前で 
わたくし自身の利益なんか そんなものは どうでもいいい というか 

みんな日本の将来の事を 真剣に考えたはずなんです。

もちろん ご発言は無いです。
的確にアドバイスする とかそういうのじゃあ ないんです。
何もアドバイスはしません。
何も意見は 述べません。

でも

誰よりも 国民を愛し 
誰よりも 平和を愛し 
誰よりも 自分を 律している方から

頼んだ! と。言われるから みんな最大の力を出すわけなんですよね。

明治天皇にまつわる話の 1つ 1つは すごいなぁ と思う逸話が多いです。

日露戦争が始まると 明治天皇は 食を減らすんですね。

兵士たちが 戦場で ろくろく食事が 食べられていないって知っているわけですよ。
なので 明治天皇は お米と 梅干だけ。

    

天皇が ですよ!?

伊藤博文が 見ちゃったんですよ。

報告する時効があれば いつでもしなさい。
天皇である 私が 寝ている時でも 構わない。 食事をしている時でも 構わない。いつでも報告するように。
という事だったので 
お昼の時間であることを 承知に 上がって報告しようとしたら

明治天皇が召し上がっている 昼ごはんを チラ見してしまうんですね。




伊藤博文は ビックリ します。  ご飯と 梅ぼし。 以上。

自分の方が いいもん食べてるわけですよ。

たまたま急に 報告に来たから 見せる必要もない ご飯が 見られてしまったんですよ。

それを見た 伊藤博文はショックを受けるんですよ。
そこまでしてね
戦場の兵士の事を 想ってらっしゃるのかと。

明治天皇も このような食事をしているとは 自分から言わないし 公表も 発表も しませんよ。
兵士の事を想うと 美味しいものを たらふく食べるなんて気に ならないわけですよ。

普段から そういう気迫が伝わってきます。

明治天皇は 自らを律していらっしゃるんだなぁ と。
皆 知ってたけども 見てしまうと あぁぁ~ そこまで。 となるわけですよ。

明治天皇は 日本の未来のために 自分に厳しい方。
ですので 

喉が痛い とか
寒い とか 暑い とか
眠い とか

自分に 関する事は 一言も おっしゃらなかったそうです。

虫歯になっても 痛さに耐え抜いて 一言も 痛いも何も おっしゃらずに ついに治療も お許しにならなかった
という風に 伝えられているんですね。

一君万民のため 民を混乱させないように
自分の好みも 
自分は これが好き これは嫌い などは一切 おっしゃらなかったそうです。

ですから 明治天皇に接した 多くの人たちは 
何とか日本を守りたい。日本人を幸せにしたい。世界を平和に導きたい。
そういう想いで 必死になって 仕事をしたんですね。



その結果 
1968年 明治元年 慶應4年ですわ。

この時の日本なんて まだ産業革命もないですし 兵器は 刀 しかなかったし
たった 4隻の 船が来ただけで 外国の言いなりになっていたわけです。植民地にされてしまう。

その日本が 明治時代を通じて 劇的に変わったんですよ。

清    と戦って 勝ったんですよ。
ロシア  と戦って 勝ったんですよ。

日本と イギリスは 同盟国になったんですよ。

不平等条約を 解消していって 憲法をつくり 法律をつくり 法治国家となり
議会を設置し 議会で民主主義的に 物事を決めていく。

世界の列強グループからは 信頼に至る パートナー だと見られるようになったわけです。

そして 研究 開発 産業 農業 工業 いろいろな分野で 日本は経済を積み上げていきまして

明治元年に 掲げた 富国強兵という 日本は 強くて 豊かな国になるんだ。
それでいて 初めて 外国からの侵略を 受けない国になる。

みんなで 経済を高めて 近代化 を果たしていったわけです。

これは
明治天皇ですよ。明治天皇がいらしたから 国民の気持ちが バァーン と1つに まとまったわけです。
朝鮮みたいに 内紛 内輪もめしている場合じゃないですよ。



挙国一致。一致団結して 国を豊かにしていこう。近代国家になっていこう と
みんなで 力を結集したからです。

もちろん 日常の 政治事の 意見の対立は あるでしょう。
でも 1つの 目的に向かっての 大方針には みんなが乗っかってたんだから。

よく 天皇の事を 扇の要 に例えるえる人がいます。

扇というのは 扇子ですね。 1か所で ピンで止めてるんです。広げた所の軸になる 要。
あれは ピン 1本外したら 全部バラバラになります。
ピンが 1本入っているだけで 全部が一体と なっているわけです。



天皇がいるからこそ 日本が 1つ に束ねられている。まとまっているというんですね。

明治天皇は 
日本が こうなったらいい。 みんなが こうなったらいい。
みんなが 幸せになるのを しっかりとイメージして 日々祈っていらっしゃて 

その 緊張感と お姿が 重臣たちに 伝わっていくわけですよね。

朝鮮にも 中国にも 立派な人はいる。
でも なぜ 

日本だけ 早期に近代化できたか。
外国を寄せ付けないどころか 植民地にならず 国を守れたのはなぜか。
ロシアと戦って 勝つほどの強国に 短期間のうちになったのか。

日本は 戦国時代や 内乱になっても どこかで ピタッと止んで 元に戻りますよね。 
また天皇の下に 戻ろう と また 天皇がいるからこそ 抗争が治まったりするんです。

ともすれば 個人主義。個人的な闘争 とか 利益の奪い合い とかになりがちなところを
みんなで 良くしていこう という 

日本人の心の中に 



私は みんなのために 何ができるだろうか
自分は どう振舞ったらいいか という 公の心 気持ちを持たせる というのが
日本人が 一致団結する事になる要素 なんです。

色んな 要素がありますが 外す事ができないのは
明治天皇です。

なので 明治天皇 は何をした人ですか?
と言われても 1言で言うのは 難しい。

ただ 明治天皇が いらしたから みんなが 一致団結して 日本を近代化する事ができた。
いうなれば 日本を近代化に 導いた存在だったという事です。

伊勢の神宮 の 式年遷宮 は 20年に 1度 おこなわれます。
お建て替えをします。



使用されていた 御用材材 は 
また 使ったり
各神社に お下がり渡されたりします。



鎌倉時代から 切り出していた 
長野の 木曽の山に 大木がなくなり 枯渇してしまいました。

閣僚は
20年に 1度 というのは 期間 が短すぎるんじゃないか
60年 80年 100年 とかに変えてしまえば 森林資源が 温存 持続 できるのではないか
と  
明治天皇 に 意見をするわけです。

すると
明治天皇 から 大目玉 をくらうんです。

伝統を 変える事 を議論する前に
伝統を 守る事 を 議論しろ。



木が 足りない という事であれば 建築様式 を変えるのではなく
木を 確保 する 方法を考えろ。

と おっしゃったわけです。

そこで 
100年 200年 の計画をたて
大正天時代 に 200本 の植林計画がスタートするわけです。

明治大帝。
明治天皇のお側には 影法師のように 12歳 年下の主君 明治天皇を お支えする 徳大寺実則がいました。



満 59歳。明治天皇は 崩御されました。
明治時代は 45年 続きました。







大正天皇

明治時代 と 昭和時代は 激動する国際社会で 列強グループの餌食にならないか 
必死になって発展させて 国を守っていこう という時代だったんですね。

大正天皇の時代は 完全に世界の大国入りを果たすんです。

なので 厳しい 2つの時代に挟まれて ポッ とオアシスのような 
短い 15年間でしたが 大正時代になります。

明治45年7月30日 明治天皇が 崩御あらせられます。

崩御の瞬間 直ちに 当時 皇太子でいらっしゃいました 大正天皇の ご即位 となります。



大正天皇は お子様は 4方 いらっしゃいました。

第一皇子 裕仁(ひろひと)親王 (後の 昭和天皇)

第二皇子 雍仁(やすひと)親王 (秩父宮)

第三皇子 宜仁(のぶひと)親王 (高松宮)



第四皇子 崇仁(たかひと)親王 (三笠宮)



称号 として 親王。 
直接 お名前を呼ぶのは 申し訳ないので 宮号 があります。苗字とは違います。

多くの人がうらやむような 素敵な家族。理想的な家族像。

そんなものを 現在の 皇室から 読み取るような人が多い と思うんですけども それは
大正天皇から なんですよ。

第二皇子 秩父宮殿下が お爺様にあたる 明治天皇には 

春・秋とお誕生日。 しかも1回あたり 表御座所で 1分程度の拝謁。

お孫様の 秩父宮殿下方から ご挨拶を申し上げ 
明治天皇からは うなずくだけ。以上。 みたいな。

1度も 祖父の 肉声をうかがったことがないのだ。御前に行って お辞儀をすると かすかに お唇の動くような気はしたが
ついに 
お声は聞かなかった。 と 語っています。

第一皇子である 
後の 昭和天皇。裕仁親王は もうちょっと 明治天皇と お過ごしになる お時間があり

表御座所のわきで 少し遊ぶ事があったらしいのですが 
弓や 輪投げもたいなもので 命中したりすると 明治天皇は



よしっ!  とか  んぅぅぅ うんっ! とか おっしゃった という記録がのこっています。

よしっ!  とか  んぅぅぅ うんっ! ですが
それでも 最大限 孫と遊んでいる風景なんです。

明治天皇より以前は 
家族そろって というのは 一切見えなかったんですね。

明治天皇が お出かけの時は いつも 1人です。皇后と一緒に お出かけになるというのは ありません。
写真もお好きではなかったご様子で 家族とのお写真は 1枚も残されていません。

大正天皇は 
写真も大好きでたくさん残されています。

ざっくばらんで  開明的で 人懐っこくて 何でもよく お話になる という ご性格でした。



明治33年 三重・奈良・京都 に 皇太子 としておいでになった時
京都帝国大学附属病院 で 2名の 患者さんに 声をかけたって言うんですね。

それって 今聞いても何も驚きませんよね。
ところが それは 日本の皇室 始まって以来と 言ってもいいんですよ。

明治天皇の 時には 多少 会える人も増えてきましたけど
その前 幕末

孝明天皇の 時には 一般の国民が 天皇 と会話をする という事は 絶対になかったんですよ。
ありえなかった。
そもそも 天皇 の外出自体が無いんですね。

孝明天皇が 譲位の祈願で 



下鴨神社・上賀茂神社・岩清水神社に 
幕末の時 お出かけになった というのは
これだって 250年くらいぶりの 外出でしたからね。



江戸時代 幕府によって 火事で焼け出される場合は別ですが 天皇の外出は 禁止されていましたから
天皇の外出って 200年くらいなかったんですよ。
という事は
皇居の中に 入れない人は 会えるわけないんですね。一般国民は 会う事ができない。

大正天皇が いきなり 患者に声 をかけた。
これ
大事件 だったんですから。

また その年
九州の 小倉から 熊本に 移動する時に 鉄道をお使いになったんですけども
一緒に 福岡県知事が 乗ったんですね。

天皇が 政治家と一緒の客車に乗る という事は 基本ないんですね。
ただ 皇太子だったので

まぁまぁ 乗りなさいよ っていう お言葉もあり

いいんでしょうか? 
という事になり 

いいから いいから と同じ車両に乗ったわけなんですね。

そして いきなり こう おっしゃった って言うんです。

汝は 煙草を 好むや?  と。



あんた 煙草 吸うの? っていう感じです。
ええぇぇー!?  煙草ですか? いや 吸いますけどぉ? みたいな。

じゃあ これ 吸いなさい と言って 皇太子から 煙草をもらうわけですよ。
こんな事は 神武建国以来 初めての事なんですね。

この 福岡県知事 煙草を勧められて もう ビックリしたわ と 驚愕したという 逸話が残されています。

貴い方が 質問をされる という意味の 
御下問 は 

明治天皇の場合は あまり無かったらしいんですね。

明治天皇は 相手から言われる事に ぅんんんっ! よしっ! と うなずくだけ という感じだったらしいんです。

大正天皇は 色んなものに 興味を持つ方 だったんですって。

ところで これは何なのか? とか
お前は これが好きなのか? とか 分け隔てなく 色々とお話になる という事で 
行くとこ 行くとこで 多くの人を驚かせた という事です。 

行く場所も
ちょっと あっちも 見てみたい
こっちも 行ってみたい  など お立ち寄る場所の追加とか 経路の変更とかが あったそうです。

大正時代は 安定した 明るい 自由のある 時代だったので
大正天皇も 自由闊達で 明るい方だった という事です。

明治時代は 天皇の子どもは 天皇と一緒に住む という事は許されませんでした。
天皇 天皇で 宮中にいらして 子どもは お母さん。聖母の実家で 育つ というのが 基本だっんですね。

大正天皇は
大変な 子煩悩で 4方の お子様と遊んで いらしたという事です。

親しみを持っている 今の皇室像。
基礎は 大正天皇がつくり上げたものなんです。

節子皇后陛下は ピアノが お上手だったそうです。御所に ピアノがあるわけです。
皇后陛下が ピアノを弾き ご家族や 使いの方々も 一緒に 合唱したりされたそうです。

大正元年。 明治45年ですが
大正天皇は 京都に 桃山行幸をなさいます。

桃山御陵 と言って 明治天皇がお隠れになった 明治天皇のお墓です。
そこへの 行幸に



お召列車に 大正天皇は何の躊躇もなく まぁ一緒に乗りなさい と 
後の 総理大臣。 当時 内務大臣を務めていた 原敬 と乗る という事もありました。
また
大正天皇のお写真が よく新聞に載るようになりました。
こぞって 地方の新聞も お出かけになる度に 写真が撮られ 報道されると

それを 面白がって 大正天皇も 新聞をご覧になるらしいんですね。

明治天皇は  
外国の政府との 絵葉書とかの やり取りとかで 御真影が必要な場合でも 一切写真を撮らせない。
公式な 肖像写真がない事に 困ってしまって

イタリア人の 画家・版画家の エドアルド・キヨッソーネ に



肖像画を描いてもらったほどです。
これも
外国人に 絵を描かせるなんて 

明治天皇から お許しが出るわけがない と

しょうがないから 
キヨッソーネ を 宮中に忍ばせて ふすまの陰から 見させるんですよ。

のぞき。


それで
いいか 覚えたか 覚えてか 

いや ちょっと待ってください みたいな

ふすまの陰から見て 写生して また見て 写生して 
って 描いたのが あれですわ。



面と向かって 写生じゃ ないんですよ。 
気づかれないように 気づかれないように ふすまの陰から見て描いた これです。

一応 明治天皇に 見せたらしいんです。見せたら

終始 無言だった  そうです。 
良いとも 悪いとも 一言も言わなかったらしいです。

大正時代は 大正時天皇の 御尊影 が 学校・病院に貸しされたり 絵葉書や切手になったり
国民と 天皇 の間が ぐぐぐぐ~っ と近づいたんです。

でも
大正天皇は ご病気 とか 頭がおかしかったんでしょう とか言われる事が あるんですが
頭が というのは

誤解 です。

実際には 非常に 聡明な方でして 
何事にも ご興味があって 色々な人とお会いになって 御下問になる。
これは 大正天皇 から 今に至るわけです。

ただ 大正天皇は 病弱だったんです。皇太子時代も 多少 お体が弱くていらしたんですけども
自由闊達に 色んな所に お出でになっていました。

明治時代に 大韓帝国を併合しましたよね。朝鮮が日本になりました。
大正天皇が 皇太子時代に 朝鮮にいらしています。そういう歴史的な事もありました。

大正時代は 第一次世界大戦 があるんですけども
これは 
ヨーロッパが 主戦場になりました。アジアでは ほとんど戦闘が なかったんですね。

アジアに ドイツが権益を 持ってたんですけども そういう所に 日本は関わっていく事になるんです。
そして 日本は戦勝国側になります。国連の常任理事国になります。

しかし
大正時代も 後半になりますと 緊張の時代へ 入っていくわけです。

第二次世界大戦に行く前には 
日華事変も 満州事変も ありましたし 戦争の時代へ どんどん進んでいくんです。

なので
これから 戦争が起きてくるであろうに 
明るくて 開明的な 大正天皇の存在が 逆に邪魔になってくるわけです。



だから
緊張の時代に入っていくのに 周りから 天皇だけ 抜いてしまうような感じになるんですね。

大正天皇は 頭がおかしい みたいに言われて 
政治家たちに 歴史から封印され 葬り去られていった感じがあるわけです。

歴史を学ぶのに 大正時代は 流されていく というか 大正時代は 短かったし 天皇はすぐ 死んじゃったし と
まるで 無かったかのように扱われる傾向があり

大正天皇について 語られる事は ないですよね。

明るくて 開明的な 大正天皇の存在。
今だったら 何の違和感もなかった と思うんですね。





昭和天皇

現代の若者。大学生に 
昭和天皇って どんなイメージがあるか を聞いてみたところ

ひっトラ~ の日本版 でしょ? という答えがあったとの事でした。
倒れそうになりますが
そう思われても おかしくないような 現在の日本の教科書なんです。

日独伊三国同盟 の 三大悪の枢軸 みたいな感じで 
連合国は 天皇を なじったわけです。 

昭和の時代 = 戦争 暗黒 白黒 
昭和天皇は 戦争を始めて 世界に迷惑をかけた 悪者。
というイメージがあるらいですね。

そろそろ 修正しないと 手遅れになります。

御前会議で
昭和天皇が ご自分の命を賭けての決断を降した。

先の大戦の
開戦は 止められなかったけれども
終戦は できました。

日本が占領下になるにあたり
マッカーサー元帥 と会って伝えて下さった事。

これは 知っておかなければならないと思います。

昭和天皇は 憲法に定められた 天皇の在り方を
とことんまで 追及された方です。



幕末の激動の時代 孝明天皇は 宮中祭祀 に全てをかけた方でした。
歴代天皇は 祈り が第一ですが
特に強方 だったという事です。

明治天皇は 人間味 とか 優しさ は見せない方。
憲法に定められた 天皇を とことん貫いた方。
ですから 
日本のために 自分に厳しい方でした。

大正天皇は 優しいイメージなんです。
皇后と寄り添いながら 子どもたちを 
直接 自分たちの手で育てる という事もされました。
国民にも 親しみを込めて 気軽に お声をかける。

この お三方の帝の 気質を それぞれバランスよく体現なさったのが 
昭和天皇のようです。

孝明天皇の 
焼き打つし と思われるくらい 祭りに真剣に 取り組まれ



明治天皇のような 
厳しさをお持ちになられ 立憲君主国の 天皇の在り方を 極限まで鍛錬され



大正天皇のような 優しさ。
皇后陛下と 仲つつまじく また お子様方を お傍でお育てになられました。


第二次世界大戦 が始まり
大東亜戦争。いわゆる 太平洋の戦争で 
日本は アメリカを中心とする 連合国と戦わなくてはならなくなりました。

東京大空襲。



焼け野原となった 東京 深川地域。昭和天皇は 富岡八幡宮境内内 など視察をしました。

広島・長崎の 原爆投下。太平洋の島々の防衛戦。沖縄地上戦。特攻作戦。
そして 
終戦の 御聖断。 
ポツダム宣言受諾。

昭和20年8月15日 
ご自身の身を捨てても 国民を救いたい という 
昭和天皇 の御決意が 全国民に示されました。

爆撃に たふ(お)れゆく民の 上をおもひ(い) 
いくさとめけり 身はいかならむとも

爆撃の被害で死んでいく 国民のことを思って戦争を終わらせた。
自分の身は どうなってもかまわない。

昭和天皇が
この御製を お詠みになった 終戦直後 御齢 44歳でした。

マッカーサー との会見の後  

日本の再建と 1人でも多くの国民と会って 
その 1人 1人を慰め 励ましたいと 

全国御巡幸 が始まりました。



雨の中 お足元が泥だらけです。



当初は 宿泊施設も 破壊されたままですので 
列車の中や 学校の教室の お泊りの事もありました。



子どもたちにも お声をかけます。
どこから?



おいくつ?
立派にね。元気にね。
お寂しい?



仏の子どもは お幸せね。これからも立派に育っておくれよ。
昭和天皇が はたはたと涙を流されました。

みほとけの 教え守りて すくすくと 
生い(おい)育つべき 子らに幸あれ

仏様の 尊い教えを守って すくすくと成長するはずの 子供たちに 
幸せが必ず訪れてほしい。
この 昭和天皇の 御製は 佐賀県の因通寺 境内に立っています。

そして 広島です。

原爆が投下されたと聞いた時から 一日も早く 広島に行き 
傷ついた人に寄り添う そういう お気持ちをお持ちだったわけなんです。

あぁ 広島 平和の鐘も 鳴りはじめ 
たちなほる見えて うれしかりけり

広島に行かなくては 行かなくては 

思いながらも時間が経ってしまった という 焦りのような お気持ち
ようやく広島の地を踏むことができた。  あぁ 広島。

実際に 原爆ドームの前に 何十万人もの人が集まったんです。
爆心地ですからね。

そこに粗末な木の台がこしらえられて 
昭和天皇がそこにおいでになって 多くの人からの 歓迎 をお受けになる。



どっからともなく

万歳!万歳!万歳!

の掛け声が止むことなく 立ち上っていきます。

それに対して
昭和天皇は 

当時モニターとかありませんから 遠くの人も見えるようにと 
シルクハットを高く挙げて それに答える
という事を なさるんですね。

ですから
もし広島で 天皇を恨む 来たら殴り殺してやる なんて集団があったら 
全く無防備ですから やってできない事はなかったかもしれません。
でも
実際 御巡幸中に 襲うなどという出来事は一度も起きていません。

広島が立ち直っている。
まだ原爆投下から時間がそんなに経ってないのに 人々が確実に立ち直ろうとして努力している。
平和の鐘も鳴りはじめている。
ちょっと賑やかな音も聞こえてくるようになった という事です。



それを見て 昭和天皇は 

嬉しい。勇気づけるつもりで広島に行ったんだけれども
逆に 
自分たちは こうやって立ち直ろうとして努力してますから 見てください と 
国民に元気をもらって 勇気づけられちゃった
というような気持ちを表した 美しい御製ですね。

全国御巡幸は 昭和21年2月 から 昭和29年8月 で総工程 3万3000km。
お立ち寄りは 1411 か所。

日本は 戦後復興 を成し遂げていきました。
そして 経済大国になりました。

昭和50年。
1975年9月。
昭和天皇は 香淳皇后と 先の大戦後初めて 



両陛下がアメリカへ公式訪問なされました。



ちょうど 戦後30年が経った年ですが
アメリカ国民は 
真珠湾攻撃。日本が奇襲攻撃をしたという パールハーバー を忘れる事はなく

昭和天皇に対する
アメリカ国の感情は 決して良いものではなく

日本の天皇の戦争責任を問いかける 厳しい世論の中の訪米でした。

しかし
ホワイトハウスでの 当時 フォード大統領夫妻が 主催してくれた両陛下の 歓迎晩餐会で



昭和天皇は 

私は多年 貴国訪問を 念願にしておりましたが
もし その事が 叶えられた時には 
次の事を ぜひ 貴国民にお伝えしたい と思っておりました。
と 申しますのは
私が 深く悲しみとする
あの 不幸な戦争の直後 貴国が 我が国の再建のために

暖かい 好意  と 援助 の手をさし延べられた事に対し 
貴国民に 直接感謝の言葉を 申し述べる事でありました。

当時を知らない 新しい世代が 
今日 日米 それぞれの社会において 過半数をしめようとしております。
しかし
たとえ今後 時代は移り変わろうとも
この
貴国民の 寛容 と 善意 とは 日本国民の間に 永く語り継がれていくものと 信じます

先の大戦での 敵国だった 日本の元首の天皇陛下が
終戦から
初の 訪米で語られたのは 

直接感謝の言葉を 申し述べる事でした。

昭和天皇は
貴国民。アメリカの方々に対して いったい何を感謝しておられるのでしょうか。

日本国が 敗戦後に直面したのは 食糧難による 国民の飢餓でした。



皇室の御物の中には 国際的価値があるとの事だから
これを代償として アメリカに渡し
食糧に代えて 国民の飢餓を 1日でも しのぐようにしたい



昭和天皇の お考えに 
連合国軍最高司令官 マッカーサー元帥は 
いやいや
皇室の物を代償としてなど そんな事はできない。

アメリカ本国に要請して 食糧を緊急に援助してくれたのです。

連合国からの 占領期の6年7か月。
日本が アメリカからの経済援助は 約18ドル。日本円で 約6480億円。

これがなければ 日本の復興は考えられませんでした。
お蔭様で
日本の食糧危機は 大幅に緩和されました。



昭和天皇は

終戦から 30年が経って 初めて訪米ができた この時

恩を いつまでも忘れない

それが 貴国民に 直接感謝の言葉を 申し述べる事でありました。

というお言葉でした。

その 天皇陛下のお姿 御心が アメリカ国民を 感動させたのです。

それ以降
昭和天皇の訪米に 
日本の天皇の 戦争責任を問いかける 
否定的だった世論や マスコミは 好意的に変わり
アメリカで 
6日連続で お写真入り トップ記事として新聞に掲載しています。



天皇陛下を目の当たりにした アメリカ国民が 



天皇 という
日本の象徴に 言葉では 言い表す事ができない 波動を 感じたのかもしれません。


そして
昭和天皇は 戦争の苦難の歴史を 
常に 心に留められ 戦没者のことを偲ばれました。

昭和63年8月15日
重いご病気にも 関わらず 全国戦没者追悼式に 臨まれました。

現在の 上皇陛下ですが
この時 
皇太子殿下 のご出席を 
と 側近の人は ご名代を考えましたが

どうしても 自分が行かねばならない と ご出席になられました。

ご病床にあっても 常に 
戦没者の事
 
稲の作柄。
昭和63年の 秋は雨天が続いたので 

雨天が続いているが 稲のほうは どうか 

しきりに ご心配されていたと言います。

昭和64年1月7日
昭和天皇は 崩御あそばされました。 御年 87歳でした。







上皇陛下 上皇后陛下 慰霊の旅 

昭和天皇から受け継ぐようなかたちで 慰霊の旅 をなさる事となります。



先の大戦では
300万人以上の日本人が 命をおとしました。

祈り というのは
鎮魂の祈りが まず一つです。

東日本大震災 に代表されるような 災害にあたってですね 
両陛下が 被災地をご訪問になって
傷ついた人々を 元気づけ 勇気を与え 亡くなった方々に対する慰霊もなさってくださいます。

天皇の祈り
というのは 幅広くお祈りをなさいます。

天皇とは祈りである。

憲法に 天皇の国事行為 と いくつも書かれていますが

憲法に書かれていなくても お役割はたくさんあるのですけども 
その中心は 何か と問われれば それは

祈る存在 だという事になるでしょう。

天皇の祈り というのは決して 憲法に書かれているわけでもなく
法律が 命ずることではなく 

そこに 天皇の本質がある という風に言います。

天候が悪ければ 天候の回復とか 作物が取れる 取れない 
常に関心がおありですし 
日本全国の 
様々な自治体・団体が取り組んでいる事。 どういう成果がでるのか でないのか。



天皇が お詠みになった 和歌。御製(ぎょせい) と申しますけども

上皇陛下の御製を拝読していますと 

四季の移り変わりから始まって 
日本の 日本人の あらゆる活動に 関心を示してらっしゃるという事

関心の広さというのはが痛いほどよくわかります。

皇后のお詠みになった 和歌を 御歌(みうた) と言います。

天照大御神が 邇邇芸命(ににぎのみこと)に 

地上世界に降って 国を知らせ とおっしゃった。



日本とは 天皇が 知らす国である。
その時代 その時代に天皇が 国民に絶大なる 関心を寄せる。
そして 幸せを祈る。

それが 日本の国体の 根幹にありました。

それを余すことなく 平成の時代も受け継ぎ 
それが 令和の時代にもつながっている という事です。

そのような 両陛下のお姿を拝して 
私たち日本人は 

天皇をはじめ皇族方の事を敬愛し みんなで力を合わせて 
日本の社会のために
日本の国のために
努力を積み上げてきた。それで 日本の国も繁栄してきました。

天皇の祈りは 宮中祭祀 という形で行われます。
皇居には お宮があるんです。これを 宮中三殿 と申し上げます。



中央に 天照大御神をお祀りしてあり 
歴代天皇と 歴代皇族方をお祀りしてある お宮。  
八百万の神々を お祀りしてある お宮。

その3つで 1つにまとまって 宮中三殿 と申し上げます。
年間を通して おびただしい数の 祭祀がおこなわれます。

天皇陛下のみが 着る事が許される 



袍黄櫨染御(こうろぜんのごほう)という 特別な装束をまとって 祭祀をなさいます。



天皇の祈りは 宮中三殿 だけでおこなわれるわけではなく 

朝起きて 夜お休みになるまで 
1日 1日 日々国民のことを知り 祈り

和歌を お詠みになります。

五七五七七。 
全部足すと 31 になります。
和歌を 三十一文字(みそひともじ) と表現することもあります。

和歌を 詠むこと自体が祈り なんですね。



天皇の御製というのは 公開する事を 原則としていません。
天皇の祈りは 非公開です。
政治利用されてしまう事にもなりかねません。

その一部が 公開されているという事です。

和歌。御製を詠むことが 神事であり 
五七五七七 というのは 
神様の作法であり 神に直結する リズムなんですよ。
そして 
祈りには 嘘がない という事なんです。

神様はお見通しです。
そもそも 神様を騙せるなんて思ってないでしょう。

和歌を 御製をお読みになるときに 
邪心とか 私利私欲とかが 何もない。非常にピュア な御製が多いです。
これは歴代天皇の 本心です。
なぜならば 神様を騙そう という人はいません。

硫黄島は 激戦地でした。 
2万人近い 日本の守備隊が玉砕した場所です。多くのアメリカ兵も 命を落としました。

あそこが落ちたら]
日本中が空爆されてしまうという 危機感の中で 体を張って 
この島だけは
守らなくては ならないという想いが そういう戦いに導いたのだと思います。

硫黄島は 
自衛官の基地がありますので 自衛官が若干名 住んでいますけども 
それ以外 住民はいません。



定期航路もありません。
飛行機でも行くことはできません。

遺族が決められた日に 特別なヘリコプターでいくことはあるんですけども
観光などで行く事はできません。

そこに 上皇と上皇后両陛下がいらしたわけなんです。
目的はたった一つ。

慰霊ですね。
硫黄島でも 御製・御歌をお読みになりました。

上皇陛下

〇精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき
〇戦火(いくさび)に 焼かれし島に 五十年(いそとせ)も主(しゅ)なき 蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ

上皇后陛下

〇銀ネムの 木木茂りゐる この島に 五十年(いしとせ)眠る み魂悲しき
〇慰霊地は 今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ

硫黄島で亡くなった 日本兵の多くは 
火山の島ですから 地下要塞みたいなものをつくって そこに潜んでいたんです。
島は水を得にくいですね。



水が欲しい 欲しい という
水分が枯れていって 死んでいった方々が たくさんいらっしゃるわけです。

上皇陛下の 御製        
精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

栗林中将の 辞世の句     
国の為  重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき



栗林中将の 辞世の句の一文 
悲しき を掛けあわせ 引用なさる形で 御製をお読みになりました。

安倍元総理大臣は 硫黄島訪問の時

この 滑走路の下には 
米国との戦いで 戦死した 人たちの骨が埋まったままです
踏みつけて 申し訳ございません
と 
土下座をされました。

ペリリュー島

上皇陛下
〇戦ひに あまたの人の 失(う)せしとふ 島緑にて 海に横たう

上皇后陛下
〇逝(ゆ)きし人の 御霊(もたま)かと見つむ パラオなる 海上を飛ぶ 白きアザラシ



サイパン島。



その後 最も多くの日本兵が亡くなった場所 フィリピンでの慰霊。



平成から令和の御代変わりの 譲位のご意向を表明するにあたり

これと これと これだけは済ませておきたい 
という 
上皇陛下の お考えがあったのではないかな と思います。

全部は回れないにせよ 
慰霊の旅の 集大成ができたのではないかな と感じております。

慰霊の旅は 終わりがありませんので

令和に時代
現在の天皇陛下が お引継ぎになるのではないかな と思います。

東日本大震災 の時には 
日本人が一つ になる という感覚 がありました。
何かしたい何か 自分にできないだろうか という気持ちに なったんですね。

大きな災害に まみえた という事も もちろんですが

当時の 天皇陛下。現在の上皇陛下ですけれども
ビデオメッセージ を発せられたんですね。



国民の事を 本当に案じていらっしゃる お気持ちが
テレビを通じて 伝えられました。

苦労していらっしゃる方への 労いの言葉もありましたし 
何とか生き延びてほしい 
という お気持ちも お伝えになられました。

天皇陛下のお姿を見て 
また居ても立っても居られないと ボランティア活動をされた方。
寄付をされた方。いろんな人がいたみたいですけども

もちろんわかっているんですけども 
この時
天皇陛下は 心の底から 
本当に国民の事を 
我が子のように 愛していらっしゃるんだな という事が 伝わってきました。

救助 救援の妨げになる 復興の妨げ とならないように 
少しをおいて落ち着いたころに 両陛下が被災地を ご訪問になりました。



東北の東側 ほぼ全域が 大きな津波の被害を受けたものですから 
たくさんの場所が 被災地が広がりましたよね。

泊まると 地元に負担がかかるので 



毎回 毎回 日帰りで 東北を往復なされた 
という事で 

被災地を回って 激励 なさるわけですね。



たくさんの方が 亡くなりましたからね 一番の目的は 慰霊 にあるわけです。



慰霊を なさり 生き残った方に 激励の言葉をおかけになりました。



両陛下が 1か月くらい前にいらしたという
避難所の 仙台で被災した方々に 

どうだったですか と聞くと
みんなが 思い出すだけで 涙が出る と言って みんな泣きはじめちゃったんですよ。

その中の 1人の方は 
自殺するつもりだったんです。

集落ごと流されて 家族 親戚 みんな死んでしまって 
自分だけ残ってしまって 

最初は気丈夫で 何とか生きようと頑張っていたけれども
そのうち 
何で私だけ生き延びちゃったんだろうと 生き残ったことを 後悔し
いつ死のう いつ死のう と 
どこで首を吊ろうか 考えてたんですって。

そうした 天皇陛下がいらして 

声をかけてもらったら 途端に生きる力が 湧いてきた
って言うんですね。

死ぬつもりの人が 生きるつもりになるって 
天皇陛下が どんな お言葉をかけたんだろう と聞いてみたら

もう 言葉は覚えていない。 
でも 1つだけ強烈に覚えている事が ある って言うんですね。

これまで いろんな人が来たって言うんですけど 
知事だ 大臣だ 議員だ って
大丈夫ですか とか 優しい言葉をかけて 有難かったけれども 
他人事に聞こえて

天皇陛下に 声をかけられた時は 

愛されている って思ったんですって。

この世の中 
自分を愛してくれる人は もういない と思っていたのが 
いた!っていう話です。

天皇陛下ですよ。

私の事を 本気で 心配して下っている。
愛して下っている。 
と 思った途端に 生きる力が 湧いてきた って言うんですよ。

それほど 天皇陛下が 
1人 1人 の事を 
我が子のように愛し 語りかけていたんだな とわかったわけなんですね。

じゃあ 普段から皇室の事を 敬愛してたんでしょ?
って聞いたら 

そうでもないのよ って言っていました。
皇室なんて 無くてもいい と思ってたのよって。
でも 理屈じゃあない。 愛を感じた 
って言っていました。

天皇皇后両陛下は 身内を見舞っている。我が子のように



平成の時代になって 朝夕 朝夕 毎日毎日 国民の幸せをを祈り続けていた
その 1人 1人の国民が 東北で被災者 となって苦しんでいる。

愛してるふりの お芝居でできる事じゃ ないですよ。そんなもの 伝わるわけないですからね。



天皇皇后両陛下は 何の計算も 打算もない。 直 ですよね。
それに接した人たちが 

こんなに心配してくださってたのか 
こんなに私たちの事を 愛してくださってたのか
と 
感じる事が 許されたんですね。



平成7年1月17日の 阪神淡路大震災 の際 

発生から間もなく 兵庫入りをされた 
現在の美智子上皇后陛下 が 

希望 と 尊敬 という 花言葉の 水仙の花を手渡しました。



東日本大震災では 
大津波に襲われた被災地でも 水仙が頑張って 花をつけていました。

それを 今度は 
激励にいらして下さった 上皇后陛下 に 

頑張って咲いた 10輪ほどの 水仙を 
この水仙のように 頑張るので もらっていただけますか?
と 差し出し



上皇后陛下は 

ちょうだいできますか? 

大事そうに お持ち帰りになられた という話があります。

上皇陛下の蔭では 
美智子上皇后陛下 のお支えが ありました。
プロポーズされる時に 上皇陛下は 
私的な事の前に 公務が最優先で 国民を守らなくてはならないから 



妻というのは 2の次になるけれども 

というような 主旨を おっしゃったんですって。

そうしたら 上皇后陛下は 

わたくしが この方を お守りしなくては ならない
と 思ったとのことです。

上皇后陛下は 上皇陛下を 
当時の天皇陛下を ひたすら支えるという 美しい お姿でした。

昭和50年 ひめゆりの塔事件が起こりました。 
昭和の時代 
当時 平成の天皇は 皇太子でした。
美智子様は 皇太子妃殿下 だったわけです。

沖縄が アメリカから返還されて 間もなくの事です。
大変残念な事に ひめゆりの塔で 
火炎瓶を投げつけられる という事件が起きてしまったんです。

ですから
昭和天皇は 沖縄に行くという おつもりだったんですけども 
皇太子で 火炎瓶なのだから 
昭和天皇は 行けなくなってしまったんです。



普通だったら すごい火柱が立つ 火炎瓶は 怖いですよ。
それも いきなり飛んできたんですから。

この時に 
美智子皇太子妃殿下は 微動だもせず 
皇太子殿下を かばうようなしぐさを なさったという事です。

殿下を お守りするんだ という強い意志 の現われですよね。

平成4年 山形県での べにばな国体の 開会式で 

平成に時代に入ってますから 
天皇陛下がですね 開会のお言葉を 述べていらっしゃった 
その時に

何者かが 発煙筒を 投げつけました。
警備員が ブァ~ッ 来て その男を捕まえる。そして 連れていく。 
という事が起きたんですけども

何者が 走ってきた時に 皇后陛下が  



手を出して 
さっと 天皇陛下をかばう 守る仕草をされるんです。

もしかして 拳銃 刃物を持っているかもしれない。
でも女性の きゃぁ~っ っていうのじゃないんです。

そして 天皇陛下は 何事もなかったかのように お言葉を述べ続けるんです。
神々しいと思いましたよ。

平成24年3月11日。東日本大震災 1周期の追悼式典。
この時は 皇后陛下は凄い と思いました。

なぜならば
天皇陛下が 震災の後 被災地ご訪問もあり ご心労もたたり 
ついに
病に倒れてしまったわけです。

心臓のバイパス手術を お受けになるんですね。
でも 天皇陛下は 
東日本大震災  2万人 亡くなってますからね。 

1周期式典には 行かなければならない と
強いご意思を お持ちになっていらしたんです。

でも 術後回復が あまりよくなかったんですね。
侍従たちは 
万が一の事もありますので ご出席は お取りやめ下さい と申し出たんですけども

天皇陛下は 

いや 生きている限り  何が何でも行く と。這ってでも行く。
という ご覚悟だったらしいんですね。

無理を押して たどたどしい感じでしたけれども 
自分は 天皇として 

何でも何でも この 追悼式典には 行く。
追悼のお言葉を 述べなくてはいけない。

という 強いご覚悟が あったんだと思います。

何が言いたいかというと
皇后陛下 なんですよ。

美智子皇后陛下は この日 
あるご覚悟をもって 天皇陛下のおそばに 付きそうんですね。

普通 こういう時は 
天皇陛下は モーニングで 洋服の 喪服。
皇后陛下は 黒のドレスに レースで
お顔が お隠れになる お帽子とで 洋服の 喪服です。

この日
皇后陛下は 和服の 喪服を お召しになってらしたんです。



喪の席に 和服でお出でになったのは 

天皇陛下は 大変体調がよろしくない すぐれない中 この式典においでになります。
途中 倒れたりするかもしれない。
その時に 

お支えするのは 自分しかない 

という風に 皇后陛下は お示されたそうなんです。

舞台袖の人が 走ってきても 間に合いませんから。
天皇陛下のすぐ脇にいるのは 皇后陛下です。

天皇陛下に もしもの事があったら 自分が下敷きとなってでも お支えしなくてはいけない。

であれば
洋服だと ハイヒール になりますよね。
ハイヒールだと 踏ん張れない という事で 

草履 だったら 踏ん張れる という事で

草履 を履く事が 先に決まり 
和服が 後で決まる という事でした。

和服の 喪服で 天皇陛下に 付き従うという事をなさったわけです。 

ですから 皇后陛下は 
自らの身を投げ出してでも 

当初は殿下。 途中から 陛下を お支えする という
強いお覚悟をお持ちだった という事。
これが 
プロポーズの時のお言葉と かぶるんですよ。

じゃあ 私が あなたをお支えすれば よろしいですね。



平成10年 第26回 IBBニューデリー大会の基調講演の 演説

神話の

日本武尊(やまとたけるのみこと)

その 妻



弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと) の物語。
大和撫子(やまとなでしこ)の原型。アガペー。無償の愛。

愛と犠牲の 不可分性 について 

美智子上皇后陛下
当時 皇后陛下は

子ども時代の 読書の思い出 として 言及なさった箇所があります。

いけにえ という 酷い運命を 進んで自らに受け入れながら
最も 愛と感謝に 満たれた瞬間。

愛 と 犠牲 は 1つのもの として感じられた。

そういうものを
果敢に背負っていかれた 皇后陛下 の生き方であり 
ゆえに
平成に時代の 天皇陛下の 立派な 御代があったんだろう。
そして
それをお支えになった 皇后 美智子様の 献身的な想い ご覚悟。

この2つが合わさって 平成の御代が築かれたんだな と思います。

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