すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 現代②

帝国憲法改正

ポツダム宣言に書かれている 文言の中に

天皇
というものが 出てこないんですね。

戦争犯罪人を処罰する とか 軍の解体 とか 
言論の自由を 復活させる とか 
民主主義的傾向を 復活させる とか

それぞれの項目を クリア出来たら 
占領が 解除されます という事です。



当初 日本政府としては 

大日本帝国憲法を 改正する必要は ない と ふんでいました。
よく勘違いされるんですけれども

民主主義というのは  戦後始まった と勘違いされます。

そんな事はなくて 
戦前でも 民主主義 はあったわけですよ。 

日本の 民主主義は 明治時代から それなりに機能してきたんです。

今と 比べるとまだ 未熟な 民主主義だったと思いますが 
アメリアとか ヨーロッパとかと比べても 
決して 
日本の民主主義は 劣っているわけでは なかったんです。

選挙にしても 
婦人参選権。女性が 投票できるようになったのは 後の方ですけれども



明治時代は 
まだ 制限選挙 と言って 一定額の納税をしている 男子だけしか選挙権がない 
という 感じでしたけども
他国と比べて 著しく劣っているという事はなかったです。

日本に 民主主義を導入する。なんて事は 
ポツダム宣言には 書いてないんです。

日本にある 民主主義的傾向を 復活 と書いてあるんです。
復活ですよ。リバイバルですからね。

民主主義が 有るからこそ 復活できるわけなんです。
もともと無いものを 復活 ってないですよね。

戦争の時に 
民主主義的傾向が 停滞していたんですよ。
戦争が終わったんだから 元に戻せって話です。



戦争中に 民主主義が締め付けられるっていうのも 普通の事なんです。
戦争が始まれば 

はい金属だして とか あんた ここに来て 働きなさい とか
自由は制限され 商売の 自由も 制限 されますよ。
言論の自由 だって制限されます。

これは アメリアだって ヨーロッパだって どこでも一緒です。
戦争になったら 人権や 自由 というものは 制限されるんですね。 
なにも 日本だけじゃないんですよ。

民主主義を 導入 したんじゃないんです。
民主主義的傾向を 復活しなさい ですから。

だから 日本政府は 
帝国憲法を 変えなくていい と思ってたんですね。

もともと 
議会制 民主主義は有るし 人権の 保証もしてあるし 
帝国憲法で 行ける と思っていたんです。

ところが連合国の方から 
憲法を変えなさい と言われてしまうんですね。

具体的に言えば マッカーサー元帥です。



そして 政府案 をつくってみるわけですよ。
ところが
マッカーサー元帥が お気に召さなかったかったんですね。

マッカーサー元帥は 昭和21年2月3日 
マッカーサー・ノート というのが出されます。

これは 
憲法の改正を指導していく GHQの民政局に マッカーサー元帥が メモを渡すんですね。
GHQが 帝国憲法の改正案 をつくるんですけども
マッカーサーが 
これだけは 注意してつくれよ っていう メモ を差し入れた。



そこに書かれていた 3つ の事柄があるんです。
これを
マッカーサー・ノート もしくは マッカーサー 3原則  と言われます。

そこには
①天皇は 元首。世襲。権能。

天皇を残せ って書いてあるんですよ。

マッカーサー元帥が 昭和天皇と面談し 天皇を 残さないといけない と思った。
天皇を 残す以上は 国家元首 として残せ。

天皇の地位は 世襲 でなくてはいけない。
選挙で選ぶんだったら 大統領選 になっちゃいますから。
そして 
天皇の権能は 憲法 によって 行使されなければいけない。
という事が 書かれています。

②戦争放棄。
軍を保持しない。交戦権を持たない。

まさに 日本国憲法 第9条。根本は ここにあったわけなんです。
日本は 戦争を 放棄する。
そして
軍は 保持しない。交戦権も 持たない。

③封建制度を廃止。

貴族制度・華族制度が 廃止されました。
帝国議会は 2院制をとってまして 衆議院と 貴族院 だったんですけども
華族が なくなりましたので 貴族院が 参議院になったわけです。

この 3つを これだけは 留意しろと



GHQの民生局に メモ にして渡したわけですね。
マッカーサーにしたら 3大 重要事項という事です。
よく 
マッカーサー元帥を 悪くいう人。
GHQによって 押し付けられた憲法だ と言う人がいますが

物事には 光と影があって 

①の 内容は 
日本人が 1番求めたものでしたよね。

ポツダム宣言も 受諾の際に散々議論がありました。 
最終的に 

天皇が 残るかどうか。それを 1番の問題 としたわけですね。
これは 
日本国民 みんなの 想い だったわけですよ。国民の 総意 だったんです。

特攻 に志願した人は 



日本国が 残る事。
それが 
家族は幸せでいられるはずだ と いう想いで出撃して行ったわけですから

日本人が 最も求めたのが 天皇を残す 事でした。

今 天皇が 残ったじゃないですか。
何で?って言ったら 

マッカーサー元帥が 
天皇は残せ! その方針で GHQ草案を書け って言ったから 
天皇が 残ったんですよ。

現在の 日本国憲法の 第1条から 第8条まで 

天皇について 書かれているんですけども
マッカーサー元帥の指示で 残ったわけですよ。

もし 天皇はなくせ! と言われてたら 
今 無いですからね。
じゃあ
何で マッカーサー元帥が そう思ったか と言ったら 
マッカーサー元帥の 単独の ひらめき じゃないんですよ。

昭和天皇 と 会い

これが 天皇か と。
これは 無くしては いけないと。思ったのも あるでしょう。

あと
マッカーサー元帥の アドバイスをしていた 
ボナーフェラーズ という 法務担当の秘書官が



天皇は なくしちゃ駄目だと。
天皇をなくしたら 日本国民を 裏切った事になるので 絶対にしてはいけませんよ と
進言したのも 大きかったと思います。

あと実際 マッカーサー元帥は 日本軍と 戦ってましたから。 
日本の軍人の 潔よい戦い方。絶対 国を守り通す という 信念。
それを 見てきましたから そういう 色々な事があった上で 

マッカーサー元帥は 
天皇を残せ という風に 指示を出したわけなんです。

皇族を 存続させたのは マッカーサー元帥の この一言 だったわけなんです。

でも それと同時に 憲法9条 という 



戦争放棄だ 軍を持たない 交戦権を持たない 

こんな めちゃくちゃな事が 書かれているのも 
マッカーサー・ノート なんですね。

帝国憲法 を改正して 
日本国憲法 ができるんですけれども
これを押し付け 憲法と よく言いますけれども 
日本国憲法は 

GHQが急に 変えろぉ って言って 
GHQ草案から スタートしたわけですから 認められないと言う人がいますが

確かに 押し付けです。
始め GHQ草案を見た時 これ このまま日本国憲法になったら 




ヤバい!と日本人は ビックリ するんですけども 
どうしたかと言ったら 

ここから 当時の官僚が 
手を変え 品を変え 
仰せの通り 書きましたぁ~ って 微妙に修正をしていて

意味が 変わってるんだけども 
いや 同じ意味ですよ とか言っちゃって

GHQを 
よってたかって 騙くらかして いくんですね。 化かし合いが 始まるわけですよ。





マッカーサー・ノートに 基ずいて GHQ民政局が GHQ草案をつくります。
これを 
日本政府に 提示して この草案でつくりなさい と出してきました。

そして突然出された GHQ草案に ビックリした日本政府は 

考えて 考えて 揉んで 内閣草案をつくるんです。
始めの GHQ草案と 内閣草案と見比べてみると 

同じような 文言 が残ったもの。 
全然 違う意味に なってるね って
中身が 違ったものになったのも あるんですね。

ただ マッカーサー 3原則 だけは譲らない。書きなさい 
と いう事なんです。

天皇の 法的な権能。権限というのは 
戦前の 帝国憲法と 戦後の 日本国憲法では 
一部 無くなった所もありますが ほぼ一緒です。
戦前の内容が 基本的にそのまま 残っています。

例えば 
内閣総理大臣を 任命するとか 
衆議院を 解散するとか 
総選挙を 公示するとか 
法律を 公布するとか

天皇の権能が 日本国憲法に書いてありますが 
戦前と 戦後は ほぼ一緒なんです。

天皇に関する項目は 表現は変わったけれども 基本ほぼ一緒です。

GHQに 
天皇は 象徴ですから~ とか言いながら 

ちゃんと 天皇の権能が 書かれているわけです。
これは 
帝国憲法から そのまま受け継いだ ものなんです。

なので 
単純に 押し付けられた憲法では ないんです。
ただ 日本は負けて 占領までされているわけですから 



戦争放棄は 吞まないといけませんでした。

よく 新憲法を 樹立した と間違えられるんですけども

大日本帝国憲法を 改正 されたのが日本国憲法です。

帝国憲法は 終わり。お釈迦にして 国民が 新たな憲法を立てるぞ~ なんて 
そんな手続きは ふんでないんです。

第2代 憲法担当大臣 
金森徳次郎は 国会図書館の 初代館長 でもありますが



君民共治の 憲法である。

皇室と 国民の絆。 これこそが憲法である。

皇室が 国民を見捨てる。
国民が 皇室を見捨てる。これが起きたら 終わりだ。
と言っています。

GHQ草案を 何とか 今の条文にするのに  

 


いが栗の トゲを抜くような 作業をされたわけです。

GHQ草案から 始まったのですが 
日本政府が 
真剣に ものすごい 議論をして 民主主義的 に話し合って 
日本人が決めて 

最後 昭和天皇が 公布するんです。

3原則さえ入っていれば 
多少 主旨が変わったところも あるけれども
公布されたものを GHQは文句言わなかったんです。

押し付け なんだけども 押し付けでは ないんです。

          

当時は 日独伊 さえ黙ってれば 世界は平和だ 
というような 前提でつくられたものですから

連合国が 日本を統治していたわけですから

ただ占領下 6年8か月に 吹き込まれて 洗脳 されてしまったもの。
そして 
ゆでガエル 100年。
じわじわと 日本人が 腑抜け になってきてしまった事。



じゃあ 今 日本が ニコニコしてれば 世界は平和か って言ったら 
そうじゃないんですよ。
なので 変えなければいけない箇所は 変えていけばいいんです。

昭和21年11月3日 交付。
昭和22年5月3日  施行。

この時 昭和天皇が 公布なさるんですね。

戦争に 至ったのは 全部 帝国憲法が悪いからだ 
という話になっちゃってますけど

憲法が 悪いから 戦争に至った なんてことはありません。

そして 大事なのは 
新憲法を 樹立 ではないんです。



実態は 帝国憲法を 改正された 日本国憲法なんだという事です。

 





八月革命説

今の 日本国憲法は 3原則と GHQ草案から始まり 

アメリア側の エッセンスは入っていますが 
基本 日本人による 日本人の作品の 憲法なんです。

しかし憲法学会 の通説は 
今の憲法は 革命憲法だ! って言ってるんですね。



8月革命説 とは

帝国憲法から 日本国憲法への 変更は確かに 改正手続きをふんでます。
でも
主権者が 変わってる。 というわけです。

つまり
帝国憲法は 天皇が 主権。
現在の 
日本国憲法は 国民 主権。

これは 憲法改正の限界を 突破している。
これは 昭和20年8月 ポツダム宣言受諾の時に 革命がおきたんだ と。
だから
日本国憲法の成立というのは 法的意味の 革命が起きた。

なので
事実上 新憲法の樹立 なんだ と。



何が言いたいかというと 
帝国憲法 と 日本国憲法は 法的連続性が 無い。
というわけですよ。これは 大変問題な事です。
日本の
国体とか 国柄とか 国家観とか  
そういうものに 直結する話だと思っています。



そもそも なんで日本は ポツダム宣言受諾したんです?
国を 明け渡した という事実は無いでしょう。
むしろ逆で 
日本国家を 存続させるために ポツダム宣言受諾したんでしょう。

国家を 残すためですよ。
だから 革命なんか起きてないんですね。

戦後 東大は 左 の牙城となりましたよね。



そういった人たちが つくり上げてきた論理なんです。
天皇制は 廃止だ という 活動をしながら ある長官まで のぼりつめて 
天皇陛下から 勲章をいただく時に 



天皇制廃止の 昔に書いた自分の本を 古本屋まで回って回収した 
という 教授もいます。
頭のいい東大生はあきれていた という話もあります。

民主化 という個人の勝手な 解釈の偽善により 

公職の追放と 言論の弾圧も 始まりました。

日本人が 歴史上 知っておかなければ ならない事が 
戦後 意図的に 隠されていきました。



戦争に負けると 国家の歴史は 踏みにじられる。
国民の 誇りも 踏みにじられるんです。
日本は ひどい国だった。 そういう教育を するようになってしまったわけです。

戦後 欧米が 場合によっては 社会主義の国が 
正しい というのが カッコイイ振る舞いに なってっしまったんです。

日本を 肯定 しようとすると 
軍国主義 と 言われるような風になってしまい
それが 長らく続いてきて 今に至るわけです。

為政者 によって 事実 を隠された。隠された 結果
戦後 みんな 知らなくなってしまったんです。




隠す人たちは
日本は 昭和20年にできた国。新国家を 樹立した。
と言いたいんです。  

ホントですか?って話ですけれども。
その前の 日本は 同じ 日本 という名前だけれども 
昔の日本は 
ポツダム宣言受諾と共に 死んだんだと。

日本国は
初代 神武天皇が 約2000年以上前 王朝の交代が 1度もないんです。

平安時代に 武士 が立ちました。
鎌倉幕府ができ 武家 に時代が続いて
戦国時代を経て
江戸幕府ができて 700年間 武士の時代 が続いた。



そして
大政奉還。王政復古の大号令。明治政府 ができましたよ。
憲法が改正されて 日本国憲法になりました。
色々と 国の統治機構は 変更されますけども

大和朝廷 日本王朝は1度も 変更されたことがないんですよ。



だから それを 覆したい人は 
ここで切れてる ここで切れてる って言いたいわけですよ。
今の日本は 
昭和20年の建国だ って言いたいわけですよ。

どの憲法の専門書に 同じ事が書いてあるんですけども
天皇は 昭和20年に 

1度滅びた って書いてあるんですね。
歴史的な 日本国は 滅亡した って言うんです。
戦後 新しい憲法を立てるうえで

象徴 という 人畜無害な形で 新たに 天皇を こしらえたんだ と。

同じ 天皇という 呼び方だけど 昔とは 断絶している と。
伝統的な 天皇は 滅亡したんだ 



そう 専門書に書いてあるんです。

つまり 日本国の歴史は まだ 70と何年しかない という話ですからね。
そんな馬鹿な話 ありますかって言うんですよ。

歴史学は 騎馬民族王朝説 とか 



継体天皇王朝説 とか 



崇神天皇王朝説 とか 



河内王朝説 とか

ここで 王朝交代 あるだろう! みたいな 歴代天皇を 切りたくて 切りたくて

歴史リンク

戦後流行ったんですよ。

歴史学は 改善されてきましたけども
8月革命説は 日本の憲法学の 通説になっちゃってるんですからね。

伝統もなにも 話にならないわけですよ。
日本の歴史を 軽視したり 皇室を 軽視したり
こんなに歴史がある 伝統がある国なのに 

  



そんなもん なかったかのようにふるまう
この今の 日本の風潮 というのは ここに 根本があるように思うんですね。

昔 天皇は 主権者だったけど 今は 国民が 主権者でしょ。
じゃあ 天皇は 何になったかというと 
象徴 になった って言うんですね。
主権者から 象徴 になった って言うんですよ。

どこがですか? って話です。
象徴って 昔から 象徴 ですから
何も戦後 急に 象徴になったわけでは ないですから。



主権者が 
天皇から 国民に変わった って言いますけど それって 変わってませんよ?

主権 って 色々な意味があって
主権は 
権力 と 権威 の 2つの側面があって

権力 といえば 国民ですよね。
国民が 選挙で選んだ人が 議員になって 法律が決まるわけでしょ。
予算も決まるでしょ。
議会が 総理大臣を選ぶわけですから
権力といえば 国民が握っているわけですよ。

三権分立があるので 立法と 行政は そうやって 権力を握れますけど
司法は 明治時代から 独立した司法 があって
ここは 選挙とか お金とかで動かせるものではないんですね。

国家権力って 結局 誰が持ってるの? って言ったら 
国民が持っているんですね。

行政 を組織するのも 国民。議会も 国民が選んで 組織していますよ。
司法 も 国民。

これは 戦前も 戦後も 変わらないんですね。



でも 戦前は 天皇が主権 って言いますよね。
どういう意味でしょうか。
じゃあ 戦前 
日本の政治を 天皇が 動かしてたんですか? 
裁判所の判決を 天皇が 書いた事がありますか?

ないんですよ。
戦前は 
天皇が 政治に関わっちゃいけないって ちゃんと憲法の原則に 書いてあるんですよ。

天皇が
判決文を書く なんて 憲法違反です。
行政を動かす なんて 憲法違反です。
私が 書いた法律です なんて憲法違反です。

天皇 自ら 三権分立の 中身に関与する事は できなかったんです。

そういうのは 全部 国民が 権力を握っているのであって
戦前・戦後 これは 変わってないんですよね。

勘違いされるんですけども
今は 国民が 権力者 だと。でも 
戦前は 天皇が 権力者 だって言いますけど 
これ 真っ赤な 嘘ですからね。 



天皇は 政治の中身に関与できなかったんだから。

戦後 天皇は 政治的に 無力 ですけども 
戦前だって 政治的に 無力 なんですよ。

じゃあ 主権者が 交代 してますか?

天皇から 国民に 主権が移ったって 何が移ったんでしょう。
昔 この権限は 天皇にあったけど 戦後 国民に移った なんて 
そんな権限ありますか?
主権者が 変わったって言うなら 

じゃあ国民は どんな権力を どこからもらったんです?
天皇から 何を 受け継いだんですか?
実は 1つも無いんですね。
主権者なんか 変わってないんですよ。

天皇と 国民は 一体だから。
反目して 利害が乖離するなんて 無いですから。

ヨーロッパではありますよ。 
国王 と 国民の 利害の対立はありましたよ。

日本は
天皇の 目指すところは 国民が幸せになる事だから。

という事は
天皇と 国民が目指す 日本の未来は 一致するわけで合って 

天皇が 得したら 
国民が 損するとか その逆も ないんですね。

天皇と 国民が 一体となって
国が動かされて来ているわけだから。
だから



天皇は 国民を 信用 しているから 
自分から 政治を動かすって事は なさらないんですよ。

主権は 天皇と 国民が一致して 初めて行使されるんです。
国民 単独で行使できる 主権なんてありませんから。
かといって
天皇 単独で 行使できる主権も ないんです。

法律をつくるにしても 条文を決めるのは 議会です。
公布するのは 天皇 なんですよ。

中身を決める という作業と 
公布 という作業 両方行われて 法律が有効に なるんですね。

国民の行為と 天皇の行為が 一致して 

初めて 1本の法律が 有効 になるんですよ。
国民 単独で 主権は行使できません。
でも 天皇 単独でも 主権は行使できない。

我が国の 主権者は 
天皇 と 国民が 一体となった姿。



これが 日本の 主権者であって 
これは 戦前・戦後 変わってないんですよ。

そもそも 昭和20年8月に革命なんて起きてないんです。
主権者の変更 なんか ないんですから。





樺太・三船殉難事件

まだ 戦争をやめようとしない人たち がいたんです。
それが ソ連 でした。

昭和20年8月9日 日本に宣戦布告し 
200万の軍隊が 一斉に 満州に なだれ込んで行きました。
朝鮮にも 入り込んでいきます。

樺太 千島列島 北方領土 
次々と 日本の 北の領土に ソ連軍が入り込んできました。

北海道の北に 大きな 南北に長い 樺太(からふと)という島があります。
樺太の 北緯50°から南が 日本の領土です。



ソ連軍は 8月15日に 玉音放送があって 
日本は武装解除するわけですけど それでも お構いなしに どんどん攻めてきます。

満州 朝鮮は えらい事になってますし
樺太の 北緯50から どんどん攻めてきた。

日露戦争から  北方領土 千島列島。
そして 南樺太は 日本の領土にしたんです。



しかし 終戦したのにもかかわらず 
ソ連は 戦争をやめる気配がないんです。
南樺太 を取りにきます。北方領土 千島列島も 取りに来ます。
 
真岡(まおか)に 
艦隊から艦砲射撃して 上陸作戦が敢行されます。

南樺太で1番栄えていた 豊原(とよはら)と
北海道からの入り口になっている 大泊(おおどまり)。
日本は武装解除しているのに お構いなしに攻めてきます。

南樺太の人も 玉音放送を聞いたんですよ。 



ラジオから流れる 昭和天皇の お言葉を聞いて
あぁ これで 戦争が終わった と思ったんですよ。

まさかこの後 戦場になるんですよ。ここが。

終戦が 
あと1週間や10日遅ければおそらく 北海道はロシアだったでしょう。



かつて 40万人もの人で栄えていた 樺太は 
今は見る影もない 興廃しています。

日本軍は 千島列島の先っぽ 占守島(しゅむしゅとう) と 樺太50°線に
一応 部隊は置いてましてけども 戦車なんかありませんし
お互い 攻めないようにしようね と
日ソ中立条約 を結んでいたので 日本は ソ連を攻めるなんて考えていませんし
そもそも ソ連が攻めてくる なんて考えてないわけなんですよ。

そこに ガンガン上陸作戦を展開されるんですね。
それで 多くの民間人が 命を落としましたよ。



終戦 8月15日の後 ですからね!

8月20日 真岡上陸作戦。  
日本軍 ほぼいないんですよ?!
上陸して 日本人 バンバン殺していくんですよ。日本軍 武装解除した後ですよ?!

樺太に消えた 9人の乙女たち もそうです。
歴史 人物② リンク

ソ連が 終戦後 南樺太 北方領土 千島列島に 
猛烈な攻撃を加えていったのですが

極めつけは 8月22日 三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)。



3つの 日本の 引き上げ船が 
ソ連軍の 潜水艦の攻撃によって 沈没。もしくは沈没ギリギリの状態になりました。
1700人 くらい亡くなっています。

南樺太の 大泊(おおどまり)を出発して 
小樽とか 稚内の方とかに 民間人が 引き上げる船です。
この 引き上げ船 3隻が 
ソ連軍の 潜水艦の攻撃によって 沈められてます。



男性は 後。まだ待っとれ と
40歳以下の 女性と 乳幼児。 14歳以下の 学童。  
65歳以上の お年寄りなど 社会的弱者を 集中的に
40万人以上いた 住民を先に 北海道へ逃がす という事で 

定員 5倍 6倍乗せて 船のデッキにも甲板にも 人がうわぁ~っていて 



引き上げ船を目視で 次々と沈めていったという 恐ろしい事が起きたんです。

犠牲者のリストを見ると 
優先して乗せた 小さい子が いっぱいいるんですね。
あとは ほとんどが女性でした。
そして 
ソ連の魚雷 と 機関砲によって 次々と沈められていきました。


 


3つの船 の名前が 第2新興丸 小笠原丸 泰東(たいとう)丸
と言い 
どれも 1000トンから 2000トン程度の 小さな船です。

大泊に 3万人 くらい押し寄せて 



船が来ても 500人 800人 しか 乗せられないわけです。 
ぎゅうぎゅう詰めにして 
どんどん 北海道に向けて 引き上げをしていたわけなんです。

もう 戦争は終わっているから 
マストに 前照灯 を灯火して国旗を立てて しっかり わかるように



そして
自分の位置がわかるように 
無線信号 を発信しながら 船を航行しなさい 
との 米軍からの指示でした。

ようやく マストに明かりをつけて 船を動かせるんだ 
戦争終わったねぇ と 船員さんたちは 思ったんです。 

小笠原丸は 
早朝に まず 稚内 で乗っている人々を降ろして 次 小樽に向かったんですけども
小笠原丸には 700人 乗っていました。

そしてソ連軍の 魚雷攻撃をうけるんですけども 

1本目は 回避したんですけど 2本目を受け 
あっという間に 沈没です。

船が沈みましたから乗っていた 700人は 海に投げ出されるわけなんです。
そこに
ソ連の 潜水艦が 浮上してきて



なんと! 機銃掃射 をかけたんです。

バチャバチャ 700人が 海の中で 溺れかかっている人に対して 
浮かんできた 潜水艦が 銃撃を あびせたんですね。
溺れて もがいている人たちを片っ端から 撃ち殺していったんです。



女性 と 子ども ですよ?
朝になってますから 見えてますよ。
軍人じゃない って事くらい わかってますよ。
しかも 攻撃した船は明らかに 軍艦じゃないんです。

ライト付けて 位置まで知らせてね
それを 沈めて 溺れる人たちを片っ端から 銃撃して 殺して 

まさに 辺り一面 血の海になったと言われています。
無抵抗の人たち ですね。

小笠原丸には 
大砲1門 と 機銃1挺の 装備があったんですけど 
戦争が終わってますし ひもでくくって 閉まってあって 
それを出してきて なんて 間もなく あっという間に沈められてしまいました。

北海道の 8月22日の海は冷たいんです。 



15日の お盆を過ぎると 一気に秋ですから 朝夕 肌寒くなるんです。 
ほとんどの人が冷たい海で もがいて 撃たれて 死んでいったんです。

それに気づいた 増毛町の魚民たちは 
船が 襲撃されて 何だっ? どうしたっ! と 
敵船がいる にも関わらず 
溺れている人を 見過ごすわけにはいかないと 危険を顧みず 
勇気のある 漁民たちは 船を出して 救援に向かいました。

結局 638人が 亡くなりました。 
生存したのは 62名 だけです。9割 亡くなったんです。
これが 1隻目。小笠原丸ですね。

次 第2新興丸。

この船は 3600人を乗せて 小樽 に向かう途中でした。
留萌(るもい)北西で 襲撃にあいます。



横 12m 縦 5m の大きな 穴が開きました。



そこの 船倉にいた疎開者が ほぼ全員が 即死です。

潜水艦は 2隻 いたらしいんですね。
浮上した 2隻 から 銃撃されて 
甲板 にいた人たちが 次々と なぎ倒されていきます。

第2新興丸は 単装砲や機銃砲を 装備していたんです。
やむなく応戦するんですよ。 
そうしたら 1隻の ソ連潜水艦が被弾して 沈没です。やってやりましたね。

第2新興丸は 
右に 被弾したので 前のめり になりながら 
右に 大きく 傾きながら 沈没ギリギリに 傾きながら
ちょっとずつ ちょっとずつ 進んで 何とか助かった という事なんですけども

第2船倉に 浸水して
そこに たくさんの 引揚者がいたので 沈没はしなかったのですが 
400名 が犠牲になりました。

3隻目は 泰東丸(たいとうまる) なんですが

大泊から 780人 を乗せて 小樽に向かう途中でした。
やはり 
留萌沖 西で浮上した潜水艦から 砲撃をうけました。

1隻目 2隻目 は魚雷でしたが 3隻目は 砲撃をうけます。
しかも 泰東丸の船員たちは 
白シーツを掲げて 無抵抗 の合図をするんですね



ところが
潜水艦は 砲撃をやめなかった。 
10発以上 泰東丸は 砲弾をうけて沈没します。

泰東丸だけで 667人が 犠牲になりました。
泰東丸には 
機関銃1丁が あったんですけど あっという間に沈没をしちゃったので 
応戦する間も なかったと いう事でした。

今のところ ロシアは民間船を 3隻沈めた 
という事を 公式に認めていません。

ソ連軍の 第1潜水隊所属の L19 とL12 の2隻が 
この海域で 活動していた事は解っています。



1隻は 撃沈したっぽいんですよ。 
L19が 行方不明となっている という事です。

民間船 3隻で 1700人ぐらいですよ。
8月22日 しかも 引き上げ船ですよ。

どう見たって 民間の女性と子どもばっかり乗ってて
しかも 
白いシーツを掲げて 無抵抗の合図をしている。そこを

撃って 沈めて 溺れる人を 機銃掃射して 1700人殺してんですから
8月22日ですよ。

戦時中だってね 白旗 を上げた船に対して攻撃なんて絶対に許されませんよ。

たとえ 戦争中だって 
民間船に対する 攻撃というのは 国際的に違反ですからね。

引き上げ船を 3隻沈めて 
何かメリットあるんですかね。何の軍事上の意味が あるんですかね。

しかも 
この 小笠原丸が 沈められましたよね。
なんと 小笠原丸は 戦前 明治44年。

長崎港外で ロシア客船は座礁して
その時に 乗客全員を 救助したのが
小笠原丸 だったんですよ。



その ロシア人救助した船 小笠原丸を 撃沈させてるんですよ。

魚雷を撃った ソ連の潜水艦の乗組員たちは 
まさに 自分たちが仕留めた その船が かつて 
ロシア人を 救った船 だったなんて事は知らなかったでしょうね。

三船殉難 って話は
教科書に 書いてないんですよ!



終戦の後 8月22日よ? 
意味もなく 日本人を殺していったか。
日本人なら 知っておかなければならない歴史ですよね。

結局 三船殉難を含め
真岡で殺された 9人の乙女 も含め

8月15日 から 9月1日 までの間に
樺太と 北海道沖 北方領土 千島列島で  
民間人だけで 殺されたのは 3700人です。

戦争中ならまだしも 戦後ですよ?

なんで 
赤十字を掲げている 病院が 空爆されるんです。
なんで 
白シーツを掲げている 引き上げ船を なぜ沈めるんです。
恐ろしいですね。





シベリア抑留

終戦の時の どさくさまぎれですけどね
シベリア抑留 というのが おこなわれました。

満州にいた日本人 
57万人が ソ連軍によって 強制敵に連れ去られてしまいました。 
逮捕され 
連行され 
強制労働を させられました。

 

連合国が やっている事を 
拉致(らち) と罵るのはできなかったんですよ。

だから 抑留(よくりゅう)。
なんか ロングステイ みたいな 
滞在中 みたいな 良くも悪くもない 表現です。
本来なら 日本人拉致問題 なんですよ。



今も 近隣の北の国が 1000人の 日本人拉致問題がありますが

当時 ソ連のやった事は 桁違いも甚だしんですよ。  
57万人 連れ去っちゃったですよ。



シベリア抑留を考えたら 
近隣の北の国の 拉致問題は への河童ぐらい 人数が違うんですね。

この時 シベリア送り されてしまった 
著名人の1人に

溥儀(ふぎ)皇帝。
満州国 皇帝がいるわけですから。



なので 
溥儀皇帝 は 満州国の時の事を 日本が 不利になる証言で
東京裁判で 話してしまう事になります。

抑留された方は どうなったかというと
ソ連の 色々な場所に 送られたわけなんです。



特に厳しい環境に送られたのが シベリアの人たちなんですけども

シベリア というのは人口も ほとんどいない永久凍土で 
冬は めちゃくちゃ寒いわけなんです。



そんな中で 
道 ダム 発電所などをつくったり 色々な作業を 
57万人 の日本人にやらせたわけです。

一応は 雀の涙ほどの給料は出るんですけども 十分な食事も与えられないんです。
帰りたくても 帰れません。強制労働ですから。

そんな過酷な 労働環境の中で 5万5000人。

連れ去られた 約1割の 日本人が 命を落としています。
軍人もいましたけれども 民間人も ふくまれています。



なんで ソ連にそこまで されなきゃいけないんです?

8月9日 ソ連が日本に 宣戦布告して攻め込まれ 
15日に終戦してるわけですよ。

確かに 日露戦争で 日本とロシアは戦いましたよ。
そん時の事 怒ってたんですかね。

これは 戦闘で亡くなったんじゃないんですよ。終戦後ですからね。

こんな事が 許されるわけがないんですよ。
北方領土も ずっと返しませんしね。
私たちは 忘れてはいけないんですね。終戦の後に ソ連に一体何をされたのか。

お互い 仲良くしましょう って 日ソ中立条約を結んで 
その舌の根も 乾かないうちに 57万人 拉致ですよ?
日本も ソ連をよく信じましたよね。

ソ連が崩壊して ロシアが継承してますけども 





ロシアとは 未だに 講和条約もないんです。





東西冷戦

戦争は 終結しますけれども その後 世界は平和になるかというと 
なりませんでした。

今度は 実際に武器を使って 殺し合いをする という戦争ではなく 
暗殺 など 
あらゆる事を あらゆる所で 事実上の戦争と同じ事が おこなわれました。
冷戦の目的は 
本物の戦争と 同じ目的で行われています。

昭和20年10月 
国際連合(ユナイテッド ネイションズ 連合国 という意味) が設立されました。
連合国が そのまま 国連になったので 



初め 日本は 加盟できませんでした。

主軸は アメリカ と ソ連 と イギリスです。
かつてのポツダム会談も



ヤルタ会談も このメンバーでした。



しかし アメリアは 先に原爆を落として 終戦ってやっておけば 
ソ連より 有利に立てる 
という事で 原爆を投下 したわけじゃないですか。

仲がいいように 一見装っているけど実際は ものすごく権勢していたんです。
第二次世界大戦が終わった 直後から米ソ対立抗争が できてきちゃうわけですね。

日本から見ると アメリカが 東 に見えますけど
ヨーロッパから見た 
西 が アメリカ。東 が ソ連なんです。

東側諸国は 東欧とか ソ連の事をいい 
西側諸国は 西洋とか アメリカを言います。



地球を 真っ二つに分けて 東西冷戦構造 に入っていきます。

国連って言っても 社会主義国 じゃないですか。
かたや 自由主義国。

国連発足の時から 同じ 常任理事国でも 
ぜんぜん意見なんか合わないわけです。拒否権を持っているし

話が合うわけが ないんですから。
世界的な 重要な事なんて 決まるわけがないですよ。

世界中が アメリカに付くのか 



ソ連に付くのか 



お前はどっちだ という事になり

日本は アメリカ 西側諸国に付くわけです。

西側諸国は 自由主義。
東側諸国は 共産主義 であり 社会主義。

昭和24年 北大西洋条約機構 NATO が発足しました。
アメリカと ヨーロッパ西側諸国の 軍事同盟です。



昭和30年 ワルシャワ条約機構 WPO が発足します。 
東側諸国の 軍事同盟です。



これで 完全に 覇権争いになります。

東西冷戦 というのは 囲い込みです。
生産にしても 流通にしても 東西それぞれ 側諸国によって やりましょうって
地球に 2つの世界が 並立しているような感じになりました。



人の行き来も ほとんどできなくなりました。
ヨーロッパも 2つに分断され 

ドイツのベルリンは 
東西で 分け合っちゃいましたから ベルリンの壁がつくられ 
これを超えた人は 銃殺されていったわけです。

ソ連 中国を旅する。観光する。なんて 異次元の世界で 
旅行する なんて場所ではなかったんです。

代理戦争も 冷戦の1つです。

支那は 内乱が起きました。
中華民国 という 国民党が抑えていたものが もともと ありましたが 
そこに 反旗をふり返して 内乱状態に入っていきます。
その一部の勢力が 中国きょ~産党です。
この 中国きょ~産党は 

東側諸国の 巨頭である ソ連コみんテルンが 
中国きょ~産党として 中華民国に 反旗をふり返して 国民党を追い出してしまい



国民党は 台湾 に行きます。
そして
中国大陸に残った 中国きょ~産党が 中華人民きょう和国を宣言するんです。
ここで 中国が 真っ二つに分かれてしまいました。

台湾 と 中国大陸の 中国問題は ここに根差しているという事になります。



朝鮮は 
中国 と アメリカ という形で進行したのが 朝鮮戦争 だったんです。

朝鮮半島は 日本が 統治していたんだから 
戦後は全部 アメリカが抑えればよかったんですよ。
ところが ソ連との話し合いで 

38°線で分けましょう という事になりまいた。分けられた側は 悲劇ですよ。 
ドイツも東西の分立でも 酷かったですから。

アメリカの主導の下 南は 韓国政府 がつくられた。
ソ連の主導の下 北は 北朝鮮政府 がつくられた。

38°線で 2つの政府でいくのかなぁ と思いきや 
北朝鮮が 停戦条約を破って 38°線を 南に進軍してくるんですよ。
約束違うじゃないかぁ~ って 米軍が入って 北朝鮮軍と 戦うんですね。

一気に 38°線まで戻してえいやぁ!って もっと北まで行っちゃって 
ここで参戦したのが 中国軍。人民解放軍 なんですよ。
中国軍が加勢して ぐぐぐぐぐぅ~って押し下げて行って
38°線で 停戦条約を結んで 今に至る って事です。
だから 中国は 北朝鮮の 生みの親だ なんて言われるわけです。



あと ベトナム戦争もありました。



まさに アメリカ と ソ連の代理戦争なんです。

冷戦が崩壊するのは ドイツ ベルリンの壁が壊され 




ソ連が崩壊し



日本が 昭和64年以降 平成 に入ってからですからね。 
40年 冷戦が続いたんですよ。

出口の見えない 長い 長い 戦争だったんです。
時間もかかり 忍耐が必要でした。
あと そうとう お金もかかったんですよ。

アメリカ と ソ連で どれだけ核兵器の 開発競争があり 
核弾頭をつくり 
大陸間弾道ミサイルを並べて
長距離爆撃機 からも 潜水艦からも撃てるようにして
研究して 配備して 管理して 
どれだけの お金がかかったか 天文学的な金額をかけて
核開発競争 軍拡競争をしていくわけです。



結局 軍配が上がるのは 
西側諸国の 自由主義軍営でした。それが どういう要素だったかというと
計画経済なので 

社会主義は 世界恐慌など 関係ありませんから
短期的には 社会主義も いいところまで行った場面も あるんですけど
長い間 40年も走らせてみると 
社会主義の 矛盾 が露呈した というところなんです。

同じ家に住んで 同じ収入なら 
誰が頑張ります?誰が努力します?努力しないんだから。 
西側諸国と 差が起きますよね。

軍拡競争で 経済的に保てなくなって ソ連が崩壊 していくわけですよ。
ここで
日本は 東西冷戦で 勝った という事です。

冷戦は 戦勝国側 に付きました。先の大戦では 負けましたけども 
冷戦では 西側が勝ちましたよね。日本は戦勝国です。



東側諸国 の国々は ぺんぺん草も生えないくらい荒廃したんですから。

西ドイツは 工業国として発達し 
東ドイツは 農業国で 社会インフラも整わず貧しかったんです。

東と西が一緒になって 30年くらい経ちますが まだ 格差があるんですから。
はい東。 はい西。 と分けられて 
東側の入った所は 
本当に衰退してしまったんですね。発展しなかったんですよ。
今 EUで まとまって 徐々に発展してきてますけど 
東側のヨーロッパは 酷かったんですから。

日本は 西側だったんですね。
じゃあ 一緒に 軍拡競争して っていったかといったら
憲法 第9条 がありますぅ~ って ウチら 軍 持ちませんから って 
各国 軍拡にお金を費やしているところを
日本は 軍事費 必要最低限にして 浮いたお金で 

新幹線つくったり 



高速道路つくったりして 



国内の 社会インフラを バンバン つくって行ったわけですよ。
アメリカに行ったって 高速鉄道は 無いんですからね。

逆に 日本が 東側に付いていたら どうなっていたかっていうんですよね。
日本の繁栄なんて あるわけ無いんですから。

先の大戦では 日本は 負けましたけども 
冷戦では 日本は 勝ったんですよ。
これによって
日本が どれだけ 恩恵 を受けたか って事です。

それを考えると
また次 東西冷戦が始まります。

米中貿易戦争から テクノロジー戦争から 仮想通貨戦争から
米中の 覇権の争いの戦争に入っています。
どっちに付くんですか?って事ですよ。
アメリカ と イギリス 台湾 ヨーロッパ 東アジア諸国 と共に
戦勝国に 導くために
日本は 何ができるかを 問わないといけないんですね。

戦後 東西冷戦で 勝った事の すごさ。



これは 噛み締めないと 駄目です。次も 勝たなきゃ駄目です。





サンフランシスコ講和条約

6年8か月の 長い占領期間を経て 
日本は 国際社会に復帰 をする事ができました。

昭和26年9月8日 
サンフランシスコ講和条約が 署名されました。



翌年
昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約を 発行します。
これによって 
日本は 独立を 取り戻すことができました。

これまで 日本国は ありましたけれども 

日本の 統治機構の上に 
GHQが ボ~ンと乗っかっていて GHQが 全てでしたから 
独立国の体裁は 失われていたわけです。

6年8か月の 長い占領期間
おぎゃあ と生まれた赤ちゃんが 小学校に上がるまでです。



何で ここで独立を 取り戻すことができたか というと

ポツダム宣言に 書かれていた 
日本のやるべき事 義務を ちゃんと全うしたからです。

全て クリアしたら 
連合国は 占領を解除する という約束事でした。



難癖を付けて 居座ったわけではなく
米国は ちゃんと占領解除 してくれましたから紳士的だな と思います。

ポツダム宣言で はい戦後。 みたいに言われますけど
本当の 戦争が終わった と言えるのは 

占領が 解除されて 日本が独立を取り戻すまでですからね。
日本は 義務を果たし クリアしたら 占領解除しますからという事。
そして 講和条約が結ばれ 細かい事が取り決められたんです。

昭和27年4月28日は 
日本が独立を取り戻した記念日 という事で 非常に重要な日になります。

ただ 沖縄はまだ返還されません。

小笠原・奄美 そして沖縄が返還されて これを持って初めて 
日本の 本当の独裁が 回復した と言えるんです。



サンフランシスコ講和条約が結ばれ 発行されることによって

GHQが 撤収します。占領も終わります。軍事占領も 解除されます。

東京裁判を受け入れたから 講和条約が結べたんですよ。

戦争犯罪人を 裁く。

というのが ポツダム宣言に書かれていて それをやったわけですよ。
やり方は めちゃくちゃでしたけれども 

やったんですね。



これが 講和条約を結ぶ 条件 だったんですね。

日本は 独立を取り戻した。独立国 であるがゆえに 
自由 でいられるんです。
国もこれだけ 発達しました。
今の日本人は
 
講和条約を 結んだ事によって 日本が独立した事による
恩恵 を受けてますよね。

何で 日本が 独立できたかといったら

文学的に言えば ミソギが晴れたと 言うことでしょうか。



日本は 悪の権化 と言われたんですね。
もう 全部 日本のせいだ と言われたわけです。

アメリカ人の ほとんどは 日本人を憎しんでいる。
その日本が 国際社会に復帰し アメリカとも国交を持ち 
仲良しになったわけですけども

アメリカ人が 日本を憎み 天皇を処刑せい と言っていたわけですよ。
日本なんか 悪の枢軸 と言われたわけだから。
それが
アメリカと これほど付き合えるようになったのは 何でですか?って言ったら

ある 儀式をしたからなんです。
それが 東京裁判 なんです。

東京裁判によって 戦争犯罪人を 全部あぶりだして 

一部は 不起訴になりました。一部は 起訴されました。
めちゃくちゃな裁判でしたけれども



一部の人は 
処刑され 終身刑となり ある人は 無罪になった人もいました。

刑が 執行されましたよね。東京裁判や 各 軍事法廷で 行われた 
B級 C級 含めて
日本の戦争犯罪人は 全てあぶりだされて 調査して
歴史 現代①リンク

めちゃくちゃですけども 刑の執行は終わったんです。
東京裁判で 踏みにじられた 戦争犯罪者たちによって  
残った人たちは 
犯罪者じゃないって事に なってしまったんです。 
訴追(そつい) されなかった人は 戦争犯罪者ではない。

つまり 善良な 日本国民の方に 分類されてしまったんです。

簡単に言うと 東京裁判は 

悪い日本人と 善良な日本人とに 分ける儀式だったわけです。

東京裁判によって 悪い日本人は処罰しました。
という事は 
残った日本人は 善良な日本人ですよ。と言われたんですね。

東京裁判によって 悪い日本人は 処罰しました。
という事で ミソギが 晴れたわけです。



もう
日本民族には 戦争犯罪者は いないわけです。
だから ミソギが晴れて 国際社会と 付き合う事が できるようになった。
講和条約を結び 各国と国交を結んでいったわけです。
戦争犯罪者を 処罰したからなんです。

東京裁判を 認める 認めない。 
好き 嫌い  俺は認めない とか関係なく
現代日本人は 
東京裁判の 恩恵 を受けてしまっているんです。

なので 後味の悪い話なんですよ。
東条英機の裁判 
こんなのめちゃくちゃだぁ~ と言うのは簡単なんだけど
それを言っている 私たちが 
東京裁判による 利益を受けちゃっているんですね。

だからこそ 東条英機は 立派なんですよ。
日本中の 罪・穢れを 全部背負い 
自ら処刑される事で 日本中の罪を祓った。晴らしていったわけです。



だから
天皇には 責任は無い という事になって 
一国家の 国家元首 として 認められたわけですから

戦争犯罪者 と言われた人が 全部背負って 処刑されてくれた お蔭で

残った人は なんの罪もない 善良な日本人 と分別されたんです。
当時 生まれてなくても そういう事ですよ。

独立を果たした という事は 
理不尽な事も 吞みこみ 東京裁判も然り。 
そう簡単なことでは無い という事です。だから



耐えがたきを耐え 忍び難きを忍び

とは そういう事なんです。

昭和天皇がおっしゃいました。

これから 戦争犯罪人の 処罰があるでしょう。
本来なら 認められない事も 認めなくてはならない。
本来なら 耐えられない事も 耐えていかなくてはいけない。

戦争を 継続するのも 棘(いばら)の道ですが
ポツダム宣言を 受諾するのも 棘の道なんですよ。 

苦痛のミチを 歩まなくてはいけないよ 
でも今 戦争を止めて 戦後の 復興に賭けたい



というのが 昭和天皇の 想いだったわけなんです。

6年8か月 という長い期間 かかりましたけども ようやく独立に至ったわけですよ。

ここまでいく過程には 
農地解放 もさせられた。
11宮家も 廃絶させられた。
憲法も 変えさせられ あらゆるめちゃくちゃな目にあって 
よく耐えたな って話ですよ。



途中で 音(ね)を上げて こんなもん認められるかぁ~ できるかぁ~ 
って やっちゃったら 独立できなかったんだから。
涙を呑んで 東京裁判をやって

耐え抜いて 耐え抜いて 耐え抜いて 
忍び難きを 忍んだ 結果が講和条約なんですよ。






竹島問題

サンフランシスコ講和条約を発行して この日 日本は独立を果たすんですけども
この時にまだ 日本は 自衛隊が無いんですよ。



朝鮮戦争の時に 



アメリカ兵は 朝鮮に付きっきりになるので

日本の 国防を 自分でできるように っていう 
軍 ではありませんが

マッカーサーがつくらせた 警察予備隊 はあったんです。



自衛 ができるように という事で 
やっている事は 警察 にちょっと 飛び道具持ってます みたいな感じです。

アメリカが守るから 日本は軍隊を持つな って事が
今 俺ら 朝鮮戦争で 忙しいから 自分で守りなさい って
朝鮮戦争の時に 
マッカーサー 3原則 崩れてるんですよ。



警察予備隊では 国防まで できないですけどね。

サンフランシスコ講和条約を 発行し日本が独立した この時
日本は 軍隊も なければ 自衛隊も持ってないんです。

それをいい事に 韓国が 攻めてきたんですよ。

警察と 警察予備隊しかない 国防の手段を持たない 日本に
いきなり攻めてきたのが 韓国なんですよ。

大韓民国 初の大統領 李承晩(りしょうばん) が



李承晩ライン といって



はい ここ うちの領域ね~って 

韓国が勝手に 竹島 を含む領域を 韓国の領域だ と宣言し
昭和28年 竹島 を占領しました。

まず 民間人を 派遣して 
軍人が 漁民に 扮しているだけなんですけども

徐々に入れ代わって 軍 が抑えるようになっていきました。

竹島は もともと 明治38年に 
日本が 閣議決定して 島根県に編入して 国際法上 正式な手続きを経たものです。
それ以降 米軍が使っていたんですけども 

日本が独立をしました。米軍が帰りました。  
よぉ~し 今だ って言って



日本が 国防の手段を 持たないのをいいことに 竹島 に来たわけですよ。
この後 すぐ自衛隊が発足するんですけれども この一瞬を ついたわけですよ。

昭和40年に 日韓基本条約 を結んで 
日本 と 韓国が 国交を再開するんですけども

竹島 という 領土問題を抱えていたら 普通 国交なんか持たないんですよ。
一旦 棚上げして 国交を 開いたわけですね。
そして
昭和28年 から 昭和40年 の 12年間に 何があったか ですよ。

この 12年間に 韓国の航戦 327隻を 拿捕しました。



そして 日本人 漁師さん 391人が 韓国側に 逮捕されています。
そのうち 8人 が死んでいます。
もともと 日本のものを ぶん取っておいて 竹島で 8人 死んでますからね。
日本人 怒っとかないと だめですよ。

サンフランシスコ講和条約は
ソ連が 調印しなかったので 
樺太 と 千島 に関する領土は 未確定のまま 現在も残っています。







日韓国交樹立と むしり取られたもの

日本は あんなに 戦争で ボコボコになった 
焼け野原から スタートした はずなんですけども

経済力 をつけまして 
周辺の国々に 政府開発援助 ODA する存在に なります。

昭和25年から 朝鮮戦争が始まります。



昭和28年までですが

日本は直接 戦いはしなかったんですけども 
在日米軍が 中心となって 対応しますので 
日本で 物資を 調達するわけです。 

日本は このタイミングで 軍隊もないですから 朝鮮戦争特需が起きて
経済が発達しました。
経済力 を持った日本は 
東南アジア とか 東アジア各国に 経済支援をするんですね。

朝鮮半島は 日本が 統治 していたんだから 
バトンタッチして 
戦後は全部 アメリカが 抑えればよかったんですよ。

トルーマン大統領が 原爆を投下するのに こだわった歪みが ここに生じてるんです。



原爆投下した以上 
パッと戦争を 止めてもらわないといけないので 
ソ連参戦を促し 

ソ連参戦 って言ったって 8月9日でしょ。
日本が ポツダム宣言受諾 を決定するのが 10日。 

ソ連には たった 1日借りただけで 
ソ連に ご褒美をあげないといけないので 朝鮮を半分こ。 

ソ連との話し合いで 38°線で分けましょう という事になりました。

樺太も 千島も 北方領土も ソ連に持っていかれました。



台湾は 中国。国民党 蔣介石に 持っていかれました。



アメリカが ちゃちゃっと入って 抑えておけば良かったと思いません?
米軍が入っちゃえば ソ連は来ませんから。

経済力を持った 日本が 
東南アジアとか 東アジア 各国に経済支援をする中 

朝鮮と 国交を結ぶのが遅くなったのは 朝鮮戦争 という事です。
日本が 武装解除して 朝鮮を明け渡し
南は アメリカ。北は ソ連 になってしまって

北の人たちは可哀想に そのまま シベリア抑留です。
38°線で半分こ にしたんです。

昭和40年に 日韓基本条約 を結んで 
日本 と 韓国が 国交樹立 させるんですけども
同時に 日韓請求権協定 も結びます。

どういう事かというと
国交を 樹立する にあたって韓国側が

賠償金を渡せ とか そういう話があったわけですよ。
賠償金を渡せ って かつて 
日本は 韓国に ダムつくったり 帝国大学などの 学校 道路 病院 つくったりして
日本が
どんどん 韓国に 投資したお金が あるんですけど って話ですね。



つくった物は 韓国に 置きっぱなしですよね。
日本が 
鉄道を敷いた金 返せ とか言わないから

韓国側に 日本に対して
あといくら払え って後で言うの 無しね と
いくら貸したの 返したの っていうのは ややこしいから
まず日本が お金を バァーン と積んで 

もうこれで 細かいお金は 返せだ払えだというのは無しにしよう
って事にしたんです。
日本が 巨額な経済支援をするんですね。
無償資金 というのは 返さなくていい お金です。
借款(しゃっかん) というのは 担保も 金利も 無しに お金を貸してあげて

合わせて 11億ドル 
当時の レートにあわせると 3960億円。 日本は 巨額な資金を 韓国に払いました。
当時の 韓国の国家予算は 3・5億ドルです。 
当時の 日本の国家予算は 3・7兆円。  

なのに  3960億円 援助したんですよ。日本の国家予算 1割以上。
ポオーン! ってあげちゃったんですよ。



もともと 韓国は 日本だったので 賠償金 という筋合いのものではないのですが
アジアの周辺諸国の 独立を後押しして 経済的 技術的 支援をするのと 同じように
韓国にも 支援 という事の お金でした。

そのかわり後で 保証しろだの ここ直せとか 精神的ショック受けたから 金払え とか
もう そういうのは 無し。 もう 貸し借り 無し。



だから 日韓請求権協定 と言うんです。 完全にチャラになる 予定だったんです。

韓国は 請求権を 放棄 したんですね。 
もう 賠償金は請求しません って。

当初 日本側は 韓国の人で やれ 賠償せい。という人が現れたら 

日本政府が お金を配りますか?その方が 間違いないですよ?
と 韓国政府に 話を持ちかけたところ 



お金を預かって 韓国政府が うちらが お金を配るから
日本政府は そういう人たちに 直接 配らないでくれって言うので
信用して お金を預けたんですよ。

という事は 
韓国内で 賠償が必要な 事案がでてきたら 
韓国政府が 保証する という事なんです。



そうしたら! 韓国政府は 一部しか賠償しなかったんですよ。
韓国という 国を 発展させたいから どんどん 投資に使って 




これで ソウル周辺が ものすごく発展するんですよ
人に賠償払っちゃったら せっかくの巨額なお金 なくなっちゃうじゃないですか。

発展させて 税金が入ってきたあかつきに 賠償金をはらいますよ。
っていう スタイルを 取ったわけです。
で 何が起きたかというと 

私は 従軍慰安婦 に させられたんだと。賠償せい!




私は 徴用工。 というのが現れて 
強制的に 日本に連れてこられた 給料よこせ!賠償金よこせ!って 
日本に言ってくるんです。

もう 韓国政府に 渡してありますから そっちから貰って下さい。って言うと
韓国政府は
もう インフラに使っちゃったからさぁ もう お金 無いんだよ。



だから 日本政府が 賠償しろ!って言うんですよね。

当時の 韓国政府は 
北朝鮮の 賠償金も 韓国政府に払ってくれ って言うんですよ。

日本は 北朝鮮には ウチらが直接払うから と言うんですが 

朝鮮半島は 韓国政府が中央政府だから と言うので
しぶしぶ 
北朝鮮の分も 韓国政府に渡したんですよ。

それが 11億ドルです。 



日本は あんたらの財布じゃないんだよって 感じですが。
丸く収まったんなら お金の価値がありますけど 
お金払っても あっち こっち 賠償せい 賠償せいって



しかも 11億ドル 渡しておきながら 

感謝されたいから渡したわけではないけども 1つも感謝されないわけですよ。

私 従軍慰安婦です。お金下さい。って現れるんですよ。




韓国政府に言っても 払ってくれないから お金下さい。って。
私は こんなに苦しんだ ひどい目にあった 私の青春を返せ 
とか
30万人が 奴隷のように連行された 戦場を連れまわされた 
慰安婦が 戦場で戦死した とか 言って 金出せぇ~ って言うんです。
 
実際は 嘘でした と 本人が白状して嘘だったんですけども



いつの間にか 日本の新聞が 



吉田清治 という人が

日本軍が 朝鮮女性を30万人 強制連行して 性奴隷のように連れまわしたのを 
私は見ました!って
言い出したのを 記事にして 火をつけて 
当時 世の中の人は 信じちゃったんですよ。

それに対して 日本政府は 表立って反対しなかったんですよ。

敗戦国だから って反論しないのをいいことに 10年 20年 30年 
うんうんって 聞いていたら 本当になっちゃったですよ。

嘘も 1万回言ったら ホントになる と言いますけど 
そうすると 
私も 慰安婦でした。 私も慰安婦でした。って わぁぁ~って 出てきたわけですよ。




みんな 私は こんなひどい目にあったんだぁぁ~! って 
めちゃくちゃな事になっちゃったわけですよ。

朝鮮人は 日本国籍を持ってたんですからね。 
朝鮮人は 被害者ではないんですよ。
でも 韓国側が 



国民の間で 収集がつかないから 
1度 誤ってくれ って言うんです。それで解決するから。って 言うんです。

日本は やってもない事 謝れない って言うんですけど 



韓国側が 頼むよと。全部 クリアになるから と。



そこで 河野談話です。



河野洋平 という人が 官房長官の時に謝ったんですよ。

そしたら
認めたぁ~。金出せ~!って来るわけですよ。





いやいや 一言誤ったら 問題解決するって言ったでしょ。
って言っても 認めたから 金出せって 言うんです。
韓国側の言う事を聞いて 日韓関係が良くなったか というと ならないんです。

あと 徴用工 の問題も



日韓請求権協で 解決済み なんですよ。 
国家間だけじゃなく 個人とか 法人も含めて 

日本と 韓国の間では 一切 貸し借り無し。11億ドルで 解決。
という主旨が 書かれているんです。

徴用工というのは
戦争が始まると ここで あなた働きなさい と 指令を出す事があるんです。
これは 
軍需産品の製造が 中心になるので 
それ以外で働く人を 軍需工場に 連れて行ってしまうので
マッチ 塩 醤油 にしても 日用品とか 作る人が 少なくなるんです。
だから配給制になるんです。

アメリカも ヨーロッパも 同じです。
日本も 徴用工 を募集しました。でも 給料が出ます。
朝鮮は 日本の一部でしたが 



徴用工の募集を してこなかったんです。

しかし いよいよ 終戦ギリギリ 工場が回らない って時に 
朝鮮にも 徴用工の 募集をかけたんです。ほんの数か月だけ。
ところが 
戦局が悪化して 日本と 韓国の 船の行き来ができなくなってしまったんです。
そして そのまま終戦になります。

だから 20万人以上が 徴用工ですぅ~ って言うけど 
1万人もいないんだから。
朝鮮より 日本本土のほうが 物価が高いんですね。
同じ仕事をしても 貰えるお金が 違うんですよ。
日本が 月給 待遇は こうですよって示すと 普通に日本で働きに行くって 殺到したんです。

別に 徴用工じゃなくても 普通に募集で 十分工員さんたちが来るんで
強制的に 嫌だ嫌だ って
無理やり連れてくる必要は ないんです。

韓国が 徴用工の人 申告しますから~ って言ったら 
いや 私も無理やり 連れていかれた 金くれ って 
20万人 ですよ。自称 徴用工が。



だから 
日本政府は 徴用工問題って 言わないんです。
朝鮮半島出身者労働問題 と言うんです。募集工ですよ。
従軍慰安婦も 徴用工も 中身 空っぽ。作り話です。

こんな もめるんだったら 11億ドル 出さなければよかったような感じがします。





高度経済成長

経済力 というのは とても大事で 
日本が しっかりとした 経済力を持っている という事は 
どれほど 国益に寄与しているか を考えていただきたいんですね。

先の大戦後の方々が 本当に 血のにじむような 努力をして 
経済大国へ 引き上げていったわけですよ。
その1つの 象徴的な出来事が

昭和39年 終戦から 19年後ですけども 東京オリンピックが開催されました。



東京は 焼け野原になり ほとんど 何も残っていない 
戦後 荒廃したところからスタートするんですけども



新幹線が通り



首都高が ほぼ完成して



高層ビルが 立ち並び

そういったところで 東京オリンピックを成し遂げたわけです。



日本が 確かに国際社会に復帰し そして 豊かな経済をつくり上げた。
日本の繁栄を 再び取り戻した という事を 世界に示す事ができました。

昭和15年に招致した 幻の東京オリンピック があったんですけども

満州事変の後 日華事変があって 戦争中になっちゃいましたから 
とても オリンピックができる状況じゃない という事で返上したわけですよ。

昭和43年には 日本は ソ連を抜く 
第2位の 経済大国に大躍進 を遂げるんですね。

東西冷戦 といって アメリカ と ソ連が 主役ですよって時に 
日本がソ連を 抜いちゃうんですからね。



これは  軍を持ちません 戦争放棄ですって 
防衛費を 国内インフラに 振り分ける事ができた。

新幹線 高速道路 が通り 物流とか 人の流れが 活発になり 
ますます 日本の経済が発達しやすくなる という事で 

他に国は 軍拡 軍拡って お金を使っていたのに 
日本は 
社会インフラの方に お金を振り分けられた というのは
短期間で どんどん 経済発展をしていった 1つの要素なんですね。

この時は 9条のお蔭で 
日本が ものすごい効率のいい 経済大国に 押しあがっていったんです。
まだ 中国も弱いし 北朝鮮も 核を持ってないし。

今は別ですよ。 
9条の縛りを 取らないと 国を守れません。



昔は日本は 経済力に 興味がなかったんですよ。

紀元前 1500年。 
3500年前の話 縄文時代の後期 なんですけど
バァーン と 中国に抜かれるんですね。
中国が 文明を発達させるんです。中国が 覇権を握ってきます。

1919年まで 日本は 経済発展に 無関心だったんですよ。
そもそも 日本は経済成長 というものに 興味がなかったんです。

金利以上に儲ける といものは 
ユダヤ人がつくった 金融システムなんですけども



特に 江戸時代なんて 通貨は 米 でしたからね。
国内で 日本人が食い切れない 膨大な米をつくったところで 
輸出できませんから 意味ないんです。
必要な 米が取れればいいだけ の話です。
ところが
こりゃ 経済成長しなきゃいけない というタイミングに 合うんですね。
それが ペリー来航 でした。



日本中 手も足も出なくなって開国するしか なくなってしまいました。
ただこの時 幕臣の 勝海舟(かつかいしゅう) が


歴史 人物② リンク

力の差が圧倒的だから ここは 言いなりになるしかない。
でも 悔しいから こんな事は 今回で最後にしましょう と述べました。

開国せい! って言ったら 仕方がないじゃないですか。
開国してやりましょう。そのかわり逆手に取ろう って言ったんです。

開国したら 
日本の物が 売れるじゃないですか。日本人がつくったものは性能がいいから 
世界中に売れるはずだ。

開国しろ というなら 逆に打って出たらいいじゃないですか。
日本人がつくった物を 世界中に売りさばきましょう。
そして
利益を得て その利益で 富国強兵 ですよ。
豊かな国をつくり 軍事力をしっかり持って 大国となりましょう。

そして今度 ペリーみたいなのが来ても 次こそは撃ち払おう。
と 言ったんです。

外国の軍隊が来て 言いなりになる。 
こんな悔しい思いは 今回限りにしませんか? と。
開国するなら 貿易しましょう! 
と言って 日本経済が ブァァァーン と伸びて行くんですね。



中国が 
この時 衰退するのは 清朝が滅亡して 内乱状態になるから 
中国経済が 落ちていきます。

日本は 明治維新を経て 富国強兵で 
バッコーン って経済力が 伸びていくんですね。
世界で 5番目の 経済力までいくんです。
第一次世界大戦で 戦勝国となり 経済大国になるんですね。
中国は 没落。日本は 伸び上がっていきます。

先の大戦に入っていくと 戦時体制になり 経済力が落ちて行って 
最後 終戦。 
国中 焼かれましたからね。

社会インフラ ボコボコに壊されて 東京なんか 焼け野原。 
広島も 長崎も 街が無くなってしまいました。



日本経済は ガタガタ になるわけですよ。
どこまで落ちたかといったら 

中国経済の 半分まで落ちるんですね。
当時 内乱状態の中国のほうが GDP 大きかったんです。
ここからが勝負です。
0 からのスタート。 それどころか マイナス100からのスタートですよ。

戦争終わりましたぁ~。 よし 工場を動かそう!
って言っても 工場ないんですから。
まず がれきの処理から 始めなきゃいけないんです。
ここから 立ち上っていったわけですよ。



ここから 日本人の 底力ですよね。
また日本を復興させるんだっ て言って 血のにじむような努力をしたんですよね。

1945年に終戦します。
叩き潰された 死に体 となった日本は 
わずか 15年後



1960年の段階で 中国経済を抜きます。
その後 
猛烈な勢いで ダァァぁーあああン!って 撃ち上っていくんですよ。
そして 向かえた 昭和43年。終戦から 23年後です。
ソ連を 抜きました。

米ソ冷戦の 主役だった ソ連を 日本が抜くんだから。
これには 世界中が 驚いたわけですよ。 
世界第2位 経済大国に バコーン と撃ち上っていくんですね。



この後は 低成長時代 に入っていきます。2010年 高止まりですね。
日本が 没落したわけではなく 中国が勝手に抜いて行っただけですから。

この後 どうなるか。わかりきっています。
チャイナリスクで もう買いませんから。中国は 人口減少も起きますからね。

このように日本が繁栄してきたというのは 憲法9条のお蔭もありますが
その根底にあるのは 何くそ! という

焼け野原で立ち上って 何とか日本経済を復興しようとしてきた人の 
想い があり 努力 があったわけなんですね。
日本は どんな危機があっても 何度でも 復興してくる。



たまたま という事ではなく 日本人の結束力。
力を出し切る という事は すごいんですよ。何度でも 経済復興しますよ。

この精神性さえ 保っていれば ですよ。自惚れてしまったら 駄目です。
日本は いつでも何とかなる って 努力を忘れてしまったら
あっという間に 日本は没落してしまいます。

ものづくり 仕事をするという 
日本人の精神。
こういった 精神性さえ 持ち続けていたら



今後 日本が どんな目にあっても とんでもない状況 になったとしても
何度でも 不死鳥のように 蘇ってくるんですよ。

何が大切か といったらもちろん お金も大切です。
でも 本当に大切なものは 

私たち 日本人の 心の中。精神性。
これが 日本人にとっての 宝 だと思うんですね。
それが 1つの形に現れたのが 戦後の復興 高度経済成長。
先輩たちが 努力をしてくれた お蔭なんです。

それから
平成元年  ベルリンの壁の崩壊。冷戦終焉。



平成3年  ソ連邦 崩壊。



湾岸戦争



平成13年 同時多発テロ



平成15年 イラク戦争
平成25年 イスラム国(IS)
平成27年 パリ同時多発テロ



などがあり 事おこして または 起きたように見せかけて
お金を儲ける人がいるのでしょうか。
ついに 平成の時代に 平和は訪れませんでした。

こらからの 
少子高齢化の問題を 乗り越えていくには 
多産計画 ベビーブームなど 人口も 確保していくことが 必要です。
いかに 日本をしっかりと 繁栄させていけるか。
これが もしできないと 50年 100年後

ウチらの 親父たちがさぁ 大失敗こいたから 
俺ら こんなだぜって 言われちゃうようになりますからね。

みんで 精進努力をしていきましょう。






戦後レジームからの脱却

うまくできている と思うのは 吉田茂 というのは
国葬が行われた総理大臣で
戦後の日本も方向づけた偉大な総理大臣と言われていますが

戦争には負けたけれど
マッカーサーや GHQ と対等に渡り歩いた
日本を繁栄に導いた

その 吉田ドクトリンとは



お金がかかる保障を米軍に担わせ そして経済に専念する事で
経済大国になって 世界の大国になった
という ナラティブ 物語 ストーリー になっていますが

負けて勝つ という NHK の作品がありましたが むしろ逆で
日本をさし出したという事です。
我々 日本人の最大の勘違いの第1号 とも言えるのが

日米安保条約 とは何か という事。



これは アメリカが日本を守る という条約と勘違いをしますが
こんな事はありえないわけです。
じゃあ何かというと
サンフランシスコ講和条約による



日本の独立を完全に相殺(そうさい)するためのものだったんです。
非常に問題なのは
アメリカ側が 日本を苦労して打ち負かして あっさり撤退はしたくない。
でも ポツダム宣言 サンフランシスコ講和条約 という国際法上
撤退しなくてはならない。

しかし 朝鮮半島で戦争が起こりそうだし 冷戦に突っ込むし
どこが戦争になってもおかしくない というので
最前線の日本から撤退するのはありえないと アメリカは考えているので
日本の独立 というのをあくまで名目的なものにして
実質的には 占領状態を継続しようと という考えなわけです。

それに思いっきり乗ったのが 吉田茂 なわけです。

戦後レジーム とは 戦後敗戦レジームであって
実は1度も独立していない という事なんです。

定義では 戦争が終わったのは 1945年。
その後 GHQ による占領統治があり まして
1951年に サンフランシスコ講和条約 に調印。
1952年に 発効 という事で
主権を回復して独立した という事になっているわけです。

その 戦後の日本の道を開いたのは 吉田茂であって
戦争では負けたが 外交では勝った
そして 戦後の日本の復興と繁栄に道を開いた偉大な総理大臣 という事になっているわけですが
それは 完全に虚構 まやかしであって
なぜ そのストーリーがつくられて信じられてきたのか。
それは その方が全部言う事を聞くので 統治するのに便利だからです。

実際に戦ったのは
アメリカからしたら 邪魔な存在なので歴史の外に 片隅に追いやられてしまって
半ば忘れ去られてしまう
断片的な記憶しか残らないようにしてしまってい1人が

重光葵(まもる)です。



この人は 戦前 戦中 戦後と外交員として外務大臣を務めて
戦前は 戦争回避に努力し
戦中は 日本の戦争に大義を与える努力をし また
終戦を望み
戦後は 日本の自立独立のために 粉骨砕身(ふんこつさいしん)した人だったんです。

8月14日にポツダム宣言を受諾して
武装解除するんだ という事を 天皇陛下が詔勅(しょうちょく)でもって
内外に示し 戦争を終わらせた日が
8月15日の終戦の日 というわけであって

日本が戦争に負けた日は 降伏文書に調印した
9月2日なんです。
この 9月2日 東京湾に浮かぶ 戦艦ミズーリ号の甲板上で
日本全権として 首相ではなく 外務大臣が 降伏文書に調印するという事がありました。




それ以外の事は ほぼ忘れられしまってているわけなんです。
しかし 重大な事が その直後にありました。
調印した後 直後に GHQから連絡が入ります。

9月3日をもって 軍隊を敷く。日本国民に告ぐ。
という交付をする というんですね。
これは マッカーサーが頂点に立って

日本政府を完全に解体する。司法 立法 行政 これを
全部 廃して そして 軍が直接統治をする 軍政を敷く
というように言ってくるわけです。
そうなると 当面 公用語は英語。
そして日本円の廃止。アメリカが発効する 軍票のようなもので代替する。
そして逆らったら軍法会議にかけて懲罰する。
という事を言ってくるわけです。

これを日本側は本当に驚いてしまうわけです。
なぜなら 国際法違反があり ポツダム宣言違反でもあるわけなんです。
ポツダム宣言には
日本には責任ある政府ができた場合には 占領軍は速やかに退去する
という事がはっきりと書かれているわけであって
たとえ降伏しても 日本の主権自体は奪わない というのが条件だったわけです。
だから 無条件降伏ではない わけなんですが
それを マッカーサーとGHQは完全に無視して
軍政を敷く と通告してきたわけです。



これに対して 重光外相が即 違反である と直談判しました。

ドイツの場合は 完全にナチス政権が崩壊して 政権を失ってしまうわけです。
しかし 日本はそうではない。
そして
天皇陛下は ポツダム宣言受諾と この実行を真摯に行う事を覚悟しておられるし
また 終戦に向けての ご努力を大変に行われた。
それに対し
このような蛮行を振るうようであれば 日本国民も黙っている事はできないだろう。
これは 極めて道義に反する事だ
と 真っ向から抗議するわけです。
これに対して マッカーサーは
なるほど 確かにわかった と撤回するわけです。

しかし 重光葵は
東京裁判前日に 巣鴨プリズンに 戦犯として入れられてしまうわけです。
その理由は ソ連。
ソ連に重光が赴任していた時に 満州国と国境線をめぐって国境紛争が起きるんですが
日本側(満州側)に有利な解決をする。
それが ソ連の恨みを買って 
重光を戦犯にしないのなら この裁判にソ連は参加しない
と恫喝をしてきて キーナン検事以下 やむを得ず重光を戦犯として含める事にした
という経緯があるわけです。

GHQから軍政を敷く と言われた時 重光がしっかり対応をして 反論しなかったら
日本は 我々は変な英語をしゃべって 日本円もなくて
完全な植民地化をされて 民族性が変わってしまう という状況に陥ったんじゃないかと思います。
重光は占領政策にとって非常に邪魔なわけです。

1日も早く 独立しよう
1日も早く 対等な関係をアメリカと結ぼう という方向で尽力するわけです。



これは
いわゆる 吉田ドクトリン。吉田路線を真っ向から対決する考え方。
吉田茂の考え方は真逆。
マッカーサーに平身低頭して GHQの言う通りに動いていく人間。だから長期政権。
あたかも 日本の戦後をつくった偉大な総理大臣
である というようなストーりーラインで語られるんです。

ここを我々はよく認識しておかなければならないわけです。
占領の初期 というのは GHQは やっとこいつらを降伏させたと。
2度と 立ち上れないようにしてやろうと
とことん 弱体化してやろう



武装解除してやろうと思うわけです。

アメリカ政府側 占領軍側にも フランクふると学会と言われる
かなりの共産主義者が入り込んでいて
その影響が強く出た という事が指摘されています。
ところが
一緒に戦ったはずのソ連と
朝鮮半島を通して戦争が避けられない という事になっていき

アメリカも 日本がそんな弱体化している状態じゃまずいから
日本をそれなりに自立させないといかん と方針転換するわけです。
そこで
ダレス国務長官が
1950年6月 朝鮮戦争の勃発する 3日前に来日して
吉田茂に対して 再武装 再軍備をするように と言うのですが



重光・鳩山一郎 心ある政治家は 危ない。いつ戦争がまた起こるかわからない。
ソ連も中国も共産主義。日本は空っぽ。
今 米軍が撤退したらどうなるんだ と
再軍備して自立しないと ヤバいじゃないか と考えていましたが

吉田茂は とことん拒否するわけです。
そして
米軍の駐留を継続延長してくれ とロビイングをするわけです。

マッカーサーの考えは
国連軍 をつくって日本を防衛すればいい という発想で
だから 日本軍は軍備を持たなくていいんだ と言うんです。
これが
憲法9条に反映してくるんです。

マッカーサーノート という 3つのポイント。
皇室の存在と 封建制度の廃止と 戦争放棄。
この 3つを書き留めて 日本の民政局のスタッフに 憲法を草案しろ と
そこから始まっているんです。
その発想の背後には

日本は徹底的に武装解除して 自衛のための兵器も持てない 軍隊も持たせない
それは 国連がやればいいんだ と思った。
国連 というのは 敵国連合・戦勝国連合ですから
これには 昭和天皇も非常に心配をしました。

なので 吉田茂は ひたすら再軍備を拒否したわけです。



そこで 日米安保条約 です。

1951年サンフランシスコ講和条約を結ぶ。
1952年 晴れて独立したはずなんですが サンフランシスコ講和条約とは別に
吉田茂は 池田隼人 1人だけを連れて 日米安保条約 を交わす。
これは
米軍の無期限の 日本への駐留を依頼するもの。
だから 実質的に 自主的な占領継続以来条約 なんですが
日本側から望んだもの。

好きな場所に 好きな期間 好きな数の 軍を駐留させるのが目的だ という事です。
独立した日に 占領状態を継続するための条約に署名させるなんて
アメリカ側も ダレス国務長官も驚いて
あわてて和訳をした というほどです。

日米安保条約 というのは  独立したと同時に属国化した という瞬間だったという事です。



その時から 日米合同会議・日米地位協定。密約という公開されないもので
小麦が余っているから 日本が買いなさい。給食にパンを出しなさい。
経済復興の助けになった とはいえ
日本の食生活は大きく変貌し 結果としてアメリカからの依存をしていった。
米を食べなくなった という事です。

最近の色々な出来事も同じです。
この食べ物を買いなさい。
余っているから 打ちなさい。
戦後から現在に至るも 統治され続けているわけです。
1951年 MSA協定 マーシャルプランに代わってしていって
アメリカから武器を買って援助をしなさい という条件付き援助を適用させるわけです。

秘密保護法もセットになっています。
日本は秘密協定・秘密スキームによって がんじがらめになっているという事です。

第二次世界大戦後に確立された世界秩序の体制や制度の1つの源は 
日本が負ける7か月前に
いわゆる 国際金融資本家のシンクタンク 王立国際問題研究所(チャタム・はうす)
というものがあるんですけれども

1945年の1月に出された報告書は 
もう日本の占領政策について語っておりまして 日本を詳細に分析した結果

大日本帝国のいろんな機構 皇室 行政をそのまま利用する とよめるんですね。
トップだけを変えれば その機構は全部 反日になるだろう という事です。



経済的にはアメリカ型の高度資本主義の1つの中心になると言い切っている。
戦後日本は その通りになった。
彼らが恐れている事は 2・30年内に 再び日本は アジアの一大勢力になる事。

そして 日本は日本なりの共産主義的政権をつくるだろうと。
これは ソ連的な共産主義ではなく 日本的だと。

日本だと 皇統というものがあり その下で日本人はまとまり そして計画経済で
昭和日本をつくる と言うんです。昭和維新の原理の復活があり得ると。
つまり
ナショナリズム という再び日本に勃興してくる可能性があり
それは 非常に危険 だという事を
日本が敗戦する 7か月前にレポートにしているんです。

この国際金融資本家のシンクタンクの報告書の要点は
これが GHQの政策に反映している 1つの源ではないかと考えています。
閉ざされた言語空間が徹底されたんです。



北方領土問題も アメリカの海軍センターの資料により
アメリカが お膳立てをし 指導し ソ連を北方領土に侵略させた
という事が書かれている との事です。
米ソ合同作戦であった という事が日本国民に伏せられています。
とにかく言語空間が依然として閉ざされている。

彼らが恐れているのは
言語であり 日本人の魂を絶対に復活させてはいけない。
WGIP(ウォーギルトインフォメーション)は 
日本の伝統的な価値観の 徹底的な組み換えで
戦後 徹底的に路線をつくった。
経済的には繁栄したが それがそのまま今の日本をつくった所が大問題であると思います。

三島由紀夫は
軍隊や宗教・歴史観を失った日本人に対して
戦後の日本が経済的繁栄に うつつを抜かし 国の大本を忘れ 国民精神を失い 
その場しのぎ と偽善に陥り
自ら 魂の空白状態へ落ち込んでいく。
日本人 自ら日本の歴史と伝統を穢(けが)していく と言っています。



このまま増幅拡大して 今に至っているという事を 我々は今一度
思い起こさなければいけないと思います。

国家主権も 国民主権も 安全保障も 経済政策も 社会政策も 主権も無いわけです。
戦勝国 国連 外国に委ね 
SDGs 環境問題 巨大ソーラーパネル・風車 デジタル化計画・情報提供操作 危険な輸入食品
そして LGBTQ。
まさに 言われるままの占領政策。

朝鮮戦争 ベトナム戦争
外国の戦争で一気に儲けて 経済的に豊かになっていったわけですから
そういう意味では 戦争に参加しているわけであって
自分からは興していないけれど それでいて日本は 平和主義だ と言えるのでしょうか。

ソ連に支配されるよりマシだった と言う人もいますが
アメリカに支配されたから ラッキーだった と済む話ではないんです。

秘密スキームに 日本人には気付かせず 適度に繁栄させ 娯楽を与え
洋食を食べさせ 贅沢を覚えさせ
真剣に考えない国民にしていって お花畑状態 茹でガエルにして

理想的な植民地をつくりあげた という事です。歴史に残る成功例です。

戦後日本のスタート時点に立ち返って
今も実質占領下と考えなければいけないと思います。

令和の御代を向かえた内閣総理大臣



安倍晋三元総理大臣は



現職の米大統領が広島訪問



自由で開かれたインド太平洋構想
クワッド



特定秘密保護法
安保法制教育基本法の改正
拉致被害者奪還



台湾有事は日本有事

戦後レジームからの脱却 というスローガンで警戒されていたのではないだろうか。





アメリア大統領 広島訪問

平成28年5月27日 
歴史的な 出来事がありました。

現職の大統領 オバマ大統領が 広島を訪問しました。

政治的にも 微妙な訪問だったんですけども
この直前まで 伊勢志摩サミット G7 が開催されていまして 



終わった直後に 
オバマ大統領は 広島に立ち寄る事が できたんです。

アメリカ政府は 
今でも 原爆を投下したお蔭で 
100万人の命が 助かったという風に 公式見解で述べているわけで

何を持って 原爆で亡くなったか というのもありますが

アメリカは 10万人。
日本は 30万人。 と 見解は分かれていますけど

亡くなった方には 気の毒だと思うけれども 
戦争だから仕方ないと。
アメリカ兵の 100万人以上 命が救われたんだから 
必要悪でしょう と 
あくまでも 原爆投下は 正しかった という立場をとっています。

本当は全部 嘘ですが 



アメリカ大統領が 
広島・長崎を 訪問する というのは 相当ハードルが 高いんですね。

謝罪の言葉は 無かった とはいえ 

広島の訪問は 
画期的な出来事だった という事です。

どのぐらい すごい出来事だったかというと
アメリカにとっての 原爆アレルギー という事なんです。

戦争をするにも ルール というものがあります。

民間人を 殺害するのは 
これは 駄目 と言われているんです。

男は だいたい戦争に 取られているので 
広島の市内にいた民間人は 
基本 女性か 子どもか お年寄り。社会的弱者です。

それを
実際に アメリカは 日本の民間人を 無差別で
30万人 殺したんです。無差別大量虐殺です。

アメリカは 
無差別大量虐殺を やってない って言ってないんです。
でも
どういう理屈で 正しくなるのが 意味不明ですが  
正しかった と 言っているんです。

その 大量虐殺の現場に 大統領は普通 行かないです。

謝るなら ともかく 謝らないんですから。
何しに来たんだ ってなりますよね。

この時は 終戦 71年の年です。

終戦 50年 の年に 
アメリカの スミソニアン博物館 という場所で 
原爆展が 企画されました。
歴史 人物② リンク

段々と
ジョー・オダネルさんの 写真展の話も 世の中に 取り上げられてきましたが



終戦 50年 この時に

遺留品とか 



ご遺体の写真とか 
熱線で 折れ曲がった ねじ曲がった 瓶とか 
色々な物が 展示される予定だったんですね。



アメリカにとって 
原爆は 正義で 誇りで 正しかった 
という 光の部分と 

原爆によって 
どれだけ多くの人が どんな苦しみを味わったのか 
という 闇の部分を 展示する という

このような事は 今まで 
アメリカで 行われた事がなかった 企画だったんですよ。

すると 全米から 
猛烈な 反対意見 が押し寄せられて 

アメリカの議会の方から 中止要請があり 
原爆展を 事実上の 中止 に追い込まれました。

だから アメリカでは原爆は 正義なんです。 
原爆の むごい面とか 人々が苦しんでいるところとか 
そんなもん 展示すんなっ! ってわけですね。

実際 日本と戦った人たちと 世代が代わってますが

自分たちの親父 お爺さんは 
正しく戦ったのであって 決して邪悪なものではない。

むしろ
原爆を 浴びせてやった事によって 
早く戦争が終わっただろ。

それによって 
大勢の人が死んだって言うけども 
それ以上の人命が 助かってるじゃねえか 黙れ。みたいな
とにかく 原爆投下は 正しかったのであって 
残虐性をアピールするなんて 何事か。
俺たちの 父さんたちの 偉業を 否定するつもりか。 
だまらっしゃい! みたいなわけですよ。
原爆展 1つ できなかったんですよ。



それが 
アメリカ大統領が 広島を訪問した。

しかも 
全米で 大反対されているところを 

オバマ大統領が 
なりふり構わず 勝手に来たんじゃないんですよ。

アメリカの 大手新聞 メディアが ほとんど揃って 
大統領は 広島を訪問すべきだ 
という 社説を掲載してます。

世論調査でも 大統領は 広島を訪問をすべきだ 
という 世論 一色になったんですね。

オバマ大統領は もともと 反核の活動家で  
核なき世界 を目指し政治家になった人 らしいですが 

大事なのは
アメリカのメディアの 後押しがあり
国民世論の 後押しがあって 広島に来た。 

原爆展 1つできない 
強烈な 原爆アレルギーがある アメリカ人が 

大統領 行ってこい と。
広島に行って 献花してこい と。謝ってこい までは無かったですけども 
亡くなった方の死を 悼むくらいは してこい と。
アメリカの 世論が 押し出した。
ここが 極めて画期的な事なんですね。



被爆者の 坪井直(すなお)さんと 握手をかわしながら 会話をします。

坪井さんは
爆心地から 1・2㎞ 離れたところで 被爆をします。
40日間 意識不明で 生死をさまようんです。91歳です。

どんな会話かは 映像からは わからないですけ

オバマ大統領の 
人類の幸せ についての話を聞き 心がずいぶん若返った。と言うと
大統領が 握る手が 
徐々に 力がこもっていったのを 感じた。

時々 広島にやって来たりして下さい 
という言葉を 言うと



オバマ大統領が 笑うんですね。

到着して 
車から降りてきた時から 終始 厳しい顔をしていたんです。

大統領として 初めて 
爆心地に入るわけですから 世界が注目していますよね。

坪井さんが 
大統領やめた後も また広島に来てね と言われて
あ 初めて笑った という感じで にこっ て笑うんですね。

2人目 の 森重昭さん。 79歳。
爆心地から 2・5㎞の場所で被爆します。 

橋の上を歩いていて 爆風に吹き飛ばされるんです。当時 8歳です。

40歳を過ぎたころから 原爆で犠牲となった アメリカ人捕虜 12人。
アメリカ人も原爆で死んでるんです。

その 調査 交流を始めて 遺族との交流を重ねてきたという 
活動をしてきた人です。

オバマ大統領が 森さんの前に立った時に
森さん 泣いちゃうんですね。

泣いちゃった森さんを 大統領が抱きしめるんですね。



森さんの肩を抱き寄せて 背中をさするんですね。
これは 計算も 何もないです。瞬間の 反応ですからね。

その 森重昭さんの 背中をさする
大統領の写真は 

翌日 世界中の新聞の 1面に載るんですね。

これが 
日本 と アメリカの 和解が こういう風に成立していくというのを 
画でもって示してくれたんじゃないかな と思います。
心に焼き付く 場面でした。

そして オバマ大統領のスピーチなんですけども
オバマ大統領は 17分 しゃべってるんです。

もちろん英語ですけども 
日本語に翻訳された部分も 新聞に出てましたから 
こういう時は 全文を読んでほしいんです。

報道は 部分的に 抜き出すだけ じゃないですか。
あまり 報道されなかったところに 
重要な部分が あったんじゃないかな と思っています。

オバマ大統領は



71年前 
雲1つない 明るい朝 
空から死が落ちてきて 世界は変わった。

閃光と 光の壁は 都市を破壊し 
人類が 自らを破壊する術を手に入れたことを実証した。

なぜ 我々はこの地 広島に来るのか。
それ程 遠くない過去に 解き放たれた 
恐ろしい力 について 考えるためだ。

10万人を超える 日本の 男性 女性 子どもたち 多くの 朝鮮半島出身者 
そして捕虜となっていた 
十数人の 米国人を含む犠牲者を追悼するためだ。

我々が この都市の中心に立ち 
爆弾が落ちた瞬間を 自ら想起し 
目の前の光景に困惑する 子どもの恐怖を 自ら感じる。

我々は 静かな叫びを聞く。
我々は あの恐ろしい戦争や その前の戦争。
その後に起きた 戦争で
殺された全ての 罪なき人々に想いを馳せる。

ぼやかした表現に なっているんですけども

罪なき人々。民間人の虐殺ですからね。
追悼 するのは 民間人です。
それを しっかりと 言及 しているんですね。

原爆で 罪なき人々が殺された。その人たちの 追悼のために 
大統領として 自分は広島に来た。

という事を
しっかりと語っているわけなんです。
これは あまり報道で 取り上げられていないんですけども
注目する点です。

全ての人の かけがえのない 価値。
全ての命が 貴重であるという 主張。
我々は 人類として 
1つの家族の仲間であるという 根源的で必要な考え。
我々は これら 全てを伝えなければならない。
だからこそ 
我々は広島に来たんのだ。
我々が 愛する人々の事を 考えられるように。
子どもたちの 朝一番の 笑顔の事を考えられるように。

台所の テーブル越しに 
妻や夫の 優しく触れ合う事を 考えられるように。
父や母が 
心地よく 抱きしめてくれることを 考えられるように。
我々が こうしたことを考える時
71年前 にも
ここで同じように 貴重な時間があったことを 思い起こす事ができる。
亡くなった人々は 我々と 同じだ。



この部分なんですよ。
これは確実に アメリカ人に向けた メッセージ なんですよ。

アメリアは 10万人 と言ってますが 
10万人が死にました。
でも 
この 10万人 というのは

アメリカを騙し アメリカ兵を虐殺し 
アメリカに 大きな危害を与えた人々に対して 

仕返しをしてやった
と 思っている アメリカ人が 多いかもしれないけども
この人たちは 何の罪もない 一般市民だったんだよ と。
そして 
この広島で 亡くなった人たちは 
幸せな朝を迎えたはずだった ってわけですね。

思い起こしてごらん。私たちアメリカ人だって

朝起きてね 
子どもが お父さん お母さん おはようって声をかける。
幸せな瞬間ですよね。

台所で キッチンのテーブルで 朝ご飯を食べる。
夫と妻が 
何気ない 朝の会話をする表現を 
パンを食べながらね。



これだって ささやかだけれども
すごく貴重な 幸せな瞬間 ですよね と。

そして 
お父さん お母さんに 抱きしめられてもらうとかね。それだって貴重な瞬間ですよね。



私たち アメリカ人が
日々感じる 貴重な瞬間 瞬間を 

71年前の ここ広島にも あったんだ と。

ここで 亡くなった人たちは 
アメリカ人と同じように 
日々幸せな 瞬間 を積み上げてきた 同じ人間。

ここで
そういう 幸せな瞬間が 
1つの爆弾によって その人たちの人生が 粉砕された。
アメリカ人 あなた達 
こういう幸せな瞬間 あるでしょ?
ここにも それがあったんだ! 
ってわけだから。

そうか 
正義のためには仕方がない と思っていたけれど 
1人 1人 の幸せな人生があり 
それが 一瞬にして 失われてしまった。

謝罪の言葉は 口にしなかったけども 

これを聞いたら
俺たち ヤバい事 したな と思いますよ。
アメリカ人と 選ぶ同じ 血の通った 人間なんだよ という 
それを 10万人以上 失わせてしまった。

そして 次の言葉で 演説を締めています。



世界はここで 永遠に変わってしまったが 
今日 この年の 子どもたちは 平和の中で 日々を生きていくだろう。
何と 貴重 なことだろうか。

そのことは 守る価値があり そして 
全ての子どもたちに 広げる価値がある。
それは 
私たちが選ぶことのできる 未来だ。
その 未来では 
広島と 長崎は 核戦争の夜明けとしてではなく 
道徳的な 目覚め の始まりとして 知られるだろう。

もちろん スピーチライターもいるんでしょうけども 
実際に 核をなくしていくのは 難しいけれども 
道徳の始まりとして 人類の歴史に記される 核なき未来 をつくっていく。

終戦 50年の年の 原爆展は 
アメリカ人の 良心の現われ だと思うんです。

7割以上の アメリカ人が 
原爆は正しかった と答えているんです。
でも
心の どこかで あれはちょっと やりすぎだ と 思ってるんですよ。

民間人を 大量に 無差別に殺したというのは 
これは 誇れることではない。



アメリカ人も 血が通っている人間ですから 
あの原爆で戦争が終わった と信じているけれども 

亡くなった方の事を思うと お気の毒と思います。

だから 展示してほしくないんです。
見たら 見たで 
わかってるよ。苦しんでいる人がいるのは。
可哀そう ってなっちゃいますよ。
だから 展示すんな という事です。

あの原爆は 正しかった。
考えないようにしよう。
お父さんたちが 正しかった。以上!

という事は 良心が あるんです。
本当は ヤバい ってわかっているんです。

もし 本当に 誇らしいものだ と
完全に理解していたら 展示させればいいんですよ。
ありのままを 見せればいいんです。
そうしたら 
いかに原爆が 正しかったかが広まるでしょうよ。

これは 見せるな って事は 本当は 心の底で 
間違っていたんだ と思ってるんです。
だから アレルギーがあるんです。

終戦 70年 の年から 
アメリカの世論が 大きく変わったという ニュースがありました。

毎年 原爆を投下したのは 正しかったか という
アメリカの 世論調査があるんです。

昭和20年8月は 
98%くらいの人が 正しかった と答えています。

それから少しずつ 下がり続け 
まだ 70%くらいの人が 正しかった と答えています。
でも 正しかった と 思いたいだけかもしれません。

ところが
戦後 70年 の年。
若い世代では 逆転したんです。



10代 20代の世代では 原爆投下は 

誤りだった と答える人が
正しかった と答える人を 上回ったんですね。 

世代が限定されている とはいえ
誤りだった と答える人が 上回る という事は 

戦後 初めての事だったんです。

インターネット の普及でしようねぇ。
かつては 教科書 に書かれている事が全てでしたよ。

それを さらに調べる なんて 
よほど 興味がある人じゃない限り しないでしょ。

今はスマホ や パソコンで ばんばん出てきますから 
さすがに 
アメリカがやった事 野蛮じゃないの?って思う 若者もいるわけですよ。
アメリカの若者は 自分たちで 見聞きして 
正しい 
正しくないって 判断しているわけですよ。
なので アメリカの 10代 20代の子は 
原爆投下は 誤りだ と思ってるわけですよ。

あと 10年 20年経てば 30代 40代ですからね。
社会を動かす 中心的世代が あれは誤りだった と思うようになります。

さらに 
もっと若い世代は もう誤りだったと思うでしょう。
そうそたら アメリカの世論は 逆転します。 

原爆投下は 誤りだった。
あれは
野蛮人がする事だった。過ちに気付くんですね。

まだ アメリカの教科書は 正しかった と書いてある。
でも そう 遠くない未来に必ず変わります。

オバマ大統領は 謝罪の言葉は ありませんでしたが
心温まる 追悼の言葉 を述べてくれました。

でも
将来の アメリカ大統領は 
世論の 後押しを受けて 広島。もしくは 長崎に行き 

謝る という時が 必ず来ます。

アメリカの歴史で 犯された過ち というのは歴史の中で認識され 
あれは 誤りだった という風に刻まれるんです。

例えば ネイティブアメリカン。
西部開拓で インディアンを 迫害した事。



黒人を 奴隷として使った事。



先の大戦で アメリカ系 日系人を 
日系人 というだけで強制収容所に入れた事。



こういうことは 繰り返してはいけない 

教科書に 書かれているんですね。
どこかの国と違って

アメリカでは かつての過ちは ちゃんと書いて 記し 
若い世代に こういう事は 繰り返してはいけない としっかり 説いているんです。

原爆投下も まだ正しかった という アメリカの 公式見解 になっていますが
若い世代では 反転しています。

何代後の 大統領か わかりませんが 
謝罪の言葉を 述べに来るでしょう。

そこからが 本当の 日米関係だと思います。

日本は たくさん謝ってきました。
私たちは もう 失うものは無いので 
誠実さを持つ アメリカが 
そういう境地に立ってくれる日を 待っています。



安倍晋三総理大臣の 言葉の中にもありました。

日本と 米国が 力を合わせて 
世界の人々に 希望を生み出す 灯(ともしび)となる。

安倍総理は 
平成28年12月27日 真珠湾訪問をされ 

和解の力 の言葉もありました。

そこからが 
本当の日米の関係が 本物の友好関係が スタートするんですね。







上皇陛下の譲位

上皇陛下。上皇后陛下。

国民にいつも 意識を向けてらして 

祈りをお捧げになり あらゆる活動をされ
多くの 日本国民が 素晴らしい 両陛下だなと思い

日本が 皇室を戴いている事に 
誇りと 自信を持った人は 多かったと思います。



天皇というのは 
ただ 血筋のつながっている人が 天皇として存在するだけではなくて

当代の 天皇陛下が 国民に いかに 

寄り添い 
幸せを真剣に祈るか 

という その お姿が とても大切だと思うんですよ。
ただの パフォーマンスであれば 
多くの人を 感動させることはないと思うんです。

本気で 
国民を愛し 
我が子 のように愛し 
その幸せ を祈り 

あらゆる行動を通じて 
いかに 国民の事を 愛していらっしゃるか。

にじんで にじんで ほとばしってましたよね。

当時の 天皇陛下。皇后陛下。 
現在の 上皇陛下。上皇后陛下の 

並々ならぬ 行動力によってですね

天皇と 国民が 
非常に強い結束を深めてきたのではないか と思います。

これが 平成の時代 ですよね。



ついに
上皇陛下は 譲位 の思し召し(おぼしめし)を発せられました。

最初 スクープ という形で流れ

改めて 平氏江28年8月8日 

お言葉 という形で 当時 天皇陛下の生の声で 



譲位へのご意向が伝えられました。

平成29年には 特例法が可決いたしまして
平成31年4月30日に 譲位が行われました。

天皇陛下が お元気なうちに 位(くらい)を 次の者にお譲りになる 
というのを 譲位(じょうい) と申し上げます。

途中で 天皇が お辞めになる というのは 
法的な制度として ありません。できない事でした。

だからこそ 法整備をしたんですけども
202年ぶりに
幕末の 第121代 孝明天皇(こうめいてんのう)の おじい様。 

第119代 光格天皇(こうかくてんのう)が



譲位 をなさったのを最後に

第120代 仁孝天皇(にんこうてんのう)も 



第121代 孝明天皇も 



第122代 明治天皇 



第123代 大正天皇 



第124代 昭和天皇。



いずれも 命尽きるまで 天皇として君臨なさいました。
なので
上皇陛下の譲位は 202年 ぶりの出来事となったわけなんです。

これについて 結構誤って 理解されている面もあるので 
押さえてほしい と思うんですけども
上皇陛下は なぜ 譲位 という事をおっしゃったのか。

正確に言うと 
おっしゃってないんです。示唆 なさったんです。

どういう事かというと平成28年 の段階で

今は 元気だから 今は 大丈夫だけれども これから先 
年を重ねていくと 天皇としての務めを 果たせなくなる。そういう時が来る。

徐々に 徐々に 変化していくもので ある日 突然ではない。
将来的に 身体も頭も 衰えていく。

上皇陛下が 式典で 
お間違えになる という事は基本なかったんですね。

平成28年の 少し前の辺りに
段取りを間違る という事があったんです。
そういうのを 
上皇陛下が非常に お気になさっていたご様子です。
お誕生日の記者会見でも 言及なさっていました。

お年もありますから お気になさらなくても結構ですよ と 思った人もいますが
当時の 天皇陛下は 
そんな事は あってはいけない と 思し召しになられたようなんですね。
加齢により 間違えたり 忘れたり

宮中祭祀も 体力的に 結構大変なんですよ。
両段采配(りょうだんさいはい) といって 

正座 の段階から立って また 正座して 拝んで 
というのを 4回 繰り返す。

若い時は 正座ができても 
年をとると 正座が 辛くなってくるらしいんですね。

天皇陛下の 御拝(ごはい)って

天皇が その年に収穫された 
新穀などを 天神地祇(てんじんちぎ)に 供えて感謝の奉告をする
新嘗祭(にいなめさい) 



2時間 板の間に お座りになるわけで 

これを一晩のうちに 2回。4時間の 正座ですよ。
それができなくなってしまったら 神様に申し訳ない って事になってしまします。
足がしびれて お祭りに集中できまかったら問題だという風に 
上皇陛下は お考えだったんではないかなぁ と思うんです。

ですから 今は大丈夫だけれども 
将来的には 天皇としての 役割りが 果たせなっていく と
それは
神様に対して そして国民に対して 申し訳ない。という事なんですね。



今まで 頑張ったんだから そろそろ勘弁して と。
悠悠自適に 老後を過ごしたいから 
もうこの辺で 辞めさせてもらって いいかね? って言うような主旨じゃないんですよ。

自分のために 辞める といいう事じゃあ ないんです。

あくまでも 国民のためであり 
神様に対して 申し訳ない。 
国民に対して 申し訳ない。 そういうお気持ちで
譲位 への ご意向を にじませる という。
だから
譲位 がいい。 とは おっしゃってないんですよ。

法律を改正しないと いけないですから
政治的に 具体的に 
こうせい!ああせい! こう変えろぉ! なんて 
天皇としては おっしゃれないですよね。

政治的発言をしてはいけない という 建付けがあるわけです。
だから 
譲位へのご意向を にじませる。 という所までですね。



具体的な 方法論は 上皇陛下は おっしゃってないんですね。

このまま 時間が経過すると 
天皇としての 役割 が 果たせない時が 来る。
だから
その時に向けて どうしたらいいのか どういう方法があるのか 考えて欲しい。
という事で 留まる。
じゃあ どうしたらいいですか? と言ったら 

摂政を 立てるという方法もありますけど
途中で 辞めていただく。 

皇太子も 



30年以上 積み上げていらっしゃったものが あるわけだから
いつでも 天皇としての 立派な役割を全うなされるわけです。
であれば 父君が 
天皇として 高齢により できないことが多くなってくるという中で
ご子息が 立派に天皇としての 役割を果たせるんだったら

譲位 とは おっしゃっらなかったけれども 
そういうのも 1つの 選択肢だ という事です。

天皇の政治発言じゃないかと 批判される向きもあるんですけど 
これは間違いです。
あくまでも きっかけ であって 
ポイントは
平成29年 特例法が 可決されました。



当時の 法律上では 譲位が できないわけですよ。手続きが 法律上ないわけですね。
ですから
1代限りの 特例法 という形で 
当時の 天皇陛下の 譲位 ができるように 
法律を可決したわけです。可決するに当たって

平成28年の お言葉が あって
平成29年の 特例法
平成31年の 実際の 譲位まで

この間 かなりの議論が ありました。
譲位 というものは 
良いのか。それとも 駄目なのか。 いろんな方法が 議論されたんですよ。



①譲位への ご意向がにじむ 陛下の お言葉があったんだから 

譲位ができるように 法整備をすべきだ という意見。

②そうおっしゃってるけど 無視しなさいと。
最後まで 天皇を やっていただきましょう という意見。

③譲位の 制度は無いけれども 摂政の 制度はあるんだから 

ギリギリまで お努めいただいて 
いざとなったら 摂政 を立てれば大丈夫 という意見。

散々議論があって 
テレビ 新聞 インターネット いろんな議論がありました。
その議論を経て 国民の意思が形勢されるわけですよ。

日本には 言論の自由 がありますから 自由闊達な議論を経て 
議員たちが さらに
揉んで 法案が出てきて 議会でも意見が出てきて 修正して
そして     
特例法が 衆議院・参議委 の両院で 
全会一致で 可決 したんですね。



1人も 造反者が出なかったんですね。 そして 可決した。

特例法も 一般法ですから 過半数 で成立します。
だから 野党が 反対してもしても  
自民党だけで 押し切って 通す事ができる。
でも それをしなかった。なぜか と言ったら

天皇の地位。親身 に関わる問題だからです。
これは
天皇の ご存在という 日本の統治の 根幹中の根幹なんですよ。



疑問が差しはさまれるような 地位にあってはいけない訳なんです。
もし 後で 
実は 特例法に 反対だったんだ と 言われたら 
天皇を認めない という話になりますから

衆議院の解散も 
憲法の通り 天皇の 承認が必要です。

衆議院を 
天皇が 公知して解散して 
天皇が 公知した総選挙をして 
その結果を見て こんな選挙は認められない って
だって 天皇を認めてないし なんて言ったら 何でも 否定できちゃいますよ。

だから
安倍内閣は 全ての党に 特例法 を賛成させた訳ですよ。

ある人は 認める。ある人は 認めない。 
となっては いけないんです。
万人が認める天皇 でなくてはいけないんです。 

俺は こんな天皇 認めないって言わせないためですよ。
もちろん 反対 反対って 公言して憚らない人。中には おかしな人はいますよ。
ですから 
安倍内閣は 丁寧に話を進めていって 
全会一致で可決して 特例法 を通したわけです。



そして
平成31年4月30日 
202年ぶりに 譲位が行なわれました。



5月1日 には 
ずっと雨で 台風直撃の予定でしたけれども 





三種の神器 が移る儀式。 
剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)

が おこなわれる直前に 晴れ渡ったわけですよ。

それから
即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ) の時も 
10分前まで 豪風雨だったわけです。

午後1時から 即位礼正殿の儀 が始まるという事でしたけれども 
5分前に 雨がやんで 
1時ぴったりには 晴れ渡ったわけです。

そして 1時4分。 虹が出たわけですよ。



虹は 神様の応援 契約などの時に見せてくださるそうです。

多くの人が 新しい天皇陛下を愛で 
そして
1か月前には 発表は もうされていましたけれども
令和 という 時代を迎えました。



令和 という 元号を決めるのも 安倍内閣の大きな仕事でした。

令和 は 
万葉集  梅の花の歌 32首 の序文だという事で



天平2年 の正月13日。
大伴旅人(おおとものたびと) 



と いう方の家で 宴会が開かれ そこの様子が書かれている序文なんです。
引用されている

初春の令月にして 気淑(よ)く風和(やわら)ぎ 
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披き 蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫らす。

ですが その後は

加(しかのみに)以(あらす) 曙の嶺(みね)に雲移り 
松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け
夕(ゆうべ)の岫(くき)に露結び 
鳥は殻(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。
庭には新蝶(てふ)舞ひ 空には故雁(がん)帰る。
ここに 天を蓋(きぬがさ)とし 地を座(しきふ)とし 膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を ~

と続きます。

初春の いい時期 気も良い。 



令月に 風が和らいて いい風が吹いている。
梅は真白く咲いて 蘭の香りも ほんのりと薫ってくる。

遠くの方には山が見えていて 嶺には雲がさしかかっている。



松は 雲のベールをまとっているように きぬがさ を差しかけたように見える。
山の頂には 霧がかかっていて 
鳥は 霧の中に封じ込まれている 林の中に 迷い込んでいるようだ。
庭には 今年生まれた 蝶が舞っている。

そして 空を見上げると 
去年やってきた 渡り鳥の雁が 帰っていく様子が見える。



梅 蘭の香り 
嶺に雲 
林があって 
鳥が迷っていて 
蝶が舞っていて 
雁が飛んでいる という

そういう情景を 目の当たりにした人たちは 
なんて素晴らしい日なんだろう
という風に思ったようです。

天を 屋根に 外で宴をやっている。みんな 膝を付け合わせて 
お酒を酌み交わし 楽しい話題に花が咲き
言葉も忘れるほど 綺麗な風景が広がっている。
この感動を ぜひ文字に残そう という事で 

庭の梅 をお題として 



短歌をみんなでつくろうではないか と言って 
みんなで 黙々と 和歌 を詠み始める。
そして 詠まれた 和歌が 32首 ありました。と この後に続くわけなんです。

この 冒頭にあるのが 令和 なんですね。

令和というのは 
この情景を全部含めた上で みんなで和歌づくりをした という 
縁起がよく みんなが仲良くなって 文化活動に 勤(いそ)しもう 
力を合わせて もっといい時代に エネルギーを発揮させていく という

そんなような 願いが込められている 
という風な
そういう 気 を背負ったのが 令和 だと思います。



譲位 というのを
制度化 してこなかったのも ちゃんと理由があるんです。

明治時代から 議論はありましたよ。
しかし
平安時代は 特にそうなんですけども 中世 とか  古代 において
天皇の上に 
上皇が 何人も並び立って 政治が混乱した って事がありました。
江戸時代
第108代 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)みたいに



譲位をうつ事によって 徳川政治に圧力をかける という事もありました。
ですから 譲位が 政治利用される という事。
それから
政治の 権力者が 意図的に 
天皇を 
廃帝(はいたい) というか 譲位(じょうい)に追い込み 
やめさせる という事ができてしまう。
ですから 
こういう 制度があれば 政治の側が 
天皇を 辞めさせる という事ができてしまうんです。



こういう 歴史上の弊害があるので 
譲位 というのは 制度化 しない方がいい というのが
明治時代の 決着だったわけです。
それと同じ議論が 昭和20年にもあったんですよ。

皇室典範 が 廃止されて 
戦後 新たに憲法を書き換え 皇室典範も 新たにするという時に
もう一度 
譲位の可否が 議論されたんですけども 
この時も
同じ理由で 日本政府が却下しているんですね。
譲位の制度は 無い方がいい。という事です。

今の 上皇陛下が 
当時 天皇から 上皇になった途端 いきなり 
政治活動を始める なんて たぶん無いし 現に起きてないですし 

であれば
1代限りの 特例法にしましょう という事になりました。
でも 1代限り と今回 譲位をされましたが 
これで 先例 になるわけですよ。

必要な条件が また整えば  
将来の天皇の中で 譲位 をなさりうる事がある という事です。
ただ 譲位を制度化しない という事です。

当時 上皇陛下のお言葉で 
譲位への ご意向を にじませる という報道があった時
日本が大激震 というか えぇぇえっっ! 



という形に なったわけですよ。

そして 御代変わり自体が 平安絵巻 そのものですし 

 


多くの人が 皇室に 関心を持つことができました。
譲位は 非常にうまく スムーズにいきました。
御代変わりがあっても 日本国としては 連続性がある 
という事を 
改めて 感じる事ができました。

新天皇陛下が 
新しく これも変えて これも変えて 新しい こんな日本にしちゃうぞぉ~ 
なんていうのは 無くて
基本 
お父様のなさった事を お引継ぎになられて 
当然 いろんな 創意工夫は加わるでしょうけれども
根本的な路線は お引継ぎになる という事を 
新天皇陛下は おっしゃいました。

歴代天皇の なさりようを 心に留めつつ 

という お言葉もありましたけれども

お父様の なさりよう。歴代天皇の なさりよう。
そういうものを 心に留めつつ 
天皇という 役割を お果たしになるという そういう ご覚悟を

即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)で おっしゃっておられました。



即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)でも 
同様の主旨の お話がありました。



政治は政権交代があって 大きく変わることはあります。
しかし

天皇の 御代変わりあるからと言って 
政治が大きく変わる事もないし 日本国の国柄が変わる事もないんです。
日本は 日本として 変わることはがない。
皇室の存在は 大きいのかな と思います。

2000年来 変わらないものがあって
何を 変えていいのか
何を 変えてはいけないのか

この 取捨選択を間違えてしまうと おかしな事になります。
根底から 根こそぎぶっ壊す というのが目的なのは 革命です。

基本的に 伝統 は変えない。
変えないために 何かを変える。

江戸時代は 交通機関もない。
徳川幕府から 天皇の外出は禁止されていましたよ。

明治時代になって 鉄道が整備され 
初めて 天皇自らが 
日本列島のいろんなところに お出かけになれるようになった。
それを フル活動なされたのが 

明治天皇でした。



大正時代は 
大正天皇自らが 訪問先で 不意に
いろんな人に お声をかけるようになった。

親しまれる 皇室の姿を 
大正天皇が お始めになったわけです。



昭和天皇は 
メディアが発達して 天皇の 生の声 とういうのを 
テレビやラジオを通じて 
全国民の 耳にし 目にするようになったわけです。
そして 

被災地を ご訪問になる というのも 
昭和天皇が お始めになったわけです。



現在の上皇陛下は 
さらに寄り添う という事をなさいました。



どんどん変化していくものの その中に 

国民を知り 祈り 寄り添う というものは 変わるものではなく
しかし それを 追求して行くと変化していくものなんです。

そして宮中祭祀 というものは 
昔からずぅ~っと続けてきた 伝統を守ってこそ 大事な部分があって

変えていいところ 変えてはいけないところ があるわけです。

祭祀 も変えていいところ
例えば 
天皇陛下自ら 御田植になる。そして お育てになった 稲を
天皇陛下自ら 神様に お捧げになる。

これも
昭和天皇が お始めになったわけですからね。

五穀豊穣 を祈るのに 

他人が田植えして 他人が刈った稲を お米を 
天皇陛下が 神様に 差し上げるのと
天皇陛下 自ら 御田植をなさる所からの 稲穂と 
どっちが お祭りとして丁寧かといったら 天皇陛下 自ら ですよね。

それを昭和天皇は お気づきなさったわけで 
それを 上皇陛下が お引継ぎになり 
さらに 天皇陛下が お引継ぎになっていますよ。

  

これは 宮中祭祀の正しい変化 だと思うんですね。

ただ 本来 継承していかなくてはいけないもの 価値あるものを
簡略化したり なくしてしまったりしたら 
そんな重要な事を 
この時代の人は なんで勝手に廃止しているんだと 
未来の日本人から 怒られますよね。

伝統というのは 価値があるから続いているんです。

長い間の 多くの人の智恵により創造され 
長い間の 多くの人の気持ちにより 守られてきたもの。

対して 価値のないものは もう途絶えてしまうんです。

2000年以上 ずっと続いてきたものは 
2000年間の 風雪に 耐えてきたものなんですね。

ですからそれだけ 価値があり 意味があるから 
2000年続いてきたわけで

たぶん 
500年後 
1000年後 も 続いていくんだろうと思います。



現代人が 今だけの判断 現代人特有の感覚で 
国民が 過半数だから みたいな
民主主義のやり方で 変えてしまったり なくしてしまったり という事をすると
将来どうなるか という事です。

未来の日本人から 
私たちは 日本を 一時的に預かっている という 
謙虚な気持ち に立てば
現代の日本人に 必要か 必要ではないか という 視点だけではなくて

2000年 4000年 という 歴史スパン。
過去・現在・未来の 日本人 という 長いスパンで見た時に
これを 
廃止 していいのか という 謙虚な気持ちで見ないといけないんです。
今 というのは 
現代人だけの 所有物 じゃあないんですよ。



2000年間 1つに国が続いてきたというのは 本当に尊いことなんです。

世界の歴史は 王朝交代の歴史でした。順風満帆ではありません。
直近 を見ただけでも 
幕末の騒動から 一歩間違えていたら 国がなくなっていた。 植民地 になっていました。
外国との 戦争 もありましたよ。
日本は 敗戦を記しました。
でも 
皇室が残って 国が残りました。
何度も 何度も 危ない目にあいました。

その度に 日本人が 結束して 必死になって 
価値あるものを 守り通してきた わけなんです。

仁 という字は
天皇の お名前に よく見受けられますが
察する という意味があるそうです。
思いやれるかどうか 万人の想いが読み取れるか

苦労していても
苦労していないような 太刀振る舞いをしている人にも
そういう人の 気持ちが読み取れるかどうか。



霊長 と言われる 私たち日本人 大和民族の 仕事なんです。

察する 思いやる
これは 天皇陛下の 祈り。

知る。しらす という
知るから 祈りたくなる という本義なんです。

天皇は 象徴 と言われますが どういう意味ですか? と言ったら
憲法学 の通説で
象徴 とは 姿 形あるものを見た時に そこに
姿 形が無いもの を見たりする場合に 象徴 と言う。 と言われています。

例えば
富士山 を見た時に 日本を感じる。
桜の 開化や散る姿 を見た時に 春の訪れを感じる。

富士山は 物体ですよ。
それを見た時に 想起した時に 日本を感じる。
それは 姿 形は 無いわけです。



天皇が 日本国を象徴しているのは

私たちが 天皇陛下の お姿を拝見した時に
そこに 日本を 感じるかどうかです。
もし そこに 日本を感じたら 天皇は 日本国の象徴をしている と言うのです。

じゃあ なぜ 私たちは
天皇陛下の お姿を見た時に そこに日本国を見る
日本国民の 統合を見るんでしょうか。

ひたすら 国民の事を知ろうとした
そして知ると 祈りたくなる。そういう 天皇陛下であるからこそ

私たちは 敬愛の念 を抱くし
みんなで 日本という国 を支えて みんなが 幸せになれる。
という風に 思えるわけです。

天皇陛下のお姿を見て そこに日本国を見る という事は

天皇の 知らす という統治が しっかり 実行されているからです。
だから
私たちは 日本国の統合 を見るんです。

こういう 天皇と国民の関係が 日本の国体なんです。
それが

日本国であり 天皇であり 天皇と国民の 絆 だったりするんです。



日本人が 日本の歴史を学ぶ という事は ものすごく 価値がある事 なんですね。
戦争の傷跡がまだ残っていて まだ効いてるんですね。

日本の 光の部分と影の部分と 両方教えなくては いけませんね。
それによって 
正しい 日本の教育 になると思います。

今の世界 193か国の中で現存する 世界最古の国家の日本に生まれて

それだけで すごいし わくわくするし
世界の国は ブチブチ途絶えて行って 
何で 日本だけ長く続いたのか。
建国の理念が 何だったのか
どんな荒波に 揉まれつつも 何とか保ってきたのか。

よその国の人も 日本に興味があるっていうのに まして日本人。
自分ん家の 話なんだから。 



政治も ビジネスも ちゃんとした国家観をもってあたらないと。 
自分の国の歴史を 冷静に学べったって無理ですよ。

世界最古の国家の日本。ワクワク 興奮しますよね。



でも 日本人が誇りに思う事は 
教科書からは消されてるんですよね。日本の稀有な 歴史を知った時に 

日本が 世界の人々と共に 未来永劫 残ってほしいな 
と 思う人が多いんではないでしょうか。

日本の 国体は 天皇が知らす国 だという事です。

歴代天皇が 国民に対して 強い関心をお示しになられて 
そして 
国民の 幸せを願い続けた。

歴代の 日本人は 本当の 親のように慕い 
皇室を 国家を 社会を 発展させてつないでいく 
という事に 意識を燃やしてきたわけなんです。

天皇が国民を愛し 国民が国家を支える。 

天皇 と 国民との 絆が
ずぅ~っと 2000年間 続いてきたんです。



こらが 我が国の 国体です。

それが 好きか 嫌いか は 後で考えればよろしい。
まずは
私たちも 知る という事です。そして自分は 何をなすべきか。何ができるのか。 
大きな事でなくとも 毎日の小さな事を積み上げていって。

自分に与えられた使命を 神様から お使いいただけますように。



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