すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 人物


大伴家持 海行かば

奈良時代の 公卿・歌人で 万葉集 の編纂に関わった と言われます。



その 歌の中で
大伴家持の 長歌の一節。

782年から 806年が 延暦という元号で
延暦2年 783年 につくられた  海行かば   があります。

鎮魂歌 
として 先の大戦で歌われました。

酷い戦況が 伝わるわけですね。その時に 鎮魂の気持ちををもって 歌うようになった。
NHKが 昭和12年に 作曲家に委託して



大伴家持の歌に メロディーを つけました。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

戦いで 海の方面に出て行ったら 水に漬かった 屍になる。
屍 というのは 死体の事です。



死んだら 自分の大切な人を ただ 死体 と言いたくないですよね。
例えば 遺体 とか ご遺体 とか 仏 とか。

ところが 屍 というのは その 対局の表現なんですよ。

人間としての 尊厳も何もない状態です。
水に漬かっている遺体ですから 
腐乱死体で 蛆がわいているかもしれないし バラバラになって 内臓も飛び散ってるかもしれない

屍 というのは
物体としての肉片 のような意味合いを持った言葉なんですね。

次は 山。 山の方へ進軍していったら 自分は どっかで戦死して そのまま遺体も 誰からも拾われる事なく
気づいたら 自分の遺体から 草が生えている。
尊厳のかけらもない 物体としての 肉片 骨片ですよね。



大君。これは 天皇の事です。
天皇陛下の すぐ傍で死ぬんだ と言っているんです。
この兵隊は もう生きて帰る希望は 持っていません。

海に行ったら 自分は死んで 肉片になる。
山に行ったら 自分は死んで 草生す屍に なるんだと。
天皇陛下の傍だからこそ そこで死ぬ。

そういえば お父さん お母さん もう会えないなぁ とか
ちょっとやめて 1日考えようかなぁ とか 
なんならもう 帰っちゃおうかなぁ とか

こういう事はしない って言うんです。顧みる事はしない。
そんな邪心は 振り払うんだ と。

何の尊厳もない 遺体になってもいいんだ。天皇陛下のお傍であるからこそ 
それこそ生きる本望だ。

という歌なんです。

あぁ そうやって 死んで来い って 若者を動員したんでしょ
と言われるかもしれないんだけれども

でも これは どういう意味だと思います?

この歌で 出撃していく兵隊は どんな気持ちだと 思います?

自分の命は 価値がないんだ
生きていたって なんも意味がない

だから 戦争に行って パパパッァっと死んで めちゃくちゃな死体になって  はい それまでよ って事ですかね?

これを詠んでいる人って 自分の事を 大切にしているはずですよ。
死にたくないはずです。

死にたい人が これ 歌いますか?



死のたくないんです。自分の命は 大切なんです。
天皇陛下のために 死ぬ なんて言ってるけど 違いますよ。
天皇陛下のために死ぬ というのは 比喩表現なんです。

天皇陛下のために死ぬ という事は
日本国のために死ぬ という事で

日本国のために死ぬ という事は
日本人を 守るために死ぬ。

日本国が守らるって事は  
即ち 大切な人。
お父さんや お母さん。弟や 妹。 子どももいるかもしれない。

そういう 大切な人を 守る事になるんです。

国のために死ぬんじゃないんです。 愛する人のために 死ぬんです。

現に 先の大戦で あそこまで 多くの兵隊が 果敢に戦ってくれた お蔭で 日本国が残ったじゃないですか。

日本国が 今あるお蔭で 日本人が 幸せに 平和に暮らす事ができています。
日本国 残ったからこそ 大切な人が 幸せになれたんですよ。

天皇陛下のために 死ぬ人はいません。
これは 比喩表現なんです。

討ち死にじゃあ ないんですよ。
愛する人を守るためなら 死ねます。

これが人を愛する という事なんです。



だから この歌は 愛する人を 守る ためには 喜んで戦いに行けるんだ
どんな危険な戦闘に従事しても 構わない
その結果 めちゃくちゃな死に方をしても 構わない
それほど
愛する人を 愛しているんだ  という事なんですよ。

これが 海行かば の意味なんです。

顧みることはしないぞ と戦場に出かけていくわけです。
全員 生きて帰りたい。死にたい人なんか いません。
遺体が バラバラになっていいなんて思っている人は いません。

絶対生きて帰ってくる と思っています。

でも 死んで 屍のようになったとしても いい と思えるほど 守りたい人がいる という事なんです。

戦い抜い。そして 国を守り通した人たちの歌なんです。



民のかまど

第16代 仁徳天皇 の有名な話です。

仁徳天皇は 聖(ひじり)の帝(みかど) と称えられる事があります。

歴代の天皇が 模範とするのが 仁徳天皇なんです。

こんな話 ウソだ。と言う人がいますが 
実際にこれが 作り話か 誇張された話なのかは どうでもいいんです。この話を 歴代の天皇が 模範にしてきた というのが
事実 なんです。

525m という 世界最大の面積の墓に 葬られていて 聖の帝 と称えられたわけです。
ですから それなりに立派な方だったんでしょうね。

仁徳天皇は 大阪の河内の方に お宮を建てました。
原因は よくわかりませんが 不況があったそうです。民が 困窮した と書かれています。

仁徳天皇は お宮の高台から 様子をご覧になった時に 



民家から 煙が立っていない。かまどから 煙が立っていない という事に お気づきになります。
当時は 朝と夜の 2食だったかもしれませんが かまどに火がくべられ どこの家からも 煙が立っているもんだと。
ところが 煙が立っていないのを見て 

民は苦しんでいる。かまどに火をくべる事もできないのか。そうお話になり
3年間 税金を 止める。って事を おっしゃったんです。

多くの人は喜ぶわけですよ。

社会人なら わかると思いますが
大不況で 自分の仕事も続くか わからない時。収入も減ってきた。生活はどうなるんだ。
って 時に

日本政府が 3年間 税金を一切止めます。 消費税が無くなるだけじゃないですよ。
所得税から 法人税から ガソリン税 酒税 あらゆる税金が無くなるんです。ビールが安く 飲めちゃうわけですよ。

1年ではなく 3年間です。

すると 
仁徳天皇のお妃の 磐之媛(いわのひめ)が が 
陛下 大丈夫でしょうか。私たちの生活も どうなっちやうんでしょう。と 心配するのですが

仁徳天皇は
天が 君主を立てたのは 民のため である。

神様が 天皇を立てたのは 国民のため である。
国民が 幸せになってこそ 初めて 天皇も 幸せなのであって 
国民が 不幸なのに 天皇だけが 幸せ という事は ありえない。

国民のために 天皇がある。 と おっしゃっいました。

国民の声は 古事記・日本書紀には 書かれていませんけど 相当喜んだのではないかと 思います。
有難いね。もったいないね。 と励みになったと思うんです。

じゃあ いただいた3年間で しっかり復興を果たそう と 
みんなで努力して 経済を発展させて また豊かな国になろうと。

3年経ったあかつきには 今まで以上の税金を納めるぐらいの勢いで 俺たち 頑張ろうぜ。
今 助けられたから このご恩は お返ししなきゃ。



そんな気持ちになったんではないでしょうか。

そして
3年 経った時 仁徳天皇は 再び高台にお立ちになって 周囲をご覧になると 
煮炊きする煙はが立っているんですが まだ 本調子じゃあない。
まだ ちゃんと回復できてないなぁと思ったわけですね。

そうしたら
仁徳天皇は あと 3年! 税金はいらない とおっしゃったわけですよ。
合計6年 ですよね。

宮中では 
今みたいに近代的な建物ではないので ボロボロになっていくんです。

古事記によると
壁は歪んで 
天井は抜けて 雨が降る度に 雨漏りしますから
仁徳天皇は 乾いた場所を探して 寝るありさまだった という事です。
そして
床に入って 上を見ると 夜空が見えたって言うんですよ。



さすがに 誇張かもしれませんがね  そのぐらい 宮殿が荒れ放題だった という事なんですね。

また 3年経った時に 国民が 喜びながら 
何を納めろ とか ここで働け とか 指示もないのに 

みんな喜びの中から よし!俺たち 何かさせてもらおう!って事で 宮殿を 新築したって言うんですね。
中には もう もう 早く納税させろ~と うずうずしていた人もいるみたいですよ。

3年頑張ってきて 納税する気 満々でいたのに また後 3年間 いらないって言われて ずっこけた人もいたんですね。

日本書紀の一部によると さらに後 3年間いらない なんて話もあったらしいですが
冗談じゃあない。 払わせろ みたいな感じで 怒り狂った国民が 宮中に乱入して 

新築したって 言うんですから。

こんな話 世界の どこにあるんですか?というですね 

一部 誇張した話もあると思いますが 

税金を止め 多くの人が 感謝の気持ちを持って 宮殿を新築した という話の 骨子は
おそらく 事実を反映した話ではないかと思います。

仁徳天皇は いや そんな新しい家は いらない とおっしゃっるのですが 

国民の 
お願いします。素晴らしい建物を建てたから ここに お住みいただきたいんだ という
有難いね。申し訳ないね。勿体ないね。という想いで

仁徳天皇は 新しいお家へお入りになる という事ですね。

なんと 美しい話かなぁ と思うんですよね。

普通 納税って嫌じゃないですか。
税金って 1円 でも 安いほうが 有難いって思うのは 普通だと思うんですね。

でも
納税させていただく 喜びとか
誰が命令するわけでもなく 聖の帝 のお住まいを みんなで建てたい とか

素晴らしい国家に住んでいる国民が 国家のために何か 奉仕 をする。
というのは



こんなに 気持ちい事なのか という事を思わせる いい話 だなぁ と思うんです。

だからじゃないでしょうか。

525m ですよ?

立派な方には 立派なお墓で お眠りいただきたい という気持ちが募り 募って ついに
525mになっちゃった という。でかすぎるだろう と思いますけど

奴隷のない時代に これだけの お墓をつくった というのは大変な事です。

これだけ 民のかまど の話に代表されるように 仁徳天皇は 立派な方だったみたいですよ。


この時代から
国民のために 天皇がある とおっしゃっているんです。
国民が幸せになってこそ 天皇が幸せだ。

これ
ヨーロッパとか 中国の 
王様とか皇帝 とかの目指す 未来と
国民の 目指す 未来が 必ずしも一致しないんです。

統治される側 と 統治する側。
税金を払う側 と 受け取る側。

隔絶な間があったわけなんですけども 

仁徳天皇の幸せは 国民が幸せになる事なんですよ。
天皇が いくら貧乏しても 民のためなら 構わない。

国民に寄り添う。国民が幸せになる事を ひたすら祈る。
そして 自分ができる事を成し遂げていく という事ですね。

ちなみに
仁徳天皇は 大阪平野の 治水工事をして 現在の淀川の下流の両岸に 堤がありますけど
これは 仁徳天皇の時代に造られた 堤防だと言われています。



この治水工事によって 大阪平野の 農業生産が高まった。
やはり 治をする。川を治める。。農業生産を高める。
これは 立派な帝王としての 前提となるようなものですけども 

仁徳天皇はこれをなさった という事です。ご自身は 質素倹約を善 となさっていた との事です。



聖徳太子

聖徳太子は 今 
なぜか教科書に 「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」 で記載されて 偉い人でも何でもない といるものもあるようです。 
存在すらないという人もいますが



危うい事に 教科書から外されるところでしたからね。

飛鳥時代に
日本が大躍進した その立役者が 聖徳太子ですから
聖徳太子を語らずに その後の古代・中世の 日本を語れるわけがないんですけれども

もっと日本の歴史教科書は 
聖徳太子に注目 評価すべきだし きちんと勉強しなければいけないのではないかなぁと思います。

中央集権国家。律令国家。
といった  
外交を通じて 色々な変動の中で 吞みこまれたり なめられて攻められたりしたら 危ない。
なので
外国から 侵されない強い日本をつくって アジアの先進国 としての地位を確立し 認めさせる。
その国家をデザインし 推進したのが 
聖徳太子です。

だから長い間 1万円紙幣などの諸像を担っていたんです。



法隆寺の釈迦三尊像

の背中の光背文に 埋め込まれているのですが 
この釈迦三尊像は 聖徳太子に身長も全て似せてつくりました と ちゃんと書いてあります。



聖徳太子は 大変頭のいい人と 日本書紀にも記載されています。
10人の言う事を 同時に聞き分けた と日本書紀には書いてあるのですが

ただの神話的エピソードだ。そんな事 ありえないでしょ~。
という事じぁなくて
10人が 同時に わっ~ ってしゃべったのを それを聞き分けた という聴力 とか識別能力の話をしているのではなくて

10人の色々な事を言うのを 順番に的確に聞き分けて 処理をした という話であって
それぐらい聡明であった逸話である という事です。

太子 というのは 
日嗣の御子(ひつぎのみこ) と言って 次に天皇になる人を 太子 と言います。
結局 
聖徳太子は 天皇にならないうちに 皇太子で死んでしまうのですが
日本書紀には 亡くなった としか記しておらず 理由がよくわかりません。

中臣鎌足 という人は
後の 藤原鎌足。藤原一族の先達で 
源氏・平氏も藤原系。
元首相では 戦後の 近衛文麿。直近だと 細川護熙(もりひろ)さんまで続いていますが

聖徳太子の息子で 後の天智天皇である 中大兄皇子と 
その 中臣鎌足は 共に

皇極4年。
645年。
大化の改新・乙巳(いっし)の変。  乙巳 という年回りだったという事ですが 

権力の絶頂期の 蘇我入鹿 を殺してしまいます。
お父さんの 蘇我蝦夷 も翌日 自害しています。

皇極天皇は 

目の前で 蘇我入鹿 という 大臣が殺される という この出来事を 驚く様子がなかったようです。
                    ↓
 

そして
天皇から 上皇に譲位し 自ら次の天皇を決める という事をしました。
これは
今までは 天皇の政治的実権は ほぼなかった時に実行した 初めての事です。

かつて 
592年。
後にも先にも 事例がない 天皇暗殺 という
蘇我入鹿の祖父 蘇我馬子は  崇峻天皇を 殺したと言われています。

それでも この蘇我 の人たちは 何のおとがめなしに 大臣の位にいたわけで 責任追及もないわけです。
蘇我入鹿の父 蘇我蝦夷(えみし)も蘇我馬子からの 蘇我権力を継いでいましたし
政治的軍神の 意に沿わない 皇族は 消される という



そのくらい
天皇や皇族は 無力だったんです。
昔から 天皇は 権力をもって 自分のいう事を利かせてきた というのは違います。

なので
聖徳太子も 辿れば蘇我系だったのですが 亡くなった理由がわかっていませんが
大化の改新で 完全に 蘇我氏一族は 没落しました。

そして 初めての元号が 大化 となりました。


聖徳太子は 権力を振りかざすような 独裁的なものは
律令国家ではない と
きちんとした 統治国家を 文書としてつくろうとしたのです。

19世紀同様に 7世紀

お隣の大陸の大きな国は 
軍事大国になって 周辺の国に何をしでかすかわからない。どういう仕打ちをしてくるかわからない。
そういう危機感を持った時代でした。

以前
日本が 中国南北朝時代の 南朝の 劉宋(りゅうそう)から 最先端の文化を習っていましたが
21代 雄略天皇 以降 朝貢を断ちました。



なぜ また 122年ぶりに
この時に 日本が 遣隋使を派遣したかというと

朝鮮半島の影響力を保つため と
先進文化を摂取するため に派遣しました。

この第1次 遣隋使派遣の時に 朝鮮出兵をしています。

この時代から 朝鮮半島は 日本にとってポイントになる場所なんです。
朝鮮半島の 大陸の方は 高句麗。
南部には 加耶(かや)諸国
中部には 東に新羅(しらぎ)。西に百済(くだら) があり この2つは 日本の属国だったわけです。
ところが この2つの国が争うようになり 南の方に進出した。

盟友の百済から 儒教の5つの経書 の先生。五経博士を 日本に渡来してくれたりして



日本が朝鮮半島で 1番仲が良かったのは 百済でしたから
新羅 と喧嘩している という事なので 
百済に 日本の権益を残してほしい と出兵するわけです。

日本が 隋 とつながる という事は 
朝鮮半島での 日本の影響力を保つ という目的があって 

聖徳太子は 小野妹子による 遣隋使を派遣させるようにしました。



推古8年。
600年。
第1回 遣隋使派遣で やはりアジアの最先進国。隋に 圧倒されるわけです。

あんたたち 役人の階級もない なんて野蛮な国なのか と 言われ 
隋の上級階級の人にも会えず あしらわれて相手にされませんでした。

聖徳太子は これはあかんわ と

いざという時 そういう国に対応できるように 
きちんと明確に 立場・役割分担を決めて がっちりとした 天皇を中心 とした 

まとまった統一国家をつくらなければならない。

そこで誕生したのが

604年 12月に発表された 

徳・仁・礼・信・義・智 の順番で 役割 6×2=12 を決め

「冠位十二階」 を定めました。  最高の位の 徳 は 紫 で現わされています。
徳 というのは
正しい行いをする という事です。本当に正しい という事は

時間とか 空間や場所 に関係なく 普遍的なもので 
全てに共通している いつでも どこでも 誰にでも当てはまる
人としての正しさ 徳。

を トップにもってきているわけです。
これは 日本独特のもので 支那の 位には 徳はありません。

仁 は 光のないところに 光をあてる。慈しみ深い という事ですから

天皇陛下の お名前には 仁が入るんです。
この 2つが一緒になったのが 民のかまど の 仁徳天皇 です。


推古天皇の甥であった 聖徳太子は 事実上 摂政として職務を遂行します。



また 聖徳太子は
翌年 1月には 「17条憲法」を発表しています。

憲法 という字は 
明治時代に使い始めるんですけれども それは 聖徳太子の 17条憲法 以来ですよ。

憲法 と名付けるに値する 価値のあるものが
7世紀から 20世紀まで現れなかった という事です。

憲法 というのは 
国家の 統治機構を明記して こういうルールで動かしていきますよ というものです。

そして 大日本帝国憲法 と 今の 日本国憲法は
統治機構 と人権。権利の 2つ の要素が入って成り立っています。

ところが
17条憲法は 統治機構 や 人権 が書かれているわけではないんですね。
じゃあ 何かと言ったら

官僚の 心構え が書いてあるんです。
役人 というものは こうでなければいけない という事が 書かれているんです。

まさに この書かれている事が 徳 なんです。
歴史 とか 時代 を超えて 正しい行い なんです。



なので 7世紀の 17条憲法は
今 読んでも 新しいんですね。古臭くないんですよ。

時間とか 場所とかを超えて 何が正しいか。役人への 心構え として書いたものなんです。
なので 
一般国民が 縛られる という事はないですし
天皇が 縛られる という事もありません。


17条の現代語訳。

①和を持って貴しとなす 和(仲良く) 調和
②仏教を敬う
③天皇中心の国
④礼儀 敬う
⑤公平 むさぼるな 私利私欲の欲を棄てよ
⑥善を進め 悪を滅ぼす
⑦能力にあった地位(冠位十二階)
⑧勤勉
⑨信頼 義
⑩自己中をやめ 人の意見を聞く
⑪賞罰 
⑫税は天皇(国)へ
⑬助け合い
⑭人をねたむな
⑮国のためにつくせ
⑯国民を大切に
⑰話し合いで決める

①の 1条は 17個ある筆頭ですから 重要です。

和 を大切にし いさかいを起こさないように 心がけなさい。
人は 集団をつくりたがるもので 人格を備えた人は少ない。
だから 君主や 親に従わず 近隣の人たちと もめ事を起こすものである。
しかし 上の者も 下の者も 協調 と 親睦 の気概をもって 議論をすれば 
おのずと 道理に適った結論を 得る事ができる事ができ
何事も 成就 するものである。

民主主義 そのものでしょ。
17条憲法は  5箇条の御誓文 に受け継がれます。
そして
大日本帝国憲法 にも受け継がれ
それが 日本国憲法 に受け継がれます。



日本国憲法の 民主主義や 議会制民主主義 の制度も書かれています。
これは
マッカーサーから もらったものではないですよ。戦後 アメリカから もらったものではありません。

聖徳太子 ですわ。

もっとさかのぼって
神武天皇の 日本を建国した時から
しかも
古事記に書かれている 神様ですら 話し合いをしてきたんですから。
もともとは 八百万の神々の 話し合いですわ。
高天原で 話し合いをしてるんです。

はなから民主主義なんです。徳目なんです。
上の者も 下の者も 協調 と 親睦 の気概をもって 議論をすれば が大事ですね。
そして 
決まった事には 一体化していく という事です。


このようにして 聖徳太子は 律令国家 を築き上げていきます。
そして
お隣の大帝国 大陸の国と 日本は対等であることを宣言していきます。
朝貢はするけれども 柵法体制は受けない。
留学生を連れて行くから 勉強させてほしい。
という 対等外交をしていきます。

第1回 遣隋使派遣から
推古8年 から7年間の準備をして

推古15年。
607年。
日本として 恥ずかしくない体制を整えて 第2回 遣隋使派遣をします。

この時の 隋の皇帝は  煬帝(ようだい)です。



日本からの 遣隋使派遣にあたり 煬帝に 聖徳太子が送った手紙に
煬帝は ブチ切れるわけです。
こんな野蛮な 無礼な手紙がきたら 二度と取り次ぐな と言います。

「日出づる処の天子 が 書を日没する処の天子に送ります」 
「つつがなきや」 お元気でしょうか? 
と 隋書には書かれていて

日本人からすれば 日の本 日本 天照大御神 というイメージがありますけれども
向こうにしたら 
日出づる とか 



日没する とか はあまりこだわりはなかったみたいです。



問題になったのは

「天子 から 天子 に書をいたす」

これは 中華思想からしたら ありえないんですよ。

皇帝様に書を 奉(たてまつ)ります と 言わないといけないんですって。
下の者は 上の者に 奉ります。

同じ地位の人は 致す と言うんです。

あからさまに 対等だ という風に
日本は 全部無視して 天子 が 天子に 書を致す って書いちゃったわけですよ。
よっ 元気かい? みたいに。

遠交近攻 で 隋は 高句麗と戦っていたので 日本とは 事を構えたくない。
でも
何が 天子じゃ。お前は 天子じゃない。 この無礼者!と 煬帝は激怒しているんです。



その 推古天皇宛てに書いた 激怒満載の 国書を

小野妹子は 無くしてるんです。日本書紀に 書いてあります。

って言うか そんな大事な物 無くします?
中国皇帝から 日本の天皇宛ての 手紙ですよ?

たぶん小野妹子 が 
やっべ~ 煬帝怒っているよ これ 持ち帰れないだろう 
と思ったと思うんですよ。

聖徳太子にも 相談したと思うんですよ。

聖徳太子が
わぁあ~ 煬帝 これヤバいねぇ 推古天皇に 見せられないねぇ
お前 これ 無くした事にしとけ どっかで取られたとか 何とか言って そういう事にしとけ

小野妹子
わかりました そうしときます って ポイッ と捨てて 無くしましたぁ~

聖徳太子
バカ者!無くしたのかぁ  と言いながら おとがめなし。

普通 無くしたら 処罰されると思いますが そんな記録はありません。
しかも
第3回 遣隋使派遣に また 小野妹子が任命されています。

これがこの時代の人たちの 智恵だったんでしょうね。

聖徳太子は 
天子 が 天子 の手紙を まず投げてみる。
それによって 相手が どんな反応をするかを見る。

そして 次に書を送る時に

天皇 から 皇帝 に 申す 
と書いたんです。白(もう)すは 少しへりくだっています。

天皇 という新しい名前を つくっちゃったんです。
新しいものを 持ってきたら 身分が上か 下かわかんないでしょ?

でも 意味あいから言うと 天・宇宙・天空 で すでに確説した 名前を付けちゃったんですよ。



新しいものを ぶっこんじゃったから 
上も下も 意味不明 になっちゃったですよ。

そうしたら 向こうも へっ?みたいな
なので 皇帝が激怒した って言う記録は ないんですね。

日本書紀で 天皇 と名乗ったのは これが最初です。
607年 の事です。

あんたが皇帝だったら うちは 天皇だ。 
日本は 日の出の場所の独立した国だ。 

誇らしい感じがします。

618年 隋が滅亡するまで 学説的に 色々ありますが
5回の 遣隋使派遣がありました。


隋が 滅んだ後の 唐 に
舒明(じょめい)2年。
630年。 
第1回 遣唐使が派遣されます。
旧(く)唐書 という 唐の正史が書かれている書物に 

20年に 1度来ればいいよ とか
唐の皇帝から 遣唐使に伝達する 国書をもらわずに 日本に帰ってしまった

と不可解な事が書かれています。

本来なら 周辺諸国は 
皇帝さまに 貢ぎ物を持って行って 絶対服従を誓い
皇帝さまから 王に 将軍に任命され 名前ももらって その名前を使え とも言われ
朝貢 と 柵法 はセットだったわけです。

ところが
日本は 隋と 朝貢はするけれども 柵法は遠慮する という 
倭国王 と任命する とか 金銀財宝もいらん と。
そのかわり 勉強させてほしい という事で 留学生たちを 隋の進んだ文化を学ばせてもらう 
といった
変化球的な 独特な外交関係を樹立した 先例 があるので

隋 の第1回 遣隋使派遣 では 小野妹子が 無くしちやった事にしましたが
唐の皇帝から 
遣唐使に伝達する 国書をもらわずに 日本に帰ってしまった
というのは
柵法的な 倭国王に任命する 的な文書が書かれていて 
これを受け取るわけにはいかない と 
国書を 唐から受け取る前に 日本に そそくさと帰ったのではないでしょうか。



どんな強い相手であっても 常に対等な 人として接していく。
それは同時に 優しさ でもあるんです。

それを実際に政治の世界に実現していった 
というところが まさに聖徳太子は  日本を代表する 偉大な存在だと思います。

もともと天皇によって統一された国家 和国 であったものを 
改めて復活させようとしたのが 聖徳太子 であり

そして
大化の改新の 天智天皇(中大兄皇子)であったり
平城京遷都 奈良大仏 平安京遷都 と 律令国家に育っていくわけです。



和気清麻呂・弓削道鏡事件

733年~799年 を生きた人です。

明治時代の終わりから 昭和14年 までの紙幣。 お札になるほどの人物です。



しかし
お札になるほど 有名だったのに 

今の日本人は ほとんど 和気清麻呂 を知りません。

よく 歴史教育で 自分の地域に親しもう と 郷土史 はやりますが
そうなると
京都の 小学校・中学校 で真っ先に教えないといけないのが 和気清麻呂 です。
なにせ

桓武天皇の 命令で



平安京 をつくる 責任者 だったわけですから。
みごと 大役を果たして 同大な 1000年の都が できたのですから。

そもそも 日本が滅びてしまったら 平安遷都も何も なくなるわけですよ。
日本の国のかたちは 色んな人が 

命をかけて 
必死になって 
守ってくれた方々が いらっしゃったからであって

それと反対に
それを 崩そうとする存在も 歴史においては 出てくるわけですね。

その 代表的な人物は



弓削道鏡(ゆげのどうきょう) です。

これは 皇位継承の危機でした。
自ら 天皇になろうとしたんですね。

三種の神器を 守ってきたのが スメラ(皇)一族だったんですけども

皇族でも何でもない 
道鏡 という お坊さんが三種の神器 を受け継ぐ事になる とんでもない事になりそうだったわけです。 

この人は 法相宗という宗派の お坊さんだったんですけども 
僧侶としては 大変有能な方だったようなのですが

46代 孝謙天皇 という 女性天皇が有らせられまして 
重祚(ちょうそ)といって  
孝謙天皇の名から 退位して 48代 称徳天皇として 再び即位されるのですが

初めの 孝謙天皇の時 その後 孝謙上皇になられた時
ご病気を治されたのがきっかけで 
道鏡が 祈祷したのか マッサージしたのか わかりませんが 
女帝 孝謙上皇と 年がいもなく この お坊さんと とても親しい間柄になってしまい

道鏡は 最高の地位。太政大臣までつく事ができました。

当時 政治を動かしていた 藤原仲麻呂 が 2人の行動を
47代 淳仁天皇を介して 通じて 諫(いさ)めた。忠告をしたんです。 
すると 孝謙上皇は
私が誰と何しようが勝手でしょう!!



ってマジ切れするんですよ。

淳仁天皇は 小さいことだけしてればいいから。
これからは 私がまた 天皇やるから って 私が全部決めるわ って 詔 を出しちゃうんですね。

藤原仲麻呂 も黙っていないんです。
これは ヤバい。

何とかしないと と 謀反を企み 天皇の御璽。ハンコを奪おうとしたのですが ばれてしまい
藤原仲麻呂 一族諸共 殺害されます。

そして
淳仁天皇は 廃位。天皇の位を廃止され 淡路島に流されたすぐ 765年 崩御します。
正式に 三種の神器を 受け継いだ方なのに 
しばらくは 淡路廃帝(あわじはいたい) と呼ばれていました。



孝謙上皇は 称徳天皇として
2回  同じ人が 天皇の位につくという 重祚(ちょうそ)をします。

出家した お坊さんが 何で 政治執るのよ って感じなんですが
その間 道鏡は 最も高い位 太政大臣禅師 に就きます。

完全に政治を 私物化しています。

そこで止めておけばいいのに 
自分が天皇になり そして次は 自分の子どもを 天皇に 
という
欲にまみれた事を 思い描くようになり
でも さすがに 道鏡も
俺 天皇にならせて とは  称徳天皇には言えないので

どういう事をやったかというと

神護景雲3年。
769年 
宇佐八幡宮 信託事件 が起きます。

日本の国防。大宰府の責任者 道鏡の弟の 弓削浄人(ゆげのきよひと)が  
伝手をたどって 大分県
宇佐八幡宮の神主 と 結託して 

道鏡を天皇にすれば 天下泰平だぞ と
神の 御進捗が お告げが下った という噂を 振りまいたわけです。

敬意ある 神社から そういう風になれば いいPR になります。
道鏡が 弟の浄人に 仕組んだとしか思えませんが

それに対して 孝謙上皇が 重祚した後の 称徳天皇 は 道鏡に 

     はっ?!



また ブチ切れるわけですよ。

女帝は 道鏡に お前何言ってんじゃ?! って感じです。

道鏡は 確かに得難い人物だけれども 
八幡宮の 主祭神は 代14代の天皇の 奥様の神功皇后(じんぐうこうごう)なので

天皇の祖先が 道鏡を天皇にって言うのかなぁ? と考えて

女帝 称徳天皇は

和気清麻呂の姉の 法均(広虫姫)に 
宇佐八幡宮に行って 確かめるようにと 天皇の代わりの 勅使に 遣わそうとしましたが 

この時 法均は 病に伏せっていたために
姉の代行として 

和気清麻呂が 勅使となりました。

和気清麻呂は 
道鏡から 位をやる と誘惑したり わかってるだろうなぁ と脅迫されたりしますが

皆が 道鏡にへつらっても 自分は 恥ずかしくない行動をとって 国を守る。 と毅然と

神護景雲3年
769年 6月末。
宇佐八幡宮 の神託の真偽を 確かめるために旅立ちました。



宇佐八幡宮に着いた 和気清麻呂は

身を清め 心を鎮めて 八幡大神に御奉納をし 宣明文を読もうとしました。
すると
神職である 禰宜(ねぎ)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ) が

道鏡に 皇位につけ と 神託が 下されているのだから 改めて 宣明を奉る必要はない。 と拒むので
不振に思った 和気清麻呂は

これは 国家の一大事だから その神託 というものを見せろ って言うんですけども

和気清麻呂が 到着前に 道鏡によって 宇佐八幡宮は政治的・金銭的な圧力が かけられていたのです。

伝承によれば
和気清麻呂の前 に 身長 9m の満月の如く 神々しい 八幡大神が 姿を現し 
厳かに真の 御神託が降ろされた と言います。



わが 国家は 開闢(かいびゃく)より 君臣定まれり。
臣をもって 君となすこと 
未だ これあらざるなり。
天つ日嗣(ひつぎ)は 必ず皇諸を立てよ。
無道の人は よろしく早く 掃い除くべし

と いうものでした。

こうして 皇室の者しか ダメダメ。
八幡大神 は 道鏡の皇位を 認めない と下しました。

と 都に帰って 皆さんの前で 報告をしました。

当然 道鏡は 大激怒 ですわ。

たとえ皇位につけなくても 道鏡はこの時点で 政治上の最高権力者です。

和気清麻呂が報告した この状況を
女帝 称徳天皇は 道鏡に対して 
和気清麻呂 ちょっと言い過ぎじゃない?  みたいな感じで

和気清麻呂 を 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ) と改名するように命じ
それでも飽き足らず 
大隈国(鹿児島県牧園町)へ 流罪としました。いわゆる左遷です。
大隈国は 初代 神武天皇 のご生誕の地です。

称徳天皇はさすがに 
道鏡に 皇位継承を渡して 自分が 末代 とするわけにはいかない事はわかっています。

しかし ついでに 
姉の法均(広虫姫)は 別部狭虫((わけべのさむし)と 改めさせて備後国(広島県三原市)に 流罪にしてしまいました。

和気清麻呂は 
大隈国へ行く旅の途中には 道鏡の放った 刺客に襲撃されます。
ところが 不思議な事がおきました。
激しい雷雨の中 どこからか勅使が現れて 死を免れています

大隈国に到着する前に 途中の通り道で 宇佐八幡宮にお礼参りをしよう と思いましたが
脚が もうくたびれて 萎えて歩く事ができなくなってしまいますが

山から 突然 300頭の 猪が現れて 案内役をしてくれました。
参詣前日には 脚は 元通りになっていました。

この故事から 猪は 和気清麻呂の 守り神として 
和気清麻呂 ゆかりの神社には 狛犬 ならぬ 狛猪 が安置されています。



姉の 広虫は 備後で 極めて貧しい暮らしをしていましたが 
弟や こうなる前まで 養育していた 83人の 親を亡くした子どもたち の事を想い 淋しく過ごしておりましたが
その 子供たちから 激励の手紙や 食べ物が届くのでした。

そして
女帝 称徳天皇が 崩御。
天智系・天武系 の融合 第49代 光仁天皇が即位され 

今度は 道鏡が 下野国(しもつけのくに・栃木県)に左遷され 
宇佐八幡宮の神主は 種子島に 左遷させられました。

和気清麻呂は 京都に呼び戻されて 名前を戻してもらい
京都の 平安京をつくる 責任者となりました。

和気清麻呂は
戦前の 10円紙幣 の肖像画が印刷されました。

そして
今も 皇居 近くの 大手濠緑地に 銅像が立っています。



和気清麻呂が 忠義を尽くしたのは 皇室であった という事で
戦後は 消し去られ 無かった事にされてしまいました。

和気清麻呂 がいて 滅茶苦茶な おばはん と お坊さんの 変な皇位継承を 体を張って止めたわけです。

忠義 というのは  

単なる 仇討ち 仕返し
に置き換えられてしまいました。忠臣蔵の話も そのように すり替えられてしまいました。

和気清麻呂 ゆかりの地には 今も 護皇神社・護王神社。 和気神社があります。



楠木正成

14世紀から書き足されてきた 軍記物語の 太平記 に出てくるお話です。

後鳥羽上皇 の時代に 



鎌倉幕府は 承久の変で 皇族方をあっちこっちに流罪にして 無道を働いてしまいました。 
心ある 諸国の武士は 
北条氏の無道を 身に染みて知っていたわけです。

そこで
後醍醐天皇が



兵を挙げた。天皇が です。
そして 鎌倉幕府。北条氏が滅亡に追い込み

武士が権力を握ると 権力争いばかりしていて 

天皇をも ないがしろにしてしまうので 
これは まずい と

後醍醐天皇は 建武の忠功。
今で言う 
建武の新政 を始められて
朝廷 天皇中心の世の中をを取り戻す という事をなさったんです。

ところが
それに反旗をふり返したのが 足利尊氏 なんですね。



北条の鎌倉幕府を裏切って 後醍醐天皇側に付いた。
ところがまた 
後醍醐天皇を裏切って 反乱を起こしたわけですね。

1回は 都に攻め昇ろうとした時に 撃退されて 九州に追い払われるわけですが 
その時に

今の 天皇陛下の世の中だと 武士が天皇のために働いても ろくな恩賞はもらえないから

俺についてくれば お前らの家族は たんまりと食わしたるぞ 
みたいな 
北条家と 同じやり方をするわけですね。

そういう 公約を言うと わ~っ と応じる武士たちがいて 
九州から 30万 ともいえる人数に膨れ上がって また京都に押し寄せてくる という事になったわけです。

そして 起きたのが 湊川の戦 です。



足利軍が 圧倒的な人数ですから 普通に戦ったら かなわない という事で

すでに 新田義貞の軍が 兵庫の方にいるわけですが



それに加えて
後醍醐天皇から 楠木正成は 勅命を受けるわけですけども



楠木正成は 足利尊氏を 撃退する最上の策は

北条を滅ぼす時に 
何度も あっちこっち 比叡山んもにも行かれて 苦労させましたが
大変恐れ多い事ではございますが 
後醍醐天皇にjは 今一度だけ 比叡山に 御動座。移動していただいて
足利軍が 京都に入ったら その周りを 包囲攻撃をすると 撃滅できる 

と献策するんでが

ところが 後醍醐天皇の周りの お公家さんたちが 
また比叡山かいっ って 大反対するんですね。

楠木正成 は

元弘3年。1333年。
大阪の 南河内郡に 千早城 と 赤阪城 がありました。
赤阪城は 上下の 2つに分かれていて
山全体 では 3つの城が あったという事になります。

わずか 1000人の兵で 鎌倉幕府の大軍を退けた 千早赤阪城の戦い の例があるので
今回も 足利軍を 打ち破ってくれるはずだと思って

後醍醐天皇は 

比叡山は行かない。
そのまま 正攻法でやってこい と言うわけです。

なので 普通の野戦として 大群の足利軍と戦う事になり
京都から 兵庫に向かう途中

これが 有名な 桜井の別れ です。

息子の 楠木正行(まさつら) が 自分も連れて行ってくれ という事で 
大阪の河内から 合流するのですが
大阪の島本町辺りに 宿場町として 桜井 というところがありました。

その 桜井で 父 楠木正成は



いや 
おぬしは 成長するまで 時を見て その時がきたら   私の意志を継いで 戦ってくれ。
なので 今は 河内へ帰れ。

と言うのです。

平成元年に 放映されたテレビのドラマでは

おぬしは 成長するまで 時を見て その時がきたら   世の中の情勢を見て 良いと思う方につけ 
という 楠木正成のセリフでした。

お父さんの意思を継いで 戦ってくれ というのと 
世の中の情勢を見て 良いと思う方につけ では 全然違う意味になっています。

史実は 意思を継ぎ 戦ってくれ なんです。

そして
楠木正成は わずか 1000騎たらずの軍で 足利軍の 何十万との大群と 激突するんですね。
でも 5時間にわたって 足利軍を手こずらせて



ついに
70と 数名の 一族郎党と共に お互い 刺し違えて死ぬ。
そして 
この時 楠木正成は 弟の楠木正季(まさすえ)に 

今 お前 何を思う。と言ったら



七たび 生まれ変わってきて 朝敵(南朝)を滅ぼしたい と言った 「七生滅敵」

後に 
日露戦争の英雄 広瀬武夫中佐が 



七たび 生まれ変わってきて 国に報ぜん。国に報いる と言った 「七生報国」 

広瀬中佐は
旅順港閉鎖作戦で 
ロシアの 旅順艦隊が やがてやってくるバルチック艦隊と 合流するかもしれない時に

2度目の 旅順港閉鎖作戦で 失敗。
広瀬中佐 が指揮する 福井丸 が艦砲射撃され 
福井丸を あきらめ沈めて 退艦するために 全員ボートに移ろうとしていた時に
部下である 杉野兵曹長がいない。
杉野! 杉野! と ボート と福井丸を 往復して 沈むぎりぎりまで 探すのですが見つからず

広瀬中佐が やむなくボートに乗り移った際に ロシアの砲弾が 命中した という事でした。

広瀬武夫中佐も 忠義を尽くした 有名な言葉です。


楠木正成と 弟の楠木正季(まさすえ)。そして 一族郎党と共に お互い 刺し違えて死ぬ。
この時 
楠木正成は 弟の楠木正季(まさすえ)に

楠木正成は 「七生滅敵」
カラカラ と笑って 自分も同じだ と 刺し違えて死ぬんです。

カラカラ笑って
天皇陛下に 忠節 を尽くして 戦って そして亡くなる。 
最高の名誉だったわけです。

その精神が 後の日本に受け継がれていく。

この話は ホントかウソかという事以上に 

こういう武士がいたんだ という事が 
この後 信じられていき 崇敬 の対象になって 
それが 受け継がれる日本人が どんどん出てきた事の方に 重要性があるわけです。



戦前 こういうエピソードが引用されたのが 軍国主義だ など言われますが 
これは 
江戸時代から また 幕末も 湊川の戦いの話と 湊川神社は 
幕末の志士たちの 心を寄せる中心となっていました。

西郷隆盛 吉田松陰 坂本龍馬 高杉晋作 ・・・

戦国時代の最強の 島津軍も
湊川の戦の時には 楠木正成の軍だけは 還付なきまでに けちょんけちょんにされたわけで
大楠公 楠木正成は 唯一 敵わなかった。強い。 
神様みたいな扱いなんですね。

そして 十数年後 

正行(まさつら)も 親父に負けず劣らず 強い という事で
お父さんの意思を継いで 若い立場でありながら 足利軍を 散々悩ませたんですが

足利軍 高師直(こうのもろなお)は 何万もの兵を向けて ついに 
四条畷(しじょうなわて)の戦いで

父 楠木正成の遺志を継いで戦死した。
この時に 
正行の弟 正時(まさとき) も戦死する という
壮絶な討ち死にを 繰り返す一族だったわけです。 

その弟の 正儀(まさのり) が 北朝側と 和睦をしながらと 作戦を変えながら
しかし 皇統を伝え続けるにはどうしたらいいか という事を ずっと行動し続けた 楠木家一族だったわけです。

父 楠木正成の意思は 子孫に受け継がれた という事です。

後醍醐天皇は 比叡山で抵抗していたが
足利尊氏 の和睦の要請に応じ 

三種の神器を 北朝の 光明天皇に引き渡しました。



しかし
後醍醐天皇は 光明天皇に渡した神器は 偽物である事を宣言して 京都を脱出。
自らが皇位の正当性を 主張して 
奈良の吉野に 南朝を開きました。



そして 南北朝時代 となるわけです。


楠木正成は

38歳まで 準備・修養の時代であり この時に 朝廷の書物を管理していた 

大江家 41代の 大江時親(ときちか)に
紀元前500年ころの 孫子の兵法 と

約 900年前
日本の 平安時代末期に成立した とも言われる 闘戦経 を 伝授されています。

これは 天皇と 大江家だけが 見れるものでした。
日本の 神の武 を学ぶものでした。
宇宙の法則 天地の初めを伝えるもの かもしれません。

39歳から 43歳の 湊川(みなとがわ)で戦死するまでの間に この2つの兵法に花が咲き
その戦いぶりに 名を残しています。

なので 人生の前半は 記録として出てくるものが無く よくわからない。

なぜ いきなり挙兵したのか なぜ 無謀な戦いをしたのか わからない。
なぜ あんな冷静な 戦い方ができたのか。



室町幕府 の時代は 逆賊扱いです。
そして 江戸時代 辺りから 英雄。
戦後は 名も知られなくなった人。

自分ではない 誰かのために 何かのために 戦って死ぬ。
ウルトラセブンも 仲間を救うために 最後は過労死するという話 らしいですが

今では
何で 他人のために 死ぬなか わからない。
という感想を言う 若者が多い時代になってしまいました。

ちなみに 
足利側も 楠木正成の事は 尊敬していて
形式上 1時間だけ さらし首にしたけれども ぱっと引き上げて 実家に届けてあげているんです。

何度も 後醍醐天皇から 離れていい経緯があるのにもかかわらず
楠木正成は なぜ 後醍醐天皇を支えたんでしょう。

この時代は 一族を守る為に 主君を平気で変えろ というのが普通でした。

なぜ 楠木正成は 最後まで 忠義を尽くしたのでしょうか。





幕末志士

坂本龍馬
中岡慎太郎
後藤象二郎
高杉晋作
久坂玄瑞
木戸孝允(桂小五郎)
西郷隆盛
大久保利通
大村益次郎
江藤新平
伊藤博文
井上馨
岩倉具視
吉田松陰
勝海舟
土方歳三
近藤勇
  :
  :
  :
明治維新を 成し遂げた偉人たちは わずか100名です。
命をかけた人たちです。

吉田松陰

29歳で 亡くなっています。
しかし
吉田松陰の 志 は 門下生に受け継がれ 明治維新の原動力になりました。

その間に 松下村塾で あれだけの門弟を 2年内で育て
今でも 多くの人に 影響を与え続けている という事は すごい事です。

安政6年。1859年 10月27日
江戸最大の拘置所である 伝馬町牢屋敷 で処刑されました。



処刑直後は 東京荒川区南千住の寺院に 埋葬されます。

その後
文久3年。1863年。
松陰先生を慕う 門下生 高杉晋作 や 伊藤博文などに よって東京世田谷区に



松陰神社を建てて 御霊を祀りました。

出身地 山口県の 萩に 吉田松陰が祀られている 松陰神社があります。



その左隣にある お社が 松門神社 として 吉田松陰の門下生 50人くらいを お祀りされています。。
有名どころで言えば 

伊藤博文


高杉晋作


久坂玄随

など たくさんの方が 祀られています。

萩の松陰神社は
明治40年。 内務大臣をされた 野村靖や

門下生 伊藤博文。
明治の元勲が中心になり建てられたわけです。

自分にとっての師匠 というだけではなく 
日本を 立て直した 日本を 近代化させた 原動力となった人物という事で 
国家としても 顕彰をしたい という事で 萩の松陰神社が建てられました。

吉田松陰は 萩藩士の 次男として生まれ
5歳 の時 吉田家の仮養子となり 6歳 で養父が急逝したために 吉田家を継ぎ
そこで 
山鹿流兵学師範の 
叔父 玉木文之進に指導を受ける事になります。



価値あるものの為に 感情を捨てる 己を捨てる という事を 厳しく学びます。

汗が 流れる頬を 手で拭った瞬間 制裁を受けます。
これは
汗が出る。暑い。不快。 これは 私 という 自分のための事であり
公 の精神とは違う。
公のために 命を尽くし 世のため 人さまのために 価値ある想いを持ち 行動をする事。 

という教育を受けています。

また 周囲の人からも 教育を受け 10歳 で 藩校明倫館の兵学師範 として教壇に上がり
11歳の時には 藩主の 毛利敬親 の前で兵学講義もしています。

19歳で 藩校明倫館の 兵学師範 として 本格的に授業をしました。

21歳の時 この頃の 欧米列強による 日本の危機感を覚えた 吉田松陰は
外国船に対する 日本の防備を知る必要があると 

南は九州 長崎から 北は青森まで 約5年ほどで 日本各地をまわりました。

嘉永6年 1853年。
ペリー来航により 軍艦4隻 が神奈川県浦賀沖に現れ 日本に開国を迫りました。

翌年の
安政元年 弟子の 金子重之助 と共に 静岡県 下田に再来航した 軍艦に乗り込み アメリカに 密航をお願いしますが
失敗します。



東京の伝馬町伝馬町牢から 山口県 萩の山牢獄に投じられました。

獄中 
命 一緒に賭けます と 
吉田松陰が 自分が言い出した事に ついてきてくれた 金子重之助が 先に死んでしまいます。

この悔しさとか 恥ずかしさとか 無念さ というものが 
吉田松陰 という人を 大きく変えていった と思います。 

野山獄で 松陰は 1年2か月 の間に 600冊以上の 書物を読み
獄中で一緒だった 何人もの囚人に 牢の中で 講義をしたり 
それぞれの囚人たちの 個性・才能を引き出し
得意な分野の事を  教え合うなどもし 看守も聞き入るほどだったとのことです。

安政2年。1855年。
吉田松陰は 獄から出てきました。
獄中の講義が いつの間にか 評判となっていました。
近所の若者から わざわざ 志ある 熱い想いをもった若者など 吉田松陰を訪ねてやってくるようになりました。

幽閉の身でありながら 実家の 杉家で 松下村塾  を始める事となります。 

松下村塾。



吉田松陰の勤王の出発点 楠木正成の話や

松下村塾の壁に掛けられていたのが 楠木正成。大楠公の墓碑銘です。



大楠公 楠木正成の事績 精神を 吉田松陰が語り 門弟たちが 耳を傾けていた という風に伝わっているわけです。

南北朝時代の 日本が危機に陥る時は 外国からの事もあるんだけれども
大事なのは 
皇室を 中心に日本がまとまっていない状態。これが危機なんだと事を 門弟に伝えました。
志を 日本人が共有して 一丸となって事に当たっていく。
という事を
呼びかけたわけです。

吉田松陰は それぞれの 門下生の 個性を引き出し
一見 短所と思われそうなところも 

直すのではなく それを 全体のために 活かす というやり方をしています。
例えば
高杉晋作の 



頑固で 負けず嫌い を活かして 高杉を 勉強をさせるために 

1番 頭のいい 久坂玄瑞 を



  高杉晋作の目の前で褒めたり
2人を 一緒に呼ぶ時は わざと 高杉を悔しがらせるために

久坂。高杉。  と久坂玄瑞 を先に呼んだりして

負けず嫌いの高杉は 勉強をして メキメキ成果をあげ  持ち前の行動力で 頭角を現すようになった
と言うのは 有名なエピソードです。

身分に分け隔てなく 従来 教育が受けれないような人々も 志をもって 松陰の下に学びに来て
自主性を促す。 自分の想いを人にきちんと伝える事。
資質を見抜き 長所を伸ばし

そして 松下村塾の開所は
わずか 2年ほどでしかありませんでしたが 
大勢の これから日本を動かしていくという 若者を 輩出していきました。

その 吉田松陰の師匠は 佐久間象山 です。



ほんのわずかな期間 佐久間象山から 学んでいるのですが エッセンスを組み取って 実行に移していく。

いい先生に出会える という事は幸せな事です。
高杉晋作や 久坂玄随や 坂本龍馬も  



江戸から 佐久間象山の長野県の塾へ訪ねて行って 

当時は スマホや インターネットなんかありませんから
遠くても 話を聞きたい と出かけ
会えなかったら この人のエッセンスを引き継いでいる人は どこにいる とまた探して会いに行く。

国のために役立つために 
何を吸収して
何をしなければ ならないのか 何をつかまなければならないのか
必死になって 考えた時代なんです。

熱意です。

吉田松陰 という人のすごいところは 

人にも 指示を出しますが まず自分がやって見せる。 
そして
これだけの日本の危機なのに 

武士として 誰一人 国の危機に立ち向かわない。命をかけない。

だから悔しいから まず自分が 死んで見せよう という事を 留魂録に 書いています。



普通の人間jは そういう発想にはなりませんよね。

誰かが やってくれないから 自分もやめる。
この人に 頼んだけど頼りにならん。 と言って その人の悪口を言う。

じゃなくて まず自分が 何ができるか。やれるだけの事をやって 倒れて見せる。

というところが 吉田松陰のすごいところ かと思います。

しかし
松下村塾での過激な一面を 幕府は聞きつけ 吉田松陰は 安政の大獄のリストにあがり
捕まってしまいます。

松陰は 聖人君主ではなく 

傷ついて 傷ついて 傷ついて
もう 私を 狂人 と呼んでくれ とか 
もう 私を ほっといてくれ とか
もう 私は 早く死にたい とか そういう事も 書き散らしている時期もあるんです。



伝馬町の牢に繋がれていた 吉田松陰は 
明日 刑場の露に消えるという時

親心を想うと どのように感謝していいのかわからない。
その深い想いを 辞世の句にしたためて 爽やかに 刑場の露と消えていきました。

「親思ふ こころに まさる親ごころ
今日の音づれ 何と聞くらむ」

私たちは 親のお蔭で この世に生うけ 育てられました。
子どもは 親を想います。
しかし 母親 というものは 子どもが親を想う以上に 子どもを想うのでしょう。

さらに

「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂」

この身はもうすぐ 朽ちるけれども 

大和魂

を残して 私は去っていきます。

大和魂 に火が付いて みんなが新しい世の中を求めている中
師匠が 志半ば 朽ち果てて それを聞いた 弟子たちは 

魂が 揺さぶられ 心が震えたに違いありません。

この想いを継いでいこう と。

そして これからも 霊の元つ国 日本の再生に 五色人類の安寧を祈って。





勝海舟

文政6年。1823年。
旗本。 今でいう 国家公務員。 三河武士 の流れを組んでいる家の 長男として生まれました。
でも すごい貧乏で 今の年収で 90万もいかないくらいの収入です。月7万くらいです。

徳川幕府からは 裏切り者 と言われ 維新の志士からも いつも命を狙われているんですね。
あいつは スパイ 何じゃないかと どっちからも 色んな事を言われて 孤独な人なんですけども

将軍を最後まで 守り抜いたのは 勝海舟です。



貧乏であっても 武士の家なので
剣術 と 禅の修行 は すごくやっています。師範代の 剣の使い手だったんです。

それで食べていけなくはなかったんですが それはしなかったんです。
それよりも 学問がしたかったみたいです。

自分の人間性を練ったのは 剣 と 禅 と言っていますが 職業にする事はなかったんです。

刀の 束(つか) の所に 刀を抜かないように 紐でくくっていたって言うんですよ。
辻斬りが 横行していた時ですよ。
でも自分は 人を切らないって 決心していたんです。

勝海舟を 暗殺しようとして 来るわけですよね。
いきなり部屋の中に 入ってこられても  勝海舟は 座っているわけです。

お前の刀は 長いから 天井につっかえるぞ とか
切るなら みごとに切れ。俺は おとなしくしててやるから。 って言ったりして
相手の 殺気 を抜くんです。

坂本龍馬も 暗殺のために訪れていますが 



この時は
勝海舟の 妹で お順 が対応しているです。

勝海舟はいるか と入ってきた 坂本龍馬に

そんな無礼者に会うような 私の兄は そんな馬鹿じゃないぞ と言うんです。
龍馬が 刀の束にてをやったら すかさず なぎなたを持って

お相手仕(つかまつ)る って言うんです。
龍馬が 申し訳なかった と謝ると 
順も ではお通しいたします と 相手が態度を改めたら 引きずらない。
そして 
譲位思想を持っていた 坂本龍馬は 勝海舟に コテンパンに変えられてしまうんですね。

勝海舟は 俺は 剣 と 禅 しかしてないと言うんですが 本当は 凄い努力をしているんです。

長崎で オランダの海軍軍人 カッテンディーケの下で 海軍を創設もしているんです。



なので 
肚の座り方が 半端じゃなかったのと 先見の目。世界を見る目を持っていたんでしょう。
勝海舟は 1人。 こんな事では 欧米列強にやられるぞと 先が見えていた人で 
でも
維新に向うのに 散々な不遇な目に合うんですね。
しかし 段々 日本の危機になってきた時に やはり 勝海舟は正しかったんではないかと 
人々から 起用されていくんですね。

勝海舟がいなければ 
戦わずして 江戸城を幕府から明け渡す という 江戸の無血開城は 成し遂げられなかったんですね。
これは世界に 誇れる事です。

無血開城に向けて 作戦がありました。

①江戸 焦土作戦。



朝廷から 官軍が攻めてきた時に 江戸を焼き払い 逃げ隠れる場所を無くして 戦いやすいようにする。
そのために 義があって 誇りある 火消し・ヤクザの 任侠の人たち 35人ほどを 組織したんです。
もし の時は 火を放つようにと。一瞬にして 火の海にしてくれと頼んでいます。
勝海舟は 任侠の人たちとは 信頼関係もあり 資金を与え お願いします。と 直々に1件 1件挨拶にも行っています。
当時 町人と 武士の接点がある事を 
任侠の人たちは よし! 俺たちに任せろ。この命に代えても みたいな感じになるんですね。
義侠心の塊みたいですから。
警察も使えない いざという時の治安維持に 動いてほしい と 根回しをしていました。

江戸の庶民の 生命と財産を守る為の対策は 
密かに 千葉の房総半島の 川という川に 小さい船を停泊させたんです。
そして 川を下って 大きな船に乗り換えて 木更津 とか 神奈川に 江戸の庶民ごと逃がす 手配もしていました。

この当時 勝海舟の他に 誰が庶民の事まで考えていたでしょうか。

②徳川慶喜 亡命作戦



将軍の命を どう守るかって事なんですよ。
イギリス行使の ハリー・パークス のところに行って 朝廷から 官軍が攻めてくるかもしれない と事情を説明すると
パークスは 
横浜を出港しようとしていた アイロンチック号 というイギリスの軍艦の艦長に 
出港を 1か月遅らせて 今から品川沖に 行ってほしいと伝え

もし 西郷隆盛との談判が 不調に終わった時は 
徳川慶喜公を 
頭を剃って お坊さんの法衣を着せて アイロンチック号に乗せて イギリスに亡命させる。

公・私 の感覚のレベルが 一般人と違うんでしようね。
自分は 徳川に 三河以来 仕えてきた。幕臣として 将軍に対する 忠義 というものを形で現わしていくんですね。

さらに 勝海舟は パークスに 
何日かしたら ここに 西郷という奴が来るから 宜しく頼む と言っておいたんです。
すると 本当に パークスのところに来たんですよ。

パークスは 西郷隆盛に 

慶喜公と その一派。そして 江戸の罪もない庶民に対して 
即ち 戦争を起こしたとしたら 
イギリスとしては いくら日本が 新政府樹立をしても非難する事しかしないだろう と言いました。 

そして
徳川慶喜の護衛にあたっていた
 山岡鉄舟と 西郷隆盛の 駿府談判が行われます。

徳川家の 処遇や 戦闘回避の条件を 協議しました。

勝海舟は
無私の心になって 鉄舟が 西郷のところに行ってくれたから 無血開城ができたんだ と言っています。
功績を譲る という言葉ですね。

そんな 思いつく限りの事をやった 勝海舟を 
幕臣の 仲間たちは  あざ笑ったんです。 別にそこまでする必要は なかったんじゃないか と。
動きもしない。あ~だ こ~だ と議論ばかりして 慌てている人たちが言う事か と思いますけど

実際に 頭と身体を使って 必死になって
徳川慶喜の事は勿論 庶民の事まで 守ろうとしているのは 勝海舟 なんです。

でも 勝海舟としては 達観しちゃってるんですね。
それでも  俺の味方をする者は 1人もいなかった と ふっともらした言葉が残っています。
そして
自分は ここまで 手配充分に やれる事は やったので 西郷隆盛との談判に 打って出る事ができたんだ と言っています。
だから 西郷隆盛と 会った時に 気迫があったんでしようね。



思いついて やれる事は 全てやって 天運を待つ。
とことん 真を尽くして 感謝で 努力した人に 天は微笑むんですね。

どこに その 粘り強さがあるのかと言うと

25歳 の時に 
蘭学。 オランダ語を学ぶ人が 求めた辞書で ドゥーフ・ハルマ というものがあります。
全58巻 あるんです。

勝海舟は 貧乏なので ある人から 1年間の約束で 10両 で貸してもらったんです。
でも 10両のお金も ないんですよ。
どうしたかというと
半年かけて 写本。今で言う筆写。 58巻を 書き写したんです。
それを 売って お金をつくって それを借りた レンタル料に当てて
それから 残りの半年で 今度は 自分の分の 写本をしたんです。



当時 和紙ですから インクがにじんでしまうので 紙に塗料みたいなものを 1枚 1枚ひいて
インクも 自分で調合して 通りの羽を削って ペンの作成も 全部自分でやったんです。
ハンパじゃあないです。

58巻 自分の分を 書き終えて 最後に ある文章を書いたんです。
 
弘化4年
の秋に 写本をはじめた。そして 中秋の 2日に終了した。 

豫(よ)貧 骨に至り。    私は 骨に染みるほど貧しかった。

夏の夜に 蚊帳なく 
冬の夜に 襖なし。      布団もなかったので その辺に ごろん と寝ているわけですよ。

日夜 机に寄りて眠る。    どうにも ねむたくなっったら 机に伏して眠る。はっ と起きて また写本をする。

それどころか お母さんは病気で 寝ている。
妹たちは幼すぎて 自分たちが置かれている 極貧の状況は いったい何なのか 理解することができない。
ご飯を食べる時 薪がないから お母さんが 柱を削って 火を起こして
わずかながらの お米を煮炊きする。

困難ここに至り。また 感激を生じて   
                   そういう 絶望的な苦しい中で でも自分は この 喉から手が出るほど 欲しかった
                   学びたかった蘭学の本を 2部 写本したぞ! という感激。

勝海舟 25歳 の時です。
お金がないから 無理 とか
食べるものがないから 他の事をして 働かなきゃ とか

そうじゃない。どんな境遇であっても 言いわけが無いんです。
その状況の中で でもやるんですよ。自分の信念を 貫くんですよ。

そして
無血開城 の後

西郷隆盛は 逆賊 と言われて
せめて 自分にできる事として 一手に引き受けて 最後は 西南戦争で逝ってしまうですけれども

勝海舟は 西郷隆盛の事を すごく好きだったんです。

明治17年の 西郷隆盛の 7回忌の時に
そのころ 明治天皇の侍従であった 山岡鉄舟に 

何か 西郷隆盛に対してできないか と話をし 

それが 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと しんのう)に 話が伝わり
有栖川宮様から 明治天皇にお伝えしたところ

明治天皇も 西郷隆盛の事が ずっと心に気にかかっていて
西郷隆盛の長男の 寅太郎 をドイツ留学させて 軍人としての教育を 官費でやるという事をされました。

そして
鹿児島にある 南州墓地。西郷隆盛の 大きなお墓ですが その傍に 勝海舟の碑 があります。

その碑に

ぬれぎぬを 干そうともせず
子供らが なすがまにまに 果てしき君かな 勝海舟

と書かれています。



勝海舟の 表には出さなかった 涙が 流れているような 歌碑です。

その後
篤姫 や 和宮様の努力もあり 徳川家 を留める事ができました。
徳川慶喜は 徳川家を潰した人だとして 公人から 私人 として暮らしていました。
その 慶喜を

明治31年
明治維新以来 初めて 明治天皇 と 皇后 両陛下の皇居に参内をして
皇后陛下から 直々に お酌をいただいたりする事ができて
つまり
名誉回復 ができたんですね。

もちろん この蔭には 勝海舟 が色々と手をまわしてたんです。
この 
明治31年 徳川慶喜の 立場の復権をしたところで 

勝海舟的には 明治維新が 完結したんだとと思います。





西郷隆盛

西郷隆盛 の写真は ご本人ではないそうです。

よく見る 鉛筆描きの肖像画は 
イタリア人 エドアルド・キヨッソーネが



日本政府から頼まれて描いたものです。



写真も1枚も残さなかった 西郷隆盛ですので

西郷隆盛の 1番下の弟の顔 その他 親戚の顔を 合成して限りなく似せて描かれた との事です。
銅像も その肖像画を元に つくられました。

西郷隆盛 という名前も 本当は お父さんの名前が 隆盛 で
王政復古の位階 を朝廷から授かる時に 
実名は 隆永(たかなが) だったのですが お父さんの名前になっており 

当然 西郷隆盛は気付いていたのですが お父さんの名前の 隆盛 で来たのだから と
明治6年から 西郷隆盛 で通した という事です。

子どものころは 勉強も嫌いだし 親の言う事も聞かないし時も 一時期あって 侍従にしかられたり 変人扱いされて
すこし 人より 価値観の違った子どもだったと言われます。

なぜなぜ坊や みたいなところもあって 興味旺盛で
なぜこうなる なぜ?なぜ? と

何のために と 自分の頭の中で 整理をしていくんでしょう。
何のために 何故 これをしなければならない? と 幼少期を育っていき 

鹿児島の 郷中(ごじゅう)教育。教師無き 教育。
先輩が 後輩を教育していく というところで 

薩摩藩 11代藩主 島津斉彬(なりあきら)が



西郷隆盛の事を こいつ おもしろい奴だ と引き抜くわけです。

薩摩の武士が 気合を入れる時など チェスト! というのは 本当は チェーツ゚! だそうです。
13歳のころ襲われて チェーツ゚!と声を出した。というのは有名です。

この時 右腕内側の神経をを 切ってています。
3日間高熱にうなされ 一命はとりとめたものの
そして 右腕が伸びなくなり 刀は使えなくなったのです。

そこで 1度 挫折しています。
武術を諦め
そして 勉強をするようになり 鹿児島の 郷中(ごじゅう)教育 で頭角を表してきます。

島津斉彬に仕えるようになりますが 順風満帆ではなく 挫折 と 復活 とが続きます。

島津斉彬の 突然の訃報で 西郷隆盛は 嘆き悲しみ
京都清水寺の僧侶 月照(げっしょう)に説得され 斉彬の意思を継ぐ事を決意しました。

しかし
将軍継嗣問題 をやっていた時までは 普通の政治家 だったと思うのですが
たぶん
西郷隆盛の 性格が変容するのは 
月照が 
安政の大獄で追われている最中に  もう死のう というところで 錦江湾に飛び込んで
ところが
月照だけが 死んでしまって 



自分は 回復には 1か月かかったと言われますが
生き残ってしまった。

この負い目ですよ。

大正生まれの方々に聞くと 自分の同級生が 特攻や 戦地で たくさん 亡くなってます。
その後 20代でも 後の人生は おつり の人生だ とおっしゃっている方もいらして

西郷隆盛の 凄み というのは 
月照と入水(じゅすい)した後は たぶん おつり の人生と思ってですね

その後
奄美・ 徳之島・沖永良部島 と 島送りになり 一見マイナスのようにしか 一般的には見えませんが



島に送られて 復活してきた 西郷隆盛は
人間離れしていて 神様みたいな人 と表現される事もあります。

「 命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は 始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは 艱難(かんなん)を共にして 国家の大業は 成し得られぬなり 」

自分の命 以上に何があるんだ。これをりかいできた時に
人は 自分の命 を大切にするんだ というような精神を 島から 持って帰ってきています。

当時の人は 100年先 を見すこしているような 人間離れした感じに思えたんでしょうか。

子どもと接し
手紙
コミュニケーション とういう事を大切にして 色んな人の事を 理解しようとし
情報収集力も 非常に優れた人だったようです。

与えられた環境で コツコツやり続ける。
それを 全うし続ける。
そして 言い続ける。

踏んだり蹴ったりの 状況の復活をするのです。
そして 志を 貫き通す。
失敗しても 立ち上がって 立ち上がって 立ち上がって 行く。

日本のために 

自分ができる事は 何か

と 最善を尽くしてやっていった というところで

吉田松陰も 弟子が先に死んでいるんですね。
ペリー来航の時に ペリーの船に乗り込もうとして 弟子の 金子重之助が 

先生 私も一緒に行きます って言うわけです。
普通の意味の 先生 と 弟子 じゃあないんです。



命 一緒に賭けます 
という人が 
吉田松陰の 自分が言い出した事に ついてきてくれた人が 先に死んでしまった と。

この悔しさとか 恥ずかしさとか 無念さ というものが 
吉田松陰 という人を 大きく変えていった と思うんです。 

偉人 と伝えられる人は 
最初から偉かったのか 凄かったのか というと 多分
普通の人たちが 人生の深みが グっと深まる時を 神様からいただいて

神様に近い存在に 段々なっていく。

それは
試練 を経て 
幾たびの 苦しみ を経て 
艱難を経て 
初めて志に難し と西郷隆盛が伝えています。

人間 苦労をすればするほど 歪んでいく人がほとんどなんですけど 

苦労をすれば するほど 宝石が磨かれていくように 光っていく人もいる。

吉田松陰 と 西郷隆盛 が

明治維新の そういう稀有な 例であって
予言者であり 実現者 であった という事は 
近代日本が 良心的なスタートを切った という事を 信じるに至る事実だと思います。

吉田松陰の 情熱。


西郷隆盛の 徳。


坂本龍馬の 行動力。


共通点は 何がしたいか ではなく 

自分の 命の危険を感じながら 生きていたと思うのですが 
この命を どういう風に使うか というところで 

現代の私たちも そういう事を考えながら 日々の時間を過ごしていくと
大きなことはできなくとも 一隅を照らすように 

自分の与えられた 命を使う という字のように 使命感に気付くかもしれません。

明治維新 というものの 魁 となった 薩長同盟。

本当の史実と 教科書用とがあり 
当時の人たちの 心の隙間を読む事で 
本当の歴史観がわかってくるのだろうな と思います。
自分だったら この時 どう動いただろうか と  そして 

西郷隆盛  


桂小五郎(木戸孝允)


小松清簾(きよかど)  幕末の名ネゴシエーター。交渉人です。


坂本龍馬 薩長同盟の密約の 龍馬の裏書。


勝海舟 ・ 大久保利通 他に
サポート役の 薩長同盟の道をつくっていった クローズアップされない多くの方々が たくさんいたからこそ
できたんです。

心で読む という事を 昔の人は やってきたわけです。

薩長同盟も 西郷隆盛の真意は どうだったのだろうか と考えると
薩長同盟 というより 薩摩密約同盟 みたいな

西郷隆盛と 桂小五郎(木戸孝允) の密約で進んでいった。
長州の 6か条を受け止めて 長州を立てて 

欧米列強の侵略を 防ぐための 先を薩摩は見ていたのかなぁ と感じはします。
薩摩的には あまり利になったものは あまり無いんです。

長州はもう 西洋とドンパチ やってましたから 西洋のすごさを身に染みて感じていたのは 薩摩かなぁと。
ですから
日本が 植民地化されないようにするためには という事を 薩摩は考えて
長州 と組んだんではないでしょうかねぇ。

徳川を というのもあったでしょうが 
地政学的にも
もっと先の 侵略される危機 西洋にすでに目を向けていたんではないでしょうか。

「 日本を今一度 洗濯いたし申候 」



坂本龍馬は 
脱藩武士ですが 若いし 使える。行動力がある。

西郷隆盛が 坂本龍馬を かっていたのは 事実だと思います。
坂本龍馬が 狙われる時 西郷隆盛は 助けるんです。

坂本龍馬 の辞世の句は
「 世の人は 我を 何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る 」

世の中の人が 自分の事を 何と言っていてもいい。 自分が成し遂げようと思っている事は 自分が知っている。
これを 今 自分がやらなければ 
という 辞世の句。
人と 人を 結びつける。
そして 熱さ 情熱 と 行動力のある人でした。

お互い 
人の話をよく聞いて かみ砕いて 自分が成すべき事を すごくたけた人たちだったのではないのか
人の意見をじっくり聞いて 自己アピールするよりも
相手を知る というところから 始めて行く。
そういう対人関係を つくっていく 両者 だったのでは と思います。

スピードを意識して 危機管理 の判断が いち早くできる人たちが 
優秀な偉人だったのではないかなぁ と感じます。

慶応3年 1867年。
武力によらない 大政奉還 のための工作に 奔走します。

12月9日 王政復古の大号令 が発布されました。



慶応4年3月。
幕府側の 勝海舟 と会談し ここで 江戸無血開城 が盟約され 



4月11日 
江戸城明け渡し が行われました。

江戸が 火の海になる事を免れたのです。

西郷隆盛はいったん 明治政府に入って 
軍隊の基礎をつくって

しかし 明治政府は 運営がなかなか上手くいかない。
旧士族の反乱が相次ぎ

廃藩置県で 藩主が 県知事になるわけですが

福岡藩の財政が困窮していたので 明治政府とそっくりな 偽札紙幣を印刷して使用していた事件を
黒田藩の 福岡偽札事件 といいますが
その辺から  
法律が変わったり 恩 とか 考え方の違いで

大久保利通ら と意見が対立するようになりました。

その後
朝鮮との国交回復。いわゆる 征韓論です。

征韓論 という言葉のイメージから
何やら 西郷隆盛が  
朝鮮半島に攻め込んでいく。そして征服し 植民地にする事を 目論んだんではないかと
という印象があり
イケイケどんどん 朝鮮半島に乗り込むぞ と よく勘違いされますが

征韓論の征は 征服 朝鮮征伐 の 征ではなく
正しき行い という意味です。

今は  日本史なっていますが 戦前までの日本人は  国史 と言って 日本書紀の勉強をしたわけです。
そこには 神武東征 の話もありますから まさに 東征 という字があります。

ロシアが 南下してくる脅威に対して 当時の 朝鮮半島。 李氏(りし)朝鮮の人たちに
このままでいたら 東洋は全部植民地にされちゃうよって 目覚めてもらおうという事を
ちゃんと メッセージとして伝えに行こうよ としたわけです。
ところが
当時の 朝鮮半島は 儒教国家なわけで 
儒教国家は 対面を大切にするわけです。

1人で 西郷隆盛がやって来た となると 向こうは何も 権威を感じてくれないわけです。

政府の高官が来る という場合は
何百人も 兵隊を従てえて ゾロゾロとやって来る。
ゾロゾロやって来ることで それだけ 李氏朝鮮の王様に対して 権威を表した事になり

では 言う事を聞いてやろう となるわけです。

内容が 素晴らしいとかではなく 陣立て や体裁 形。形式を非常に大切にするわけです。
そういう所に
ロシアの南下の脅威に対して 対策の話をしに行くためには 陣立てを用意して 大勢で行かなければならなかったわけです。
そこに 失業した お侍さんたちを連れていく というには

征伐しに行く 征服しに行く 
ではないんです。
正しい事を 伝えに行くのに 陣立てを用意しなければならない という事を 日本政府に言っているだけなんです。

話し合いの下 解決をするために 朝鮮に行く という事だったのです。

征伐 戦略なら 万単位の軍の人数が必要なはずですが
それを 戦後の歴史教育では 朝鮮征伐をしに行く という事になっています。

征韓論は 外交をする目的。朝鮮と同盟を結んで ロシアの南下に対応しよう という事でした。


 
    

板垣退助に当てた手紙の一節  軍を用いて朝鮮を という所だけ クローズアップされています。

朝鮮と国交を結ぼう派 と 日本国内の近代化と 財政を改善派 の結果 朝鮮への派遣は幻となりました。

江藤新平 板垣退助らと共に 下野し 薩摩に帰りました。
薩摩で 私学校を開設し 教育に専念しました。

政府から 色々な 挑発をかけられ 
いつのまにか 義 の戦いから 利 の戦いになってきたことに 薩摩は 乗らないようにしていましたが

最後は 西南戦争で
弾薬庫に 子供たちが1000人乗ってしまった事をきっかけに 
薩摩を 戦火にしたくない との想いで 1万3000人 全部の軍の人たちを 率いて 鹿児島から出ました。

ラストサムライ。 西郷隆盛が 薩摩が 全部引き受けて 
西郷隆盛自身が  自分の身体を貸して   
西郷隆盛自身が  つくった 日本の軍隊を これだけ 強くなったんだ と見守ったんでしょうか。



明治10年 1877年。 西郷隆盛は 城山で 自刃したのです。

西郷隆盛は 号 は 南州 です。
代表的な書は 敬天愛人(けいてんあいじん)。



天を 敬愛し
人を 愛する。

天は 人々を 分け隔てなく 愛してくださるから 
自分を 愛する心をもって 人を 愛せよ

と説きました。
義を重んずる 大和心が 脈々と息づいています。



高杉晋作

天保10年。1839年。に
今の 山口県 萩市に 長州藩士の家の長男として生まれました。
もともと 高杉家は 毛利元就からの家臣であり 毛利家に仕えてきた家でした。



安政4年。1857年。
8歳 の時から付き合いのある 1つ年下の 



久坂玄瑞に誘われて
吉田松陰 の開いていた 松下村塾 に入り 一生涯の師匠となる 吉田松陰に出会います。

吉田松陰から たくさんの事を学び
高杉晋作の 学ぶ事の大切さ。情熱。死生観 など
生き方に 大きな影響を与えられていきました。



安政6年。 藩から 江戸から 萩に帰る事を 命ぜられ

安政の大獄で 江戸の小伝馬町の牢に 投獄されている
師・吉田松陰に 

いずれは 長州で お会いできるでしよう。その時に またお目にかかりたい。
と 書簡を送りましたが

その 10日後 
吉田松陰の 死罪が決まって その日のうちに 執行。斬首となりました。

弟子たちに当てた 吉田松陰の辞世の句です。

「 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 」

私の身は この武蔵野の地で 朽ちて果ててしまっても
やむにやまれぬ 
結果がわかっていても 私を捨てて出も 
未来のために 正明清直の想いで 公の精神を持って やらねばならない。 
その 大和魂は 留めて置いてほしい



師の 志半ばの想い と 死に対して
高杉晋作は
悲しみ と共に 吉田松陰の その想いを 受け継いでいくのだ と 心が打ち震え 
倒幕を決意します。

尊王攘夷 とは
欧米列強に 開国をした幕府を倒すための 口実のようなものであり

長州 と薩摩が 最終的に組んで 一橋(徳川)を倒すのですが

幕府も 皇室をないがしろにし 逆賊になりたくないので 尊王。
孝明天皇の


妹の 和宮親子(ちかこ)内親王を


将軍 徳川家茂に嫁がせ 親戚になって身内のなり 公武合体 をしています。

長州は 政治から 250年間はじき出されていますから 
尊王攘夷を言って 幕府を攻撃する。
太政大臣の家系の 三条家。三条実美


と つながりがあり 朝廷でも 発言ができます。
なので 
政治に参加する事ができるようになっていました。

お互いが 大義名分 という事で 教科書で言われる 完全な 対立概念ではないかもしれません。。

文久2年。1862年。
8月。
高杉晋作 と 久坂玄瑞らが 英国公使館を焼き払います。
今で言えば
在日米軍基地に 爆弾を投げこむような 危ない人たちですが
幕府を困らせる思惑が あったようです。

でも 言いかえれば
維新 と言うのは 命がけ という事なんです。



ちょうど 薩英戦争 をしていたころなので 
英国公使館を焼き払われて さすがのイギリスも いい加減にしろ と怒り出します。

文久3年。
5月。
長州は 下関で 仏米蘭 にフランス・アメリカ・オランダの軍艦に 砲撃します。
でも 返り討ちにあいます。

長州。
山口県が フランス・アメリカ・オランダに喧嘩売っても 負けちゃいますよ。
オランダにしたら 250年間の友好国が いきなり大砲を打ってきて ビックリですが
レベル的には 交通事故にあったぐらいですけれども。

当時 イギリスと 薩摩の 薩英戦争もあり 

アメリカ・支那・ロシアを 恫喝・砲艦外交 をしていた イギリス政治家 パーマストンがいる事もあり


高杉晋作は 上海に行った時の経験から 国が乗っ取られる怖さ とイギリスの怖さを知っています。
なので 
砲撃対象にはしていません。
そして
勝ち目がない 戦はするな と 言っていました

6月。
身分に囚われず 一緒に戦う人間は 集まれ!
と 奇兵隊を 形成しています。



8月。
クーデターにより 過激な思想をもつ 尊王攘夷派 天皇を中心に 異国を排除する人々が 京都から 追い出される。
8月18日 の政変。  

公家で 政治家の 三条実美や 長州も 追い出されます。

京都を監視するために 幕府側の 新選組 が置かれます。



元治元年。1864年
6月。
池田屋事件。 新選組に 長州の尊王攘夷派が 殺害されます。

7月。
禁門の変(蛤御門 の変)。  池田屋事件に 長州藩が怒り 
                  御所の蛤御門の付近で 幕府(一橋)・薩摩・会津 と 長州藩が激突。
                  長州藩は 退廃する。久坂玄瑞は 敗死。



数日後 幕府は 長州征伐をしてくれる藩を募集しますが 喜んでさせていただく藩は いなかったのです。 

8月。
4国の艦隊による 下関砲撃。
再び
長州は 下関 関門海峡で 仏米蘭 にフランス・アメリカ・オランダの軍艦に 砲撃します。
この時の軍艦は
恫喝・砲艦外交 をしていた イギリス政治家 パーマストンがいる イギリスがリーダーになってやって来ました。


下関戦争・馬関戦争です。

山縣有朋が幹部の 奇兵隊は 一方的にやられて 
外国と戦う時は 慎重にやらなくてはいけない という事を学習します。
結果
イギリスを加えた 4国艦隊の反撃にあい 長州は砲台を占拠されてしまいます。



9月。
長州藩の代表として 講和会議に赴いた 高杉晋作は

この 4国 フランス・アメリカ・オランダ・イギリスへの艦隊砲撃は 
長州がやった事だが
元はと言えば 幕府が開国をしようとしている事からの 出来事なので

外国船の 下関通過は 承諾するが
幕府に 賠償金を請求するように と言いだし
そして
下関の南端の 彦島を 4国に貸す という要求は 断固反対。
もし 無理なのなら

30万人の 長州人が 武器を持ってゲリラ戦を仕掛ける! と言い
外国人相手に 古事記を 朗々と暗証して見せました。
     


突然のパフォーマンスに 
通訳の イギリス外交官の アーネスト・サトウ は




何て 外国人に 訳して伝えるねん? と

どうやら 日本は神の国だから 土地は渡せん。 と 言っているらしい
と 伝えました。

そして
パフォーマンスで 煙をまいて 勢いで
4か国と講和。

しかし
長州は 日本中と 仏米蘭 そして 英に 喧嘩を売って フルボッコでした。
高杉晋作についてきた 俗論党が やってしまったんです。

高杉は 北九州に逃れます。
そこで 新たに仲間を増やすのに失敗。

馬関戦争をやってしまった人たちが 弾圧を受け 

長州 何やってんだ と 幕府に 長州の軍艦が 引き渡されそうになります。

高杉晋作は 長州に舞い戻ってきて 山縣有朋たちに 説得をしますが またもや失敗。
それでも
高杉は 仲間を増やそうと 決起 を呼びかけます。功山寺決起です。

誰もやらないのなら 1人でも 立つ!

そして応じたのは
伊藤博文 ただ 1人でした。

長州にいた 三条実美に 挨拶をして
カッコよく 馬に乗り 満月の夜に 1人で 出撃。


 

翌日には 伊藤博文の声掛けもあり 83人が集合し
奉行所 と 海軍局 を襲撃して 武器と 兵糧食と 軍艦 を入手しました。
最終的には 山縣有朋も加わり 
高杉晋作 と仲間たち 200人の 力士隊と 遊撃隊。長州藩諸隊を率いて  

慶応2年。
6月。
大田・絵堂の戦い とよばれる 第2回 長州征伐は
小倉城 を落として 幕府 1300人 で戦って 高杉らが勝ちます。

山口県 周防大島 を奪還に成功します。
事実上 幕府の権威は大きく失態します。

政治は 桂小五郎(木戸孝允)に



靖国神社 の待ち合わせ場所 で有名ですが

       
軍事は 大村益次郎 に任せ


高杉晋作は 坂本龍馬と仲良しの 
グラバーに頼んで イギリスに行きたかった。


政治が 得意な人。軍事が得意な人。

自分は 身を引いて 
政治と軍事が 分かれている 帝国憲法の原型を 長州はつくっていたわけです。
本能的に 長州人は知っていたんですね。

この後に
高杉の その弟分の 伊藤博文 が帝国憲法をつくるんですけど 
なぜ 高杉が イギリスに行こうとしたか。

当時 イギリスは 世界最強の国だったから。
あの国はなぜ強いのか。その秘訣を探りに行きたい。

志は 遥か 遥か イギリスへ。

しかし
慶応3年。1867年。
4月14日 深夜 に 
大政奉還を見ずして 肺結核で 享年27歳。この世を去ります。

高杉晋作の 辞世の句。

「 面白き こともなき世に おもしろく 」

そして
高杉晋作 を看病した尼僧。 野村望東尼(もとに) が
「 すみなすものは 心なりけり 」

と高杉の句に 下の句を添えました。

それを決めるのは 自分の心 という事でしょうか。






エルトゥールル号事件


本来なら 日本人なら 知っておいてほしい出来事です。

エルトゥールル号 というのは 当時 オスマントルコ という国の軍艦です。
この船が 日本で沈没してしまった という事です。

これにより 日本よ トルコが親密になって 100年を超えるんです。それを トルコは語り継がれているんです。

トルコの人は 教科書にでていますから みんな知っているんですけど 
日本人は あまり知らないんです。

どんな事件だったかというと

明治23年 1890年。130年前ですね。
和歌山県の 串本町 というところの沖合で エルトゥールル号が遭難してしまうんです。

そもそも 何でエルトゥールル号が 日本に来たかと言いうと
オスマントルコの正式な 使節団が 日本に送られました。

600人近い人が 船に乗っかって そして トルコから日本まで来るわけですから 往復だけで 何か月って話ですから
国際親善 外交するって 大変な事だったんです。
エミン・オスマンパシャ提督 率いる使節団が 日本にやってきて 
明治天皇から オスマントルコの皇帝に 親書。お手紙と 勲章を与えられたわけなんです。

ただ エルトゥールル号が 老朽化していて トルコまで帰るの大丈夫かしら って感じだったんです。

実際に 沈没した日が
9月16日  紀伊大島で 座礁します。 

2日前の 14日に横浜を出港したんです。
日本側は 今 台風シーズンだし 船は古そうだし 南の方へ シンガポール マラッカ海峡を通って インド洋に出てって
危ないから やめなさいよ と 伝えたのですが 
出ていったわけですよ。
気象衛星ひまわり もありませんから お達者で~ って 見送ったんです。

エルトゥールル号 座礁しただけなら まだいいんですけれども 
台風の中 深夜浸水して ボイラーが 水蒸気爆発をおこし 船が 木っ端みじんになってしまいまして

約500人 亡くなっています。

生き残ったのは 69人です。

ドッカーン! とすごい爆発音 だったので 串本町の人たちは 
何だ 今の!? と 見に行ったら 

座礁して 暴風雨の海に 投げ出された大勢の人々 ほとんどが死んでしまっていますが
命からがら 泳ぎ着いた人もいますが 言葉も通じず 

でも
串本町の人が  救出して みんなずぶ濡れで 生き残った人を家の中に入れて
貧しい漁村の 串本町の人たちですが 
着るものを用意したり お茶を飲ませたり 食べさせたり 暖をとらせたり 大丈夫かっ って
中には 意識不明の人もいたでしょうし  一生懸命 看護をしました。

この事を 明治天皇が お聞きになって こりゃ大変だ って事で
即日 この日 医師と 看護士 を乗せて 海軍の通報艦 八重山を 急行させます。

こんな小さな漁村に 約500人の 遺体が海岸に うちあがるんです。
それを引き上げて 埋葬して お墓を立てて みんなで拝んだわけです。

生存者 69人は 家に帰るの どうすんの?って話ですけど

日本政府が 軍艦 比叡 と 金剛。
この 2隻 の軍艦に 69人 を乗せて 日本海軍が 遥々オスマントルコまで連れて帰るわけですよ。

それで たくさん亡くなってしまったけども埋葬もし 救助してくれて有難うございました。
よくぞ 送り届けてくれました って
大変な歓迎を受けたわけですね。

なので トルコの人は この時 日本人が 献身的に尽くしてくれた と
100年以上語り継がれて 現在でも教科書に書かれているくらいなんです。

なんと この
明治23年から 95年後。

昭和60年。1985年。

イラン・イラク戦争 という戦争がありまして この時に
イランにいる 日本人が イランから 出国できず 日本に帰って来れなくなったんです。

この時の イラクの大統領が サダム・フセインです。
3月20日 午後2時以降 イラン上空を飛ぶ 飛行機を 民間機・軍用機 一切関わらず

全て 撃墜する という声明を発表しました。

もう数日の間で イランから出なければ イラン上空を飛ぶ飛行機は 全部撃墜されてしまうので
世界中の政府は 自国民を救出するために 軍用機や 民間機を飛ばしたりして
自国に 帰らせる という事をしたんですが

今だったら 自衛隊が救出する事は可能ですが
当時 日本は 自衛隊の海外派遣は 一切不可能でした。

そこで日本政府は どうしたかというと 日本航空。当時 国営航空会社ですよ。
日本航空に イランまで飛んで 日本人を救出して欲しい と頼んだんですね。

わかりました と飛行機を飛ばす準備をしていたんですけども
国営の日本航空の 労働組合が 反対したんです。 
じゃあ この時 イランに 215人いた日本人 どうなっちやうの?って 話ですけども

打つ手がなくなって 日本政府は困ってしまったんです。

そこで当時 イランに駐在していた 日本の外交官 野村豊大使が 困り果ててしまい
イランにある トルコ大使館に 連絡をするんです。

そういう事なら トルコが救命機を出そう と
イスメット・ビルセル大使が 言ってくれました。

実際に トルコ政府が トルコ航空 2機をチャーター してくれて 
その2機で 215人 の日本人全員 イスタンブール経由で 日本に帰る事ができたんです。

その2機が イランのテヘランから 飛び立ったのが サダム・フセインが 撃ち落とす と言ったリミットの
1時間15分前でした。
出発が 1時間でも遅れていたら イラク軍に撃墜されていたかもしれないんです。
本当にギリギリの タイムトライアルという感じでした。

そんな危険な中 トルコの大統領。
当時の オザル首相は 
トルコ人パイロットとか 自国民を危険にさらしてでも 日本人を救出する という事をやったわけなんです。

当時の 駐日トルコ大使の ネジアティ・ウトカン という方が 語っています。

エルトゥールル号の事故に際し 紀伊大島の人たち 日本人が成してくださった 献身的な救助活動を
今も トルコの人たちは 忘れていません。
私も小学生の頃 歴史の教科書で 学びました。
トルコでは 子どもたちでさえ エルトゥールル号 の事を知っています。
今の 日本人が知らないだけです。
それで テヘランで 困っている 日本人を 助けようと トルコ航空機が 飛んだんです。

美しい話ですね。この時 95年前に トルコ人が 日本人に助けられた。
このことを
現在だと 130年前です。 日本人に 助けられたんだよ と ずぅ~っと教え続けてきて トルコの人は みんな知っているわけです。

イラン・イラク戦争の時 
日本人が困っている。  じゃあ 95年前 世話になったんだから ようやく 恩返しができる時が 来たじゃあないか 
という事で トルコ航空機 を2機 飛ばしたわけです。

明治23年 トルコまで 2隻の軍艦を出す。また危険もあるかもしれないし 大変な経費がかかってますよ。
多くの日本人が 危険を承知で トルコまで 69人を送り届けてくれた っていう事を考えれば
この時 飛行機を派遣するくらいの 度合いは大したことない。

喜んで 恩返しをさせてもらおう と飛行機を飛ばしてくれた という事です。

トルコの人は みんな学んできて知っている エルトゥールル号のお話。
ようやく 日本の教科書に載ってきましたけど 日本人は 知らないまま 大人になってしまいました。

トルコ人と 会話する時 エルトゥールル号では お世話になりました っていわれて

日本人は はっ? 何ですか?エルトゥールルル? 新しいスイーツですか?
なんて 話がかみ合わないわけです。

トルコ人 えっ?! トルコと 日本の友情 知らないの? って。

やはり
国際人 として 日本人も 知っていてほしいと思います。



水師営の会見(乃木希典大将 と ステッセリ将軍)

水師営の会見 というのは 日露戦争の 旅順攻防戦 があった時の事です。

旅順を落とすのも 203高地や 閉塞作戦など色々ありまして かなり日本側も 大きなダメージがあったんです。

明治38年1月1日 旅順要塞の ロシア司令官 ステッセリ中将が 降伏を申し入れます。
これを受けて 翌日2日 降伏文書の調印が 行われるんですけども

この場所が 水師営なんです。
一般的に 水師営というのは 海軍の基地の事をいいます。
旅順似にあった 海軍の基地の近くの民家で 行われたんですけども

水師営の会見 と言われています。

この時の 日本側の大将は 乃木希典(のぎまれすけ)。

明治天皇が 
山縣有朋(やながたありとも) を通じて 乃木大将に電報 を打ちます。

敵の軍隊も なかなかあっぱれだったと。だから くれぐれも 敵の将兵たちの 名誉 を傷つけるようなことはするな。
と 御下命がありまして

乃木大将は 
敵の大将 アナトーリィ・ステッセリ将軍に会う時 降伏文書の調印に をする時

普通だったら 武器を持たない状態で 来させるんですね。
でも
軍人にとって 丸腰で何の武器も持たずに敵の前に出るというのは 最大の屈辱なんですね。

そこで 乃木大将は

サーベルを 下げたままいらっしゃい という風に言うんですね。

ステッセリ将軍も そんな事あるのか? と驚いたと思います。
会見の場所に 各国の報道陣も来ていたのですが 
世界中のメディアが ビックリしたらしいですよ。

サーベル付けたまま来させて 大丈夫ですか?と。いきなり切りかかられたら
あんた どうするんですか?って話ですが

せめてもの 帯剣を許す という事で
剣を 腰に差したまま来なさい ということでした。



ステッセリ将軍が 乃木大将に 切りかかる。

そんな事はせんだろう。 軍人としての最低限の威厳を 保たせてあげようという事で 帯剣を許したわけですよ。

ステッセリ将軍は

乃木将軍に感謝して 
天皇に感謝するんですよ。

こんな立派な人たちと戦って負けたんだという事なら 本望だと言ったわけですよ。

自分が戦争に負けて こんな待遇を受けるなんて思ってなかった って言うんです。

ステッセリ将軍は 
本国に帰ったら国賊と罵られて職業を失い とんでもない事になるんですけれども 

乃木大将は 
自分の給料の一部を ずうっとステッセリ将軍に仕送りをし続けたわけですね。

日本は 戦争に勝った時 このように振舞いました。



乃木希典

二宮尊徳は 薪を背負いながら 本を読んで勉強していましたが
乃木希典は 足ふみ脱穀機を踏みながら 本を読んで勉強をしていた。

長州藩士の出身で 第2次長州征伐に参加しています。
その後の 西南戦争にも従軍しています。 
そして ドイツに留学。

日清戦争で従軍し 旅順を占領。
台湾征討にも 従軍しています。

そして 日露戦争です。
陸上戦を指揮していたのが 乃木希典でした。

領土拡張を図る 帝政ロシアの 軍事的脅威に直面し 国の運命をかけて ロシアと戦いました。

旅順攻防戦において 乃木希典大将率いる 第3軍は
累々たる屍を超えて 203高地を進撃し ロシアを撃破したのであります。

南下政策をとる 当時ロシアを いかにして食い止めるかというのは
当時 日本の最大の関心ごとでした。

ロシアは日本を 明らかに植民地にする勢いで南下政策を進めてきたわけです。
そして
できれば 日本と ロシアは 話し合いをして戦争をしないように という事で そうとう譲歩して
ロシアに出した提案が あったんです。

これが拒絶されまして
戦争しかない という事になりまして
当時 ロシアは 3大帝国のうちの 1つでした。

日本が 実際ロシア軍と戦って 勝てる見込みがあるのかと 疑問視されていたわけです。
それでも もう行くしかない
という事で 

気合と 作戦で 乗り越えていく という事だったわけです。

日本海海戦も パーフェクトゲーム で日本は勝ちましたけども
陸上戦は そうとう苦労しました。
というのは

ロシア軍は 機関銃を使ってましたから。
人類の陸戦史上 機関銃が初めて用いられたのは 日露戦争でした。

ところが 日本軍は 単発的な銃しかありませんでしたから
戦法そのものを 何度も練り直して そして 多くの死者がでたわけなんです。

よく 
乃木希典は 旅順攻防戦で あんなに死傷者を5万人近く出して 損害を追って 戦下手だ と言う人がいますが

クリミア戦争の一局面で 
フランス・イギリス軍は ロシア軍の立てこもる セヴァストポリ要塞で 10万人以上の 死者 を出しました。
さらに 格段と強くなった 旅順要塞で 乃木大将は 死傷者 5万人だった。
なので クリミア戦争の時以上に 
乃木大将は 外国の戦争から比較すれば 少ない損害で 旅順を陥落させています。

でも
この戦いを 何とか制する事ができましたが 日本側の損害が 大きかったものですから

乃木は駄目だ。外せ。 という意見もそうとう 政府内・軍の中であったんですけども

いや。
最後まで 乃木にやらせろ。 と いう風におっしゃったのが

明治天皇でした。

乃木希典は 自分の息子を この日露戦争で 亡くしてるんですね。
それでも 最終的に日本を勝利に導いたわけなんです。

そこで  日露戦争後の
ステッセリ将軍との 水師営の会見です。

そして 乃木希典は 
西南戦争などで 左目を失い片腕・片足に 銃創。銃弾で受けた傷を負っています。
日露戦争の後

自分は 片手・片足が 残っているから 食事もできるし タバコも吸える。
けれど 
戦争で 両手を失った者は 一服の清涼剤としての タバコも吸えぬ。
それでは あまりにも 可哀そうだ

ご自分の年金を担保にして お金を借りて 試行錯誤の上 乃木式義手 を 完成させています。
しかし 
ご自分の体験から 愛のこもった 機能性の高い 乃木義手が
ある事で 歴史から完全に 埋没させられてしまう事になってしまったそうです。

明治45年。
明治天皇が 崩御あらせられました。

この後 乃木希典は 明治天皇の 後追いをしてしまうんです。

この時
乃木希典は 学習院の 院長を仰せつかっていました。

乃木には 子どもを与えよう というのが 明治天皇からの 思し召しでした。

自分の子どもが 戦争で亡くなっれいる と。その代わり 乃木には たくさんのこどもを与えよう と。
そして
昭和天皇や
秩父宮殿下 は この乃木大将から 色んな事を教わるわけです。

昭和天皇は 幼少のころは 迪宮(みちのみや)殿下 というお名前で
学習院初等科に 入学と共に

乃木希典は 明治天皇から 学習院院長に仰せつかりました。

迪宮(みちのみや)殿下は 乃木大将の事を

院長閣下 院長閣下 と言って 尊敬されておられました。

乃木大将の教育方針は 
皇孫といえども 良くない行状があれば 遠慮なく矯正し
なるべく 質素で 勤勉な習慣をつける事にありました。

たとえば 通学の際は

雨の日でも 外套(がいとう・最も外に着る上着) を着て 馬車ではなく 歩いて通われるように。
とか
真冬でも
火鉢にあたるより 運動靴を駆け足されたら 暖かくなる。

などと 直接 御注意申し上げた との事です。
また

迪宮殿下は よく相撲をとるのを好まれたので
ズボンの膝や 靴下に穴があき その都度 新しいものと お取替えをされておられたのですが

着物に穴があいているのは 着ないほうがいいが
つぎのあたった着物を着るのは
ちっとも 恥ずかしい事では無い。

と 乃木大将は伝えました。
すると
迪宮殿下は 学校から帰られると
着物の 穴があいている物に つぎを あててもらいたい。 と おっしゃっいました。
早速 つぎをあててもらうと

これでいいんだ!  と満足されておられました。

月日が流れ 
昭和28年。
外套の襟が 破れている事を 女官長がお伝えすると

昭和天皇は
外に出る時は別だが 普段 家で行き来するような時は
つぎをあてておけばよい   とおっしゃいました。

後年
昭和46年。 
昭和天皇もみずから 乃木院長から 質実剛健を教えられました。 

また
昭和50年。 訪米前に アメリカの週刊誌 タイム の記者に

私は 多くの人々。とりわけ 乃木将軍に 深い影響を受けました。
将軍は 私が 学習院に進学した時の 院長でした。

と 語っていらっしゃいます。

そして
大正元年
9月1日。

昭和天皇の元を訪れた 乃木大将は 
江戸時代初期の 儒学者 山鹿素行(やまがそこう)の 中朝事実 という本を熟読しなさい
と言って

万世一系の天皇を 戴く日本という国。
皇室を中心とした 我が国の 政治や伝統が 書かれた本を
昭和天皇に 渡すんです。
この時 迪宮殿下は 皇太子となられておられました。

その本は  
ここが大事 というように 朱を入れ 書き入れをして 
乃木希典 自身が
写本 したものでした。

立派に ご成長になるよう これをお読みいただきたい と渡すのです。

そうしたら
昭和天皇は 気付くんです。

乃木閣下は どこか 遠いところへ 行ってしまうんでしょうか?

という風に 声をかけた。
自決する という事を何となく 幼心に 感jていたのかもしれませんね。
そして その 3日後

明治天皇の 大喪の礼 が済みます。

大正元年 
9月13日。
乃木大将は 奥様と共に 自決しました。

乃木希典の
中高一貫 特別教育の 御学問所を新設する必要がある という構想に基づいて

東郷平八郎元帥を総裁(校長)とする
東宮御学問所が 発足しました。



東郷平八郎

薩摩 鹿児島出身の 東郷平八郎は
14歳で 薩英戦争に参加。戊辰戦争で 東北で戦っています。

西郷隆盛に頼んで イギリスに留学。そして海軍軍人になります。

日清・日露戦争が 先の大戦後しばらくは 侵略戦争だった という人が結構いらしたわけです。

日露戦争の勝敗が 最終的に決定したのが

日本海海戦。
日露戦争の クライマックスですから 日本と ロシアとの戦いでのあるのですが
それに留まらず
ヨーロッパの 侵略国家軍 対 それをさせない とする 心ある国家の戦い。

それを代表していたのが 日本 だという事です。

なので
日本海海戦を 今で言えば 世界中が衛星中継で 手に汗握って観ていた という感じだと思います。
日本海海戦で 日本が敗れれば 

あ~ やっぱりヨーロッパには 日本なり アジア軍は 敵わないじゃないか。
だから ヨーロッパの植民地政策は この後も 続くんだ。
そして アジア・アフリカが 独立するなんて事は 二度とないんだ 
という風な
国際社会。国際情勢が 確立してしまったかもしれないところを

なんと
日本が 日本海海戦に勝ってしまった。

何も 日本が有利だったわけではなく 日本の海軍の 3倍くらい兵力があるロシアに
大変な不利な情勢の中を 勝った。
しかも
大勝利を治めた 奇跡的な勝利だったわけです。

ある艦隊は 旅順・ウラジオストクに 中心はバルト海に と
3つに分かれているうちに 

ロシア本国から バルチック艦隊がやってきた。これを どう迎え撃つか。

乃木希典の 陸からの 旅順攻略で 旅順湾内の艦隊は 全滅したので
東郷平八郎は 海からの 日本海での バルチック艦隊を迎撃をし易くなりました。

もともと日本は 6隻の艦隊を持っていましたが 2隻が 触雷。水中兵器に触れて 沈んでしまい
4隻になってしまい

それに対して ロシアは 主力戦艦 8隻と それに次ぐ強さの戦艦が 3隻ありました。
艦隊だけでも
日本よりも 3倍近い戦力差があったわけですね。

その時に
東郷平八郎は 

戦術は 有名な T字戦法です。 
まっすぐ敵に向かって行けば 前のを向いている 大砲しか撃てないのを

敵に 船のわき腹を見せる。
それによってこちらは やられやすくなりますが 
そうすれば主砲が 全部 敵の方に向けて撃てる という 

まさに 肉を切らせて 骨を断つ。
自分自身も傷つく覚悟で 相手に大きな打撃を与える という 手法を 苦心の末に行った。

その T字戦法だけをやっていても 砲撃した弾が 当たらなければ意味がないですから
この時の決戦を 迎えるまでに

百発一中の砲百門は 百発百中の砲 一門に如かず

のスローガンの下に 猛訓練を行ってきました。

明治38年。
1905年。5月27日。

ヨーロッパから 日本海 極東に回路してきた ロシア バルチック艦隊を砲撃します。
この時
大本営に打電したのが

敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は ただちに出動 これを撃滅せんとす。
本日天気 晴朗なれども 波高し

の一報です。

軍艦 三笠 の東郷平八郎司令長官率いる  連合艦隊 はロシアバルチック艦隊を迎え撃ちました。
バルチック艦隊が日本に迫ります。
敗戦すれば 日本はロシアに 併合されてしまうのです。

この海戦は 正に 祖国防衛戦でありました。

東郷元帥は

皇国の興廃 この一戦にあり と宣しました。

皇国とは 万世一系の 天皇(スメラミコト)のお在します 日の本つ国 であり 
その運命が この一戦にかかっている と告げたのであります。

最後 という意味の Z。 もう後が無いぞ という事です。
Z旗を掲げて 全軍の士気を鼓舞しました。


各員一層 奮励(ふんれい)努力せよ。

日本はロシアを撃破し 奇跡的な勝利をおさめ 世界の列強として認められたのみならず
植民地化された国々に 

勇気と 希望 を与えたのであります。

日本海海戦 は 日本の船は ボート3船 くらいしかやられなかったのが
ロシアの戦艦は絶滅。

世界の戦史で 最強の勝ち方をした パーフェクトゲーム でした。

東郷平八郎は 世界史最強の提督 として
昭和8年 国葬され
世界中から 弔電もきた との事です。

乃木希典 と 東郷平八郎は のコンビは
日本のみならず 世界史上みても 偉大な軍人の トップ層に列せられる方で 崇敬されていたのですが
戦後は
この2人がおとしめられてきました。

日本人以上に 外国の人が この2人を知っていたりします。

乃木大将と 東郷元帥 の名誉回復だけではなく
日本人の名誉回復に 続がる事になると思います。



阿南惟幾

阿南惟幾(あなみこれちか)は
幼少期 小柄な体格ながら 剣道は かなりの腕前でした。

徳島で 中学生となった 阿南は
剣道の大会に出ていた時に 
小柄な 体格ながら 意欲盛んで 気迫もあり 上級生にも負けじとする姿から

乃木希典から 早期受験をして 活躍する事を勧められています。

明治天皇からの信頼が厚い
この時の 乃木希典の姿が 今後の阿南の 軍人人生の範となっています。

当時の侍従長は 鈴木貫太郎。
鈴木貫太郎への 尊敬の念を抱き 

阿南は 侍従武官を務め 昭和天皇とも 親交を深め また
昭和天皇からも 阿南は信頼も厚く 

昭和天皇のもとに 上奏に行くと 昭和天皇は 椅子も用意させて 長時間話し込んだり

阿南(あなみ) を  あなん あなん と
あだ名なのか そう覚えてしまったのか 親しげに呼ぶようになりました。

昭和9年。
東京陸軍幼年学校の 校長となった 阿南惟幾は

その日のうちにできる事は その日に処理をする事。
自分の顔に 責任を持つ事。
難しいと思われることから 手をつける事。

など 熱意ある 生徒の心に響く接し方をしており

5・15事件や 2・26事件 の 青年将校の反乱が起きてしまいましたが
青年将校の精神的教育を特に 注力しています。

説教ではなく
膝を付き合わせて 語り合い 
自宅に招いて 食事をさせたり

青年たちが 何を考えているのか
青年たちを知ろう。そして 青年たちと 語り合うのが好きだったようでした。

しかし 2・26事件は
普段の温厚な 阿南惟幾からは 想像ができないような 厳しい口調で 幼年学生に

これは 軍にとって 非常に悪い事だ。 から始まり 公私 とは何なのか。

青年将校の 
自分たちの 殺人をしてまでも というクーデター事件の行動が 
天皇陛下が 御心を痛め 悩ませた事に 怒りと 憤慨。
天皇陛下に 敬い 慕う 想いが 感情に現れた と痛感したのでした。

昭和20年。
1945年。

日本の敗戦が 自明になってきた 
最終的に 終戦を決断をする時の 内閣。 鈴木貫太郎内閣の 陸軍大臣となります。

8月9日 深夜に ポツダム宣言受諾が決まりました。

阿南陸軍大臣は
天皇の地位の保証は 本当にされるんだろうか。そこを条件に入れろ!
という事を言っていたんですけれども

天皇の地位の保証をする という 変更は無い という了解の下で 吞みますので
と いう内容をアメリカに伝えます。

すると
アメリカ側から 返答がありました。

天皇の権限は GHQ の下におかれる って書いてあるんです。

そこで
阿南陸軍大臣が 激怒するんですよ。

ほ~ら 信用できない相手じゃないか
こんなもん 吞めるかぁ!ってやったわけですよ。

アメリカの世論は 日本を叩きつぶせ なので

そこで あえず正面から答えずに アメリカは 斜めから答えるわけですよ。
天皇の地位を保証が あるのか ないのか。

広島と長崎に原爆が投下されましたよね。もう 3発目は ないんですよ。
それで 
ソ連が参戦してきますよね。

もし 
ここで 日本が受諾しなかったら 逆にアメリカは 困っちゃうんですよ。
それこそ
本当に アメリカが 日本に 本土上陸作戦をやって 
3万 5万 7万 それぐらいのアメリカの兵隊を 死なしてしまう事になりますから。

原爆を落とすまでは 日本に降伏されたら困るわけですね。原爆を使ってみたいんだから。
でも
原爆を落とした後は 直ちに降伏してほしいんです。

でも 
日本の要求にアメリカが寄り添うような感じだと 今度はアメリカ国民に攻撃されてしまう。
だから
日本には降伏してほしいんだけれども 
アメリカ国民に対しては 日本に譲歩したように見られたくないんですね。
そこで
正面から答えずに 斜めから答えたわけです。

だから 
天皇の地位の保証を認めない と言ったら終戦にならない。
かといって はい。認めるよって 正面から言ったら 体裁が悪いわけですよ。

日本の閣議で大もめですよ。

アメリカが日本に 本土上陸してきても

まだ 日本は 7000機の特攻機を 用意してたんだから。

7000機の特攻機が 雨あられのように 突っ込んでいくわけですよ。
何隻沈んだでしょうね。
1万人や 2万じゃきかないですよ。
日本との戦争を終わらせるシナリオの中で 一番最悪なシナリオになっちゃうわけですよ。

だから
頼む。ポツダム宣言吞んでくれ って感じなの。追い詰められているのアメリカの方ですからね。

日本は2回目の 御前会議が開かれました。

場所は 皇居の10m下の 地下室です。
メンバーは鈴木貫太郎総理が議長で 閣僚と軍部首脳 合計 7人。

いかにして 戦争を終わらせるか。 

ポツダム宣言を受諾すべきだ という意見と
地位の保証が無いんだったら 最後まで戦うべきだ という意見と

涙を流しながら 話し合い
外務省と 陸軍省との意見が出つくしたところで 

なぜ受諾するのか 
昭和天皇が ご発言をなさいます。

下村宏情報局総裁が 手記に書き留めていました。

『反対側の意見は それぞれよく聞いたが 私の考えは この前に申したことに変わりはない。
私は 
世界の現状と 国内の事情とを 十分に検討した結果 
これ以上戦争を継続することは 無理だと考える。

国体問題について いろいろ疑義がある という事であるが
私は 
この回答文の文意を通じて 
先方はそうとう 好意を持っているものと解釈する。

先方の態度に 一抹の不安があるというというのも 一応はもっともだが
私は そう疑いたくはない。

要は 
我が国民全体の 信念と覚悟の問題と思うから 
この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。

どうか 皆もそう考えてもらいたい。

更に
陸海軍の将兵にとって 武装の解除なり 保証占領というような事は まことに耐えがたい事で
それらの心持は 私にはよくわかる。
しかし 

自分はいいかになろうとも 万民の命を助けたい。

この上 戦争を続けては 結局 我が方が 全く焦土となり 万民に これ以上の苦悩を嘗めさせることは 
私としては 実に 忍び難い。

楚囚(そしゅう)の霊にお答えができない。

和平の手段によるとしても もとより 
先方のやり方に
全幅の信頼を おきがたい事は当然ではあるが
日本が 全くなくなるという結果に比べて 

少しでも種子が残りさえすれば 更に復興という光明も考えられる。

私は 明治大帝が
涙を呑んで思い切られたる 三国干渉当時の ご苦衷(くちゅう)を忍び
この際

耐え難き耐え 忍び難きを忍び 

一致協力 将来の回復に 立ち直りたいと思う。
どうか 
私の心をよく理解して 
陸海軍大臣は共に協力し よく治まるようにしてもらいたい。
この際 
詔書を出す必要もあろうから 政府は早速 その起案をしてもらいたい。
以上は 私の考えである。』

このようにおっしゃいました。

昭和天皇は しばしば 頬を拭われ
一同は 感極まり
中には 床にひざまずいて 泣いている者もいました。

昭和天皇が 御聖断を下された時の 御心境を 詠まれた御製です。

「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて」


これによって ポツダム宣言の受諾が 最終的に決定したわけです。

玉音放送は ポツダム宣言受諾の詔です。
開戦の詔 と共に戦争が始まり  ポツダム宣言受諾の詔で戦争が終わりました。

日本は何が決めてとなって ポツダム宣言受諾を決めたんだろう という事を考えていただきたいんですね。

原爆を落とされたからなのか。これは違います。

ソ連が参戦して 

本土決戦になって
50万人の米兵が 上陸してくるかもしれない と兵力を 全部結集して 
7000機の 特攻機を飛ばして 何とかアメリカ上陸占領 を阻止てやろう

捨て身になって必死に と考えていたんですよ。
ところが
50万の米兵をやるんだって イチかバチかなのに 
更にそこに後ろから 150万のソ連軍が バーッて襲いかかって攻めてきたら 
もう無理です。

でも一部 
若手の青年将校の中では 冗談じゃない。こうなったらクーデター起こすぞ とグループがあったわけなんです。

では
日本は何を決めてとして ポツダム宣言受諾を決心したのか。

これは実は 
原爆投下でも ソ連参戦でもないんですよ。

じゃあ何が終戦の決めてだったかというと

日本は ポツダム宣言受諾を決めたのは
原爆投下や ソ連参戦ではない。

 「天皇の地位を保証」です。

ポツダム宣言受諾の詔 
玉音放送の レコード録音は 2組つくられました。
8月14日 夜 11時半を過ぎてから 当時 宮内省ご政務室でされました。

翌日
8月15日
日本本土だけではなくて 
満州から 朝鮮から 南洋諸島に至るまで 全地域で 玉音放送が行われることになったわけです。
重大な発表があるから聞くようにと。 

ただ この後 事件がおきるんですね。

8・15事件です。 青年将校が反乱を起こします。この場に及んで まだ起きるクーデター。

5・15事件や
2・26事件より 進んだかもしれませんね。皇居を占領しましたので。

和平を求める難しさです。

戦争を始めるのは簡単でも 
終わらせるのは 難しいという事なんですね。

終戦の日 未明にクーデター事件がおきます。
あと一歩で成功するところまでいってるんですね。
皇居を 決起した青年将校に 軍事占領してしまったんです。

8・15を中心にえがいた 【日本の一番長い日】 という映画があります。

8月15日の未明 
阿南陸軍大臣は自決しています。
この時の 陸軍大臣が 阿南惟惟だから無事に終戦できたと思います。

阿南陸軍大臣は 和平派なんだけども 
表面は主戦派を装っていたわけです。だから よかったんです。
今 自分が 和平を口にしたら 速攻 殺されて めちゃくちゃなクーデターになるって わかっているから

そうだ。お前らの言う事はわかっている。
しっかりと お前らの気持ちを 閣議で ちゃんと総理大臣にぶつけてくるから。伝えてくるから! と 

とにかく待ってろ 軽はずみに決起するなよ。まず俺が言ってくるから
と言って なだめて なだめて 決起を留まるようにして 

ポツダム宣言 こんなもん吞めるかぁ!日本が終わるぞぉ!
って閣議で 泣きながら ぎゃんぎゃんやるわけですよ。
でも 阿南陸軍大臣は 本当は和平派なんです。

よく 昭和天皇の鶴の一声で 戦争終わったよね という人がいますが
じゃあ 
なんで 戦争を始めて
早く戦争を終わらせてくれなかったんだ と天皇批判として言われる事があります。

事はそう簡単ではありません。
新聞が 煽り立てていったわけですよ。

一番やる気があったのは 国民だったんですよね。
国民が 政府に対して なにやってんだぁ!まだアメリカに攻め込まないのか 弱腰!
と 
国民全体の世論が なぜ攻め込まない!という風になってたんです。

国民は すでに戦う準備はできている。あとは開戦の号令を待つのみ!
という社説を書いたのが 新聞なわけですよ。

昭和天皇独白録で
もし あの時 戦争反対 なんて言おうものなら 天皇は殺され 誰も制御できない めちゃくちゃな状態のまま
戦争に至っただろうと 
昭和天皇自身が語ってらっしゃるんです。

あの時 空気 といいますか 思ってても 戦争反対なんて口に出せる者はいなかったんですね。

終戦を決めても それでもクーデター事件が起きたんですよ。

陸軍大臣にしても 参謀総長にしても
もし 和平 を口にしていたら おそらく殺されています。

しかし ソ連参戦によってもう。 お手上げ。
もう無理 となったわけです。

そこで間髪を入れず 鈴木貫太郎総理が 昭和天皇の御聖断を引き出して 終戦を決定しましたね。
このタイミングだから 終戦が決定できたわけです。

しかし 戦争継続。最後まで戦う! という想いをもっていた 青年将校たちがいたわけです。

決起するにあたり

ポツダム宣言受諾の流れがあるようですね。そんなことは許されない。
私たちが クーデターを起こして 最後まで戦争を遂行するんだ と言って
クーデター計画を 陸軍大臣に見せます。

そこで だめだっ と言ってしまったら 殺されたしまうと大変ので
そうか そうか と お前らの気持ちはよくわかる よくできた計画だ と。でも
まだ 動いてはいけない。君たちの気持ちは 私が伝えてくるから と阿南陸軍大臣は閣議に行きます。

阿南陸軍大臣は 昭和天皇のお付き武官をしていた経験があるし
そして
鈴木貫太郎総理とも 仲がいいんです。

鈴木総理も 侍従長を経験していましたし 
昭和天皇の若かりしころ
昭和天皇の 海軍のお付き武官もしていました。

同じような時期に 阿南惟幾も 陸軍のお付き武官をしていました。

阿南(あなみ) と言うのですけども 昭和天皇はいつも あなん あなん  と呼んでいた。
昭和天皇の信任も厚いわけです。

何とかここで チャンスをとらえて終戦にもっていこうとしている事もわかっているわけです。
でも
ここで ポツダム宣言受諾に賛成 なんて一言でももらしたら 殺されてしまいますから。

実際に 決起に乗らなかった将校たちが次々に殺されています。
和平派は片っ端から殺す 覚悟ですからね。

もし 8月14日の時点で 阿南陸軍大臣が殺されていたら どうなったか。

今と違って戦前は 一人でも大臣が欠けたら 内閣総辞職 です。

ポツダム宣言を受諾を決定して これから外交手続きも経て 終戦手続きを始めなければいけない
その矢先 8月14日に 内閣総辞職になったらどうします?

じゃあそこから重臣会議を開いて 誰を総理大臣にして それから組閣ですよ。
その時に 和平派の陸軍大臣を決められると思います?組閣前に 倒閣できちゃうんです。

誰が大臣に立てるのか 陸軍省から大臣を出す 出さない そんなこと 4日も5日もやってたら
せっかく 昭和天皇が 2回目の御聖断を下したにもかかわらず 戦争を終わらすチャンスを見す見す逃してしまう事になります。

だから
阿南陸軍大臣が ここで殺されるわけにはいかないんです。
辞表を出して 辞任になり 内閣総辞職も しなかったんです。

そのためにはどうしたらいいかって言ったら 和平派である という事をひた隠しにするんですよ。

わかる。でも今は動くな。と 抑えて 抑えて 抑えるんです。
そして 主戦派らしく ポツダム宣言受諾は断固として 反対であるぅ!と演じ切るわけです。

閣議の途中の休憩の時も 阿南陸軍大臣は 陸軍に電話をするんですよ。
今くれこれこうで 俺はこう言ってやった。君たちの気持ちはわかるから まだ動くな。
と 
盗聴しているかもしれないので 強行路線を演じ切るわけです。
一度 散会して陸軍省に戻るんです。実際はポツダム宣言受諾に向けて もう微調整の段階でしたが
その時も 

大臣どうでしたか?!
何とか阻止してみせるぞ! と部下をなだめ 決起を先延ばしにしようとするんです。

重要なのは ポツダム宣言受諾の詔です。

耐え難きを耐え 忍び難きを忍び の有名な玉音放送の元は 詔(みことのり)です。

政府が起案します
御名御璽(ぎょめいぎょじ)といって 昭和天皇の 裕仁 という署名が入ります。
そして 
天皇御璽 という 天皇の実印が 押されるんです。
あと 
全閣僚の署名が必要です。

鈴木貫太郎総理大臣 以下 全 国務大臣の署名が揃わなくてはだめです。一人でも署名が欠けたら 詔 にならないんです。
なので

阿南惟幾が 殺されちゃ まずいんです。

阿南陸軍大臣は 昭和天皇のお言葉が出た 詔 に署名してあるので 根っからの主戦派 ではありません。

でも実際 阿南陸軍大臣を 殺そうが殺さまいが 
間もなく 8月15日 未明 阿南陸軍大臣は自決します。

映画の中でも 阿南の切ないセリフがいっぱいあるんですけれども

とんだ 貧乏くじを引いたものだ と最後 自決するんです。

阿南だから クーデターを起こす連中も 信用してついてきましたよ。
何で最後 陸軍がめちゃくちゃになるような クーデターが起きなかつたかというと

阿南陸軍大臣が 自決したからですよ。

この戦争を継続できなかった 
責任をとって 詔書にサインした後 自決してるんですよ。

サインするまでは 死んじゃだめなんです。生きてサインをする。
サインし終わったら 死ぬわけですね。

生きて 和平に持ち込み
自ら 命を絶って 

陸軍の 何で終戦なんだぁぁ と言っている気持ちを 

陸軍トップ 阿南陸軍大臣んが自決する事で

何万人 へたしたら何十万人もの クーデターになりそうなところを 数名の決起で抑えた。

日本の陸軍のトップが自決することによって 多くの陸軍の兵隊たちの気持ちを 慰めたんです。
クーデターを 後に 後に まわしつつ  

最後まで戦うぞ!という人を 最後 自分が自決して 
見事に為し遂げ 全て丸くおさめたわけなんですよ。

今の 日本があるのも阿南惟幾のお蔭 と言っても過言ではないと思います。

御聖断は下った。不服の者は まず この阿南を斬れ。
阿南を斬ってからやれ! と言い放ちました。  本当は 自決するつもりなのですが。

将校たちは 号泣して その場に倒れこみました。

しかし
実際に決起して 反乱を起こしてしまいます。
ソ連が参戦の後だから 小さい反乱で済んだんです。
ソ連が参戦前だったら とてつもないクーデターが起きて成功したかもしれません。

2度目の 御聖断が下ったのは 8月14日の夜ですよ。
決起の 1時間くらい前に 夜11時くらいに
昭和天皇が ポツダム宣言受諾の詔を
マイクの前で読み上げ 玉音で レコード盤を 当時の東京放送局の人たちが録音・収録をするんですね。深夜ですよ。
2組用意するわけです。
 
青年将校の反乱軍は
皇居をお守りする聖英。
天皇をお守りする特別な軍隊の 近衛師団に行くんです。

皇居に乱入して 近衛第一師団長の 森赳(たけし)を殺してしまうんですね。
反乱兵たちは 近衛師団長のハンコを盗みだすわけなんです。
そこで彼らは 師団長命令書を偽造して そこに盗んだハンコを押すわけです。
これによって 
近衛師団の軍が動いてしまうわけですよ。
そして 皇居を軍事占領してしまいました。

彼らは何を焦っていたかというと 
正午12時に予定されていた 玉音放送を阻止して クーデターを起こし 軍事政権をつくる。
そして 戦争を遂行。それをしようとしていたんです。

録音された 2枚のレコード盤は
午前10時から 正午12時に 
阿南陸軍大臣の指摘で変更された 放送時間まで 
東京放送局ではなく 皇居の宮内省であずかってください となっていたお蔭で

録音を終えて帰る時 反乱兵につかまった 東京放送局人たちは 手元にレコード盤を持っていなかった。
もしそこで レコード盤を持っていたら 反乱兵に打ち砕かれて 玉音放送はありませんでした。

玉音盤を探す。宮内省の建物・事務室 片っ端から どこだぁ とひっくり返していくわけですよ。
徳川侍従が気を利かせて 皇后宮職事務室内の金庫室に隠し入ってますから わからなかったんっです。

今度は 天皇の御璽。天皇の実印を盗みだそうとするんです。
偽の詔を発行しようとしますが 御璽が見つからない。
もう 明け方が近づいてくるんです。

各省に決起を促したけども 結局 どこも応じなかったんです。

東部軍が 鎮圧に動きます。
近衛師団を抑えていって 皇居が解放されました。

反乱兵の青年将校たちは 全員 自決です。

そして
8月15日 の朝を迎え お昼12時に 玉音放送が流されるんです。

深夜0時から 明け方 6時まで 5・6時間くらいの間の出来事なんですけれども
ソ連が参戦して もうポツダム宣言受諾しかない と言う風になった後でも なおクーデターが起きるわけです。

何が言いたいかと言ったら ソ連参戦前に 和平 なんて口に出したら 

世論。反乱分士を 抑え込みながら確実に 終戦へ持ち込むというのが どれほど難しいか という事なんです。

一つを一つを 丁寧に丁寧に見極めながら 薄氷を踏むような想いで 一歩間違えたら 終戦が水の泡になってしまう。
こういう緊張感の中で それぞれの役割りが しっかり果たされ 

阿南陸海軍大臣は 反乱兵たちの気持ちを なだめ なだめ なだめ
最後 
自決する事で 反乱を最小限に抑えた。

陸軍大臣として 終戦の手続きを全て終えた 阿南陸相は 鈴木貫太郎総理を訪ねました。

総理には これまで大変 ご迷惑をかけました。深くお詫び申し上げます。

鈴木総理は
あなたの事は 私が一番よく知っているつもりです。有難うございました。
と言いました。

同時期に 昭和天皇の側近として 共に仕えた2人は お互いの心をよく理解していていたのでした。
阿南惟幾は いとまごい 別れの挨拶に来たんです。

8月15日
玉音放送が流れる日の 午前5時。

官邸で 割腹し 自決しました。
誰の手も借りず 介錯もありませんでした。
絶命するまで どれほど苦しんだでしょうか。

敗戦の責任と 戦場に散った将兵たちの 無念の想いを
陸軍大臣である 自分が全て 背負っていく 気概が ありありとうかがえます。

「一死以て(もって)大罪を謝し奉る(たてまつる)」
「神州不滅を確信しつつ」

辞世の句は
「大君(おおきみ)の 深く恵に 浴し(あみし)身は 言ひ遺す(のこす)べき 片言もなし」

昭和天皇に対する忠誠心が伝わってきます。

この功績は 大きな功績ですよ。
この人が この時の陸軍大臣だったお蔭で
この人が 貧乏くじをひてくれたお蔭で

国は守られた という事です。

阿南惟幾 という人が 
身をもって終戦を実現させ 日本を滅亡から救った 偉大な軍人だったのではないでしょうか。



真岡郵便局「9人の乙女」

昭和20年8月15日
終戦したのにもかかわらず ソ連は 戦争をやめる気配がないんです。
南樺太を取りにきます。

南樺太の
真岡に 艦隊から 艦砲射撃して 上陸作戦が敢行されます。
南樺太で 一番栄えていた 豊原と
北海道からの 入り口になっている 大泊(おおどまり)。



日本は武装解除しているのに お構いなしに攻めてきます。

南樺太の人も 玉音放送を聞いたんですよ。ラジオから流れる 昭和天皇の お言葉を聞いて
あぁ これで 戦争が終わった と思ったんですよ。

お互い 攻めないようにしようね と
日ソ中立条約 を結んでいたので 
日本は ソ連 を攻める なんて考えていませんし

そもそも
ソ連が攻めてくる なんて 考えてないわけなんですよ。

8月15日の終戦の後 
8月20日 南樺太の真岡を ソ連が上陸してきた時の

真岡郵便局に務める 電話交換手 9人が 青酸カリを飲んで 命を絶った おぞましい 悲しい出来事があります。

当時は 真岡郵便電信局 といって かつては郵便と 電話と まとめて郵便局が担当していました。
電話は 今は番号を押せば 交換業務は 全自動でやってますから すぐ相手につながりますが
昔は 受話器をあげると 郵便局の交換台につながるんです。
「はい 交換です」 
「すいません。何丁目の ○○さんにつないで下さい」
「はい。わかりました」
って言って 人間が コードを抜いたり 刺したりして つないでたんですね。



ソ連は 南樺太 50°線で戦闘が起きていて
真岡も豊原も おそらく これから占領されるって わかっているわけですよ。

これは 社会インフラですから 占領される その瞬間まで 電話交換業務は行わなければならないんです。

これから 占領されるという状況で 
家族の安否 とか どこに集まるとか 緊急の電話を みんな電話するんです。
郵便局が 止まってしまったら 電話が通じなくなってしまうんです。

戦争中だろうが 戦闘中だろうが 占領をうける瞬間だろうが 電話交換業務は 続けなければいけないんですね。

そこでどうしたかと言ったら
8月16日 誰か残ってくれるかと 残留者を募ります。

みんな 北海道に 引き上げる事が決まっていて 引き上げが始まって いるんです。
でも 電話交換業務はやめるわけにはいかない。

間もなく ソ連軍が入ってきますよ。 誰が残るのか。
すると 真岡郵便局。私残ります!って ほぼ全員 だいたい 18歳から 22・3歳くらいの 女の子たちですよ。

ところが 
気持ちはわかるけれども 家族の事情があるはずだから 今日はいい。
本当に残るのか ご家族と相談をしてこい。 また明日聞くから と 一度帰ってもらいました。

そして 残留組が 20人 決定しました。

10人 10人で チームを組んで 12時間 2交代制 非常事態勤務体制の 決死隊 が組まれました。

ソ連軍は
8月20日 未明の明け方 霧の中 急に真岡に対して 艦砲射撃をします。
そして 上陸作戦が始まります。



この日の前の夜から夜勤で 電話交換をしていた 次の日の未明に
バーン! ドーン! と砲撃され 阿鼻叫喚 です。
一斉に 電話交換業務が 忙しくなるわけですよ。どんどん電話が鳴るわけですね。
「はい 交換」 と言って つないで 「はい お話ください」って 未明から フル稼働になるわけです。
今だったら ライン とかありますが 電話が 早朝未明に一斉に鳴りやまないで 
それを どんどんどんどん 女の子たちは つないでいくわけですよ。

そのために 残ってるんです。
戦闘状態になった時に 業務を 遂行するために 女の子たちが残っているわけです。

しかし ついに真岡郵便局が 被弾します。
真岡郵便局も 艦砲射撃をうけてしまう距離。海からそんなに遠くないんですね。

大変だ! と言って駆けつける 非番の局員や 女の子たちもいたんです。
でも 実際に 実弾が飛び交う中で 駆けつけようとして 殺された人もいるんですよ。

駆けつけようと 上田さん という郵便局長は ソ連軍に逮捕されています。

そして 12人で 鳴りやまない電話交換業務を 遂行していきます。

最後 いよいよ ソ連軍が占領に来ます。
占領をされる という事は  
占領地の女性は 全員とは限りませんが 片っ端からレイプされる というのが実状です。

なので いざ という時のために 護身用として 
みんな 青酸カリを ポケットの中に入れていたんですね。

ギリギリまで 業務を遂行し 最後 青酸カリを飲んで 果てる。

生きていると 乱暴されたり 恥ずかしめの果て 殺されたりとかという 恐怖心の中で 
せめて 最後は 綺麗なまま 死にたい という事で 
青酸カリを飲んだ 女性がいたわけなんです。

真岡が ピンポイントで 艦砲射撃を受けて 上陸をされていて
他の場所は まだでしたので
真岡郵便局から 今 こういう状況です! と連絡をしていました。

12名の乙女の中の 渡辺照(てる)さん が
真岡の北に 泊居(とまりおる)という街がありまして 最後の やり取りを 泊居郵便局と しています。

泊居郵便局長に
これから 全員で自決します と伝えるんですね。

局長は 死んだらだめよ! 叫び続けましたが

交換台 に 弾丸が飛んできます とか  誰々さんは もう飲んじゃいました とか 死んでしまいました とか

もう どうにもなりません。 皆さん 長らくお世話になりました。さようなら。さようなら。

という 別れの言葉を最後に 一切交信が途絶えてしまいました。



ほぼ時を同じくして 豊原郵便局も 真岡郵便局から連絡を受けています。
青酸カリを飲まないで 逃げなさい!早く! と伝えましたが
しかし 
真岡局の交換ランプは消えて 二度とつく事はありませんでした。

その結果 12名いた内の 10名が 青酸カリを飲みました。
1人 服毒量が少なくて 助かった人が生還したんですけども 9人 が亡くなりました。

その後 真岡郵便局長は 逮捕されていましたが 何とか釈放されて
自決した話しが回ってますから 自分の部下たちの遺体を 引き取りにいかなくてはならない という事で
真岡郵便局に行くわけです。

その時の 手記が残っています。

8月20日。班長さんで 高石さん という方は 班長席に うつぶせた形で 絶命していたらしんです。
この日の早朝から たくさんの電話交換をしていた その交換書。記録の綴りが 業務日誌と一緒に ぴしっと束ねられていて

交換台のプラグを 握ったまま うつぶせになって絶命していた人
交換台の前で コードを握ったまま 倒れこんでいた人
耳に着ける ブレストを付けたまま 全員倒れていた という事です。 

最後の最後まで 電話の呼び出しに 交換台から離れずに
業務を遂行していた様子がわかったそうです。

局長の上田さんは 最後まで 職務に対する責任感を見た と思いを書き記しています。


地上戦が行われた 沖縄で
沖縄陸軍病院や 防空壕での 負傷兵の治療 排泄物の処理 死体処理などの任務で
最後は 米軍から 防空壕に ガス弾が撃ち込まれ 多くの学徒が死亡。自決。
という 



若い女性が 命を絶った ひめゆり学徒隊 の悲劇もあります。

北海道に 引き上げなさい と言われていたけども 決死隊 として残った女の子たちがいて
最後の最後まで 職務を遂行して果てる。
17歳から 24歳の 20歳前後の 若い子たちです。

普通の郵便局員です。
軍人ではありませんが 靖国神社に祀られています。

その他 真岡郵便局の殉職者は 全部で 19人です。

8月25日 豊原占領。
ここは 病院ですよ! と 白旗を上げているのにも関わらず
それでも ソ連軍は 空爆をしました。

8月28日から 9月1日 北方領土 占領 ですよ。

8月15日の終戦。日本は武装解除してるんです。
それなのに その後 民間人 3700人 が死亡しています。


昭和43年
昭和天皇と 香淳皇后が 稚内にいらっしゃいました。

晴れていると 稚内から 樺太が見えるんですよ。
そこで 
9人の乙女たちの事を聞き 悲しみ 涙を流し 和歌をお詠みになりました。

昭和天皇の御製は
樺太に 命をすてし たおやめ(乙女)の
心を思へば むねせまりくる

香淳皇后の御歌は
樺太に つゆと消えたる 乙女らの
みたまやすかれと たゞいのりぬる





東日本大震災の時に 天使の声が 最後まで響いていた と言われますが

南三陸町の町役場の 防災課に勤めていた 遠藤未希さん という女性の方。
結婚が決まっていた という若い女性ですけれども
最後の最後まで

津波が来襲しています 早く逃げてください!
高台に 逃げてください!

時々刻々と変化する内容に合わせて 何メートルの津波 6m 8m 10m と伝え
始めは 津波が来ています から 津波が来襲しています と危機感をあおる風に 工夫しながら
住民に避難を呼びかけました。

そして 南三陸町を襲った 津波は 10m以上ですよ。
南三陸町の 町役場の鉄骨だけ残って 全部流されてしまいました。



そこに防災課があって そこで遠藤さんは マイクをずっと持っていたわけですよね。
そこに
巨大津波が どぉーん! と南三陸町の町役場にぶつかる瞬間まで
遠藤未希さんの 避難を呼びかける声が 町中に鳴り響いていたわけです。

その直前 屋上に逃げようという 上司の指示があったんですけれども
屋上の高さより さらに 2m高い 津波が来ているんです。

アンテナの 上の方にしがみついていた ほんのわずかな人は 生き延びましたが
それ以外の 屋上に逃れた 職員たちの ほとんどが流されてしまいました。

結局 遠藤未希さんも 亡くなってしまいました。

恐怖心もあったでしょう。
でも
最後の最後まで 住民に避難を呼びかけ続けた その遠藤さんの 職務に対する 姿。
まさに
艦砲射撃をうけて 交換台に銃弾が刺さってくる 最後の 最後まで
職務を遂行する 

9人の乙女たち とかぶるものがありました。

戦前は お国のために 死ぬ なんていうのを 良しとした。
だから この子たちは 洗脳されて そういう生き方をしたんだって まとめるのは 簡単ですけれども

じゃあなぜ この現代において 20代そこそこの 若い女性が
最後の最後まで
職務を全うしようとしたのか。

戦前だから 洗脳されていたわけじゃないんですね。

日本人として 人々の 命に係わる仕事。 責任感のある仕事を 
危険を承知で 最後まで全うする という意気込みが

戦前の女性にもありましたし 

戦後だって
これだけ 自由な世の中だってね 
危険を承知で 最後まで職務を全うした 責任感のある方が いらしたという事なんです。

賠償金よこせとか 娘を返せ とか 管理体制はどうなってたんだ とか 文句はいくらでも言えますが

最後まで 住民の命を守ろうと 必死になって職務を続けた 娘の事を 
誇りに思う 
と言うコメントを ご両親がなさってらっしゃいました。



ウズベキスタンへ抑留・ナヴオイ劇場

ウズベキスタン は中央アジアにある国です。
しかし 当時は ソ連の一部だったんです。 ソ連邦の崩壊でできた 1つの国が ウズベキスタン なんです。



シベリア 57万人 抑留 の時に 
ウズベキスタンに 抑留されていった人たちもいるんです。
ウズベキスタンには 2万3000人。 ウズベキスタンは シベリアほど寒くないので 致命率が低いんですけども
そのうち 884人が死んでるんですね。

ソ連 4大劇場のうちの1つ。 ナボイ劇場。



これは 日本人の抑留者が つくったというんですよ。
いきなり 2万3000人の 日本人が送られてきて 働くわけで ウズベキスタンで話題になるんです。

日本人 働き者だねぇ って事になるわけです。

他に どういう人が働き来たかというと

日独伊 です。 ところが 
日本人と ドイツ人・イタリア人の働き具合とが 全然違うんです。
日本人は 黙々と働いていて 他の国の人は 怠けてばかりいたらしいんですね。
日本人の 働く という姿勢が 明らかに違うんです。

強制労働。抑留ですよ。奴隷みたいなものです。
時間になって ぱぁ~っと みんな帰るのに
日本人は いや まだここだけ やらせて下さい なんて 強制労働なのに サービス残業してるんですよ?

その 日本人の姿を見て ウズベキスタンの人は 大感動したらしいんですね。
そして
日本人は 模範 だと。 
日本人は 働き者。手抜きしない。
日本人は 信頼できる。嘘をつかない。

日本人のように なりなさい という事になって
日本人のように なりたい という風になっちゃったんですって。

当時 大人たちは いいか あの日本人のような 立派な大人になれ と
子どもたちを教育するようになった という事なんです。
そういう人から教わった子たちが 今のウズベキスタンの 若者たちの親です。

強制労働なのに 
みんなで智恵を出し合って どうしたら もっといいものができるだろう と工夫して 話し合って
必死に 仕事をしているのが伝わってくるらしいんです。

ウズベキスタンの首都 タシケント という 第4収容所に 収容された 約457人が ナボイ劇場の建設にあたりました。
隊長を務めたのが 永田行夫さん という方です。
この方が リーダーとなって もともと建設途中だったものを 内装とか 外装を完成させました。

奴隷のような扱いで  
ノルマ達成ができなければ 食事の量を減らす という仕打ちがあります。
食事の量の違いを 分け合って 一緒に頑張ろう としていたのを 見つけられて
呼び出された 永田さんは 

ソ連では 働いて自分がもらったもの。個人の所有は認められていますよね。
その 個人の所有物を 自由に処分するのも ソ連で認められた 自由ですよね?
私たちは
自分が 多くいただいた食べ物を 分け与えてるんだから これは認められるんじゃないですか?

私たち日本人は 
働いた量が少なくて 食事の量が少なくなった人に
ノルマを働いて 食事の量もきちんといただいた人は 個人の所有物をとして 少ない人に分け与える
という事を 毎日やるから
初めから みんな 食事の量は同じに してくれ。
そうしたら そちらの手間も省けるでしょう。
って言って 

毎日 みんなが同じ量の食事にしてもらった という事です。

また 
言われた仕事だけやって 十分だ と普通は思うのですが

彼らは どういう風にしたら もっといいものになるか 
457人の中には 軍人とはいえ 
手に職があるとか 建築士とか 工事現場監督みたいな人など 専門的知識を持っている者が 知識を出し合い
地震国から来ている 日本人なので 耐震構造にも そうとう力を入れたらしいんです。

昭和22年に ナボイ劇場が完成します。
日本人 チームとして 力を合わせて つくった ナボイ劇場を見て
ウズベキスタンの人は 感動をして 
仕上げも丁寧だし 日本人の ものづくり やっぱすごいね! って事になったそうです。



しかし
昭和41年に 大地震が起きるんです。
ウズベキスタンは 見渡す限りのがれきの山で とてつもない状態になり
首都のタシケントは 普段は地震がないところで 起きたものですから ほとんどの建物は倒壊しました。

大きな建物で 残ったのは ナボイ劇場だけなんですよ。
そして
ここを 避難所として使ったんです。
それを見た ウズベキスタンの人たちは さらに感動して

日本人の建てた建物だけが 残っている。
ただ がんばり屋さん というだけではなく 
知識・経験を集めて いいものづくりを してくれたんだ。 日本人は すごい! となったんです。

平成8年 にソ連が崩壊して ウズベキスタンは 独立国になりました。
この時まで ナボイ劇場には 
日本人捕虜 がつくりました という プレートがあったらしいんですけれども

プレートが書き換えられ 表現が 改められました。

極東から 強制輸送された 数百名の 日本国人が このナボイ劇場の建設に参加し その完成に貢献した

という言い方になりました。



当時
永田さんの下で 働いていた方で

感電したり 死んだ仲間もいたが みんな必死になって仕事をした。
ソ連 4大劇場として 今も使われている。
今 捕虜だった人たちが ナボイ劇場に招かれて 音楽会に参加したりという 交流があり
日本と ウズベキスタンの友好の劇場 として大切にされている という事は 嬉しい。
そういう 歴史的な建物に 携わることができて 自分は幸せだ というような主旨の事を おっしゃっています。

仕事に対する考え方。ものづくりに対する考え方。
今の 日本人も しっかりと 受け継いで いかなきゃいけない事だと思います。



パラオ・ペリリュー戦い 中川邦男 中将

パラオは 日本の真南に 3200km離れた 南洋の島国です。
パラオ諸島は 16世紀の 西欧列強の 大航海時代に スペインの植民地となりました。

その後 スペインから パラオ諸島を買い取ったのは ドイツでした。
今度は ドイツの植民地になってしまいました。

ヨーロッパで起きた戦争ですが 日本は参戦して 戦勝国になります。

第一次世界大戦の結果で 日本が勝手に パラオ諸島を取ったわけではなくて
ドイツが植民地 として持っていたもの それを放棄させられたものを 

南洋諸島周辺の 常任理事国は 日本しかないでしょ
という事で 
国際連盟からの 委任統治することになっただけなんです。

南洋諸島の広大な面積。
国際連盟から 委任される形で そのまま日本が統治することになりました。

マリアナ諸島から
サイパン島 テニアン島 パラオ諸島 マーシャル諸島 ビキニ。
全部 日本だったですよ。



パラオにあるコロール島 という島に 南洋町 という 南洋諸島を統治する 行政府が置かれます。紙幣も発行しました。

パラオの 先住民の人口は 約6000人。
スペイン統治前の 1/10 になっていたと言います。

日本は 稲作や野菜 果物 の栽培を伝えました。
缶詰や ビールの工場の建設したり
道路をつくり 橋を架け 電話をひき 学校 病院 など インフラ整備をしました。

しかし 日本は 遥か大きな素晴らしいものを パラオに残しました。


昭和16年 
に 連合軍と 日本との 大東亜戦争が始まりました。

日本は 翌年 パラオ南部の ペリリュー島に 飛行場をつくりました。
1200m の滑走路2本 もつくりました。

日本にとって パラオ が太平洋防衛上の 重要な拠点だったからです。

アメリカは フィリピン奪回と マリアナ諸島をとりたい。
なぜならば

東京大空襲をした 長距離爆撃機 B29は マリアナ諸島から 飛び立ってるんですね。
広島・長崎に 原爆を落としたのも サイパンのすぐ脇にある テニアン島 という小さい島から 飛び立ってるんですね。

たくさん爆弾を積める 長距離爆撃機 B29 というのは 30mある 大きな飛行機で 
滑走距離が長い 陸上の基地のじゃないと 離陸できません。

航空母艦から 離陸できないんです。長い地上の 滑走路が必要なんです。
航空母艦から 離陸するできるのは 小さな飛行機だけです。 
なので
大きな飛行機の
B29 を離陸させる場所が マリアナ諸島 なんです。

という事は 日本が マリアナ諸島を 死守できたら
東京大空襲はありません。
東京大空襲をした 長距離爆撃機 B29は マリアナ諸島から 飛び立ってるんですね。

広島・長崎に 原爆を落としたのも サイパンのすぐ脇にある テニアン島 という小さい島から 飛び立ってるんですね。
日本が マリアナ諸島を 死守できたら
広島・長崎に 原爆を落とす事もできませんでした。

日本中 焼かれるという事は なかったんです。
なので
マリアナ諸島が落ちたら 日本は終わりなんです。

それがわかっていたので 何としても マリアナ諸島を 死守。
ペリリュー島を 防衛しなければ なりませんでした。

ペリリュー島の 守備隊長は

中川邦夫中将です。任期当時は大尉です。

中川中将は 熊本出身です。
日頃から 物静かで 笑顔の素敵な隊長でした。

中川中将が パラオ・ペリリュー島に赴任してきたのは
昭和18年。
6月。

今度は どこの任地に?
という
奥様の問いに

永劫演習さ

と答えています。 永劫演習 とは生きて帰還が望めない 戦場 という意味です。

昭和19年。
9月。
太平洋艦隊 司令長官チェスター・ニミッツ提督の指揮の下
アメリカ軍は パラオ・ペリリュー島を攻めに着ました。

当時
ペリリュー島には 899名の 島民がいました。

ペリリュー島の人たちは 差別することなく接してくれた 日本人と共に仲良く生活をし 
一緒に パラオの歌や 日本の歌を歌ったりする ようにもなっていました。

パラオが 植民地されていた時とりも 平和で 豊かにになった事を とても喜んでいました。

そんな時の アメリカ軍のパラオ攻略でしたので
パラオの村人たちは 集まって 

日本の兵隊さんたちは 人数が少ない。
自分たちも きっと役に立てるはず。
自分たちも一緒に戦おう と みんなで話し合いをした結果を

温厚な 中川隊長なら聞いてくれる と思い 訪ねていく事にしました。 

この考えは パラオの村人みんなの 総意である事であり
私たちも 一緒に戦わせてください! と
中川中将に 強く申し出たのでした。

中川中将は 彼らの目をじっと見つめながら 真剣に そして黙って聞いていました。 
パラオの人たちの話が終わった後の 沈黙の中

突然 驚くような大声をあげました。

帝国軍人が 貴様ら 土人 と一緒に戦えるかぁぁぁ!

村人は一瞬 何を言われたのかわからない感じで 耳を疑いました。
自分たちの事を 土人 と言った?

みんな呆然として
そこから出た 帰り道 みんなショックで 泣きました。

一緒に戦うという事を 断られたからではありません。
怒りではなく

あんなに仲良くしていたのに あんな言葉を言われて

植民地にされていた 国の人たちとは 日本人は違っていた。
同じ人間だ。同じ仲間だ。対等だ。
と 励ましてくれ 信頼していたのに 

あれは見せかけだったのか

集会所で 待っていた村人に報告をして みんな ただただ 失望の想いで 悲しくて泣いてしまいました。

それから何日かして 
ペリリュー島の人たちは パラオ本島に 強制的に 移住をするように と
日本人が用意した船で 
砲撃に あわないよう 日没時を選んで 島民たち全員を 移動させました。 

港には 誰も日本人の見送りは いません。
島を去らなければいけない事も 悲しかったけれども

それ以上に
仲間 だと思っていた 日本人に裏切られた事が 悲しかったのです。

汽笛が ぼぉぉぉ~ と鳴り 
船が ゆっくりと 岸辺を離れ始めました。

すると 次の瞬間です。
ペリリュー島に残る 日本兵の全員が ジャングルの中から 浜に走り出てきました。 

そして
住民たちと 一緒に歌った 日本の歌を大声で歌いながら
ちぎれるほど 手をふって 見送っているではありませんか。

ともに過ごしてきた 兵隊さんの 顔 顔 顔・・・。
日に焼けた 日本人の兵隊さんたち ひとりひとりの姿が見えました。

何と 先頭には 笑顔で手をふる 中川隊長 の姿。

その時 船上の住民たちは 全てを理解しました。

我々島民を 戦火に巻き込むまい としたのだ。
日本の 兵隊さんたちは 我々の命を 助けるために 
心を 鬼にして あえて あんな態度をとったのだ。

遠く岸辺に見える 日本兵に向かって 
住民たちも 涙でかすむ目を 必死にあけて ちぎれんばかりに 手をふり続けました。

その時の 日本の兵隊さんたちの 笑顔 は
戦後何年経っても ペリリュー島の人たちのまぶたに ずっと焼き付いたままだったそうです。

昭和19年。
1944年。9月12日。
ペリリュー島の戦いが始まりました。

日本軍 1万人。 対  米軍 4万8000人。

米軍の持つ 火力は 日本軍の数百倍です。
猛烈な 爆撃と 沖合からの 艦砲射撃を 日本軍に浴びせます。

その 砲撃は 何と 17万発。 
これは 1人の日本兵を倒すのに 1589発 の砲弾を使用した計算になるそうです。

ジャングルは 完全に焼き払われました。

9月15日。
3日で 占領する と言った米軍の海兵隊が 2万8000人 上陸をしてきました。

対する 日本軍は

実は
地下深く掘った 壕 の中で 米軍の上陸を 待ち構えていたのです。

1人用の 壕。タコツボ を無数に掘り
自由に行き来できるよう トンネルでつなぎ 地下壕や 洞窟は 何と 500か所以上ありました。

米軍が上陸して来た 水際の戦闘は 壮絶でした。
上陸を じっと穴のなかで 時を待っていた 日本軍が 反撃を開始始めたのです。

この戦闘で 島の海岸が アメリカ兵の血で赤く染まりました。
今でも この海岸は オレンジビーチ と言われています。

10月30日。
アメリカ軍 第一海兵師団が 全滅しました。
この時の 米海兵隊の司令官は この惨状への疲労から 心臓病を発病した とも言います。
将官が 倒れるほどまでに すざまじい戦いだったのです。
主力部隊の損失率が 4~6割を超え 戦闘能力損失で 米軍の差し替えが続きます。

3日で落ちる と言われた ペリリュー島の占領は 70日 も続く激戦になりました。

しかし
その間 日本軍には 補給が一切ありません。食料も水も無いのです。
夜 せめて怪我をした仲間のためにと 泉に水を汲みに行けば 
待ち構えていた アメリカ軍の猛火に遭いました。

水場の近くは 日本兵の死体が 重なりあっていました。

徐々に劣勢に陥っていきました。
アメリカ軍の 火炎放射器と 手榴弾によって 日本軍の洞窟陣地は 次々と陥落していきました。

11月24日。
弾薬も底をついた日本軍は ついに 玉砕を決定します。

軍旗を奉焼し 
残存兵力 わずか 55名 による 
最後の総攻撃に際して ペリリュー島から 日本本土に向けて 電文が送られました。

その言葉は 「サクラ サクラ」。

ペリリュー島守備隊全員が 桜花の如く 散った事を 遠い本国に知らせたのでした。

中川州男隊長
村井権治郎少佐
飯田義栄中佐 

の 3名は 割腹自決を遂げました。
そして
残る将兵は 翌朝にかけて 最後の突撃攻撃を 敢行しました。

こうして
11月27日。
ペリリュー島は ついに陥落しました。

アメリカ軍の上陸開始から 2か月半 が経過していました。

アメリカ軍の司令官 ニミッツ提督は 命を捧げて 愛する祖国を 守ろうとした 日本兵に
強く心を打たれ 

この島を訪れる もろもろの国の旅人たちよ
故郷に帰ったら伝えてくれよ
日本軍人が 全員玉砕して 果てた
この 壮絶極まる 勇気と 祖国を想う 心根を。

と ペリリュー島守備隊の 勇敢を讃えて このような詩をつくっています。

ペリリュー島の戦いで
日本軍 戦死者 1万695名。

米軍   死傷者 1万786名。  戦死者 2336名。 負傷者 8450名。

そして
島の住民は 死者 負傷者 0名。

中川隊長の 異例な奮闘に対して
昭和天皇は
11回の 嘉賞と 3度の感謝状を与えられています。

中川州男中将 享年 47歳でした。

戦闘が終わった後 アメリカ軍は 米兵の遺体を 埋葬しても
日本兵の遺体は 放置されたままでした。

戦闘終結から しばらく経って
島民たちが 島に戻ってきました。

彼らは 島中に散らばる 日本兵の遺体を 一つ一つ きれいに片付け 埋葬してくれました。

ペリリュー島の戦いは 住民に 1人の犠牲者も出さなかった事で知られています。

終戦後パラオは アメリカに統治されました。
しかし
島民たちへの 教育かおろか 島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは パラオ本島と一緒になり 独立運動を開始しました。
そして

ようやく 戦争から 36年目 の
昭和56年。
パラオは 自治政府の パラオ共和国 となりました。

その パラオが アメリカの信託統治を外れて 名実ともに 独立国となったのは
なんと
平成6年。
1994年。 の事です。

パラオ国民の間から デザインを一般公募した結果 全会一致で採用になったのですが

独立した パラオ共和国の国旗は

周囲の 青 は太平洋。
真ん中の 黄色い円は 月 を表します。 月は 太陽が出ないと輝くことができません。
つまり 月は 太陽によって 支えられ 月としての生命を持ちます。

そして パラオの 国旗の満月は
日本の旗 とは違って 中心から少し ずれています。

中心だと 日本に失礼だから とわざと 中心を外したのだそうです。

パラオの人たちの 慎み深い態度に 畏れ入る感じです。

太陽は 日本国です。
日の元つ国 です。

戦争中に 日の丸を抱えて 使命を背負って 
強力な 米兵と 交戦した 日本軍将兵の 勇敢さと 純粋さに 大いなる魅力と 尊敬を捧げているのです。

このような 史実を 日本人は あまり知らないのです。
この時の
日本兵がとった行動を 我が身に振り替えて 考えてもらえrばと 思ううのです。



硫黄島の戦い 栗林忠道 中将

戦後の学校教育で 軍人を取り上げる授業は 意図的に避けられてきました。
かなり前に
日露戦争の日本海海戦に 勝利を導いた 東郷平八郎元帥が 教科書に登場した時は 大騒ぎでした。
軍国賛美 なのだそうです。

2006年の アメリカの監督映画で  硫黄島の戦い も認知されてくるようになりました。
アメリカ人なら 誰もが知っている バトル・オブ・イオウジマ。
ちなみに
イオウジマ は アメリカ側の 呼び方で 日本の正式名は いおうとう です。

日本の対戦国 アメリカでは 
学校は 勿論の事 国立アーリントン墓地に イオウジマ・メモリアル と称される 25mの 巨大ブロンズ像を建てて 
国が顕彰しています。
アメリカで 優れた軍人 のアンケートをとると ベストテン以内に 栗林中将 の名があるといいます。

先の大戦。 大東亜戦争(太平洋戦争)の末期
日本は アメリカ軍に 追い詰められ 苦戦を続けていました。

アメリアは グアム・サイパンを取れば 日本中 空爆できます。
でも
B29 とて 怯えながら空爆してるんです。
日本に近づいたら いっぱい戦闘機が飛んできて 攻撃をうけちゃいますよ。
下から 高射砲で ダンダン撃たれたら B29だって くらっつてしまいます。
護衛機を付けて 一緒に飛び立っても 護衛機は 燃料が尽きて 帰ってこないといけない。

そこで 硫黄島なんです。
日本と グアム・サイパンの ちょうど間くらいに位置しているのが 硫黄島 なんです。

なので 日本は硫黄島を死守しようとしたわけです。 2万3000人くらい 硫黄島に投入してるんですけども

米軍は ここが 欲しかったんです。
ここを抑えて 突貫工事で一気に滑走路をつくって 航空基地を整備すれば 

B29の 護衛機 を飛ばせるんですよ。

B29は サイパンから来ますよね。そして 硫黄島に差し掛かったら 護衛機を上げて
B29を いっぱいの護衛機が 護衛しながら飛んで行って 
護衛機に 護衛されながら 爆撃できるわけですよ。
周りの戦闘機が 蹴散らしますから B29は 空爆に専念できます。

だから
本格的な爆撃は 硫黄島を落としてからです。
飛行場・滑走路がある 硫黄島は アメリアは絶対手に入れたい場所だったんです。

裏を返せば
硫黄島が 日本本土防衛にとって 大変重要な拠点であり
日本が 絶対に譲れない島でした。

硫黄島は 硫黄ガスが吹き出し 地熱のため地中は 50℃~6お℃もあります。
地形は 169mの 摺鉢山(すりばちやま) があるだけで 島全体は平坦です。

兵士にとっての 悩みは 真水 が手に入らない事でした。
川は無く 井戸を掘っても 硫黄臭い水しか出ません。
雨水を溜めて確保しますが 
雨はめったに降らず ボウフラがわいた雨水は 飲むと下痢をします。

燃えるような 乾きと 激しい下痢と 高熱と
硫黄ガスと 高温と 睡眠をとる事もできなかった と言います。

この 硫黄島を守るために 派遣されたのが

栗林忠道中将 を司令官とする 約2万1000名の将兵です。

栗林中将は
明治24年。
1891年 長野県の 松代町に生まれました。

陸軍大学を出て アメリカに留学。
陸軍きっての アメリカ通 と言われた 栗林中将は 米国の 巨大な工業力を知り尽くしていました。

硫黄島に派遣された 当時は
病弱な妻と 3人の子どもと 東京世田谷に住居を構えていました。
硫黄島から 東京の家族に 41通もの手紙をだす 家族想いの父親でした。

硫黄島の日本軍は そのほとんどが それまで一般市民として 生活をしてきた 兵隊さんでした。
しかも
物資に窮乏し 米軍に比べて著しく 兵器と 弾薬が欠乏していました。

兵の数  日本軍 2万1152名   米軍 6万1000名
大砲         23門            168門
戦車         1個連隊          3個連隊
戦艦砲        0              14250t
航空力       75機             4000機以上

栗林中将は
米軍と まともに戦ったら 殲滅(せんめつ)。皆殺しにされるのが 明らかなので
今までの 水際撃退作戦 から 方針を変え

硫黄島 全島に
地下 10mから 20mに 穴。壕を掘って 続げて 洞窟陣地をつくり

米軍が 硫黄島に上陸して来て 空からも爆撃されていて。
その間は 
この 地下の陣地にこもってしのぎ

米軍を 上陸させてしまったら
そこで
地下から飛び出して 神出鬼没の ゲリラ戦に挑む という作戦でした。

圧倒的に戦力が優位の 米国に対し 持久戦 に持ち込む決意でした。

しかし 
日本本土からの 硫黄島への輸送船が 次々に沈められ
洞窟掘り工事に必要な セメントなど 物資が不足し

洞窟の中は 硫黄ガスと 高温で 作業は 5分ともたず
交代で作業して 1日 1mを掘り進むのがやっとでした。

水は 1日 4人に 水筒 1個分しか支給されません。

栗林中将は 自分も にんなと一緒にと 食事と 水の特別扱いを許さず
硫黄島 全島を回って 陣頭指揮を執りました。

敢闘の誓い と 栗林中将がつくった 6つの誓い を兵のみんなで 口々にして 苦しい作業を進めました。
こうして
総延長 18Km に及ぶ 地下壕が掘られ 
摺鉢山内部にも 6Kmの 蜘蛛の巣状の 地下陣地が はりめぐらされました。

まだ 工事の途中でしたが 決戦の時が来ました。

昭和20年。
2月16日。午前8時。
ついに アメリカの 大艦隊が現れました。

米国は 5日間で 硫黄島を占領する計画でした。 

おびただしい数の軍艦が 硫黄島を包囲し 3日間で 飛行場 800機の空爆と
戦艦による 5000t の 戦砲射撃がおこなわれ
摺鉢山の 1/4 が吹っ飛び 島は焼き尽くされました。

俺たち用の ジャップは 残っているかい?
と 沖合で見ていた米兵は 言ったそうです。

そして
艦砲と ロケット弾 9500発 を加えた後 
数万人の アメリカ兵が 続々と上陸していきました。

日本軍からの 攻撃は一切ありません。
米兵は 大半の日本兵が すでに死んだもの と思い 米兵は上陸。

3Kmの海岸は 3万人の米兵 と無数の機材であふれかえっています。

栗林中将は この時を待っていたのです。

突如 
日本軍が 一斉に砲撃開始。
これまでの アメリカ軍の 爆撃を 地面下で 大地震のように揺れる中

じっと 耐え 忍んでいた 日本兵の 猛反撃が炸裂しました。

正面と 左右の3方から 日本軍の砲撃が集中し 米軍の戦車が 吹き飛びました。

アメリカ兵は 大混乱。大パニックです。

その日の18時には
米兵の死傷者 2000人を超え
さらに
上陸から 3日間で 死傷者5000人を突破したので 
この状況の報告をされた ルーズベルト大統領は息をのみ 
これ以上の死傷者数。 不利な状態である事は アメリカで報道されなくなります。

でも このままでは大変だ という事で 続々と また兵隊が派遣されてくるのです。

アメリカ兵は 硫黄島では 1mごとに 戦闘があった と証言しています。

硫黄島の戦いの時 アメリカの兵隊が 上官に送ったメッセージが残っています。

もう お願いだから 俺たちを あんな狂った島に連れていかないでくれ
って書いてありました。

精神的に PDSE (強烈なショック体験・強い精神的ストレスが 心のダメージとなって 時間がたっても その体験に対して 強い恐怖を感じる)
になって 戦場復帰ができない 若者がほとんどだったんですよ。

確かに アメリカは勝ちましたよ。勝ちましたけど
ものすごく 怖かったみたいです。

アメリカ兵も 日本兵も 大事な未来を担う 同じ若者たちです。



硫黄島を守備した日本兵は 2万3000人です。
それを 取り囲んだ アメリアの機動部隊は 17万人 です。

2万 対 17万 勝負にならないですよ。
これほどの 戦力差があったら アメリア側は 簡単に勝てるはずだったんです。
短期間で 無傷で勝てるはずだったんです。

しかし やはり
物量に もの言わせる米軍は 1歩1歩 前進していき

摺鉢山の頂上に 6人の兵士が 力を合わせて 星条旗 を立てている有名な写真。
上陸 5日目の 23日。
これが
全米の新聞のトップを飾ります。

この星条旗 をめぐっての秘話があります。

当時 通信兵だった 秋草鶴次さんの著書 の中から

何と この後 山頂には 2度 日の丸 が翻った というのです。

米軍が 星条旗を 掲げた翌日
地下に潜んでいた 摺鉢山守備隊の 日本兵が これを引きずり降ろして 日の丸を 掲げた。
秋草さんは 摺鉢山の頂上に へんぽんと翻る 日の丸を見て 思わず 涙が頬を伝った。

これに 気付いた米軍は この日の丸を 火炎放射器で焼き
再び 星条旗を掲げた。

ところが
この 2度目の星条旗も 日本兵は奪い取り もう1度 日の丸を掲げた。

よく見ると この日の丸は
やや 赤茶けた色の 日の丸だった。
そう。これは

日本兵が 自らの 血をもって描いた 急造の 日の丸だったのです。

しかし
これも引きずり下ろされ 3度目の 星条旗に 変わった。
以来
日の丸が 摺鉢山にたなびく事は ありませんでしt。

名もなき 日本兵の 気概 が伝わるエピソードです。

大健闘する 日本軍ですが
補給が一切ないために 飲まず 食わずで 弾丸にも事欠き 全滅が目の前に迫ってきました。

極限状態になった 日本兵たちは いっそ死んで 楽になる という道に惹かれましたが
しかし
栗林中将は 自爆 や むやみな突撃を禁止し 決して 玉砕 を認めませんでした。
地獄のような 過酷な状況にある兵に 

なぜ 玉砕 を禁止したのでしょうか。
それは 栗林中将が 妻に宛てた手紙からわかります。

絶対 勝ち目のない戦いゆえ 
最後は 玉砕 しかない事を 全ての兵士は わかっているが

一刻でも 長く 島を守る 事を命ぜられていたのだという事です。

ここで 自分たちが 頑張る事によって
懐かしい 祖国日本が 少しでも長く 空爆 を受けないように。
そして
愛する 家族と 日本の勝利を信じている 国民が
1分 1秒でも 命長らえるように と願っていたのです。

1日でも長く 硫黄島を守り抜き 時間を稼げば
それだけ 本土にいる人々が 疎開もできる。
その分 多くの日本人の 命が救われる というのです。

無差別に 日本本土に爆弾を落とされて 愛する家族や 大切な人を
理不尽に死なせるわけにはいかない。

苦しくても 耐え抜いて 絶対に硫黄島を 渡さない!


この 死んでしまった方が 楽かもしれない状況の中
誰も 投降しようとしませんでした。
それは

常に 陣頭に立って 己に厳しく律する 栗林中将の 司令官としての姿勢。
それが
どんなに 過酷な 辛苦をも 共に乗り越えられる 強い結束力を 生み出していた という事。
そして
情愛を 部下の兵士に注いできた事です。
ゆえに 兵士たちも 司令官と共に 死を決し 命をかけて応えたのではないでしょうか。

この 持久戦に 米軍も 追い詰めても 追い詰めても 戦闘が楽になる気配が見えず
お互いが 生き地獄のような 戦いが続きました。

こうなると
米軍は 地下壕を 1つずつ 
火炎放射器や 爆弾で 潰していくしかありません。

火炎放射器が 届かない奥深い地下壕は 
出入口から ガソリンを 大量に流し込み 火をつけ 内部を焼き尽くしました。

ブルドーザーで 入り口を塞いで 生き埋め にもしました。

これ以上ないほど奮闘した 日本軍でしたが
とうとう 島の北辺りまで 追い詰められ 残る兵力は 900人 ほどになっていました。

3月16日。
栗林中将は ついに 日本本土に 訣別の電報を送りました。

「戦局遂に 最後の関頭にに直面せり。
17日 夜半を期し 小官自ら陣頭に立ち

皇国の必勝と 安泰を祈念しつつ 全員壮烈なる 総攻撃を敢行する。

(中略)

ご期待に反し この要地を敵手に委ぬる やむなきに至れるは
誠に恐懼(きょうく・恐れかしこまる事)に堪えず
幾重にも お詫び申しあぐ。

そして 栗林忠道 辞世の句 です。

国の為 重きつとめを 果たし得で 
矢弾(やだま)尽き果て 散るぞ悲しき


もはやこれまで と全員で突撃を決行し 玉砕 の覚悟を決めたのです。

本土に 打電した後も まだ戦える と10日間の抵抗を続けました。
最後の攻撃は
3月26日 の夜明けでした。

栗林中将は 残存の 400人 の先頭に立ちって攻撃しました。
そして
アメリカ兵 約170人を倒し 

硫黄島守備隊は ここに全滅したのでした。

この時 負傷して ついに歩けなくなった 栗林中将は

屍を 敵に渡すな と 

部下に言い残して 自決しました。
部下は 遺体を大木の根元に埋めた後に 自決してしまいましたので
栗林中将が どこに埋められたのか 今もわかっていません。

将軍自らが 突撃した。
国を守る 崇高な使命を果たそうとして 壮絶な最後を遂げました。

栗林中将は 今も 硫黄島のどこかに眠っています。

2万人 ほどの日本軍が守る 硫黄島という 小さな島を占領するのに
圧倒的な戦力を持ちながら
米軍は 2万8000人もの 死傷者を出してしまいました。

祖国を 愛する 大切な人を守るために と 自分から志願してきた隊員たち。
硫黄島の他 太平洋諸島の島々の戦い。
特攻作戦や 沖縄の戦い など

日本人の勇敢な戦いぶりは 米軍に 恐怖心を与え
連合国は
日本への 無条件降伏 を放棄して 

一時停戦 
という ポツダム宣言 の提示に切り替えました。
ポツダム宣言の提示によって 日本は終戦への機会をつかんだのですから
日本の将兵の犠牲は 決して無駄死に などではないはずです。

天皇を残し 議会も残し 日本国 が残ったわけです。

戦後 日本精神の弱体化 という問題はありますが 

硫黄島守備隊の奮闘が 後の国際社会における 日本の地位に大きく影響をおよぼしていると思います。
ですから 今 という時代を 迎えることが できているのです。

栗林中将が 最後の総攻撃を前に 兵士に

「予が 諸君よりも先に 敵陣に散る事が あっても
諸君の 今日まで捧げた 偉功は 決して消えるものではない
いま 日本は 戦いに敗れたり よ言えども

日本国民が

諸君の 忠君愛国の精神に燃え 
諸君の 勲功を讃え

諸君の 霊 に対し 涙をして 黙禱(もくとう)を捧げる日が いつかくるであろう
安んじて 諸君は 国に殉ずべし」

戦後 日本は繁栄し とても豊かになりました。
しかし
私たちは 私たちのために 命を投げ出してくれた 硫黄島の兵隊さんたちに
黙禱 を捧げてきたでしょうか。

慰霊どころか
栗林忠道 という名も 
兵士たちの 功績も 忘れ続けて来たのではないでしょうか。
もっとも 
教えられ 伝えられてこなかった 封じ込められてきた という事はありますが

国民が 涙を流して 慰霊してくれる事を 信じて亡くなった 兵士たちに対して 申し開きができません。

平成6年。
2月。

小笠原諸島 復帰25周年 を記念して
今の
上皇陛下と 上皇后陛下 両陛下は 硫黄島をご訪問されました。

上皇陛下

〇精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき
〇戦火(いくさび)に 焼かれし島に 五十年(いそとせ)も主(しゅ)なき 蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ

上皇后陛下

〇銀ネムの 木木茂りゐる この島に 五十年(いしとせ)眠る み魂悲しき
〇慰霊地は 今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ


硫黄島で亡くなった 日本兵の多くは 
火山の島ですから 地下要塞みたいなものをつくって そこに潜んでいたんです。
島は水を得にくいですね。

水が欲しい 欲しい という水分が枯れていって死んでいった方々がたくさんいらっしゃるわけです。


上皇陛下の 御製           精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

栗林中将の 辞世の句        国の為  重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき


栗林中将の 辞世の句の一文の 悲しき を掛けあわせ 引用なさる形で 御製をお読みになりました。

両陛下は 国民を代表して 

あなたたちを 決して忘れてはいませんよ


鎮魂と 感謝の意を お伝えになったのではないかと。
もれなく 1人 1人の 国民を想う 大御心 とは こういうものではないか と思います。

私たちも 何かに気付いた者から 語り継ぎ 目には見えなくとも
守るべきものを 守っていきたいと思います。



東条英機

東条英機は  裁かれた戦犯として 罪深い人だ 極悪人 と 戦後教育で教わるのですが

実際のところ どうだったんでしょうか。

戦後つくられた 歴史観で 東京裁判史観 一色に洗脳されてきたんですけれども 実際に 何があったんでしょうか。

一般的に言われる 
戦争犯罪者 というよりも 戦争責任者 なのではないでしょうか。

東条英機の 遺言書も 改ざんされていない 
東条英機の 良心の 血の叫び のような 正式な遺書が きちんと残されています。

東条英機 という人は 平たく言うと
普通の日本人だった と言います。



実直で 涙もろい 人情家 頑固で というような評価がありまして 
キャラクター像で言えば 波平さん。 昭和の親父像という感じだったようです。

下々の人には すごく優しいのですが 直近の者には かなり厳しい という事で
メモ魔 とか言い方 もあり 細かい指摘もあって 上司だったら 厄介だなぁ というあるようですが

独裁者 というイメージが強いという事を よく言われます。

しかし
真面目は 真面目 なんだけれども 
そこまで 恐れられるタイプ だったんでしょうか。

車中での 部下の証言で
熊本で聞いた 世間話の中で ある一家がいて 妻と 子ども 3人の家族なんですが
そこの 旦那さんが 戦地に赴くことになってしまい 
お子さんの 下の2人は 引き取られて 1番 小さな子を抱えて やりくりをしていたらしいんです。
でも
その 旦那さんが 亡くなられてしまったんだと。
その後 子どもは どうなっちゃうんだろうね なんて世間話をしていたら

東条英機が
戦争は 不幸な人を生んじゃうよね と言い 
その場で その家に 送ってやれ って
今でいう 10万円 くらいを ポッと差し出したそうです。
実際 
旦那さんが亡くなったという ご家族を 東条英機は知らないし 直接 関係はないけれども



そういう行動にでる というのは 人間的な愛情を感じますよね。
とりあえず 独裁者 のイメージは 湧かないエピソードです。

インドシナに 進駐した時も ゴムが手に入る地域ですので 軍部に回すと タイヤとか軍備に使用できるのですが
そこを まず一旦差し止めして
今 日本国内で 一番困っているのは 子どもたちだ と 
ゴムまり の生産をさせて それをまず 配給で配る という事をされました。

もともと 東条内閣は 戦争回避のために 日米戦争を しないための 組閣された内閣でした。

東条本人は 退役を考えていた時期だったのですが

首相になりなさい と言われた時に 

家に帰ってきて 
家族に 俺 ちびりそうだった と漏らしていたそうなので 想定外 だったようでした。

私を 首相にしろ と 野心家のイメージを植え付けるような 話もありますが 
東条自信 本人は 青天の霹靂。想定外の出来事だった との事なんです。

しかし
一時期は 6つくらいも 役職を兼務したがために 下に想いが 伝わらなかったんだろう と
昭和天皇は おっしゃっておられたそうです。 
これは
恐怖政治のように 全部 よこせ 俺がやるんだ と取られがちです。 

また
2018年 東条の発言をまとめた湯沢内務次官メモが見つかりました。

東条が 日米戦争開戦の前日 開戦の経緯説明を 昭和天皇にされた時に 

陛下が なにも おっしゃらずに理解された。
そして東条英機は この戦争は 勝った と 高揚した と書いてあるメモが見つかった
という 報じり方を されたのです。

実際 メモには高揚した とは書かれてなかったそうですが

東条英機が 開戦に向けて 喜んだ という 位置付けで 
新聞社が 高揚した と書いて報道したかったのか よくわかりませんが

開戦前日 昭和天皇に経緯説明をする その前日の夜 
自宅で 

皇居に向かって 
布団の上で 
正座して 
嗚咽している 東条英機の話も 家族からの話で あるんですね。
それを 聞いて 見たのは 妻の かつ子 ですが

かつ子の 憶測でしかないんですけども
そもそも 東条内閣の誕生は 日米戦争の 回避 が目的で それを 達成できなかった 
陛下に対する 申し訳なさで 泣いてらしたんではないか という話があるんです。

そうすると
この戦争 勝ったって 仮に 東条が言ったとしても その言葉の 奥底に潜む想いは

本当は 回避しなくては いけなかったのに できなかった無念さもあるでしょうし
それを 
陛下に対して 報告しなければならない 申し訳なさ

でも そこで  負けます。
とも 言えない 
色んな複雑な感情が あったはずなのに 

高揚した という言葉 が 1つ 新聞に載っただけで 完全に印象が変わってしまいますよね。

真面目な東条首相は 昭和天皇からの ご親任が 厚かったという事です。
本当は 昭和天皇も 総理大臣も 戦争を 回避 したかったんだと思いますね。

東京裁判で
日本の 海軍の戦犯は 0。誰もいません。日本海軍はベースが イギリスです。戦勝国の国です。 
日本の 陸軍のベースは ドイツ。 敗戦国です。

戦犯者。責任は 全て陸軍でした。
いわゆる 
海軍善玉・陸軍悪玉 というものです。公平性で見ると 何か腑に落ちない感じがしますよね。

東京裁判の戦犯者として 東条が 刑務所に連れていかれる という時に
東条英機は ピストル自殺を図った という話がありまして
これも 本当に自殺する気が あったのか とか 色んな説が ありますが

これも誤解されている事がありまして

そもそも 東条英機は 自決。自殺をする 予定ではなかつたんですね。
実際に その前日に メディアのインタビューを 自宅の前で 受けているんです。

だから
逃げも 隠れも しないし 
ただ 何をして待っていたかというと 官憲。警察関係の役人による 連行を待っていたんです。

待っていたら いきなり MP(米軍陸軍憲兵隊)が 東条邸を 囲んだために 自決したという話ですが

これは かなりの問題であるって事を 知ってらっしゃる方は かなり少ないです。

自決未遂が 起こった後に   

当時 外務大臣だった 重光葵(まもる)が 私邸も 公邸も 焼けてしまって無いので
帝国ホテルで 夜食をとっていた時に その 自決の報 を聞くんですね。

重光は ビックリして
GHQの本部まで いきなり MPが来て 東条邸を囲んだ。 話が違うと クレームを言いに行っているんです。約束が違う と。
その約束というのは

基本的には 連合国側に対しては 逮捕者の名前は 通告しますが
逮捕に関しては 官憲の手によって 行いますよ。
なので 連行は GHQは 手を出さないでくださいね っていう 合意を結んでいたんです。

それを いきなり 東条邸に MPが来た。 GHQとの約束が違う。どうなってるんだ と言うと

すると
あれ? 1週間前に 逮捕するって言ったはずですが と言われたんですが
これも 嘘で 
あまりにも嘘が多くて サザランド議長に どういう事になってんだ って聞くと

あ~そうだった。すまん すまん。 の一言で 終わってしまいました。
敗戦国は ずいぶん下に見られてたんです。

東条邸に 記者とか たくさん入ってきて
その悪態が 酷くて

略奪の限りも つくされましたし 
記者が 第一報を取りたいので 東条邸に 電話が 1個しかないので 順番に電話の前で待っていると

東条英機が死ぬか 賭けをするんですね。

自決未遂 していますから 中には記念品だ とかいって血を持って帰ろうとする者もいたり
カメラマンが到着して 入ってくると いい画が欲しいって 
息が ぜいぜい はぁはぁ の状態の東条を 
足を組ませたり 鉄砲の位置は こうだとか のやりようですから

このことは
東条英機 としては 懸念していた事なので
MP(米軍陸軍憲兵隊)が 来たら 何をされるかわからない。

国家の恥を さらしたくない  
恥ずかしめを受けたくない ということで 想定外の 自殺しようとしたのですが

未遂の終わったには
①心臓の位置が 人より若干 違っていた。
②本人は 左利きだった 
③自分の拳銃を 使っていないんですね。
これは

東条英機の次女の 満喜枝 の旦那 
古賀さん という人が 自決で使った 銃を使っているんです。

昭和20年8月15日 の宮城(きゅうじょう)事件。
青年将校が 近衛師団参謀と中心になって起こした クーデター未遂事件がありました。

古賀さんは 近衛師団長をやってましたので 何かよからぬことをするんじゃないか
という話が 回っていて

東条が
軽はずみな行動をするな と
これは 陛下のご命令だ という事を 伝えるんですね。
古賀さんも はい。わかっています。と約束したんです。

まあ 古賀は 何も起こさないだろうと と思っていたけれども 
宮城事件が 起こってしまいました。

古賀さんは 東条との 約束を守ろうとしたんですね。

でも もうすでに東条との約束をした 前日に 連帯式の署名が行われていて 
古賀さんは 最年少だったんので 断れず署名した後だったんです。

宮城事件の当日を迎えてしまい 古賀さんは現場にいきます。そこには 高級参謀は誰も 来なかったんです。
古賀さんが 青年将校たちに 指令を出す側になってしまいました。

クーデター事件未遂なので 自分が責任をとらなくてはいけない となり 切腹して 口に銃を入れて 自決する という事に
なってしまいました。

その時の拳銃なんです。

国家の恥を さらしたくない ということの自決でしたが 未遂となって
恥ずかしめを 受けてしまったのでした。

結果責任はありますが 戦中・戦後の 経緯・原因は 複雑なようです。戦争の原因は難しい。

靖国神社は A級戦犯を祀ってあるという事で 靖国参拝をするだけで 戦争を美化するものだと 言う方々がおります。

人種差別を受け 資源も絶たれ 追い詰められてしまったので 
日本から 戦争をするように 仕向けられてしまったんですね。

東条は 家族に 
開戦した時の 総理大臣なんだから 
戦後 俺の 自己弁護だけは絶対にするな と言っていたとの事です。

東条暗殺計画 未遂も含め いくつかあったらしいのですが
東条内閣が 倒れて。

計画中心だった 三浦義一 という方が その後直接 東条に会った時に 意気投合して
戦後の 家族の事。後処理は 俺がやってやる と約束をし

東条英機を 倒そうとした人が 東条家を 守り 

戦中 戦争を讃えていた 国民の多くが 
戦後 戦争の責任は 東条英機にある と言うようになりました。

敗戦に至るにあたり 
街を歩いていたら 石を投げれれるは 殴られるは 学校にも行けないは 
ご家族 遺族は ご苦労をされました。

世の中が 勝手に動いてしまう 難しさがあります。
もし 先の大戦のように 間違いを おこさないようにするならば 
断固とした決意と 行動をもって 正しい歴史に変えていくしかない と思います。


東条内閣は 歴史上 初の民族の平等宣言。大東亜会議 が東京で開催しています。 




石原莞爾

東条英機の先輩が 石原莞爾ですが 
満州事変をやったのは俺だぞ!なんで俺を 戦争犯罪人にしないんだ!と怒っていました。

自分が戦争犯罪人に指定されたら 東京裁判を根こそぎ 吹っ飛ばしてやるという勢いだったわけです。
日本に原爆を落とした アメリカの張本人が 第一級の犯罪者だ!とぎゃんぎゃん言いたかったようです。
それされたら
世界に報道されちゃうじゃないですか。
だから 石原莞爾を訴追すると 火の粉がかかるというか やばそうだから 本当に東京裁判が吹っ飛ぶ可能性があるというか

だから石原莞爾をほっとけ という事かもしれません。



昭和21年の5月3日から 東京裁判が始まるんですけれども 
石原莞爾は病気をしていまして 逓信病院に入院中でした。

GHQは 石原莞爾を戦争犯罪人ではなく 証人として東京裁判に呼びます。

東条英機をA級戦犯に持ち込むためには 東条英機と仲が悪かった 石原莞爾に色々しゃべらせたら 東条は不利になるんじゃないかという
意図があったのですが 

病院で 石原の 検事からの事情聴取が始まります。
東条英機は悪い奴だ と言ってほしいわけです。
しかし

初めから石原はけんか腰ですよ。なんで俺を戦犯にしないんだ から始まりました。
そして

今度の戦犯で 誰が一級の悪人か?と聞かれると そしたら始まるわけですね。

にやり 
とした石原莞爾は 
それを聞くか?と言って じゃあ答えてやろう。それは とるぅーまん大統領である。
と始まります。

枕元から一枚のビラを検事に渡して これを読め!とやるわけです。
それには
「もし日本国民が銃後の後に軍とともに協力するならば 老人・子ども・婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を祈願して反戦体制の気運をつくれ」

と書いてあるじゃないかと。大統領名で出されている。これは何だ!

国際法では 非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず 
非戦闘員を何十万人も殺した。国際法違反である。このビラが立派な証拠だ!
と述べるわけです。

そしたら検事が
一番悪い奴は 東条って言ってほしかったのに
とるぅーまんって言われて困っちゃうわけですね。

検事は そんな事は無い とそのビラは脅しじゃないかと言ったら 石原は 

はっ!?何言ってんの 脅し?   広島長崎に何落としたんだと。
第一級の戦争犯罪だ!!!  と言うんです。



検事は石原に 
あんたは満州事変に関係ありますよね。から始まり 起訴されている26人に対して色々聞くんですよ。
すると
知らない と
同じ質問に答えるのですが しつこく聞くので
最後 

知らねえっつってんだろ!

検事もけんか腰になって 
じゃあ明日まで思い出しとけ と言われたら 
石原莞爾は ブチ切れて 

バカヤロー!お前はなんて失礼な事を言うのかっ私は知らない と言っているんだ。
知らないものを どうやって思い出すんだ。知らないと 思い出すのは別の事だ。無礼者ぉぉぉ! と怒鳴り上げるわけですよ。

こんな話 いっぱい伝わっているんですよ。

ソ連の検事から尋問を受けた時の話で
日本の国体とは何か?と聞かれて 

それは天皇を中心でなければ日本は何も始まりません。と答えると
すると
ソ連の検事が クスクスッと少し馬鹿にしたように笑いを浮かべたんですって。

そしたら まぁ~ブチ切れた石原莞爾は 

は?お前今 笑ったな? といくわけです。
冗談じゃない。お前はすた~rんを信奉してるんだろう。
すた~rんの言うことは誰も反論もできないし 批判もできない。
こういう絶対的なものを信仰というのである。お前はその信仰を持っておきながら他の信仰をあざ笑うとは何事か!
無礼者ぉぉぉ!出ていけ!もう俺は何も喋らない!

通訳が 
まぁまぁ この人はソ連の軍人で そこそこ位も高く それなりの方なんですよ って言ったら 

人の信仰をあざ笑う奴とは会話もしたくない。出てけぇぇぇ!

ってやるわけですね。


翌年昭和22年5月 石原莞爾の地元の山形県酒田市で療養生活をしています。
証人として呼び出しを食らうんですけれども

療養中ですので もう東京には行けませんと言ったら 
東京裁判が 山形県まで出張したんですよ。



これ 石原莞爾だけですよ。

証人として 酒田法廷でも相当吠えるんですよ。

対米戦争の勝算について話をしました。

日本の戦力は
アメリカに対して非常に劣弱ではありましたけれども 
作戦よろしければ 必ずしも敗北するものではなかった。
と述べるんです。

そうしたら どよめくんですね。

日本はアメリカと戦争して馬鹿じゃなのくらいになっているのを 

「やりようによっては勝てたよ」

って言うので 
みんな そうなのか~ みたいな感じになったわけです。 この人以上に戦争が巧みな人はいませんから。

法廷が終わった この日の夜 
各国の通信社の記者が 

石原さん あの時の言葉 どういう意味ですか
あなたが戦争を指揮していたら どんな戦争をされたんですかとか 根掘り葉掘り聞くんです。

石原莞爾は
2時間以上演説をしちゃうわけですよ。
各国の記者を前に 

もし私が戦争をやったならば

「補給線を確保するのに
ソロモン ビスマルク ニューギニアの諸島を 早急に放棄し 資源地帯防衛に転じ 
西はビルマの国境からシンガポール スマトラ中心の防衛線を構築する。
そして中部はフィリピンの線に交代。
他方 本土周辺及び サイパン テニアン グァム の内用海洋諸島を一切難攻不落の要塞と化し
何年でも頑張り得る体制をとると共に 
外交的には支那事変解決に努力傾注する。
とくにサイパンの防備には万全を期し この拠点は断じて確保。日本が真にサイパンの防衛に万全を期していたなら 米軍の侵入は防ぐことができた。
米軍はサイパンを舵手できなければ日本本土空襲は困難であった。
それ故 サイパンを守り得たなら 
ボロボロなガタガタの飛行機でも何とか利用できてレイテを守り当然五分五分の持久戦で断じて負けてはいない」

このように述べたんですね。

石原の戦法は
「集中」 と 「突破」 ですから

ハイヒール戦法。女性が男性を蹴っても大けがを負わせることはないです。でもハイヒールの かかとなら別です。
力が弱ければ弱いほど 
分散したらまともに戦えません。
力が弱い時こそ集中して 「一点突破」でドーンと突くわけですよ。
ハイヒールの角でバーンって打つみたいな感じ。

それで点を確保する。
迅速に点をいくつか確保して線をつくり 線と線をつないで面を抑える。
こらが石原の戦法です。

弱くても互角に強い相手と戦ってしまう。
集中して ここと ここと ここは 難攻不落にする。

確かにそれをやられたら米軍はなかなか勝てなかった。
それを聞いた外国の通信社の連中も はぁ~それならそこそこ日本も戦えたでしょうね~ となって

続いて

戦時中 日本の軍隊は悪い事をしたというは部分もあるだろう。
しかし
戦場の興奮によって戦闘員を侵害するのは往々にして在りうること。
もちろん
忌むべき行為ではあるけれども 
これらの偶発的な事件と計画的な大虐殺と根本的に違う。
とるぅーまんの行為こそ 
戦犯第一級中の第一級の行為。
今日いかに戦勝国がこれを抗弁しようとも公正な第三者と 後世の人類によって歴史的な審判を受ける事は免れ得ない。
一国の大統領ともあろう者が かかる野蛮行為をあえてして 
しかも少しも恥じるところがない。
我々はこのようなものを相手にして戦った事は何とも恥ずかしい。

と述べたんですね。

日本軍って民間人の無差別虐殺とかしてませんからね。
それやったのはアメリカですから。
外国の記者たちは 

いやぁ ゼネラル石原の話が聞けて 勉強になったと良かった とか言いながら 炎天に水をあびたような気持ちです
とか言って礼を述べた人もいたらしいです。



ところが
石原の発言は言論統制下にありますから 日本のメディアでは紹介される事はもちろんないわけです。

東条英機と石原莞爾は 
犬猿の中だったんですね。現役時代大げんかして 石原莞爾が負けて左遷されたわけです。
ところが
昭和17年 ミッドウェー海戦で 空母4隻沈められて いよいよ日本どうすんの?ってなった時
東条英機は
先輩の石原莞爾を呼んで 
いったいどういう風にしたら この戦争勝てるのか って聞くんですよ。
すると
石原は それはいい方法がある。
お前がすぐに辞めろ。
あなたが戦争を指揮していたら絶対に勝てないよと 戦線を縮小しなければならないけど君には無理だよね。 と言ったそうです。

マッカーサーから
GHQから 
とうるーまんが第一級だとか 

この人 ものを規せずに何でも言える すごいわ 
という一定の敬意受けて
法廷を取材していた 日本の記者から あなたはよくぞまぁ 何でも言ってのける。
日本人の中の日本人だ と語った記者もいたそうです。





明治天皇

明治天皇は 何した人 というと 何もしなかったんです。
自分が これをやった とか これを成し遂げた という 
個人の名声 とか 個人の評価 というものには 全く 興味がなかったんですね。

いかに日本が 豊かな国になれるのか いい国になれるのか 人々が幸せで 平和な日々を 過ごせるのか
というのが 最大な関心ごとで

わたくしとか 自分 とか どう評価されるか 全く 何の興味も 無かった人 みたいなんですね。

なんかうまくいったら 国民のお蔭。大臣たちがが 軍人たちが 頑張ったから 努力したからのであって
いい事は 全部 みんなのお蔭。
悪い事が起きたら それは 全部 天皇である 自分の責任 という方で

手柄を持っていく という感んじではないんです。

乃木が 頑張った。
東郷が 頑張った。
伊藤博文が 頑張った。

国民が 努力した。
兵隊が 努力した。

自分が とか関係ないんですね。
だから 何をした って言われても 明治天皇 これをって ないんですね。

普通 歴史上に名を残した王は たいてい これをやった あれをやった って語られますが

本当に偉大な王 というのは 自分で何かをやった とかじゃなくて
ただ 存在するだけで みんんが 1つになって 国民が 最高の働きをすることができる。

そういう国があるとしたら その王は すごい王 だと思います。

明治天皇は 一見 何もしていないんですけども 
全てをした ともいえるんですね。

明治天皇は ストイックで 自分に厳しいです。
そして 誰よりも 国民を愛し 幸せを祈り続ける。

戦争の時は いつも 戦場の兵士たちと 同じ気持ちを持ち続けている という

そういう方の 前に出た時に どういう気持ちになるか って事ですよ。

もし 明治天皇 という方が だらしなくて 自分に甘くて という人だったら
総理大臣とか 軍の責任者という立場で 会った時に
まあ 自分も そんな感じで いいのかなぁ って思っちゃいますよね。

明治天皇が ストイックで 自分に厳しい方だからこそ 自分に厳しくなくてはいけないな と思いますよね。

自分の能力が 100だとすると
明治天皇から 頼んだ! と言われたら 120 できちゃうんですよ。130 できちゃうんですよ。

明治天皇という方は 1人 1人を 的確に信認し その力を 最大限引き出していく という
そういう役割を 担ったんじゃないかなぁと思うんです。

大日本帝国憲法が 審議された時も 全ての会議に 明治天皇が臨御されるわけですよ。
明治天皇が 見ていらっしゃる前で 審議するんです。
どれほどの 緊張感が 走ったと思いますか。
私利私欲。 党利党略。 いろいろな 有象無象の こうなったら うち等のグループ 得する とか
頭をよぎる隙間も なかったはずです。

誰よりも 日本を愛している 明治天皇が 見てらっしゃる。
その前で わたくし自身の利益なんか そんなものは どうでもいいい というか 
みんな日本の将来の事を 真剣に考えたはずなんです。

もちろん ご発言は無いです。的確にアドバイスする とかそういうのじゃあ ないんです。
何もアドバイスはしません。何も意見は 述べません。
でも
誰よりも 国民を愛し 
誰よりも 平和を愛し 
誰よりも 自分を 律している方から

頼んだ! と。言われるから みんな最大の力を出すわけなんですよね。

明治天皇にまつわる話の 1つ 1つは すごいなぁ と思う逸話が多いです。

日露戦争が始まると 明治天皇は 食を減らすんですね。

兵士たちが 戦場で ろくろく食事が 食べられていないって知っているわけですよ。
なので 明治天皇は お米と 梅干だけ。

天皇が ですよ!?

伊藤博文が 見ちゃったんですよ。

報告する時効があれば いつでもしなさい。
天皇である 私が 寝ている時でも 構わない。 食事をしている時でも 構わない。いつでも報告するように。
という事だったので 
お昼の時間であることを 承知に 上がって報告しようとしたら

明治天皇が召し上がっている 昼ごはんを チラ見してしまうんですね。

伊藤博文は ビックリ します。  ご飯と 梅ぼし。 以上。

自分の方が いいもん食べてるわけですよ。

たまたま急に 報告に来たから 見せる必要もない ご飯が 見られてしまったんですよ。

それを見た 伊藤博文はショックを受けるんですよ。
そこまでしてね
戦場の兵士の事を 想ってらっしゃるのかと。

明治天皇も このような食事をしているとは 自分から言わないし 公表も 発表も しませんよ。
兵士の事を想うと 美味しいものを たらふく食べるなんて気に ならないわけですよ。

普段から そういう気迫が伝わってきます。明治天皇は 自らを律していらっしゃるんだなぁ と。
皆 知ってたけども 見てしまうと あぁぁ~ そこまで。 となるわけですよ。

明治天皇は 日本の未来のために 自分に厳しい方。
ですので 
喉が痛い とか
寒い とか 暑い とか
眠い とか

自分に 関する事は 一言も おっしゃらなかったそうです。

虫歯になっても 痛さに耐え抜いて 一言も 痛いも何も おっしゃらずに ついに治療も お許しにならなかった
という風に 伝えられているんですね。

一君万民のため 民を混乱させないように
自分の好みも 
自分は これが好き これは嫌い などは一切 おっしゃらなかったそうです。

ですから 明治天皇に接した 多くの人たちは 
何とか日本を守りたい。日本人を幸せにしたい。世界を平和に導きたい。
そういう想いで 必死になって 仕事をしたんですね。

その結果 
1968年 明治元年 慶應4年ですわ。
この時の日本なんて まだ産業革命もないですし 兵器は 刀 しかなかったし
たった 4隻の 船が来ただけで 外国の言いなりになっていたわけです。植民地にされてしまう。

その日本が 明治時代を通じて 劇的に変わったんですよ。

清    と戦って 勝ったんですよ。
ロシア  と戦って 勝ったんですよ。

日本と イギリスは 同盟国になったんですよ。
不平等条約を 解消していって 憲法をつくり 法律をつくり 法治国家となり
議会を設置し 議会で民主主義的に 物事を決めていく。
世界の列強グループからは 信頼に至る パートナー だと見られるようになったわけです。

そして 研究 開発 産業 農業 工業 いろいろな分野で 日本は経済を積み上げていきまして

明治元年に 掲げた 富国強兵という 日本は 強くて 豊かな国になるんだ。
それでいて 初めて 外国からの侵略を 受けない国になる。

みんなで 経済を高めて 近代化 を果たしていったわけです。

これは
明治天皇ですよ。明治天皇がいらしたから 国民の気持ちが バァーン と1つに まとまったわけです。
朝鮮みたいに 内紛 内輪もめしている場合じゃないですよ。

挙国一致。一致団結して 国を豊かにしていこう。近代国家になっていこう と
みんなで 力を結集したからです。

もちろん 日常の 政治事の 意見の対立は あるでしょう。
でも 1つの 目的に向かっての 大方針には みんなが乗っかってたんだから。

よく 天皇の事を 扇の要 に例えるえる人がいます。

扇というのは 扇子ですね。 1か所で ピンで止めてるんです。広げた所の軸になる 要。
あれは ピン 1本外したら 全部バラバラになります。
ピンが 1本入っているだけで 全部が一体と なっているわけです。

天皇がいるからこそ 日本が 1つ に束ねられている。まとまっているというんですね。

明治天皇は 日本が こうなったらいい。 みんなが こうなったらいい。
みんなが 幸せになるのを しっかりとイメージして 日々祈っていらっしゃて 
その 緊張感。お姿が 重臣たちに 伝わっていくわけですよね。

朝鮮にも 中国にも 立派な人はいる。
でも なぜ 日本だけ 早期に近代化できたか。
外国を寄せ付けないどころか 植民地にならず 国を守れたのはなぜか。
ロシアと戦って 勝つほどの強国に 短期間のうちになったのか。

日本は 戦国時代や 内乱になっても どこかで ピタッと止んで 元に戻りますよね。 
また天皇の下に 戻ろう と また 天皇がいるからこそ 抗争が治まったりするんです。

ともすれば 個人主義。個人的な闘争 とか 利益の奪い合い とかになりがちなところを
みんなで 良くしていこう という 
日本人の心の中に 
私は みんなのために 何ができるだろうか
自分は どう振舞ったらいいか という 公の心 気持ちを持たせる というのが
日本人が 一致団結する事になる要素 なんです。

色んな 要素がありますが 外す事ができないのは
明治天皇です。

なので 明治天皇 は何をした人ですか?
と言われても 1言で言うのは 難しい。

ただ 明治天皇が いらしたから みんなが 一致団結して 日本を近代化する事ができた。
いうなれば 日本を近代化に 導いた存在だったという事です。

そして 明治大帝。明治天皇のお側には 影法師のように 12歳 年下の 主君 を支える 徳大寺実則がいました。




満 59歳。明治天皇は 崩御されました。
明治時代は 45年 続きました。




大正天皇

明治時代 と 昭和時代は 激動する国際社会で 列強グループの餌食にならないか 
必死になって発展させて 国を守っていこう という時代だったんですね。

大正天皇の時代は 完全に世界の大国入りを果たすんです。

なので 厳しい 2つの時代に挟まれて ポッ とオアシスのような 
短い 15年間でしたが 大正時代になります。

明治45年7月30日 明治天皇が 崩御あらせられます。

崩御の瞬間 直ちに 当時 皇太子でいらっしゃいました 大正天皇の ご即位 となります。

大正天皇は お子様は 4方 いらっしゃいました。

第一皇子 裕仁(ひろひと)親王 (後の 昭和天皇)
第二皇子 雍仁(やすひと)親王 (秩父宮)
第三皇子 宜仁(のぶひと)親王 (高松宮)
第四皇子 崇仁(たかひと)親王 (三笠宮)

称号 として 親王。 
直接 お名前を呼ぶのは 申し訳ないので 宮号 があります。苗字とは違います。

多くの人がうらやむような 素敵な家族。理想的な家族像。
そんなものを 現在の 皇室から 読み取るような人が多い と思うんですけども それは
大正天皇から なんですよ。

第二皇子 秩父宮殿下が
お爺様にあたる 明治天皇には 春・秋とお誕生日。 しかも1回あたり 表御座所で 1分程度の拝謁。
お孫様の方から ご挨拶を申し上げ 
明治天皇からは うなずくだけ。以上。 みたいな。

1度も 祖父の 肉声をうかがったことがないのだ。御前に行って お辞儀をすると かすかに お唇の動くような気はしたが
ついぞ お声は聞かなかった。
と 語っています。

第一皇子の 後の 昭和天皇。裕仁親王は もうちょっと 明治天皇 とお過ごしになる お時間があり
表御座所のわきで 少し遊ぶ事があったらしいのですが 
弓や 輪投げもたいなもので 命中したりすると 明治天皇は

よしっ!  とか  んぅぅうんっ! とか おっしゃった という記録がのこっています。
よしっ!  とか  んぅぅうんっ! ですが
それでも 最大限 孫と遊んでいる風景なんです。


明治天皇より以前は 家族そろって というのは 一切見えなかったんですね。
明治天皇が お出かけの時は いつも 1人です。皇后と一緒に お出かけになるというのは ありません。
写真もお好きではなかったご様子で 家族とのお写真は 1枚も残されていません。

大正天皇は 写真も大好きでたくさん残されています。
 ざっくばらんで  開明的で 人懐っこくて 何でもよく お話になる という ご性格でした。

明治33年 三重・奈良・京都 に 皇太子 としておいでになった時
京都帝国大学附属病院 で 2名の 患者さんに 声をかけたって言うんですね。

それって 今聞いても何も驚きませんよね。
ところが それは 日本の皇室 始まって以来と 言ってもいいんですよ。



明治天皇の 時には 多少 会える人も増えてきましたけど
孝明天皇の 時には 一般の国民が 天皇 と会話をする という事は 絶対になかったんですよ。
ありえなかった。
そもそも 天皇 の外出自体が無いんですね。

孝明天皇が 譲位の祈願で 下鴨神社・上賀茂神社・岩清水神社に 幕末の時 お出かけになった というのは
これだって 250年くらいぶりの 外出でしたからね。

江戸時代 幕府によって 火事で焼け出される場合は別ですが 天皇の外出は 禁止されていましたから
天皇の外出って 200年くらいなかったんですよ。
という事は
皇居の中に 入れない人は 会えるわけないんですね。一般国民は 会う事ができない。

大正天皇が いきなり 患者に声 をかけた。
これ
大事件 だったんですから。

また その年
九州の 小倉から 熊本に 移動する時に 鉄道をお使いになったんですけども
一緒に 福岡県知事が 乗ったんですね。

天皇が 政治家と一緒の客車に乗る という事は 基本ないんですね。
ただ 皇太子だったので

まぁまぁ 乗りなさいよ っていうお言葉もあり
いいんでしょうか? という事になり いいから いいから と同じ車両に乗ったわけなんですね。

そして いきなり こう おっしゃった って言うんです。

汝は 煙草を 好むや?  と。

あんた 煙草 吸うの? っていう感じです。
ええぇぇー!?  煙草ですか? いや 吸いますけどぉ? みたいな。

じゃあ これ 吸いなさい と言って 皇太子から 煙草をもらうわけですよ。
こんな事は 神武建国以来 初めての事なんですね。

この 福岡県知事 煙草を勧められて もう ビックリしたわ と 驚愕したという 逸話が残されています。

貴い方が 質問をされる 御下問 は 
明治天皇の場合は あまり無かったらしいんですね。

明治天皇は 相手から言われる事に ぅんんんっ! よしっ! と うなずくだけ という感じだったらしいんです。

大正天皇は 色んなものに 興味を持つ方 だったんですって。

ところで これは何なのか? とか
お前は これが好きなのか? とか 分け隔てなく 色々とお話になる という事で 
行くとこ 行くとこで 多くの人を驚かせた という事です。 

行く場所も
ちょっと あっちも 見てみたい
こっちも 行ってみたい  など お立ち寄る場所の追加とか 経路の変更とかが あったそうです。

大正時代は 安定した 明るい 自由のある 時代だったので
大正天皇も 自由闊達で 明るい方だった という事です。

明治時代は 天皇の子どもは 天皇と一緒に住む という事は許されませんでした。
天皇 天皇で 宮中にいらして 子どもは お母さん。聖母の実家で 育つ というのが 基本だっんですね。

大正天皇は
大変な 子煩悩で 4方の お子様と遊んで いらしたという事です。
親しみを持っている 今の皇室像。基礎は 大正天皇がつくり上げたものなんです。
節子皇后陛下は ピアノが お上手だったそうです。御所に ピアノがあるわけです。
皇后陛下が ピアノを弾き ご家族や 使いの方々も 一緒に 合唱したりされたそうです。

大正元年。 明治45年ですが
大正天皇は 京都に 桃山行幸をなさいます。桃山御陵 と言って 明治天皇がお隠れになった 明治天皇のお墓です。
そこへの 行幸に
お召列車に 大正天皇は何の躊躇もなく まぁ一緒に乗りなさい と 
後の 総理大臣。 当時 内務大臣を務めていた 原敬 と乗る という事もありました。
また
大正天皇のお写真が よく新聞に載るようになりました。
こぞって 地方の新聞も お出かけになる度に 写真が撮られ 報道されると

それを 面白がって 大正天皇も 新聞をご覧になるらしいんですね。

明治天皇は  外国の政府との 絵葉書とかの やり取りとかで 御真影が必要な場合でも 一切写真を撮らせない。
公式な 肖像写真がない事に 困ってしまって
イタリア人の 画家・版画家の エドアルド・キヨッソーネ に肖像画を描いてもらったほどです。
これも
外国人に 絵を描かせるなんて 明治天皇から お許しが出るわけがない と
しょうがないから キヨッソーネ を 宮中に忍ばせて ふすまの陰から 見させるんですよ。のぞき。
それで
いいか 覚えたか 覚えてか いや ちょっと待ってください みたいな
ふすまの陰から見て 写生して また見て 写生して 
って 描いたのが あれですわ。



面と向かって 写生じゃ ないんですよ。 
気づかれないように 気づかれないように ふすまの陰から見て描いた これです。

一応 明治天皇に 見せたらしいんです。見せたら

終始 無言だった  そうです。 
良いとも 悪いとも 一言も言わなかったらしいです。

大正時代は 大正時天皇の 御尊影 が 学校・病院に貸しされたり 絵葉書や切手になったり
国民と 天皇 の間が ぐぐぐぐ~っ と近づいたんです。

でも
大正天皇は ご病気 とか 頭がおかしかったんでしょう とか言われる事が あるんですが
頭が というのは

誤解 です。

実際には 非常に 聡明な方でして 
何事にも ご興味があって 色々な人とお会いになって 御下問になる。
これは 大正天皇 から 今に至るわけです。

ただ 大正天皇は 病弱だったんです。皇太子時代も 多少 お体が弱くていらしたんですけども
自由闊達に 色んな所に お出でになっていました。

明治時代に 大韓帝国を併合しましたよね。朝鮮が日本になりました。
大正天皇が 皇太子時代に 朝鮮にいらしています。そういう歴史的な事もありました。

大正時代は 第一次世界大戦 があるんですけども
これは ヨーロッパが 主戦場になりました。アジアでは ほとんど戦闘が なかったんですね。
アジアに ドイツが権益を 持ってたんですけども そういう所に 日本は関わっていく事になるんです。
そして 日本は戦勝国側になります。国連の常任理事国になります。

しかし
大正時代も 後半になりますと 緊張の時代へ 入っていくわけです。

第二次世界大戦に行く前には 
日華事変も 満州事変も ありましたし 戦争の時代へ どんどん進んでいくんです。

なので
これから 戦争が起きてくるであろうに 明るくて 開明的な 天皇の存在が 逆に邪魔になってくるわけです。
だから
緊張の時代に入っていくのに 周りから 天皇だけ 抜いてしまうような感じになるんですね。
大正天皇は 頭がおかしい みたいに言われて 
政治家たちに 歴史から封印され 葬り去られていった感じがあるわけです。

歴史を学ぶのに 大正時代は 流されていく というか 大正時代は 短かったし 天皇はすぐ 死んじゃったし と
まるで 無かったかのように扱われる傾向があり

大正天皇について 語られる事は ないですよね。


今だったら 何の違和感もなかった と思うんですね。



昭和天皇

現代の若者。大学生に 昭和天皇って どんなイメージがあるか を聞いてみたところ

ひっトラ~ の日本版 でしょ? という答えがあったとの事でした。倒れそうになりますが
そう思われても おかしくないような 現在の日本の教科書なんです。
日独伊三国同盟 の 三大悪の枢軸 みたいな感じで 連合国は天皇を なじったわけです。 

昭和の時代 = 戦争 暗黒 白黒 
昭和天皇は 戦争を始めて 世界に迷惑をかけた 悪者。というイメージがあるらいですね。

そろそろ 修正しないと 手遅れになります。


昭和天皇は 憲法に定められた 天皇の在り方を
とことんまで 追及された方です。



幕末の激動の時代 孝明天皇は 宮中祭祀 に全てをかけた方でした。歴代天皇は 祈りが第一ですが
特に強方 だったという事です。

明治天皇は 人間味 とか優しさ は見せない方。憲法に定められた 天皇を とことん貫いた方。。
ですから 日本のために 自分に厳しい方でした。

大正天皇は 優しいイメージなんです。皇后と寄り添いながら 子どもたちを 直接自分たちの手で育てる という事もされました。
国民にも 親しみを込めて 気軽に お声をかける。

この お三方の帝の 気質を それぞれバランスよく体現なさったのが 昭和天皇のようです。

孝明天皇の 焼き打つしか と思われるくらい 祭りに真剣に 取り組まれ
明治天皇のような 厳しさをお持ちになられ 立憲君主国の 天皇の在り方を 極限まで鍛錬され
大正天皇のような 優しさ。皇后陛下と 仲つつまじく また お子様方を お傍でお育てになられました。

第二次世界大戦 が始まり
大東亜戦争。いわゆる 太平洋の戦争で 
日本は アメリカを中心とする 連合国と戦わなくてはならなくなりました。

東京大空襲。広島・長崎の 原爆投下。太平洋の島々の防衛戦。沖縄地上戦。特攻作戦。
そして 
終戦の 御聖断。 
ポツダム宣言受諾。

昭和20年8月15日 
ご自身の身を捨てても 国民を救いたい という 昭和天皇 の御決意が 全国民に示されました。

爆撃に たふ(お)れゆく民の 上をおもひ(い) いくさとめけり 身はいかならむとも

爆撃の被害で死んでいく 国民のことを思って戦争を終わらせた。自分の身は どうなってもかまわない。
昭和天皇が
この御製を お詠みになった 終戦直後 御歳 44歳でした。

マッカーサー との会見の後  
日本の再建と 1人でも多くの国民と会って その 1人 1人を慰め 励ましたいと 全国御巡幸 が始まりました。
当初は 宿泊施設も 破壊されたままですので 
列車の中や 学校の教室の お泊りの事もありました。

子どもたちにも お声をかけます。
どこから?
おいくつ?
立派にね。元気にね。
お寂しい?
仏の子どもは お幸せね。これからも立派に育っておくれよ。

昭和天皇が はたはたと涙を流されました。

みほとけの 教え守りて すくすくと 生い(おい)育つべき 子らに幸あれ

仏様の 尊い教えを守って すくすくと成長するはずの 子供たちに 幸せが必ず訪れてほしい。
この 昭和天皇の 御製は 佐賀県の因通寺 境内に立っています。

全国御巡幸は 昭和21年2月 から 昭和29年8月 で総工程 3万3000km。
お立ち寄りは 1411 か所。

日本は 戦後復興 を成し遂げていきました。
そして 経済大国になりました。



しかし その仲でも 昭和天皇は 戦争の苦難の歴史を 常に 心に留められ 戦没者のことを偲ばれました。

昭和63年8月15日
重いご病気にも 関わらず 全国戦没者追悼式に 臨まれました。

現在の 上皇陛下ですが
この時 
皇太子殿下 のご出席を と側近の人は ご名代を考えましたが

どうしても 自分が行かねばならない と ご出席になられました。

ご病床にあっても 常に 
戦没者の事 
稲の作柄。昭和63年の 秋は雨天が続いたので 

雨天が続いているが 稲のほうは どうか としきりに ご心配されていたと言います。

昭和64年1月7日
昭和天皇は 崩御あそばされました。 御年 87歳でした。



上皇陛下 上皇后陛下 慰霊の旅 

昭和天皇から受け継ぐようなかたちで 慰霊の旅をなさる事となります。

300万人以上の日本人が 命をおとしました。
祈り というのは
鎮魂の祈りが まず一つですね。

東日本大震災に代表されるような 災害にあたってですね 両陛下が 被災地をご訪問になって
傷ついた人々を 元気づけ 勇気を与え 亡くなった方々に対する慰霊もなさってくださいますよ。

天皇の祈り
というのは 幅広くお祈りをなさいます。

天皇とは祈りである。

憲法に 天皇の国事行為 といくつも書かれていますが
憲法に書かれていなくても お役割はたくさんあるのですけども 
その中心は 何か と問われれば それは

祈る存在 だという事になるでしょう。

天皇の祈り というのは決して 憲法に書かれているわけでもなく
法律が 命ずることではなく 

そこの天皇の本質がある という風に言います。

天候が悪ければ 天候の回復とか 作物が取れる 取れない 
常に関心がおありですし 
日本全国の 様々な自治体・団体が取り組んでいる事。
どういう成果がでるのか でないのか。

天皇が お詠みになった 和歌。御製(ぎょせい) と申しますけども

上皇陛下の御製を拝読していますと 
四季の移り変わりから始まって 
日本の日本人の あらゆる活動に 関心を示してらっしゃるという事
関心の広さというのはが痛いほどよくわかります。

皇后のお詠みになった 和歌を 御歌(みうた) と言います。

天照大御神が 邇邇芸命(ににぎのみこと)に 

地上世界に降って 国を知らせ とおっしゃった。

日本とは 天皇が 知らす国である。
その時代 その時代に天皇が 国民に絶大なる 関心を寄せる。そして幸せを祈る。

それが 日本の国体の 根幹にありました。

それを余すことなく 平成の時代も受け継ぎ 
それが 令和の時代にもつながっている という事です。

そのような 両陛下のお姿を拝して 
私たち日本人は 天皇をはじめ皇族方の事を敬愛し みんなで力を合わせて 
日本の社会のために
日本の国のために
努力を積み上げてきた。それで 日本の国も繁栄してきました。


天皇の祈りは 宮中祭祀 という形で行われます。
皇居には お宮があるんです。これを 宮中三殿 と申し上げます。

中央に 天照大御神をお祀りしてあり 
歴代天皇と 歴代皇族方をお祀りしてある お宮。  八百万の神々を お祀りしてある お宮。

その3つで 1つにまとまって 宮中三殿 と申し上げます。年間を通して おびただしい数の祭祀がおこなわれます。
 をまとって 天皇陛下のみが 着る事が許される 
袍黄櫨染御(こうろぜんのごほう)という 特別な装束をまとって 祭祀をなさいます。


天皇の祈りは 宮中三殿 だけでおこなわれるわけではなく 

朝起きて 夜お休みになるまで 1日 1日 日々国民のことを知り 祈り
和歌を お詠みになります。

五七五七七。 全部足すと31 になります。和歌を 三十一文字(にそひともじ) と表現することもあります。

和歌を 詠むこと自体が祈り なんですね。

天皇の御製というのは 公開する事を 原則としていません。
天皇の祈りは 非公開です。政治利用されてしまう事にもなりかねません。

その一部が公開されているという事です。

和歌。御製を詠むことが神事であり 
五七五七七 というのは 神様の作法であり 神に直結するリズムなんですよ。
そして 
祈りには 嘘がない という事なんです。

神様はお見通しです。そもそも 神様を騙せるなんて思ってないでしょう。

和歌を 御製をお読みになるときに 邪心とか 私利私欲とか が何もない。非常にピュアな御製が多いです。
これは歴代天皇の 本心です。なぜならば 神様を騙そう という人はいません。


硫黄島は
激戦地でした。 2万人近い 日本の守備隊が玉砕した場所です。多くのアメリカ兵も 命を落としました。

あそこが落ちたら日本中が空爆されてしまうという 危機感の中で体を張って 
この島だけは守らなくては ならないという想いが そういう戦いに導いたのだと思います。

硫黄島は 自衛官の基地がありますので 自衛官が若干名 住んでいますけども それ以外 住民はいません。
定期航路もありません。
飛行機でも行くことはできません。
遺族が決められた日に 特別なヘリコプターでいくことはあるんですけども
観光などで行く事はできません。

そこに 上皇と上皇后両陛下がいらしたわけなんです。目的はたった一つ。

慰霊ですね。
硫黄島でも 御製・御歌をお読みになりました。


上皇陛下

〇精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

〇戦火(いくさび)に 焼かれし島に 五十年(いそとせ)も主(しゅ)なき 蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ


上皇后陛下

〇銀ネムの 木木茂りゐる この島に 五十年(いしとせ)眠る み魂悲しき

〇慰霊地は 今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ


硫黄島で亡くなった 日本兵の多くは 
火山の島ですから 地下要塞みたいなものをつくって そこに潜んでいたんです。
島は水を得にくいですね。

水が欲しい 欲しい という水分が枯れていって死んでいった方々がたくさんいらっしゃるわけです。



上皇陛下の 御製           精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

栗林中将の 辞世の句        国の為  重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき


栗林中将の 辞世の句の一文の 悲しき を掛けあわせ 引用なさる形で 御製をお読みになりました。



ペリリュー島

上皇陛下

〇戦ひに あまたの人の 失(う)せしとふ 島緑にて 海に横たう


上皇后陛下

〇逝(ゆ)きし人の 御霊(もたま)かと見つむ パラオなる 海上を飛ぶ 白きアザラシ


その後 最も多くの日本兵が亡くなった場所 フィリピンでの慰霊。


平成から令和の御代変わりの 譲位のご意向を表明するにあたり

これと これと これだけは済ませておきたい という 上皇陛下の お考えがあったのではないかな と思います。
全部は回れないにせよ 
慰霊の旅の 集大成ができたのではないかな と感じております。

慰霊の旅は 終わりがありませんので

令和に時代
現在の天皇陛下が お引継ぎになるのではないかな と思います。


東日本大震災 の時には 
日本人が一つ になる という感覚 がありました。
何かしたい何か 自分にできないだろうか という気持ちに なったんですね。

大きな災害にまみえた という事も もちろんですが

当時の 天皇陛下。現在の上皇陛下ですけれども
ビデオメッセージ を発せられたんですね。

国民の事を 本当に案じていらっしゃる お気持ちがテレビを通じて 伝えられました。

苦労していらっしゃる方への 労いの言葉もありましたし 何とか生き延びてほしい という気持ちも お伝えになられました。

天皇陛下のお姿を見て 
また居ても立っても居られないと ボランティア活動をされた方。寄付をされた方。いろんな人がいたみたいですけども
もちろんわかっているんですけども 
心の底から 本当に国民の事を 我が子のように 愛していらっしゃるんだな という事が 伝わってきました。

救助 救援の妨げになる 復興の妨げとならないように 少しをおいて落ち着いたころに 両陛下が被災地を ご訪問になりました。
東北の東側 ほぼ全域が 大きな津波の被害を受けたものですから たくさんの場所が 被災地が広がりましたよね。
泊まると 地元に負担がかかるので 毎回 毎回 日帰りで 東北を往復なされた という事で 被災地を回って 激励 なさるわけですね。

たくさんの方が 亡くなりましたからね 一番の目的は 慰霊 にあるわけです。
慰霊を なさり 生き残った方に 激励の言葉をおかけになりました。

両陛下が 1か月くらい前にいらしたという避難所の 仙台で被災した方々に どうだったですか と聞くと
みんなが 思い出すだけで 涙が出る と言って みんな泣きはじめちゃったんですよ。

その中の 1人の方は 自殺するつもりだったんです。
集落ごと流されて 家族・親戚 みんな死んでしまって 自分だけ残ってしまって 最初は気丈夫で 何とか生きようと頑張っていたけれども
そのうち 何で私だけ生き延びちゃったんだろうと 生き残ったことを後悔し
いつ死のう いつ死のう と どこで首を吊ろうか 考えてたんですって。

そうした 天皇陛下がいらして 声をかけてもらったら 途端に生きる力が 湧いてきたって言うんですね。
死ぬつもりの人が 生きるつもりになるって 天皇陛下が どんな お言葉をかけたんだろうと聞いてみたら
もう 言葉は覚えていない。 でも 1つだけ強烈に覚えている事が ある って言うんですね。

これまで いろんな人が来たって言うんですけど 
知事だ 大臣だ 議員だ って大丈夫ですか とか優しい言葉をかけて 有難かったけれども 他人事に聞こえて

天皇陛下に声をかけられた時は 愛されている って思ったんですって。

この世の中 自分を愛してくれる人は もういない と思っていたのが いた!っていう話です。

天皇陛下ですよ。

私の事を 本気で 心配して下っている。愛して下っている。 と思った途端に 生きる力が 湧いてきたって言うんですよ。

それほど 天皇陛下が 1人 1人 の事を 我が子のように愛し 語りかけていたんだな とわかったわけなんですね。

じゃあ 普段から皇室の事を 敬愛してたんでしょ?
って聞いたら そうでもないのよ って言っていました。皇室なんて 無くてもいいと思ってたのよって。
でも 理屈じゃあない。 愛を感じた って言っていました。

天皇皇后両陛下は 身内を見舞っている。我が子のように

平成の時代になって 朝夕 朝夕 毎日毎日 国民の幸せをを祈り続けていた
その 1人 1人の国民が 東北で被災者 となって苦しんでいる。

愛してるふりの お芝居でできる事じゃ ないですよ。そんなもの 伝わるわけないですからね。

天皇皇后両陛下は 何の計算も 打算もない。 直 ですよね。
それに接した人たちが こんなに心配してくださってたのか こんなに私たちの事を 愛してくださってたのか
と 感じる事が 許されたんですね。



平成7年1月17日の 阪神淡路大震災 の際 
発生から間もなく 兵庫入りをされた 現在の美智子上皇后陛下 が 希望 と 尊敬 という 花言葉の
水仙の花を 手渡しました。

東日本大震災では 大津波に襲われた被災地でも 水仙が頑張って 花をつけていました。
それを 今度は 激励にいらして下さった 上皇后陛下 に 

頑張って咲いた 10輪ほどの 水仙を 
この水仙のように 頑張るので もらっていただけますか?と差し出し

上皇后陛下は ちょうだいできますか? と大事そうに お持ち帰りになられた という話があります。


上皇陛下の蔭では 
美智子上皇后陛下 のお支えが ありました。
プロポーズされる時に 上皇陛下は 
私的な事の前に 公務が最優先で 国民を守らなくてはならないから 

妻というのは 二の次になるけれども というような主旨を おっしゃったんですって。

そうしたら 上皇后陛下は わたくしが この方を お守りしなくては ならないと思ったとのことです。

上皇后陛下は 上皇陛下を 
当時の天皇陛下を ひたすら支えるという 美しい お姿でした。

昭和50年 ひめゆりの塔事件が起こりました。 昭和の時代 当時 平成の天皇は 皇太子でした。
美智子様は 皇太子妃殿下 だったわけです。

沖縄が アメリカから返還されて 間もなくの事です。
大変残念な事に ひめゆりの塔で 火炎瓶を投げつけられる という事件が起きてしまったんです。
ですから
昭和天皇は 沖縄に行くという おつもりだったんですけども 
皇太子で 火炎瓶なのだから 昭和天皇は 行けなくなってしまったんです。

普通だったら すごい火柱が立つ 火炎瓶は 怖いですよ。それも いきなり飛んできたんですから。
この時に 美智子皇太子妃殿下は 微動だもせず 皇太子殿下を かばうようなしぐさを なさったという事です。
殿下を お守りするんだ という強い意志 の現われですよね。

平成4年 山形県での べにばな国体の 開会式で 
平成に時代に入ってますから 天皇陛下がですね 開会のお言葉を 述べていらっしゃった その時に
何者かが 発煙筒を 投げつけました。
警備員が ブァ~ッ 来て その男を捕まえる。そして 連れていく。 という事が起きたんですけども

何者が 走ってきた時に 皇后陛下が  手を出して さっと天皇陛下をかばう 守る仕草をされるんです。
もしかして 拳銃・刃物を持っているかもしれない。
でも女性の きゃぁ~っ っていうのじゃないんです。

そして 天皇陛下は 何事もなかったかのように お言葉を述べ続けるんです。神々しいと思いましたよ。

平成24年3月11日。東日本大震災 1周期の追悼式典。
この時は 皇后陛下は凄い と思いました。

なぜならば
天皇陛下が 震災の後 被災地ご訪問もあり ご心労もたたり 2万人亡くなってますからね。
ついに
病に倒れてしまったわけです。

心臓のバイパス手術を お受けになるんですね。
でも 天皇陛下は 東日本大震災の 1周期式典には 行かなければならない と強いご意思をお持ちになっていらしたんです。

でも 術後回復が あまりよくなかったんですね。
侍従たちは 万が一の事もありますので ご出席は お取りやめ下さい と申し出たんですけども

天皇陛下は いや生きている限り  何が何でも行く と。這ってでも行く。という ご覚悟だったらしいんですね。

無理を押して たどたどしい感じでしたけれども 
自分は 天皇として 何でも何でも この 追悼式典には 行く。と追悼のお言葉を 述べなくてはいけない
という 強いご覚悟が あったんだと思います。

何が言いたいかというと
皇后陛下 なんですよ。

美智子皇后陛下は この日 あるご覚悟をもって 天皇陛下のおそばに付きそうんですね。

普通 こういう時は 天皇陛下は モーニングで 洋服の 喪服。
皇后陛下は 黒のドレスに レースでお顔がお隠れになる お帽子とで 洋服の 喪服です。

この日
皇后陛下は 和服の 喪服を お召しになってらしたんです。

喪の席に 和服でお出でになったのは 

天皇陛下は 大変体調がよろしくない すぐれない中 この式典においでになります。
途中 倒れたりするかもしれない。
その時に お支えするのは 自分しかない という風に 皇后陛下は おお示されたそうなんです。

舞台袖の人が 走ってきても 間に合いませんから。
天皇陛下のすぐ脇にいるのは 皇后陛下です。

天皇陛下に もしもの事があったら 自分が下敷きとなってでも お支えしなくてはいけない。
であれば
洋服だと ハイヒール になりますよね。
ハイヒールだと 踏ん張れない という事で 

草履 だったら 踏ん張れる という事で

草履 を履く事が 先に決まり 和服が 後で決まる という事でした。

和服の 喪服で 天皇陛下に 付き従うという事をなさったわけです。 

ですから 皇后陛下は 自らの身を投げ出してでも 
当初は殿下。 途中から 陛下を お支えする という強いお覚悟をお持ちだった という事。
これが プロポーズの時のお言葉と かぶるんですよ。

じゃあ 私が あなたをお支えすれば よろしいですね。

平成10年 第26回 IBBニューデリー大会の基調講演の 演説
愛と犠牲の 不可分性 について 言及なさった箇所があります。

そういうものを果敢に背負っていかれた 美智子皇后陛下 の生き方であり 
ゆえに平成に時代の 天皇陛下の立派な 御代があったんだろう。
そして
それをお支えになった 皇后 美智子様の 献身的な想い ご覚悟。

この2つが合わさって 平成の御代が築かれたんだな と思います。




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