すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 人物 ①


大伴家持 海行かば

奈良時代の 公卿・歌人で 万葉集 の編纂に関わった と言われます。



その 歌の中で
大伴家持の 長歌の一節。

782年から 806年が 延暦という元号で
延暦2年 783年 につくられた  海行かば   があります。

鎮魂歌 
として 先の大戦で歌われました。

酷い戦況が 伝わるわけですね。
その時に 
鎮魂の気持ちををもって 歌うようになった。

NHKが 昭和12年に 作曲家に委託して



大伴家持の歌に メロディーを つけました。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

戦いで 海の方面に出て行ったら 水に漬かった 屍になる。
屍 というのは 死体の事です。



死んだら 自分の 大切な人を 

ただ 死体 と言いたくないですよね。
例えば 遺体 とか ご遺体 とか 仏 とか。

ところが 
屍 というのは その 対局の表現なんですよ。

人間としての 尊厳も 何もない状態です。
水に漬かっている 遺体 ですから 

腐乱死体で 
蛆がわいているかもしれないし 
バラバラになって 内臓も飛び散ってるかもしれない

屍 というのは
物体としての肉片 のような意味合いを持った 言葉なんですね。

次は 山。 
山の方へ進軍していったら 
自分は どっかで戦死して そのまま遺体も 誰からも 拾われる事なく
気づいたら 
自分の遺体から 草が生えている。
尊厳のかけらもない 物体としての 肉片 骨片ですよね。



大君。これは 天皇の事です。

天皇陛下の すぐ傍(かたわら)で 死ぬんだ と言っているんです。
この兵隊は 
もう 生きて帰る希望は 持っていません。

海に行ったら 自分は死んで 肉片になる。
山に行ったら 自分は死んで 草生す屍に なるんだと。

天皇陛下の 傍(かたわら)だからこそ そこで死ぬ。

そういえば お父さん お母さん もう会えないなぁ とか
ちょっとやめて 1日考えようかなぁ とか 
なんならもう 帰っちゃおうかなぁ とか

こういう事はしない って言うんです。顧みる事はしない。
そんな邪心は 振り払うんだ と。

何の尊厳もない 遺体になってもいいんだ。天皇陛下のお傍であるからこそ 
それこそ生きる本望だ。

という歌なんです。

あぁ 
そうやって 死んで来い って 若者を動員したんでしょ

言われるかもしれないんだけれども

でも これは どういう意味だと思います?

この歌で 出撃していく兵隊は どんな気持ちだと 思います?

自分の命は 価値がないんだ
生きていたって なんも意味がない

だから 戦争に行って パパパッァっと死んで 
めちゃくちゃな死体になって  はい それまでよ って事ですかね?

これを詠んでいる人って 自分の事を 大切にしているはずですよ。
死にたくないはずです。

死にたい人が これ 歌いますか?



死のたくないんです。自分の命は 大切なんです。

天皇陛下のために 死ぬ なんて言ってるけど 違いますよ。
天皇陛下のために死ぬ というのは 比喩表現 なんです。

天皇陛下のために 死ぬ という事は
日本国のために 死ぬ という事で

日本国のために 死ぬ という事は
日本人を 守るために 死ぬ。

日本国が守らるって事は  
即ち 

大切な人。
お父さんや お母さん。弟や 妹。 子どももいるかもしれない。

そういう 大切な人を 守る事になるんです。

国のために 死ぬんじゃないんです。 
愛する人のために 死ぬんです。

現に 
先の大戦で あそこまで 多くの兵隊が 果敢に戦ってくれた お蔭で 

日本国が残ったじゃないですか。



日本国が 今あるお蔭で 
日本人が 幸せに 平和に暮らす事ができています。

日本国 残ったからこそ 
大切な人が 幸せになれたんですよ。

天皇陛下のために 死ぬ人はいません。
これは 比喩表現なんです。

討ち死にじゃあ ないんですよ。
愛する人を守るためなら 死ねます。

これが人を愛する という事なんです。



だから この歌は 

愛する人を 守る ためには 喜んで戦いに行けるんだ
どんな 危険な戦闘に従事しても 構わない
その結果 
めちゃくちゃな 死に方をしても 構わない

それほど
愛する人を 愛しているんだ  という事なんですよ。

これが 海行かば の意味なんです。

顧みることはしないぞ と 戦場に 出かけていくわけです。

全員 生きて帰りたい。
死にたい人なんか いません。
遺体が バラバラになっていい なんて思っている人は いません。

絶対生きて帰ってくる と思っています。

でも 死んで 屍のようになったとしても いい 
と思えるほど 
守りたい人がいる という事なんです。

戦い抜いて
そして 
国を守り通した人たちの 歌なんです。



民のかまど

第16代 仁徳天皇 の有名な話です。

仁徳天皇は 聖(ひじり)の帝(みかど) と称えられる事があります。

歴代の天皇が 模範とするのが 仁徳天皇なんです。

こんな話 ウソだ。と言う人がいますが 
実際にこれが 作り話か 誇張された話なのかは どうでもいいんです。
この話を 
歴代の天皇が 模範にしてきた というのが
事実 なんです。

525m という 世界最大の 面積の墓に 葬られていて 

聖の帝(みかど) と 称えられたわけです。
ですから 
それなりに立派な方だったんでしょうね。

仁徳天皇は 
大阪の河内(かわち)の方に お宮を建てました。
原因は よくわかりませんが 不況があったそうです。
民が 困窮した と書かれています。

仁徳天皇は お宮の高台から 様子をご覧になった時に 



民家から 煙が立っていない。
かまどから 煙が立っていない 

という事に お気づきになります。
当時は 
朝と夜の 2食だったかもしれませんが 
かまどに 火がくべられ どこの家からも 煙が立っているもんだと。
ところが 煙が立っていないのを見て 

民は苦しんでいる。
かまどに 火をくべる事も できないのか。

そう お話になり
3年間 税金を 止める。って事を おっしゃったんです。

多くの人は喜ぶわけですよ。

社会人なら わかると思いますが
大不況で 自分の仕事も続くか わからない時。
収入も減ってきた。生活はどうなるんだ。
って 時に

日本政府が 3年間 税金を一切止めます。 
消費税が 無くなるだけじゃないですよ。

所得税から 法人税から ガソリン税 酒税 
あらゆる税金が 無くなるんです。ビールが安く 飲めちゃうわけですよ。

1年ではなく 3年間です。

すると 
仁徳天皇の お妃の 磐之媛(いわのひめ)が が 

陛下 大丈夫でしょうか。
私たちの生活も どうなっちやうんでしょう。
と 
心配するのですが

仁徳天皇は
天が 君主を立てたのは 民のため である。

神様が 天皇を立てたのは 国民のため である。

国民が 幸せになってこそ 初めて 天皇も 幸せなのであって 
国民が 不幸なのに 天皇だけが 幸せ という事は ありえない。

国民のために 天皇がある。 と おっしゃっいました。

国民の声は 古事記・日本書紀には 書かれていませんけど 
相当喜んだのではないかと 思います。

有難いね。もったいないね。 と 励みになったと思うんです。

じゃあ 
いただいた 3年間で しっかり復興を果たそう と 
みんなで努力して 経済を発展させて また豊かな国になろうと。

3年経ったあかつきには 
今まで以上の税金を 納めるぐらいの勢いで 

俺たち 頑張ろうぜ。
今 助けられたから このご恩は お返ししなきゃ。



そんな気持ちになったんではないでしょうか。

そして
3年 経った時 仁徳天皇は 

再び高台にお立ちになって 周囲をご覧になると 

煮炊きする煙はが立っているんですが 
まだ 本調子じゃあない。
まだ ちゃんと 回復できてないなぁ と思ったわけですね。

そうしたら
仁徳天皇は あと 3年! 税金はいらない とおっしゃったわけですよ。
合計6年 ですよね。

宮中では 
今みたいに 近代的な建物ではないので ボロボロになっていくんです。

古事記によると

壁は歪んで 
天井は抜けて 雨が降る度に 雨漏りしますから
仁徳天皇は 
乾いた場所を探して 寝るありさまだった という事です。
そして
床に入って 上を見ると 夜空が見えたって言うんですよ。



さすがに 誇張かもしれませんがね  
そのぐらい 宮殿が 荒れ放題だった という事なんですね。

また 3年経った時に 国民が 喜びながら 
何を納めろ とか ここで働け とか 指示もないのに 

みんな喜びの中から 

よし!俺たち 何かさせてもらおう!って事で 
宮殿を 新築した って言うんですね。

中には 
もう もう 早く納税させろ~と うずうず していた人もいるみたいですよ。



3年頑張ってきて 納税する気 満々でいたのに 
また
後 3年間 いらないって言われて ずっこけた人もいたんですね。

日本書紀の一部によると 
さらに後 
3年間いらない なんて話もあったらしいですが

冗談じゃあない。 払わせろ 
みたいな感じで 怒り狂った国民が 宮中に乱入して 
新築したって 言うんですから。

こんな話 世界の どこにあるんですか?というですね 

一部 誇張(こちょう)した話も あると思いますが 
税金を止め 多くの人が 

感謝の 気持ちを持って 宮殿を新築した という話の 骨子は
おそらく 
事実を 反映した話ではないかと思います。

仁徳天皇は 
いや そんな新しい家は いらない とおっしゃっるのですが 

国民の 

お願いします。素晴らしい建物を 建てたから 
どうぞ
ここに お住みいただきたいんだ という

有難いね。申し訳ないね。勿体ないね。という想いで

仁徳天皇は 
新しいお家へお入りになる という事ですね。

なんと 美しい話かなぁ と思うんですよね。

普通 納税って嫌じゃないですか。
税金って 1円 でも 安いほうが 有難い
って 思うのは 普通だと思うんですね。

でも
納税 させていただく 喜びとか
誰が命令するわけでもなく 

聖の帝(みかど) の お住まいを 
みんなで建てたい とか

素晴らしい国家に 住んでいる国民が 国家のために 

何か 奉仕 をする。
というのは



こんなに 気持ちい事なのか と いう事を思わせる 

いい話 だなぁ と思うんです。

だからじゃないでしょうか。
525m ですよ?

立派な方には 立派なお墓で お眠りいただきたい 
という気持ちが募り 募って 
ついに
525mになっちゃった という。
でかすぎるだろう と思いますけど

奴隷のない時代に 
これだけの お墓をつくった というのは 大変な事です。

これだけ 
民のかまど の話に 代表されるように 
仁徳天皇は 立派な方だったみたいですよ。



この時代から

国民のために 天皇がある と おっしゃっているんです。
国民が 幸せになってこそ 天皇が幸せだ。

これ
ヨーロッパとか 中国の 
王様とか皇帝 とかの目指す 未来と
国民の 目指す 未来が 必ずしも一致しないんです。

統治される側 と 統治する側。
税金を払う側 と 受け取る側。

隔絶な間が あったわけなんですけども 

仁徳天皇の幸せは 国民が幸せ になる事なんですよ。
天皇が 
いくら貧乏しても 民のためなら 構わない。

国民に 寄り添う。
国民が 幸せになる事を ひたすら祈る。
そして 
自分ができる事を 成し遂げていく という事ですね。

ちなみに
仁徳天皇は 大阪平野の 治水工事をして 現在の淀川の 下流の両岸に 堤がありますけど
これは 
仁徳天皇の時代に 造られた堤防  だと言われています。



この
治水工事によって 大阪平野の 農業生産が 高まった。
やはり 
治をする。川を治める。。農業生産を高める。
これは 
立派な 帝王としての 前提となるようなものですけども 

仁徳天皇は これをなさった という事です。
ご自身は 質素倹約を 善 となさっていた との事です。





聖徳太子

聖徳太子は 今 なぜか教科書に 
厩戸皇子(うまやどのおうじ) で 記載されて 

偉い人でも 何でもない といるものもあるようです。 
存在すらない という人もいますが



危うい事に 教科書から 外されるところでしたからね。

厩戸皇子(うまやどのおうじ) として 
キリスト が 馬小屋で生まれて 告知を受けた

なぜ つながるかと言うと

聖者は 馬小屋で生まれる
という伝承が つながっているからだと思います。

伝承 としては
救世主 は 馬小屋で生まれてくるんですね。



聖徳太子 
もしくは 聖徳太子なる人物が 複数 いたのかもしれない
とも 言われます。

聖徳太子 という人は

外来文明という
高度な 文明を 入れてこよううとした
改革的人物 ですので

それと共に

2m くらい身長 があった。
顔が 面長 である いう事。
目が 青かった。

という 伝承 だと

超太古から 人類は 元1つ で
ユーラシア大陸 から 戻って来た 

どうも ペルシャ系 かな 
という事が 想い浮かぶ事ができるわけです。

歴史リンク
 歴史を学ぶ本来の意味 神話 日本建国

飛鳥時代に
日本が大躍進した その立役者が 聖徳太子ですから

聖徳太子 を語らずに 
その後の 古代中世の 日本を 
語れる わけがないんですけれども

もっと 日本の歴史教科書は 
聖徳太子に 注目 評価すべきだし 
きちんと 勉強しなければ いけないのではないかなぁ と思います。

中央集権国家
律令国家 といった  
外交を 通じて 色々な変動の中で 

吞みこまれたり なめられて 攻められたりしたら 危ない。
なので
外国から 侵されない
強い日本をつくって アジアの先進国 としての地位を確立し 認めさせる。

その国家を デザインし 推進したのが 
聖徳太子です。

だから長い間 1万円紙幣などの 諸像を担っていたんです。



法隆寺の 釈迦三尊像の
背中の 光背文に 埋め込まれているのですが 
この 釈迦三尊像は 
聖徳太子に 身長も 全て似せてつくりました と ちゃんと書いてあります。



聖徳太子は 大変頭のいい人と 日本書紀 にも記載されています。
10人の言う事を 同時に聞き分けた と
日本書紀には 書いてあるのですが

ただの 神話的エピソードだ。そんな事ありえないでしょ~。
という事じゃなくて

10人が 同時に わっ~ ってしゃべったのを 
それを聞き分けた という
聴力 とか 識別能力の 話をしているのではなくて

10人の 色々な事を言うのを 
順番に 的確に 聞き分けて 処理をした という話であって
それぐらい 聡明であった逸話である という事です。

あと
霊的な声 を聞く事ができた とも言われます。

太子 というのは 
日嗣の御子(ひつぎのみこ) と言って 
次に 天皇になる人を 太子 と言います。

なので
第33代 推古天皇 の次の皇位を 継承するはずでした。

鑑真(がんじん)という 和尚様が



日本国にやって来て 
貢献しようとしましたが もう高齢だったので 

聖徳太子が 継いでいったのですが

聖徳太子は 天皇にならないうちに 若くして
皇太子で 死んでしまうのです。

日本書紀には 亡くなった としか記しておらず 
理由がよくわかりません。

聖徳太子 も含め 大陸から日本にやって来て
日本に 貢献した人たちは

ハンガリー の フン族 ではなかったか と言われています。



領土を奪われていって
その中の人たちの中で 日本に亡命してくる
という事が あった。

その日本に 入って来た 人の中で
大きく 日本を 変える人が いた。

想定として とらえていくとすると
その中に 

中臣鎌足 という人 です。
後の 藤原鎌足。



藤原一族の先達で 
源氏や 平氏も 藤原系。

元首相では 
戦後の 近衛文麿(このえふみまろ)。
直近だと 細川護熙(もりひろ)さん まで 続いていますが

最後に残された 
百済(くだら)王朝の プリンス  と言われています。

聖徳太子 は
百済(くだら) の血が絶えてしまうのは 残念な事だ と

先代旧事本紀(せんだいくじほんき) に



ふじこ として 養子に  引き取られた と書かれている 
と言われます。

聖徳太子は ふじこを 育てあげるのですが
ところが
中臣鎌足 になったら 大化の改新 という
大クーデター を起こすんですね。

この後は
藤原の世に なっていくのですが

藤原氏 としては
大陸では 滅びるわけで 戻れないんです。

古事記 の中で出てくる
騙し打ち の説にある

生きるか 死ぬか
そのためには
卑劣な手も 打たないといけない という行動です。

日本で繁栄しないと と必死なわけです。

鎌足 の 息子
藤原不比等(ふひと) の時代では なんと

世話になった 聖徳太子 一族を 葬ってしまって
入り口あって 出口無し という
法隆寺に 封じ込めるわけです。



もともと日本には 大陸からの 新羅系 が多かったのですが

そして
百済一族が 日本を 牛耳っていくわけで 
そこから 藤原氏の時代 が始まりだすわけです。

ここに
1番の 因縁 
南朝 北朝 の根源があるそうなんです。

もともと 百済には 阿智族(あちぞく)がいました。  

諏訪 から少し離れた
中津川 に近い所に



阿智神社 というのがあります。

岡山県倉敷にも ありますが 
古いのは 諏訪の方です。

1番初め の 神様
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) の 



次に現れた 高御産巣日神(たかみむすびのかみ) の子



ものすごい 頭のいい 思金神(おもいかねのかみ) が

阿智族(あちぞく) である という事が

先代旧事本紀(せんだいくじほんき)に 
書かれてるそうです。
その後に 
記紀 として 残さされたのが 古事記 です。
歴史リンク

天の岩戸(あまのいわと) に隠れた 天照大御神が どうしたら出てくるか

宮崎 の高千穂の
天の安川(あまのやすかわ) で 



神々が集まって 話し合いをした時の 
大プロデューサー が



思金神(おもいかねのかみ) です。

阿智彦(あちひこ) が 思金神(おもいかねのかみ)。

当然 同族ですから 
7世紀に

朝鮮半島に 百済(くだら) という国があり
唐(とう)とか 新羅(しらぎ)との戦い

白村江の戦いで
百済(くだら)を助けに行くんですね。

同じく 長野県
戸隠(とがくし)神社 は 
天手力男神(あめのたぢからおのかみ) を祀っています。

天の岩戸 を開けた人です。



実は
思金神(おもいかねのかみ) の 息子が
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)なんです。

天照大御神が 岩戸を 少し開けた時に
天手力男神(あめのたぢからおのかみ) が 
岩戸の 岩を 投げ飛ばして 飛んでいったのが

長野の 戸隠山(とがくしさん) になった という事です。



古代の 渡来人の一族 東漢氏(やまとのあやのうじ)の祖先

阿智族(あちぞく)が 
諏訪に住み着いたのが 
紀元前 210年。

シュメール は 石工 の文化。



それが ユーラシア大陸 を 通ってきて
日本の 石の城造り にもなるのですが

万里の長城 を 



石工で 造った
秦の 始皇帝が 滅んだのも



紀元前 210年 なんです。

この頃
秦の始皇帝 の命令で 
徐福(じょふく) が日本に来ています。



3世紀 のころの 百済(くだら)の王が 
阿智王(あちおう) と言うんです。
百済(くだら) ができたのは 3世。

阿智族(あちぞく)が 百済(くだら) を つくっているんです。

ひし形紋  鱗(うろこ)紋 の 
武田信玄(たけだしんげん)は




阿智族(あちぞく)。 
長野の 安曇族(あずみぞく) の末裔 らしいです。

阿智神社 阿智村 も長野に存します。

その
百済の 最後の王子が 日本にやってきていた。

後の 
第38代 天智(てんち)天皇=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
と 



蹴鞠(けまり)友達 だった



プリンス 中臣鎌足(なかとみのかまたり) は 



共に

皇極4年。
645年。
大化の改新 乙巳(いっし)の変。  
乙巳 という 年回りだったという事ですが 

権力の 絶頂期の 蘇我入鹿(そがのいるか) 




殺してしまいます。
お父さんの 蘇我蝦夷(そがのえみし)も翌日 自害しています。



第35代 皇極(こうぎょく)天皇は 



目の前で 
蘇我入鹿 という 大臣が殺される という出来事を 
驚く様子が なかったようです。
         
 

そして
天皇から 上皇に譲位し 自ら 次の天皇を決める という事をしました。
これは
今までは 天皇の政治的実権は ほぼなかった時に実行した 
初めての事です。

かつて 
592年。
後にも先にも 事例がない 天皇暗殺 という

蘇我入鹿の



祖父 蘇我馬子は



第32代 崇峻(すしゅん)天皇を



殺したと言われています。

それでも この蘇我 の人たちは 何のおとがめなしに 
大臣の位にいたわけで 責任追及も ないわけです。

物部氏 の 
物部守屋(もりや) も



蘇我馬子に やられました。



蘇我入鹿 の



父 蘇我蝦夷(えみし)も



蘇我馬子からの



蘇我権力を 継いでいましたし
政治的軍神の 意に沿わない 皇族は消される という



そのくらい
天皇や 皇族は 無力だったんです。
昔から 天皇は権力をもって 
自分のいう事を きかせてきた というのは違います。

聖徳太子 の 息子

山背大兄王(やましろのおおえのおう) も



蘇我入鹿に 襲われて 自害しています。

政治的実力者 が 
皇族 を 殺す という事です。

聖徳太子も さかのぼれば



蘇我系 だったのですが 
亡くなった理由が わかっていません。
日本書紀 にも 
亡くなった としか 書いていません。

そして 大化の改新 乙巳(いっし)の変で
蘇我氏一族は 没落しました。

そして 
初めての 元号が 大化 となりました。

蘇我氏 は 物部 や 守屋 を 
滅ぼしてしまう つもりはなかった という事のようでが

その
蘇我氏は 滅びました。

天智2年
663年。
白村江(はくそんこう はくすきのえ)の戦 が起きます。

 

百済 が 
唐 と 新羅 の連合軍 に やられていたので
朝鮮半島 の 白村江 まで 
日本が 百済 を 助けに行きますよね。



蘇我氏滅亡 の 大化の改新 の時は
第35代 皇極(こうぎょく)天皇 でしたが

同じ人が また天皇になる 重祚(ちょうそ) で
第37代 斉明(さいめい)天皇 になった時 に

斉明天皇 は 白村江への 出征を目前に 崩御。
息子の
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) が 
斉明天皇 の 遺志を継いで 出兵しますが

支那(しな)。中国大陸側 の 脅威 はすざましく
地獄絵図のように 惨敗 してしまいます。



百済 と関係なかったら わざわざ いきませんよね。

聖徳太子 が
後の 藤原鎌足 になる ふじこ を養子にとった
と いう説がありました。

蘇我氏 を滅ぼした
中臣鎌足 と 中大兄皇子=天智天皇。

プリンス 中臣鎌足 は



中大兄皇子 が
天智天皇 になったあと 功績を残した という事で

中臣鎌足 から 
藤原姓 をもらい 藤原鎌足 となります。
その 鎌足 の息子が 

藤原不比等(ふひと) ですが



藤原不比等(ふひと)の 時代には 
生き残り をかけて

天皇家 と 藤原氏 との血縁関係 を築く

1000年以上の
政権基盤を つくって 
日本の 大きな柱 影響を与えるわけです。

蘇我氏は
天皇の 奥様を 輩出していって

天皇の 母の 父 という
外戚 の立場として
皇室 に近い存在で 政治を動かしてきて

40年くらい 仏教を 取り入れたりして
蘇我系の 天皇が 続いたのですけれども

大化の改新 で 
中大兄皇子=天智天皇 と 中臣鎌足 に



ぶっ倒されたわけですね。

そして
蘇我 に 変わって 藤原 を
バコーン って ぶっ込んでいったわけです。

藤原4子 に 噂を立てられて おとしめられた



第40代 天武(てんむ)天皇の 孫 で 
藤原の 血が入っていない

長屋王(ながやおう) や 



初代 神武天皇 以降

葛城王朝 として 
欠史8代 のうちの 
4人 の天皇が 大和葛城地域に 都を置いた

初の 葛城王(かつらぎおおきみ)。

記紀神話や 播磨風土記では 渡来系
新羅王の アメノヒボコ が 
妻の 

阿加流比売神(あかるひめのかみ)
を 追って 兵庫県 播磨国にやって来て

柑橘系 の果物を持ってきて
植えた名残 として 家紋にもなっているそうですが



その
橘諸兄(たちばなのもろえ) とか



皇位継承 の時
藤原氏 以外の者が 政権 をとった時

藤原氏が トップ ではない時でも

奇妙な出来事 があり
すぐ また 藤原氏 に政権が 戻ってくるんです。

藤原不比等 は 法律の知識に明るい
文筆に 優れている 
いろんな人と コミュニケーションもとれる
という 人だったので

後に 律令国家 が確立する
大宝律令 ができる時に 

かなり 力を 発揮したのが 藤原不比等 です。

聖徳太子は 



権力を振りかざすような 独裁的なものは

律令国家ではない と
きちんとした 統治国家を 文書としてつくろうとしたのです。

幕末 19世紀同様に 
7世紀は

お隣の 大陸の大きな国は 
軍事大国になって 周辺の国に

何をしでかすかわからない。どういう仕打ちをしてくるかわからない。
そういう 危機感 を持った時代でした。

以前
日本が 中国の 南北朝時代の 
南朝の 劉宋(りゅうそう)から 



最先端の文化を習っていましたが
第21代 雄略天皇 以降 朝貢(ちょうこう)を断ちました。



なぜ また 122年ぶりに
この時に 日本が 遣隋使 を 派遣したかというと

朝鮮半島の 影響力を保つため と
先進文化を 摂取するため に 派遣しました。

この第1次 遣隋使派遣の時に 朝鮮出兵 をしています。

この時代から 朝鮮半島は 日本にとってポイントになる場所なんです。

朝鮮半島の 大陸の方は 高句麗(こうくり)。
南部には 加耶(かや)諸国
中部には 東に新羅(しらぎ)。西に百済(くだら) があり 



この2つは 日本の 属国 だったわけです。

ところが この 2つの国が 争うようになり 南の方に進出した。

盟友の百済から 儒教の 5つの経書 の先生。
五経博士(ごきょうはかせ)を 日本に 渡来してくれたりして



日本が 朝鮮半島で 1番 仲が良かったのは 
百済 でしたから

百済 が
新羅 と 喧嘩している という事なので 
百済に 日本の 権益 が 残ってほしいと 
日本も 出兵するわけです。

それから
日本が 隋 とつながる という事は 
朝鮮半島での 日本の影響力を保つ という目的があって 

聖徳太子は 小野妹子による 遣隋使を派遣させるようにしました。



推古8年。
600年。
第1回 遣隋使派遣で 
当時
アジアの最先進国。隋に 圧倒されるわけです。

あんたたち 役人の階級もない なんて野蛮な国なのか と言われ 
隋の 上級階級の人にも会えず 
あしらわれて 相手にされませんでした。

聖徳太子は これはあかんわ と

いざという時 そういう国に対応できるように 
きちんと明確に 立場 役割分担を決めて 
がっちりとした 天皇を中心 とした 

まとまった統一国家をつくらなければならない。

そこで誕生したのが

604年 12月に発表された 

徳・仁・礼・信・義・智 の順番で 
役割 6×2=12 を決め

冠位十二階 を定めました。  

最高の位の 徳 は 紫 で現わされています。



徳 というのは
正しい行いをする という事です。本当に正しい という事は

時間とか 空間や場所 に 関係なく 普遍的なもので 
全てに共通している 

いつでも どこでも 誰にでも当てはまる
人としての 正しさ 

徳。

を トップにもってきているわけです。
これは 日本独特のもので 
支那の 位には 徳 はありません。

仁 は 
光のないところに 光をあてる。慈しみ深い という事ですから

天皇陛下の お名前には 
仁 が入るんです。

この 
仁 と 徳 の 

2つが一緒になったのが 
民のかまど の 仁徳天皇 です。

第33代 推古天皇 の 



甥であった 聖徳太子は
事実上 摂政 として 職務を遂行します。

また 聖徳太子は
翌年 1月には  17条憲法 を発表しています。

憲法 という 字は 
明治時代に 使い始めるんですけれども 
それは 聖徳太子の 17条憲法 以来ですよ。



憲法 と名付けるに値する 価値のあるものが
7世紀から 20世紀まで現れなかった という事です。

憲法 というのは 
国家の 統治機構を明記して こういうルールで動かしていきますよ というものです。

そして 大日本帝国憲法 と 今の 日本国憲法は
統治機構 と 人権 権利
の 2つ の要素が入って成り立っています。

ところが 17条憲法は 
統治機構 や 人権 が書かれているわけではないんですね。
じゃあ 何かと言ったら

官僚の 心構え が書いてあるんです。
役人 というものは こうでなければいけない 
という事が 書かれているんです。

まさに この書かれている事が 徳 なんです。
歴史 とか 時代 を超えて 正しい行い なんです。



なので 7世紀の 17条憲法は
今 読んでも 新しいんですね。古臭くないんですよ。

時間とか 場所とかを超えて 何が正しいか。
役人への 心構え として書いたものなんです。
なので 
一般国民が 縛られる という事はないですし
天皇が 縛られる という事もありません。

17条の現代語訳。

①和を持って貴しとなす 和(仲良く) 調和

②仏教を敬う

③天皇中心の国

④礼儀 敬う

⑤公平 むさぼるな 私利私欲の欲を棄てよ

⑥善を進め 悪を滅ぼす

⑦能力にあった地位(冠位十二階)

⑧勤勉

⑨信頼 義

⑩自己中をやめ 人の意見を聞く

⑪賞罰 

⑫税は天皇(国)へ

⑬助け合い

⑭人をねたむな

⑮国のためにつくせ

⑯国民を大切に

⑰話し合いで決める

①の 1条は 
17個ある 筆頭ですから 重要です。

和 を大切にし いさかいを 起こさないように 心がけなさい。

人は 集団をつくりたがるもので 人格を備えた人は少ない。
だから 
君主や 親に従わず 近隣の人たちと もめ事を起こすものである。
しかし 
上の者も 下の者も 協調 と 親睦 の気概をもって 議論をすれば 
おのずと 道理に適った結論を 得る事ができる事ができ
何事も 成就 するものである。

民主主義 そのものでしょ。
17条憲法 は  
江戸時代 の 5箇条の御誓文 に受け継がれます。
そして
大日本帝国憲法 にも受け継がれ
それが 
日本国憲法 に受け継がれます。



日本国憲法の 民主主義や 議会制民主主義 の制度も書かれています。
これは
マッカーサーから もらったものではないですよ。
戦後 アメリカから もらったものではありません。

聖徳太子 ですわ。

もっとさかのぼって
神武天皇が 日本を建国 した時から

しかも
古事記 に書かれている 神様ですら 
話し合いをしてきたんですから。

もともとは 八百万(やおよろず)の神々の 話し合いですわ。
高天原で 話し合い をしてるんです。

はなから 民主主義なんです。徳目なんです。
上の者も 下の者も 協調 と 親睦 の気概をもって 議論をすれば 
が大事ですね。

そして 
決まった事には 一体化していく という事です。



このようにして 聖徳太子は 律令国家 を築き上げていきます。

そして
お隣の大帝国 大陸の国と 
日本は 対等 であることを 宣言 していきます。

朝貢(ちょうこう)は するけれども 
柵法体制(さくほうたいせい)は 受けない。

留学生を 連れて行くから 勉強させてほしい。
という 対等外交 をしていきます。

第1回 遣隋使派遣から
推古8年 から7年間の準備をして

推古15年。
607年。
日本として 恥ずかしくない 体制を整えて 
第2回 遣隋使派遣をします。

この時の 隋の皇帝は  煬帝(ようだい)です。

日本からの 遣隋使派遣 にあたり 
煬帝 に 聖徳太子が 送った手紙に

煬帝は ブチ切れるわけです。



こんな野蛮な 無礼な手紙がきたら 二度と取り次ぐな と言います。

内容は

日出づる処の天子 が書を 日没する処の天子に送ります 
つつがなきや 
お元気でしょうか? 
と 
隋書には 書かれていて

日本人からすれば 
日の本 日本 天照大御神 というイメージがありますけれども

向こうにしたら 
日出づる とか 



日没する とかは あまりこだわりはなかったみたいです。



問題になったのは

天子 から 天子 に 書をいたす 

これは 中華思想 からしたら ありえないんですよ。

皇帝様に 書を 奉(たてまつ)ります と 言わないといけないんですって。
下の者は 上の者に 奉ります。

同じ地位の人は 致す と言うんです。

あからさまに 対等だ という風に
日本は 全部無視して 

天子 が 天子に 書を致す って書いちゃったわけですよ。

同等のあなた。よっ 元気かい? みたいに。

遠交近攻で 隋は 高句麗と 戦っていたので 
日本とは 事を構えたくない。
でも
何が 天子じゃ。お前は 天子じゃない。この無礼者!と 

煬帝は 激怒しているんです。




その 推古天皇宛てに書いた 激怒満載の 国書を

小野妹子は 無くしてるんです。日本書紀に 書いてあります。

って言うか そんな大事な物 無くします?
中国皇帝から 日本の天皇宛ての 手紙ですよ?

たぶん小野妹子 が


 
やっべ~ 煬帝 怒っているよ これ 持ち帰れないだろう 
と思ったと思うんですよ。

聖徳太子にも 相談したと思うんですよ。



聖徳太子が
わぁあ~ 煬帝 これヤバいねぇ 推古天皇に 見せられないねぇ
お前 これ 無くした事にしとけ どっかで取られたとか 何とか言って 
そういう事にしとけ

小野妹子



わかりました そうしときます って ポイッ と捨てて 無くしましたぁ~

聖徳太子



バカ者!無くしたのかぁ  と言いながら 
おとがめ は なし。

普通 無くしたら 処罰されると思いますが 
そんな記録は ありません。
しかも
第3回 遣隋使派遣に また 
小野妹子が 任命されています。

これが この時代の人たちの 智恵だったんでしょうね。

聖徳太子は 
天子 が 天子 の手紙を まず投げてみる。
それによって 相手が どんな反応をするかを見る。

そして 次に書を送る時に

天皇 から 皇帝 に 申す 
と書いたんです。白(もう)すは 少しへりくだっています。

天皇 という新しい名前を つくっちゃったんです。
新しいものを 持ってきたら 身分が上か 下かわかんないでしょ?

でも 意味あいから言うと 
天 宇宙 天空 で 
すでに 確説した 名前 を付けちゃったんですよ。



新しいものを ぶっこんじゃったから 
上も下も 意味不明 になっちゃったですよ。

そうしたら 向こうも 

へっ? そうなんだ。天皇 なのね。
みたいになって

なので 皇帝が 激怒した って言う記録は ないんですね。

日本書紀で 天皇 と名乗ったのは これが最初です。
607年 の事です。

あんたが皇帝だったら うちは 天皇だ。 
日本は 日の出の 場所の 独立した国だ。 



誇らしい感じがします。

618年 隋が滅亡するまで 学説的に 色々ありますが
5回の 遣隋使派遣がありました。

隋が 滅んだ後の 唐 に

舒明(じょめい)2年。
630年。 
第1回 遣唐使 が派遣されます。

旧(く)唐書 という 唐の 正史が書かれている書物に 

20年に 1度 来ればいいよ とか
唐の皇帝から 遣唐使に 伝達する国書 を もらわずに 
日本に 帰ってしまった


不可解な事が 書かれています。

本来なら 周辺諸国は 
皇帝さまに 
貢ぎ物を 持って行って 絶対服従 を誓い



皇帝さまから 王に 将軍に 任命され 名前ももらって 
その名前を使え とも言われ

朝貢(ちょうこう) と 柵法(さくほう) は セット だったわけです。

ところが
日本は 隋と 朝貢 はするけれども 柵法 は 遠慮する という 

倭国王 と任命する とか 金銀財宝も いらん と。



そのかわり 
勉強 させてほしい という事で 

留学生たちを 隋 の進んだ文化を 学ばせてもらう 
といった
変化球的な 独特な 外交関係を 樹立した 先例 があるので

隋 の第1回 遣隋使派遣 では 

小野妹子が 無くしちやった事にしましたが

唐の 皇帝から 
遣唐使に 伝達する 国書 をもらわずに 日本に帰ってしまった

というのは

柵法(さくほう)的な 
倭国王 に任命する 的な 文書が書かれていて 

これを
受け取るわけにはいかない と 
国書を 唐から 受け取る前に 
日本に そそくさと 帰ったのではないでしょうか。



どんな 強い相手であっても 常に対等な 人として接していく。
それは
同時に 優しさ でもあるんです。

それを
実際に 政治の世界に 実現していった 

というところが まさに
聖徳太子は  日本を代表する 偉大な存在 だと思います。

もともと
天皇 によって 統一された国家 倭国 であったものを 
改めて
復活 させようとしたのが 聖徳太子 であり

そして
大化の改新の 天智天皇(中大兄皇子) であったり

平城京遷都 奈良大仏 平安京遷都 と 
律令国家に 育っていくわけです。





天武天皇 の頃

大化の改新の時の 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が 

第38代 天智天皇 になり



その 息子 
第39代 弘文(こうぶん)天皇 は 
大友皇子(おおとものおうじ)。



天智天皇 の 弟の
第40 代 天武天皇 が



まだ 大海人皇子(おおあまのおうじ)だった時の戦いが 

壬申の乱 です。

現在では 皇位継承は ルールがありますから
争う という事はありませんが

第38代 天智天皇 の後の
皇位継承の 問題で戦いが起きました。

天智天皇 と
弟 の 
大海人皇子(おおあまのおうじ)の 天武天皇 は

2人 とも
舒明(じょめい)天皇 



の 子なので 兄弟 です。

兄 天智天皇 の子どもは
後に 天皇になる 

第41代 持統(じとう)天皇 や 
第43代 元明(げんめい)天皇 と 
女性はいるのですが

成人した男の子は 大友皇子(おおとものおうじ)だけでした。



この
大友皇子(おおとものおうじ)の お母さまの 位が低かったんです。

しかし
天智天皇 は 大友皇子(おおとものおうじ) を 
大臣のトップ 太政大臣にして 皇位継承 を考えています。

天武天皇は お母さまは

第35代 皇極(こうぎょく)天皇。

間に 草壁皇子の子 軽皇子(かるのみこ)が 
第36代 孝徳天皇

そして 同じ人が再度という 践祚(せんそ)をしての

第37代 斉明(さいめい)天皇 です。




お母さん 天皇って めちゃめちゃ 強いですよね。

そして ややこしい事に

大友皇子(おおとものおうじ) の 奥様
十市皇女(とうちのひめみこ)。
この方は

万葉歌人 で有名な
額田王(ぬかたのおおきみ)が母親。

大海人皇子(おおあまのおうじ)=天武天皇 の
娘 なんですよ。

ちなみに 
第40代 天武(てんむ)天皇 の 本妻 は
第41代 持統(じとう)天皇 で 



持統(じとう)天皇 と 弘文(こうぶん)天皇 は 兄妹
父は 天智天皇 です。



なので
大友皇子(おおとものおうじ) と
十市皇女(とうちのひめみこ) の間に生まれた 
葛野王(かどののおう) は

父の 父は 天智天皇。
母の 父は 天武天皇 なんです。

天智天皇 と 天武天皇の 兄弟の
両方の血が 混じった子が 葛野王(かどののおう)です。



着地点 としては 
葛野王(かどののおう) が理想ですが まだ若かったですし

天武天皇系 の 子孫をつないで行く
天皇を 担わせて行きたい というところがあったみたいです。

壬申の乱 というのは

2人の 喧嘩 というだけではなく
日本中 の 豪族たちが 

どっちに付くって 話になって

日本を 真っ二つに分けた 大戦乱 になってしまったんです。

当時
日本列島は ほとんど 山 でした。

大阪平野は  陸地ではなく 海 でした。
なんとか 浅瀬の陸地で 暮らしていった という人たちは

陸地に住む 民 より
山に住む 民 の方が 遥かに多いんです。
鉄器民族 であり 金(きん)も採掘できた。

秦一族
賀茂一族 も 山の民 の流れですから

しかし 大阪の上町台地 辺りまで 平地が広がってきて
平地の民 が増えてきたんです。

でも
京都 山城の国 を開くのでも



山の民 賀茂一族 の力を借りないと できなかったんです。

白村江の戦もあり
そんな中 
天智天皇 は 病気になってしまい

兄 天智天皇 は



弟 大海人皇子(おおあまのおうじ)=天武天皇 に

次は
あなたが 天皇をやってくれ と頼むんですよ。

ところが 天武天皇は 



自分は そんな気 ないから 
と言って 断るんですね。
そして 髪をおろして 出家 して 吉野の山に入って行くんです。

山の民の 力を借りれた
天武天皇 が 結果として勝つんです。

吉野の山に 入って行きましたが
本当は 皇位継承 やる気 満々だったらしく

その様子を 見ていた 群臣たちが
虎を 野に 放つようなもんだと 



噂をした という事が
日本書紀 に 書かれています。

古事記 日本書紀 は 
天武天皇 が 編纂を命じていますので 本当だったんでしょう。

自分の 正当性。有利 に書かれている 
と 言う人がいますが

天武天皇 の 
不利な話も 結構 書かれているそうです。

3世紀 に 百済(くだら)をつくった 阿智族(あちぞく)がいて
元の 阿智彦(あちひこ) というのは 
天の岩戸神話の 
大プロデューサー 天思神(おもいかねのかみ) と言われています。 

天智天皇が 滋賀の 琵琶湖に 王朝を置いたのは
水路が 日本海とつながっいて 軍艦 船を置けた。

倭国 として そこから船を出し
白村江の戦いで 百済に 加担をしに行き

唐 と 新羅 の連合軍と戦ったのですが 大敗。



その 末裔 
天智天皇 の時はまだ 王朝を保っていたけれども
白村江の戦 で 力が弱っていた。

そして
天智天皇 が 崩御 します。

息子の 大友皇子(おおとものおうじ) が
第39代 弘文(こうぶん)天皇 に 即位します。

これは
後世になって 即位したであろう と見なされ 
弘文(こうぶん)という 天皇号を 贈られました。

ところが
大友皇子(おおとものおうじ)=弘文(こうぶん)天皇 と
大海人皇子(おおあまのおうじ)=天武天皇 が

戦うように なってしまいます。

壬申の乱 です。



これは
山の民は 力を持っている。
人数も 多く 鉄器もつくれる
金の 採掘 もできる。

これと いかに組むべきかと

天武天皇 は 
このままの政治では いけない 


吉野の山に 入った時に
役行者(えんのぎょうじゃ)に



私が勝った 暁(あかつき)には 
あなたと 同じ神を祀ろう と 約束をして

神武天皇 以前の  
ウガヤフキアエズ王朝 の 72代 の系統をひいている 神様。
邇芸速日命(にぎはやひのみこと) 



と同じ
かなり 大陸 ヒンドゥーの影響を受けているような

蔵王権現(ざおうごんげん) を祀るんです。



そのような事を まとめれたのが
天武天皇 であり 
新しい王朝に 変えていくために 乱 を起こした というのが

壬申の乱 です。

弘文(こうぶん)天皇 である 大友皇子(おおとものおうじ)は 
戦地で 自決します。

壬申の乱 以降
天武天皇 が 皇親政治 を 行います。

公地公民
そして 
古事記 と 日本書紀 の 記紀編纂 を 命じます。



神武天皇 からの 建国から 時間が経ったので
今やらないと このまま また 何百年と経過してしまうと
もう わからなくなる事が出るだろうと

全国で
伝えられている 口伝 や 

古事記は 現存する 我が国の最古の文書 ですけれども

現存する文書をまとめた と わざわざ 書いていますが
現存しないもの を含めると

旧事(きゅうじ) とか 帝紀(ていき) といった 
古事記より 古い書物があります。

そういうものを 参考にしながら まとめていって
そろそろ
何が 正しくて 正しくないのかを 
取捨選択 をして ちゃんと 整理しよう とした と
古事記の序文に 書いてあります。

また
天武天皇は 壬申の乱 で

自分が 勝った暁には
天照大御神様 を 
最高神 として 最高の神社として 祀る と願掛け をして

実際に 勝利し
神話も 整理 され

以前の 複数の 古い神様は 天照大御神様 1つに統合された
という話 もあります。



そして 皇位の継承は
後になると また

弟 天武系 が途絶えて
兄 天智系 に 戻ってくるんです。

万葉の歌人
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は

東の(ひんがしの ひむがしの)野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ

東の野の果ての空は 曙光で真っ赤に染まり



西の空は 月が傾きかけて 沈まずにいる



天武天皇 と 持統天皇 の子
草壁皇子(くさかべのみこ) の挽歌を詠んでいます。



皇位の継承の 陽と陰。未来と過去。

草壁皇子 の子
軽皇子(かるのみこ)は 第36代 孝徳天皇で



その 子の 有間皇子(ありまのみこ)は



フランス アルザス地方に入り
カロリング朝 の家系を 起こされたのではないか
と 言われます。

大宝元年
701年
大宝律令 が 完成しました。

律令 という
律 は 刑法。
令 は 国家の 統治体制 の仕組み の事です。

645年 の 大化の改新 の年 
に 初めての 元号 の 大化 が たてられて
それから 
元年 を 使ったり 使わなかったり していたんですけれども

701年の 大宝 からは 
2020年 現在の 令和まで 1300年以上 1度も 途切れる事なく
元号が 使われてきました。

初めの 大化 から 令和 までは 
248番目 の 元号です。



冊封(さくほう)を 受けるような国々は 自ら元号 を たてられません。
元号を たてる=独立国 の証 なんです。

今まで ちび で バカ という意味で
倭(わ) という 字を 当てられて 名乗らされてきましたが

大宝2年
702年 の 
遣唐使 が 中国の 皇帝に持たせた 国書に

倭 は 雅(みやび) ではない。 



なので 
日本 という字を 用いたんですね。

日本国 と 自称 していたのが
朝鮮側 の 正史 に書いてあるんですね。

日本列島 大和王朝が 統合して
日出づる国 8万 神社が あると 言われますが

太陽の神様が おわす国 
極東 Far East ファー イースト
世界中 一番初め に 日が昇る国

霊の元 日の元 日の本 日本 
という 国号になりました。



日本が 一気に 先進国 に駆け上がった のが
飛鳥時代 になります。

近現代 では 明治時代が そうでしたね。





和気清麻呂・弓削道鏡事件

733年~799年 を生きた人です。

明治時代の終わりから 昭和14年 までの紙幣。 お札になるほどの人物です。



しかし
お札になるほど 有名だったのに 

今の日本人は ほとんど 
和気清麻呂(わけのきよまろ) を知りません。

よく 歴史教育で 自分の地域に親しもう と 郷土史 はやりますが
そうなると
京都の 小学校・中学校 で真っ先に教えないといけないのが 
和気清麻呂(わけのきよまろ) です。

なにせ
第50代 桓武天皇の 命令で



平安京 をつくる 責任者 だったわけですから。
みごと 大役を果たして 同大な 1000年の都が できたのですから。



そもそも 日本が滅びてしまったら 平安遷都も何も なくなるわけですよ。
日本の国のかたちは 色んな人が 

命をかけて 
必死になって 
守ってくれた方々が いらっしゃったからであって

それと反対に
それを 崩そうとする存在も 歴史においては 出てくるわけですね。

その 代表的な人物は



弓削道鏡(ゆげのどうきょう) です。

これは 皇位継承の危機でした。
自ら 天皇になろうとしたんですね。

三種の神器を 守ってきたのが スメラ(皇)一族だったんですけども

皇族でも何でもない 
道鏡 という お坊さんが三種の神器 を受け継ぐ事になる 
とんでもない事になりそうだったわけです。 

この人は 法相宗という宗派の お坊さんだったんですけども 
僧侶としては 大変有能な方だったようなのですが

46代 孝謙天皇 という 女性天皇が有らせられまして 
重祚(ちょうそ)といって  
孝謙天皇の名から 退位して 48代 称徳天皇として 再び即位されるのですが

初めの 孝謙天皇の時 その後 孝謙 上皇 になられた時

ご病気を治されたのがきっかけで 
道鏡が 祈祷したのか マッサージしたのか わかりませんが 
女帝 孝謙上皇と 年がいもなく 
この お坊さんと とても親しい間柄になってしまい



道鏡は 最高の地位。太政大臣までつく事ができました。

当時 政治を動かしていた 藤原仲麻呂 が 2人の行動を
47代 淳仁天皇を介して 通じて 諫(いさ)めた。忠告をしたんです。 

すると 孝謙上皇は
私が誰と何しようが勝手でしょう!!



ってマジ切れするんですよ。

淳仁天皇は 小さいことだけしてればいいから。
これからは 私がまた 天皇やるから って 私が全部決めるわ って 
詔(みことのり) を出しちゃうんですね。

藤原仲麻呂 も黙っていないんです。
これは ヤバい。

何とかしないと と 謀反を企み 天皇の御璽。ハンコを奪おうとしたのですが 
ばれてしまい
藤原仲麻呂 一族諸共 殺害されます。

そして
淳仁天皇は 廃位。天皇の位を廃止され 
淡路島に流されたすぐ 765年 崩御します。

正式に 三種の神器を 受け継いだ方なのに 
しばらくは 淡路廃帝(あわじはいたい) と呼ばれていました。



孝謙上皇は 称徳天皇として
2回  同じ人が 天皇の位につくという 重祚(ちょうそ)をします。

出家した お坊さんが 何で 政治執るのよ って感じなんですが
その間 道鏡は 最も高い位 太政大臣禅師 に就きます。

完全に政治を 私物化しています。

そこで止めておけばいいのに 
自分が 天皇になり そして次は 
自分の子どもを 天皇に という

欲にまみれた事を 思い描くようになり
でも さすがに 道鏡も
俺 天皇にならせて とは  称徳天皇には言えないので

どういう事をやったかというと

神護景雲3年。
769年 
宇佐八幡宮 信託事件 が起きます。

日本の国防。大宰府の責任者 道鏡の弟の 
弓削浄人(ゆげのきよひと)が  

伝手をたどって 大分県
宇佐八幡宮の神主 と 結託して 

道鏡を 天皇にすれば 天下泰平だぞ と
神の 御進捗が お告げが下った という噂を 振りまいたわけです。

敬意ある 神社から そういう風になれば いいPR になります。
道鏡が 弟の浄人に 仕組んだとしか思えませんが

それに対して 孝謙上皇。 
重祚した後の 称徳天皇 は 道鏡に 
はっ?!


また ブチ切れるわけですよ。

女帝は 道鏡に お前何言ってんじゃ?! って感じです。

道鏡は 確かに得難い人物だけれども 
八幡宮の 主祭神は 第14代の天皇の 奥様の
神功皇后(じんぐうこうごう)なので

天皇の祖先が 道鏡を天皇に って言うのかなぁ? と考えて

女帝 称徳天皇は

和気清麻呂(わけのきよまろ)の 姉の 
和気広虫(わけのひろむし)

後に尼になる 法均(ほうきん)に 

宇佐八幡宮に行って 確かめるようにと 
天皇の代わりの 勅使に 遣わそうとしましたが 

この時 法均は 病に伏せっていたために
姉の代行として 

和気清麻呂が 勅使となりました。

和気清麻呂は 道鏡から 
位をやる と誘惑されたり わかってるだろうなぁ と脅迫されたりしますが

皆が 道鏡にへつらっても 
自分は 恥ずかしくない行動をとって 国を守る。 と毅然と

神護景雲3年
769年 6月末。
宇佐八幡宮 の神託の真偽を 確かめるために旅立ちました。



宇佐八幡宮に着いた 和気清麻呂は

身を清め 心を鎮めて 八幡大神に御奉納をし 宣明文を読もうとしました。
すると
神職である 禰宜(ねぎ)の
辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ) が

道鏡に 皇位につけ と 神託が 下されているのだから 
改めて 宣明を奉る必要はない と 拒むので
不振に思った 和気清麻呂は

これは 国家の一大事だから その神託 というものを見せろ って言うんですけども

和気清麻呂が 到着する前に
道鏡によって 宇佐八幡宮は 政治的 金銭的な圧力が かけられていたのです。

伝承によれば
和気清麻呂の前 に 身長 9m の満月の如く 神々しい 八幡大神が 姿を現し 
厳かに真の 御神託が降ろされた と言います。



わが 国家は 開闢(かいびゃく)より 君臣定まれり。
臣をもって 君となすこと 未だ これあらざるなり。
天つ日嗣(ひつぎ)は 必ず皇諸を立てよ。無道の人は よろしく早く 掃い除くべし

と いうものでした。

こうして 皇室の者しか ダメダメ。
八幡大神 は 道鏡の皇位を 認めない と下しました。

都に帰って 和気清麻呂は 皆さんの前で それを報告をしました。

当然 道鏡は 大激怒 ですわ。

たとえ皇位につけなくても 道鏡はこの時点で 政治上の最高権力者です。

和気清麻呂が 報告したこの状況を
女帝 称徳天皇は  

和気清麻呂 ちょっと言い過ぎじゃない? みたいな感じになって

和気清麻呂 を 
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ) と 改名するように命じ
それでも飽き足らず 

大隈国(鹿児島県牧園町)へ 流罪としました。いわゆる左遷です。
大隈国は 初代 神武天皇 のご生誕の地です。

称徳天皇は
さすがに 道鏡に 皇位継承を渡して 
自分が 末代(まつだい)とする わけにはいかない事はわかっています。

ついでに 
姉の法均(ほうきん)は 
別部狭虫(わけべのさむし)と 改めさせて
備後国(広島県三原市)に 流罪にしてしまいました。

和気清麻呂は 
大隈国へ行く旅の途中には 道鏡の放った 刺客に襲撃されます。

ところが 不思議な事がおきました。
激しい雷雨の中 
どこからか勅使(ちょくし)が現れて 死を免れています

大隈国に到着する前 
途中 宇佐八幡宮に お礼参りをしよう と思いましたが
脚が もうくたびれて 萎えて 歩く事ができなくなってしまいますが

山から 突然 300頭の 猪 が現れて 案内役をしてくれました。
参詣前日には 脚は 元通りになっていました。

この故事から 猪は 和気清麻呂の 守り神として 
和気清麻呂 ゆかりの神社には 狛犬 ならぬ 狛猪 が安置されています。



姉の広虫は 備後で 極めて貧しい暮らしをしていました。 
弟や こうなる前まで 養育していた 
83人の 親を亡くした子どもたち の事を想い 淋しく過ごしておりましたが
その 子供たちから 激励の手紙や 食べ物が届くのでした。

そして
女帝 称徳天皇が 崩御。
天智系 天武系の融合 第49代 光仁(こうにん)天皇が即位され 

今度は 道鏡が 栃木県 下野国(しもつけのくに)に左遷され 
宇佐八幡宮の神主は 種子島に 左遷させられました。

和気清麻呂は 京都に呼び戻されて 名前を戻してもらい
京都の 平安京をつくる 責任者となりました。

和気清麻呂は
戦前の 10円紙幣 の肖像画が印刷されました。

そして
今も 皇居 近くの 大手濠緑地に 銅像が立っています。



和気清麻呂が 忠義を尽くしたのは 皇室であった という事で
戦後は 
消し去られ 無かった事にされてしまいました。

和気清麻呂 がいて 
滅茶苦茶な おばはん と お坊さんの 変な皇位継承を 
体を張って 止めたわけです。

忠義 というのは  

単なる 仇討ち 仕返し
に 置き換えられてしまいました。
忠臣蔵の話も そのように すり替えられてしまいました。

和気清麻呂 ゆかりの地には 
今も 護皇神社 護王神社 和気神社 があります。





魔王となった 崇徳天皇

崇徳(すとく)天皇 という方は



今は もう 怨霊 ではないんですけれども
1言で 言うと  

怨霊となった天皇 として 長い間 恐れられてきたんですね。

奈良時代から 何人もいました。

長屋王(ながやおう)の変 から始まり



早良親王(さわらしんのう) 
井上皇后(いのうえこごう) と 色々 ありますが

皇族だったり 天皇だったり
高貴な生まれの方が 無実の罪 を着せられて 非業の死 を遂げた。

そうしたら その後

天変地異 とか 
祟り とか 
疫病 とか が起こり 



政治的な 為政者が バタバタと倒れていく。
そして 人々は

あぁ~ これは あの方の 怨霊 のなせる業だという風に 噂をします。
そうすると
生き残った人たちは

これは 次は 自分かもしれない と思うので

ひたすら ごめんなさい ごめんなさい と 
あなたを そんな惨い 死に方に追い込んでしまった
安らかに お眠り下さい 

国家的な 鎮魂 にあけくれます。



歴史上 学問的に 怨霊というものが 
あったか なかったか と言ったら 
これは 
学問の対象にしたら 難しいところで 議論の対象にはなりません。

そのうち
素粒子の解明などで 霊的な 神秘な世界が 解明されてくると思いますが



今は まだ 目に見えないものは 否定されがちですね。

ところが
人々は この人が亡くなった後 怨霊 として信じた。そして 祈った。 
為政者は ひたすら 鎮魂 にあけくれた

というのは 歴史上の事実なんです。

崇徳天皇は 700年間 怨霊だと 恐れられてきたんですね。



崇徳天皇 が亡くなるのは
長寛2年。
1164年。

崇徳天皇 が亡くなってから 
数十年後 切りのいい年に 
また
100年後 200年後 300年後 100年刻みの 前後数年は

決まって 
事件 事故 天変地異 とか 
動乱 とか 
武家政権が倒れる とか



とんでもない事が 起きるんです。

今度500年 だけど 何が起きるかな みたいに
怯えきるんですよ。

解消したのは 700年後です。

元治元年。
1864年。
禁門(きんもん)の変 が起きるんですね。
これは
蛤御門(はまぐりごもん)の変 とも言われていますけれども

江戸時代 の天下泰平 の時代が
この年を境に 動乱期 に入っていくんですね。



御所 で 戦闘が起きたのは 数百年ぶりですから。

そして
ここから先 ぐちゃぐちゃに なっていくわけです。

当時 崇徳天皇 没 700年祭って とんでもない事が起きるって
みんな 怯えきるんですね。

何をしたかといったら
京都御所 のすぐ近くに 

白峰社 後に 白峰宮 そして神宮号 が与えられて 
白峰神宮 になるんですけれども

この幕末のころ 孝明天皇 が 



崇徳天皇 をお祀りする神社を 白峰宮 を建てるんです。



そして
これまで 700年間 ごめんなさい すいませんでしたぁ って 謝るわけですね。

建てているところで 
孝明天皇は 亡くなってしまうわけなんです。

その後
明治天皇が ご即位になって 建設を続行させるんです。

そして 白峰宮 ができます。

崇徳天皇は 保元の乱 で敗れて

現在の香川県。讃岐の国に 島流し になるんです。



讃岐の国 で 非業の死 を遂げるんですね。
そして 怨霊 になったと 恐れられるんです。

崇徳天皇 を葬る お墓は 
讃岐の国。香川県坂出市 という所に 
廟(びょう)。お墓があります。

崇徳天皇 を弔う 白峰神社 という お寺があって 
そこで崇徳天皇 の 御霊 をお祀りしているわけです。



700年ぶりに 
讃岐 から 京都に お帰りいただくんですね。

保元の乱 がきっかけとなって 武家政権が 成立したんだから
そこから

平氏 源氏 北条氏 鎌倉幕府 室町 足利氏 戦国動乱期 を経て
江戸時代に入りますね。

700年間 武家政権 が続くんです。
全部
崇徳天皇の 怨霊のせい だと言われたんです。

明治天皇の 即位 直前
明治天皇 は
700年ぶりに 崇徳天皇に 都に お帰りいただく
という決断 をされるんです。

讃岐 にあった 崇徳天皇 の御神体を 御輿 に乗せて
さも
上皇が 行幸なさる 
上皇の お出かけ と同じ作法 でもって

ものすごい人数の 行列を組んで 




天皇 もしくは 上皇のみが 乗る事ができる 
屋根に 金色の鳳凰 のつけた御輿

鳳輦(ほうれん) を用意して 



さも
上皇陛下が お出かけから お帰りになる 還御(かんぎょ)の作法をもって
荘厳な 行列を立てて

京都まで 運び 
京都に お入りになるんですよ。

そして それを 新しく建てた 
京都御所の近くにある 白峰社 に 御神体 をお祀りして 

そして
明治天皇 は祈るんです。
明治天皇 の 御即位 の 前日です。

崇徳天皇 お帰りなさい。
700年間 の無礼 をお詫びしたい と

詫びるんです。 明治天皇が。




翌日 明治天皇は 即位です。

天皇 を 中心とした 中央集権国家 をつくる。
700年間 続いた 武家政権が 終わるんですよ。

武家政権 の終了?
天皇 中心の政治体制 に戻す?

崇徳天皇 との 和解を 済ませない限り

無理だ と 考えられたんですね。

だから 
わざわざ 讃岐の国 から お帰りいただいて
すいませんでしたぁ!700年ぶり 京都にお帰りなさい!
って やったわけですよ。



それほど 恐ろしい。
保元物語 に書いてありますが

天皇 滅ぼしてやるぅぅぅ!!!
王朝 呪いの力で ぶっ潰してやるぅぅぅ!!!



と 叫びながら 死んでいったという方 ですからね。

天皇を 平民に 貶(おとし)め
平民から 天皇を 立ててやる

王朝交代 易姓革命 ですよ。

憎たらしいぃぃ
日本国を ぶっ潰すぅぅ

そういう 魔王 になってしまった わけですね。

これまでは
日本国を 潰す

という 力を 発揮してきた と思いますけれども

明治天皇は 



これからは
日本国を 守ってほしい
日本国の 守護神 になってほしい

過去に 色々 と起きた
700年 恐れられてきた

そのパワー を どうか 日本の国を守る という方向に 使ってほしい
という 
そういう 祈りを 立てるわけですね。

どうやら それで
崇徳天皇は お鎮(しず)まり になったようなんです。

崇徳天皇 に関する 怖い話は いくらでもあるんです。
これ以降
ピタッと 止まって 何も起きなくなったんです。



今は 崇徳天皇は
日本の国を守る 力強い 神様 として 
御鎮座に なっていらっしゃると思います。

京都御所から 近い 白峰神宮 は 
蹴鞠 と 



和歌の 宗家であった 
公家の 飛鳥井(あすかい)家 が お守りしてきました。

で 何があったんだ? という話 ですが

大治4年。
1129年。
第72代 天皇。 白河上皇 が崩御しました。



院政が 始まっていますので 
子や孫が 天皇 に なっているわけなんですよ。

何人か 上皇 がいる場合が ありますけど
その 上皇 の中で 筆頭 の方を 

本院。または 
治天の君(ちてんのきみ) と申し上げます。

白河上皇 が崩御 した事で 今度

第74代 天皇。鳥羽上皇 が本院 となります。



天皇は
第75代 崇徳天皇。 


お父様は 鳥羽上皇です。


この頃。平安時代 末期
崩御 によって 政治的な 転換期 になっていくわけですね。

天下泰平の 長い平和な 平安時代 は

保元の乱 によって 終わりです。
保元の乱 から 動乱期 に入っていきます。

794年。 鳴くよ ウグイス平安京 
から 

保元元年。
1156年。 保元の乱 まで。

この 362年間 

1つの 政権が 安定して 内乱が無い。
天下泰平 だったという事は 世界の歴史上 無いです。

東北の蝦夷(えみし)征伐 はありましたが
全国的な 動乱 抗争 は なかったんですよ。

天下泰平 の安らぎを 破ったのが

保元の乱 に なります。

   

保元元年。
1156年。  鳥羽上皇 が崩御 となりました。

鳥羽上皇 と



息子の 崇徳天皇 は 仲が悪かった みたいなんですね。



第75代 崇徳天皇 は 

鳥羽上皇 の意向 により 
天皇を 自分は続けたいのに 譲位 させられて

皇位継承 を 自分の子どもに したかったようですが

第76代 天皇は 崇徳天皇の 末の弟
近衛天皇 となるわけです。



近衛天皇 は早く亡くなり

第77代 天皇は 崇徳天皇の すぐ下の弟
後白河天皇 が立ちます。



後白河天皇 の子ども  
第78代 二条天皇 が皇太子 となります。



そして
早くに亡くなった 末の弟 
近衛天皇 と お父様 鳥羽上皇 を 



崇徳天皇が 



呪詛(じゅそ)をかけて 呪い殺した という 噂 がたつんです。

父 鳥羽上皇 が亡くなると
実権が

兄 崇徳天皇 なのか
弟 後白河天皇 なのか

周りが 騒ぎ始めるんですね。
挙兵 するんじゃないか という 噂が たつんです。
一種の 罠 だったかもしれないですが

戦争になりそうだ という 空気の中で

崇徳天皇 は 挙兵の準備 をするんです。



準備だったのに そこで 
謀反を 起こしたと 言われて

後白河天皇 は



軍勢を 指し向ける事になります。 
兄を 攻める という事が 起きました。

これが
保元の乱 なんですね。

この時の事があって
上皇 って無くした方が いいんじゃないか?って

平成 から 令和 に移る時。
終戦 の時も
明治の初期も 議論があったんです。

そして 皇室典範 から 外された経緯 があります。

後白河天皇 が攻めてくる。

崇徳天皇 は 呪い殺したって 噂がたった という事は
過去の事例から

いきなり 捕まって 島流しコース とかに なっちゃうわけですよ。
これは まずい流れになってきたな と

崇徳天皇 は身を守る為に 挙兵 の準備 をする。

後白河天皇 が起用したのは

出てきました。平清盛 です。



それから 源義朝 です。



源頼朝 と 源義経 の お父さんです。



平氏 と 源氏 ですよ。 この時は まだ仲が良かったんです。
この時は まだ ガードマン だから。

武士 というのは 
貴族 とか 天皇 とかから
雇われていた 警備員。ガードマン だったわけですよ。

会社の警備員が どうやって 代表取締役になるのか。



そういう 武士が 
政権の中心に 入っていくわけですね。

この時 後白河天皇 に仕えていたのが 
主な顔ぶれ この 2人の 警備員ですわ。

そもそも 
呪い殺してないし 何もしてないのに 

崇徳天皇 は 謀反を起こしたと 逮捕されるわけです。



そして
そのまま 配流。 京都から
香川県 讃岐 の坂出(さかいで)に島流し になります。

これによって
後白河天皇 は
平清盛 と 源義朝 を 君たち出来るじゃん と 


 

重く用いり 可愛がる事に なるんです。

まだ 乗っ取られるところまでは 行きません。

平治元年。
1159年。
平治の乱 が起きます。

警備員が 実力 を持ち始める。
いよいよ 取締役会に 入り込んで 
会社の決議を 牛耳るところまで行くのが 

平治の乱です。



何が起きたかといったら

後白河天皇 を支えていた グループが 真っ二つ に分かれて
そこで
喧嘩が 始まっちゃったわけです。

あの 2人です。

平氏は 天皇派。
源氏は 院政派。

この時 
崇徳天皇 は 島流し。

天皇は 二条天皇 になり
後白河天皇 は 上皇 になっています。

どっちが 実権を とるのか。
天皇 と 上皇 が 争うのではなく

平清盛 と 源義朝。



家来同士が 喧嘩 を始めたわけですよ。
どっちが勝つか といったら 

平清盛 が勝つわけですよ。

平清盛は 参議(さんぎ)になります。
武士が 公卿(くぎょう) になったのは 初めてです。

警備員が 平取締役 になったくらいですかね。
来ました。徐々に。

悪い奴らを 張り倒して よくやった!みたいな 感じで
どうやって この会社を 乗っ取っていくのか という。

警備員 どうしの喧嘩 ですから

勝った 警備員 が 
政治 を動かすようになっていくわけです。

天皇も 上皇も 黙ってろ。
平氏 が決めていきます って事に なっていくわけです。

   

平治の乱で 
源氏は 没落 していったわけですよ。


それだけではないんです。

天皇も 上皇 も 力を落とすんですよ。



藤原氏 なんか 蚊帳の外ですわ。


そして 乗っ取っちゃった わけです。
二条天皇 の下で 事実上の 武家政権の成立です。

平清盛は 絶大な力を持つようになるわけです。

仁安(にんあん)2年。
1167年。
平清盛が 太政大臣 になります。政治の最終責任者です。



社長 まで来ました。
でも 3年後 太政大臣をやめます。
地位 役職名 肩書 には 興味が無いんです。

保元の乱
平治の乱
壇ノ浦の合戦 

と 流れは

保元物語 
という 戦記物に まとめられています。
戦記物 なので 
誇張したり 尾ひれ背びれが付いたり があるかもしれません。

ただ
崇徳天皇 に関しては ものすごい事が 書かれているんですね。

讃岐の国 流刑地 で 
大がかりな 写経 に着手します。



五部の 大乗経 を

礼拝をしながら 
1文字 1文字が 仏 であると 3年がかりで 
装飾文字で 書いていきます。

なぜ 崇徳天皇が 写経をしたかというと

自分は 罪を犯してしまった。
天皇として
上皇として

流刑 になって 歴史に汚点を 残してしまった。
流刑の身なので もう野望はないんです。

せめて 仏の道に入って 写経をして
また
来世で 救われるようにと 
お父さんを 弔いたいと そういう気持ちで 大乗経 を書きました。

お父さんの 鳥羽上皇 の



お墓にぜひ 納めてほしい という事で
仁和寺 にあずけるんですね。

ところが 突き返されます。

弟の 後白河上皇 が 



はぁ?
崇徳天皇 が書いた写経?
どんな 呪いが 込められているのか 知れたもんじゃない。
この
書いたものを 京都に 置いておく事はできない。

お父さん の お墓に入れるなんて 言語道断。
仁和寺 にある事も 駄目。

突き返せ!

って事で 
後白河上皇 の命令で 
崇徳天皇 のところに 突き返さてきた という事なんです。

保元物語 によると
これを聞いた 崇徳天皇は ブチ切れるわけですよ。




はじめ 
弟の 後白河上皇から 届けものがきた。

後白河上皇 は 



今様(いまさま) と言って

和歌 とか 現代流行歌をまとめる 達人だったので
都で 1番流行っている 和歌集 が入っているんじゃ 

って期待したわけですよ。

讃岐に何年もいると 
都の 最先端の 和歌とか 送られてきたら嬉しいわけですよ。

弟から 贈り物が来た。めでたいから みんな集まってくれ と
人を呼んだ ってわけですね。

みんなが見ている前で
じゃあ 開けるぞぉ と 言って 
パかっ と空けたら



今様(いまさま) が入っているのではなく

崇徳天皇が書いた 写経。五部の大乗経 が 
ビリビリに破かれ 中に入っていた。



配流(はいる)された とはいえ 出家 して 

菩提のために 仏教を修読する事は 
許されて 然るべきだが

後世 のために書いた 大乗経の置き場すら 許されないのであれば
後世 までの 敵と見做(な)す と いう事であろうから

我 生きていても 無益 である。

その後は
髪に 櫛(くし)を入れ事もなく
爪を 切る事もなく



生きながらにして 天狗のような 姿になった ってわけです。



そして
罪を 償おうとして 写経をした 血書経を 三悪童に投げ込み
その力 を以て

日本国の大魔縁 となり

天皇を 民 とし
民を 天皇 としてみせる! 

と言うと 

自らの 舌 を食いちぎり 滴る血液で 大乗経 に

天下滅亡



の呪い の言葉を書き記した。

大げさな 部分も あるかもしれないんですけども

大乗経 は実在していた という事。
納経(のうきょう)を断られた という事は

事実なんですね。

呪いの お経だ という事になって
後世の 為政者たちは 
その お経の取り扱いに 大変 苦労するんです。



荒れ狂って

舌 を食いちぎって 滴る血液で

天下滅亡 って書いて 

大魔縁 になって 生きながらにして 天狗 となって

天皇を 民 とし
民を 天皇 としてみせる って

足利義満 みたいに 密かに企んだ 人はいましたよ。



しかし
これを 公言 した人は いないですよ。

崇徳天皇 が書いた写経。五部の大乗経 が 
ビリビリに 破かれ 中に入っていた。

これを 見たとたん
崇徳天皇は ビリビリ に破かれた 写経を持って 
走り出した っていうんですね。

天皇も 上皇 も 基本 走っちゃいけないんですよ。

おのれぇぇぇ~! と 言って 



舌を 食いちぎり
天下滅亡 と 呪いの言葉 を書き記し 

皇室を ぶっ潰してやるぅぅぅ!!! と叫んで



そのまま 憤死 したという。



これが 保元物語 に書かれている事で 
どこまで ホントかは ともかく

さぞ 
無念 だっただろうと みんな 思っているんですね。

現に 崇徳天皇が 亡くなった後

天変地異 とか
後白河上皇 周りで 人が バタバタ 死んだり 
とか 起きるんですよ。

長寛2年。
1164年。
崇徳天皇 崩御。

治承元年。
1177年。
讃岐院 から 崇徳院 という 院号 が送られています。



鹿(しし)ケ谷の陰謀 が起き
院政が 停止 されます。

平清盛 は 
後白河上皇 に どれだけ世話になったんだよ って話ですが




院政が 停止 によって
平氏政権が 成立します。





平家

壇ノ浦の合戦で 平氏は 滅亡するわけです。



その後 
源氏 の政権が立っていく。
源頼朝が 征夷大将軍に任命されて 鎌倉幕府がスタートするわけです。



今までの 蘇我氏 藤原氏 という
天皇の所に 嫁がせて 外戚 として 力を振るう という事はありました。

平安時代は 外戚が 力を振るう 摂関政治
もしくは 天皇の 父や 父の父 が実権を握る 院政。
また 
天皇 自らが 政治的実権を 行使する 親政。

こういったものを してきました。

ところが これが全部 ぶった切られて

ちょっと前まで 
警備室で 警備していた 雇われていた警備員。



天皇の ガードマン が

気付いたら 政権の全てを 動かすようになるわけです。

取締役会を 制圧し 自ら 社長となり 会長となり 
経営全般を 握り始める。
これが

平氏政権の 樹立だったわけです。



ところが この 平氏政権は 永くは続かないんですね。

平清盛 は 



自分の娘 徳子 を



第80代 高倉天皇 の 奥さんにしているんですね。

そして 生まれたのが
第81代 安徳天皇 です。



平清盛 は 高倉天皇を 退位させ 
安徳天皇に 譲位させます。

平安時代の 藤原氏は 

元々 天皇の一族から 分かれたグループですから
最初から 貴族系 ですよね。

ところが
平清盛 は ただの雇われていた 
警備員なんですよね。



なので この人が
あなた 天皇 辞めなさい とか
あなた 次 天皇ね みたいな 

そこまで 支配するようになったんですよ。
社長が 人事まで 握っている みたいなね。

高倉天皇を 早く譲位させて 自分の孫のである
安徳天皇を 即位させるんですね。

1歳3か月 ですよ?! 子ども までいかない 赤ちゃんです。

安徳天皇の 母の 父親は 
ちょっと前まで いち警備員だった 平清盛 なわけですよ。



天皇の 外祖父 として 政権の実権を握る。

かつて 藤原氏 や 蘇我氏 が やっていた事を 
気付いたら 
天皇の 人事まで決める力を 握るようになっていたわけです。

ただの 太政大臣 ではなく 
本物の 為政者 になってしまったわけです。

これが
平清盛の 全盛期になります。

平氏の時代は そんなに長くは続きません。

急に お金を持って
天狗になって ものすごい 富を手に入れてしまうと 遊び始めてしまうんですね。

そうすると
一気に 腐敗 していくんですよ。

この状態に 危機感を 持っていた人が 皇族の
以仁王(もちひとおう) です。



この 腐敗した  平氏の政権を 倒さなくてはいけない
と 思うんです。

以仁王 が 平氏追討の令旨(りょうじ) を出しました。
令旨 というのは 皇族が出す 命令 の事です。

これが きっかけとなって 
壇ノ浦の合戦に 進展していくんです。

ここで 令旨(りょうじ)が出ていなければ 平氏政権は もっと続いていたかもしれません。
そうすると

源頼朝 が 鎌倉に幕府を開く という 
歴史的展開には ならなかったんですね。

この 令旨 がきっかけとなって 全国で挙兵が相次ぎます。

以仁王(もちひとおう) の 

自分は 後白河法皇 の 第2皇子であり 
王位を 簒奪(さんだつ)。 
本来 君主の地位の 継承資格が無い者の この事態を

天地は ことごとく悲しみ 臣民は みな愁いている。
君主の 地位を奪取する 輩(やから)を 追討し 討ち滅ぼそうと思う。

という 令旨(りょうじ)に
多くの 人々が 心が揺り動かされたわけです。

そうだよなぁ 
確かに 平清盛 ふざけんじゃねえ って なったわけですよ。

しかし 
令旨(りょうじ)を 出したら 

源頼政 と共に 討ち死されてしまいます。 



壇ノ浦の戦い で戦うまで 生きて無いんです。

以仁王(もちひとおう) は 
自らの 命を 引き換えに 
平氏政権を 滅ぼすという 神がかった人なんです。

その想いに 応じた武将が たくさんいたのですが
代表的な ところで言えば 

源頼朝 と 従兄弟の 源義仲 が挙兵します。



鎌倉に拠点を置いている 源頼朝が 頭角を現してきます。

源義仲は
越中 と 加賀 で 平氏を討ち 京都に迫りますます。

しかし 
頼朝 と 義仲 に 仲違いがあり 
琵琶湖で 源義仲は 討ち死にしてしまいます。

兵庫県 
播磨 摂津 辺りの 一ノ谷の戦い と 
四国 
阿波 讃岐 辺りでの 屋島の戦い



いわゆる 源平合戦 で 平氏は連敗していきます。

そして
平清盛 の息子 
平宗盛(むねもり) は 京都を明け渡して



三種の神器 を 携えて



幼い帝
安徳天皇 を連れて 西国の方に落ちのびます。



九州 と 本州 の境目。関門海峡。 

元暦(げんりゃく)2年。
3月24日。
壇ノ浦 が 決戦の場 になるわけです。

ここで 実際に現場で 総指揮 をしていたのは 
平清盛 の息子 
平知盛(とももり) なんですけれども



平氏が 負けます。
平氏は 滅亡する事となります。

最後 
この時 安徳天皇は 満6歳 になっていたんですね。

安徳天皇 は
三種の神器 を携えて 逃げるわけなんですけれども 

追い詰められて
船の中で いよいよ平氏が 駄目だろうという事になって

最終的には 安徳天皇は 自決。

自決 と言っても 

自らの意志で 死んだわけではなくて
平清盛 の奥さん 
二位の尼(にいのあま) 時子(ときこ) に 抱きかかえられて

 

三種の神器 諸共 
壇ノ浦の 藻屑 となってしまいます。



歴代天皇 の中で 戦場で果てた 天皇はいますが 極めて少ないです。

1歳3か月 で 天皇になり
6歳で 戦場で 入水(じゅすい)という 自決をさせられる。

極めて可哀そうな 悲劇の天皇 だと言える事ができます。

この時
三種の神器 諸共 海に入ってしまうんですけれども

どうなったんですか?

という 話なんですけれども

鏡は 重たいので
船に 残されていました。



勾玉 と 剣 は 



二位の尼 時子が 剣 と 勾玉 を持って 
安徳天皇 を抱えたまま 

えい やぁあ と 飛び込んで 海に入っちゃいましたからね。

そして
安徳天皇は 崩御。

剣 と 勾玉 は 紛失する という事になってしまいました。

え?

三種の神器 無くなっちゃったんじゃないの?

って事で 勘違い しそうですが

鏡は
原本は 伊勢の神宮 にあります。



形代(かたしろ)という 
御霊移し した 写しが 皇居に あったわけなんです。

勾玉は
原本が が 皇居 にありました。



剣は
原本は 熱田神宮 にあります。
形代は 皇居 にあったわけなんです。


その 三種の神器 を持って
安徳天皇は 西に落ちのび 壇ノ浦の合戦で 
入水したわけですけれども

鏡は 残されました。
剣 と 勾玉 が 失われて しまうんですけれども

全国から 優秀な 海女さん が集められるんですね。



海に潜って 探して 
数日後

勾玉は 
打ち上げられていました。そして 回収されました。



剣は
見つからなかった という事なんですね。



きちんと 形代(かたしろ) として 御霊うつし をされています。

勾玉は 原本。 
ですから 失われてしまったら 永遠に無い 事になってしまいます。

剣は
原本 は 熱田神宮 にあります。

ですから
壇ノ浦の戦いで 失われた 剣は 
御霊移し をした 形代(かたしろ) ですので
原本 が失われたわけでは ありません。

この後 伊勢の神宮の 御神宝 の中から
剣 を出してもらって

再び 御霊移し をしてもらって 
新たに 形代 として 
宮中で お守りする事に なっています。

ですから
安徳天皇 と共に 剣 と 勾玉 が 失われる事になるのですが

勾玉 は 回収され
剣 の 原本 は 熱田神宮 にありますので

三種の神器 自体がが失われた という事ではありませんでした。




そして
壇ノ浦の戦いで 平氏が滅亡し 
源氏の 源頼朝が 鎌倉に幕府を開く という事になります。

ここで 平安時代は 終わります。
この後は 中世。鎌倉時代 となるわけです。

ちなみに
現在の 皇室は 北朝 の血統ですから

南朝 の末裔 関係者の 人たちは 
ひたすら 
定期的に 東京の 皇居の方に 呪いをかけていたんですって。

どんな 呪い かというと
女が 生まれろ 女が 生まれろ と 40年間 かけ続けたんですって。



そうしたら 9人 連続で 女の子が生まれたわけですよ。

小泉内閣のころ
ご懐妊の前 だったんですよ。

今でも 北朝
皇室に恨みを 持っている人がいたそうです。
しかし

恨みからは 何も生まれない
南北朝 で いがみ合っていても 意味がない 
という風に言う 南朝の人もいて

日本の未来を考えて 南北朝 力を合わせて 祈る という事で
今度は
男が 生まれろ 男が生まれろ って祈ったら



男の子 生まれたんですよ。





源氏・北条氏

77代 後白河天皇 は健在ですので
源頼朝 と バチバチ やるように なります。



両方とも 後白河天皇 の孫 の
高倉天皇 の子どもで 

平氏が 立てた 第81代 安徳天皇 と



源氏が 立てた 第82代 後鳥羽天皇 



この2人は

同じ時代に 並立 しているんです。

1185年 の壇ノ浦の合戦 の  2年前。

1183年。
寿永2年 
の段階で 後鳥羽天皇 は 3歳 にして 
践祚(せんそ)。
天皇の位に付きました。

同じ時代に 天皇が 2人 並び立つ という事になったんです。

どちらが
三種の神器 を持っていたかというと 



安徳天皇 です。



安徳天皇 崩御の後 
壇ノ浦の合戦の後に 受け継いでいくのですが

後鳥羽天皇 は
三種の神器 を 受け継がないのに
天皇に 即位した という事で

後鳥羽天皇 ご自身が 即位の時に 
三種の神器 を受け継いで 天皇になったんじゃない 
と 
気にしていらっしゃいました。



後の
南北朝時代の 前の段階でも このような事がありました。

日本国 第一の 大天狗 と呼んで

源頼朝は 
後白河上皇を 意のままに動かす事は できませんでした。

後白河上皇は 
かつて 自ら 雇っていた 

警備員の 平清盛 が



力をつけて 乗っ取って行って 
天皇の人事まで 決めるくらいに 行ってしまった

という経験が あるので

武家政権 というものに 強い警戒感を持っていました。

平氏が 滅亡して
また 今度は 
源氏 が出てきて いかがなものかと という考えなんです。

そこで
源頼朝 の弟。
源義経 を可愛がるんです。そして 兄貴を倒そうとするんです。



承ってしまった 義経 も 義経 なんですけども
この2人 の 兄弟げんか は 

後白河上皇 のせいなんです。



頼朝を 追悼せよ という 院宣。命令を出すんです。
そうすると

頼朝 からしたら 
弟の 義経は 自分を討ちに来る人 になりますよね。

弟なんだけれども  謀反人 という事で 
義経は 兄から 追われる立場になります。

義経は
奥羽(おうう) 藤原氏の方。東北に逃げます。

武家が 力を持たないように
武家同士で 喧嘩をさせる。

頼朝は 後白河上皇 を 大天狗 と呼びました。

頼朝 は 義経 を討ってしまいました。



頼朝は
アメリカで 考えたら 州の 武装警察 みたいな
国ごとに置いて 警備させる 

守護 と

荘園を管理させて 年貢を しっかり取ったりする 
行政職 の 

地頭 を

地域ごとに置きました。

鎌倉時代の 封建社会 は

将軍 と 御家人が 
御恩 と 奉公 といって

特別な地位を与えて 安全を保証しますよ という 

御恩(ごおん)


普段は 警備ですが 
いざとなったら 命を投げ出してでも どこまでも戦いますよ という 

奉公(ほうこう)



の 強力な 主従関係で結ばれる という 特色があります。

幕府 
というのは 

ちゃんとした 建物ではなく
戦場には 
幕を張って 陣を張る。

出張先での 将軍の陣営 の事を言います。

突然 落馬 によって 
源頼朝 は死んでしまうのですが



頼朝の子どもの 
源頼家(みなもとのよりいえ)が

2代目 の将軍になります。
ところが
この 頼家は 16歳 なんです。



ここで 北条氏 と 頼家 の間で 対立が起きてしまうんです。

16歳の 若い将軍が 粋(いき)がってしまって
お父さんの 頼朝よりも 強権を動するんですね。

御恩 と 奉公 で結ばれていた 関係が崩れていきます。

そんな中 メキメキと 力を付けてきたのが
源頼朝の 奥様  北条政子 



の お父さんの 北条時政 です。



将軍の 奥さんの 実家が 
将軍より 強い力を持っていく という事です。

将軍の 秘書のような 
初代 執権(しっけん) になる人です。

徳川家康 みたいに 
ガチガチに 固めるまで できたらよかったのですが

源頼朝 は 突然 落馬 で
2代目 が アホだったから



御家人たちと 協議をして 
下手に 下手に 出ていれば よかったものの 

3代目 の 実朝(さねとも)で 絶家ですよ。



そうしたら  
執権政治は なかったと思うんですよ。
源頼朝 の家系が 続いた可能性がありますよ。

その 粋(いき)がっちゃった 
2代 源頼家が 病気になった時

将軍が 死亡した



と 伝えられるんですね。

そうしたら 頼家が 元気になっちゃって

あら?元気になっちゃった。

北条時政が 刺客 を放つんです。

そして 
頼家は 暗殺されるんです。



もう めちゃくちゃ ですよね。

おじいさん が 
孫 を 討つわけですから ドロドロ です。

北条氏は もう この頃は
次の将軍を 決める
という力を 政所別当(まんどころべっとう) として持っていました。

今度は
北条政子 と 弟の 北条義時 が



お父さん の 北条時政を 失脚させます。



そして 義時が 
政所(まんどころ) と 侍所(さむらいどころ) の
別当の地位 実権 を握ります。

そのわきに居るのが 政子 ですよ。



源頼朝(みなもとのよりとも)からのものを 

廃人のように 枯らせていく と同時に
お父さん 時政 を 



娘 と 息子が 失脚させて行くんですね。

3代 源実朝 は 完全にお飾りで 
その後 

兄弟から 暗殺されてしまいます。



北条氏の 思い通りになるわけです。

京都から 源頼経(よりつね) という人が 
4代目将軍 として 

九条家 から送られてきますが
源頼朝(よりとも) の 妹の 曾孫 に当たりますので
一応 親戚ですが 

御家人連合 が かついだ 将軍というのは 
完全に 形骸化 してしまいます。

平清盛 も 警備員から 会長まで 上り詰めましたが

北条氏 も すごいところから 攻めてきましたよね。
全部 乗っ取っていくんだから。

源頼朝 が あの世から 見てたら




まぁ ビックリ したでしょうね。

何で 3代で 滅びるんだ?! って。

落馬が 運の尽きた 所でしょうか。
息子に 譲る体制が 整ってなかったから

北条氏に 食い物にされてしまった という。
源頼朝からしたら 悲劇ですね。






後鳥羽上皇 承久の変

一般的には 教科書では 

承久の乱 

と 教えていると思いますが 間違い というか 
不適切です。

承久の変

これが 〇 です。

どういう事かというと
承久3年 にあった 戦乱なんですが

後鳥羽上皇 が 挙兵 をしたわけです。



承久の 乱 となりますと

乱 というのは  乱れる という意味ですね。
簡単に言うと
クーデター ですよ。体制を破壊する という事です。

実際に 政権が転覆したわけではないので 未遂でしたが
誰が クーデターを起こしたの? って言ったら

首謀者は 後鳥羽上皇 って事に なるわけですよ。
上皇 がクーデター。
上皇 が 乱 って おかしいですよね。



要は 
幕府が おかしい。北条が おかしい。
これを 叩かなくてはいけない って事で

2・26事件 とか 
5・15事件 みたいな クーデター未遂事件みたいな事や

民間人が 総理大臣を 刺し殺す みたいなのとは違って

上皇 自らが 挙兵したわけですから 
そういうレベルの話 ではないんです。

大化の改新。
乙巳(いっし)の変 の時に 

中大兄皇子 が 
蘇我氏の 専制政治がいかん! と 世直しのために
蘇我入鹿を 誅伐(ちゅうばつ)した という事がありました。

乙巳の乱 ではないです。
中大兄皇子 は当時の 現職の皇太子 ですから 
皇太子 自らが 天誅(てんちゅう) をくらわした って事ですから

皇太子が 起こした クーデター って おかしいですよね。

戦前は
承久の 変 だったんですね。

ところが 今の教科書は 

天皇だから 特別扱いではなく
上皇だろうが 挙兵 だから 乱 でしょ 
と 
首謀者扱いなんですね。

何が 大成で 何が 軸か という事を 教えないんですね。

どっちが 日本の存在を しらす 存在なのか 
治天の君 として 上皇いるんだから 
鎌倉幕府は 征夷大将軍は 

天皇が 任命した って事だから
後ろ盾は 天皇だ って事です。

将軍の秘書 というか 補佐役が 北条 なんだから



将軍の 番頭さん みたいなものが 北条なんだから

北条 如きが 何を言ってんの? って感じなんです。

壇ノ浦の戦いで 自決した 天皇は
第81代 安徳天皇 でした。まだ 子どもでした。



並び立っていたのが

第82代 後鳥羽天皇。
承久の変の 後鳥羽上皇です。



後鳥羽上皇は 
三種の神器 を受け継ぐ形で 皇位継承 をしませんでしたので
神器なく 践祚(せんそ)なさった という事です。

本人も 自責の念 と言いますか 後ろめたさ もあったようなのですが
だからこそ
ちゃんとした 天皇に ならなければいけない と 強いご自覚も あったようなんです。

そして 上皇となり 院政を始めます。

次に 天皇になられたのは
第83代 土御門(つちみかど)天皇。



第84代 順徳(じゅんとく)天皇。



第85代 仲恭(ちゅうきょう)天皇。


3代に渡って 院政をしきます。

天皇の 和歌は 祈り です。

古今和歌集は 
第60代 醍醐天皇 の 命により出され
第82代 後鳥羽天皇 は 新古今和歌集 を出します。

世を治め 民を和らぐる道とせり 
五七五七七 は 神に直結する リズム と言われています。
天皇が 和歌 を詠む という事は 

祈り を捧げる事になるわけです。

平安時代 末期は 平氏。
壇ノ浦の合戦 の後は 源氏。

源頼朝は 
第56代 清和天皇の 子孫ですから 天皇の親戚なんですね。



将軍の番頭さん。北条が その後 実権を 握っちゃうから
朝廷 としては 糸の切れた凧 みたいになってしまいました。

後鳥羽上皇 は 
朝廷も 軍事力を整備する という事をします。
天皇 自らが 
北面の武士。西面の武士 を持ちます。

おじいさまの
第77代 後白河上皇の 気概 を受け継いだのが 



第82代 後鳥羽天皇。後鳥羽上皇 でした。



清和天皇の 子孫の 源氏が 将軍を抑えているのなら まだしも

将軍不在 になった
承久3年。
1221年。

北条義時を 討伐せよ 



と 院宣 (いんぜん)が出されます。
そして 上皇 自ら 挙兵 をします。



天皇は 
第85代 仲恭(ちゅうきょう)天皇 でした。
まだ 2歳 です。

この辺りは 
吾妻鏡(あずまかがみ) や 
承久記(じょうきゅうき) の書かれています。
北条政子 の 演説が 有名です。



上皇を  挙兵させるに至った 周りの人たちが いけないのだ 
と言います。
後鳥羽上皇 が悪い とは言わないんです。



後鳥羽上皇 を倒せ とは言わないんです。
上皇批判は しないんです。

君側の奸(くんそくのかん) を討ち払う。

悪い部下を 討ち払う と言う事です。

北条ら御家人が 狼狽(ろうばい)して 慌てふためいていたところを 
北条政子の 演説で 動揺が 収まります。

源頼朝公のお蔭。 御恩 と 奉公 を 忘れてはならない と言うんです。

関東周辺の 御家人 19万 の数が 集まりました。
そして 北条泰時を 総大将として 京都に向かいます。



片や 朝廷側は 2万人ちょっとしか 集まらなかったんです。

しかし 総大将 北条泰時(やすとき) が 1人 鎌倉に戻ってきました。
鎌倉にいた 父 北条義時(よしとき) は 何ゆえ戻って来たのか と聞くと



泰時は 
1つだけ聞きたい事 があります。
もし 上皇 が戦場に 現れたら 私は どうしたらよいのでしょうか。
と言います。

父 義時は
よくぞ聞いてくれた。
上皇 の御輿に 弓は向けられない。
もし
上皇が現れた場合は

弦を切り 鎧を脱いで 降伏するのだ。

だが
もし現れなかったのなら 1000人が 1人いなっても 戦うべし。

との答えでした。

わかりました。これで全力で戦えます。

泰時は 京都にまた 向かいました。



上皇が 現れたら 降伏です。

世界の歴史の中で
総大将 が出てきたら 降伏しろ なんて そんな話ありますか?

総大将が出てきたら 俺が首とってやる!って行くのが 普通ですからね。

上皇 自らを攻める というのは 
大義名分が 立たないんです。

戦記物に 書かれているので 史実かと問われたら わかりませんが
当時の 武家の皇室観 というものを 知る事ができます。

帝(みかど)の御輿に 弓は引けぬ



朝廷を滅ぼす のではなく
天皇の 周りの者から 天皇を救い出す という考えです。

幕末の 長州藩が 蛤御門(はまぐりごもん)の変で 
御所。皇居 を攻めるわけですよ。
でも
私たちは 天皇を殺したいんじゃ ないんだ。
天皇を お守りしたい。

薩摩や 会津 が 天皇を惑わしているんだ 
と 自分たちに言い聞かせて
皇居 を攻めるわけなんです。

北条が そこまで尊王精神が あったかはわかりませんが

帝の御輿に 弓は引けぬ と言う事です。

結局 戦場に 後鳥羽上皇は 現れませんでした。




京都は 幕府軍に占領され

後鳥羽(ごとば)上皇は 隠岐に
順徳(じゅんとく)天皇は 佐渡へ
土御門(つちみかど)天皇は 土佐へ 

配流(はいる)という形で 処罰 を受ける事となりました。

2歳の 仲恭(ちゅうきょう)天皇は 



壇ノ浦の合戦の時の 
安徳(あんとく)天皇 のような 入水して 自決 
という事はありませんが

退位。 

在位期間は 78日間でした。
歴代天皇の中では 最短です。
九条家に入ったので 九条廃帝(はいたい) などと呼ばれます。

しかし
649年後 明治3年に
仲恭(ちゅうきょう) という 天皇号 が送られました。



承久の変 で 結果としては

朝廷側は 力を失い
幕府側は 権力基盤を つくってしまいました。





武士の皇室観・大義

ところで 
島流し って 何でですか? って話です。

世界の歴史では 普通 処刑 ですよね。

北条氏は なぜ 天皇を無くそうと しなかったのか。

なんなら 王朝をぶっ倒して 
私が 新王朝を立てる!
私が 初代 天皇だ! って やろうと思ったらできたでしょう。

あと 1歩で 天皇に なれるのに
なぜ やらなかったんですか? って事ですよ。

足利義満 は なろうとしたようですが



この次の 
足利氏 も 
織田信長だって  豊臣秀吉だって  徳川家康だって

自分が 天皇になって 新王朝を立てる って
やって 出来なくはなかった と思います。

じゃあ

なぜ それを しなかったのか。
2000年以上 天皇が続きました。

色んな 実力者がでてきました。
なぜ
藤原氏 も 蘇我氏も  

天皇を 倒して自分が 天皇になろうとしなかったのか。

これは 
日本の歴史を 学ぶ上で

大変重要な 問題 であると同時に
答えを出すのが 非常に難しい 問題 です。

なぜ 北条氏は 
配流。
島流し に留めたのか。

2歳 の仲恭天皇 を 退位 させた後
第86代 後堀河天皇を 立てるんですね。



この2人は 親戚。 近い 一族です。

第80代 高倉天皇 の



子どもが 後鳥羽上皇 と 安徳天皇。



高倉天皇 の 孫が  後堀河天皇 です。



後鳥羽上皇 の 

お兄さんの 守貞親王(もりさだしんのう)



の 子。
後鳥羽上皇 の 甥 が 後堀河天皇 です。



幕府は 朝廷の荘園を 全部 没収します。
しかし 後に 
守貞(もりさだ)親王に 返還してるんですね。

守貞親王は 一般皇族でしたが 子どもが 天皇になったので
後に 後高倉院 という 院号を もらっています。

なんで 潰しにかからないの? と思うんですけども

北条氏は 
それほど 尊王精神 を持っていたわけでは ありません。

朝廷を 残す事が 
鎌倉幕府にとって 有利 だったからです。
損得勘定 ですよ。



帝(みかど)の
上皇の 御輿には 弓を 引くことはできないのだ。
戦場に 上皇が現れたら 降伏しなさい。

という事 と 
もう 1つは

北条政子の演説で 上皇への批判は なかったという事。

周りの 取り巻く人たちの 批判や 討つ事はありえても
天皇 上皇 の
批判 ましてや 攻める 討つ などという事は

正義 ではないんです。
そこに 正義 は無いんです。

皇室を 尊重する という 大義 があったわけです。

これが 当時の 武士の 皇室観 だったわけです。



3世紀 の初頭に 連合王権がスタートします。
それよりも 数世紀前には

天皇一族は 有力な豪族として 奈良盆地にいたわけです。

鎌倉幕府の この段階で

大和王権の 成立から 
1000年 経過している王朝 なわけなんです。

もうすでに この時点で 世界最古の王朝 になっちゃってるんですね。
ですから
それを倒す という事は それ相応の 理由がないとできませんよね。
自分たちの 私利私欲で 倒すなんていうのは ないです。



自分の娘を 嫁がせて 
孫を 天皇にして という風に 自分たちの身内に囲い込むとかの

天皇を 利用する人は いました。

そもそも
天皇に 任命されて 将軍になるわけです。

北条 は 将軍の補佐役ですから 
その人たちが 
天皇 を無くしてしまったら 
自分たちの 地位の根拠を 自ら否定する事になってしまいます。

天皇の 否定は 
自ら の否定 になるわけです。

後ろ盾 の天皇 を殺めてしまったら 
後ろ盾 の無い 将軍 になってしまうんです。
もはや それは 将軍 ではないんです。

東日本 は 幕府が 管轄していて
西日本 は 朝廷が 直接 管轄していたわけです。

朝廷を倒したら 西日本の豪族たちは 
北条如きに 従う保証はないですよ。
西日本から 別の実力者グループ が出てくるかもしれません。

だったら
島流し に留めておいて 監視して 
政界に 復帰しないようにしておいて

引き続き 
天皇から 将軍が任命される という体制をとる事によって 
事実上 自分たちが 
朝廷を操って 動かしていけるであろう という可能性をとったわけです。 



これが この後の 全国統率。
戦国時代 という風になってくるわけで 幕末まで続きます。

これは 言いかえれば 
天皇には 手をかける事は できない という事です。

GHQが 戦後 天皇を処刑しようとして 検討した事がありました。
でも 出来なかった。

あの 戦争で勝った アメリカでさえ 
皇室の形を変える事に 躊躇したわけです。

幕末は
2歳の 仲恭(ちゅうきょう)天皇を 退位させた後 



後鳥羽上皇 の甥 ではありましたが
第86代 後堀河天皇を 立てて 

後鳥羽上皇 のライン ではなく  



兄の 守貞親王 のライン を引こうとしましたが  



仁治3年1242年。
後鳥羽上皇の 怨霊 でしょうか。
第87代 四条天皇 は 11歳の時に 転んで怪我をして 崩御 になりました。

後堀河天皇 の息子の
四条天皇 で 絶家になります。

次の 皇位継承は 
第88代 後嵯峨(ごさが)天皇。 

後嵯峨天皇は 後鳥羽上皇 のラインです。 

承久の変から わずか 21年後
後鳥羽上皇の 孫 に 戻ってきました。

ここから
現代の皇室 に至るまで 
後鳥羽上皇の流れ。 後鳥羽上皇の血をを引く 天皇になります。



このころの
13世紀 の初め 東アジアでは 

チンギス・ハン が モンゴルを統一し



ロシアと 中国 と 中東 全部 1個の国にしてしまうほどの
世界史上最大の 大帝国 を建設しました。

世界中にどれだけ チンギス・ハン の子どもがいるんだ
と いうくらいだった という事ですが



チンギス・ハン の孫
フビライ・ハン が 元(げん) と国号を定めて

元は 朝鮮半島 高麗(こうくり)を服従し
日本にも 
服従せい と要求してきました。

8代 執権の 北条時宗(ときむね)は 
元に 服従する気は無い! と これを 拒絶したところ

言う事 聞かないんだったら 攻める と いう事で

いきなり
蒙古襲来(もうこしゅうらい)です。

白村江の戦 の時に 
九州を出て行って 戦った という事はありましたが

今回は
元 という
外国の軍隊が 初めて 本土上陸。 日本に攻めてきました。

モンゴル人 なんだか 高麗人 なんだか の大群が

お決まりの 朝鮮半島から 九州に入ってくるコースで 



元 3万人に 攻め込まれ

対馬 80騎 全滅。 
壱岐 100騎 全滅。 壱岐の島民 皆殺しになります。
人を 食べちゃう 狂暴さです。 



第91代 後宇多(ごうだ)天皇は まだ小さかったので



第90代天皇 亀山上皇は 祈り に 徹するのでした。 



勝たせてください 敵を降伏 させてください ではなく

敵国降伏 

敵国が 自ずから 降伏して 去っていくように 
という 祈り を捧げます。



直近 歴代天皇の御陵 8か所へ 勅使(ちょくし)を派遣し 
亀山上皇も 自ら 石清水(いわしみず)八幡宮に おいでになります。

私が治める御代(みよ)に このような戦乱がおきて
本当にこの 日本が滅びる ような事があったら 
私の命を 召し上げてください と 

伊勢の神宮に 差遣した 宸筆(しんぴつ)に
上皇の直筆で このように書かれています。

文永11年。
1274年。 文永の役。 
元軍 3万人 日本軍 5000万人。

にも関わらず

菊池武房(きくちたけふさ)は 蒙古攻撃 1番乗りの人でした。 



また
竹崎秀長(たけざきすえなが) などの 武将たちが頑張りました。



元 の戦死者 1万3000人。 1/3 死んでしいまい 壊滅です。
そして 極めつけは
九州の台風でしょう。 神風 が吹きました。

しかし 翌年
1275年 と 
1279年 の 2回
元は 日本を服従させるために 使節団を送ってきました。

使節団って なによ?
あんたら いきなり攻めてきて ふざけんじゃないよって
あんたらと 付き合う気はない 

執権 北条時宗 は 使節団 一行を



1回目は 鎌倉に連れていって 
2回目は 博多で
全員処刑しました。

弘安4年。
1281年。
弘安の役  元軍 14万 日本軍 12万。

また来ましたよ。しつこいですね。

今回は 九州に上陸させないようにしました。
元が 2か月 海上に止め置かれ 

7月30日 夜半
またもや 台風が襲来し 
最後は 神風が吹いて 敗退。 はい それまでよ。



諸説ありますが 9万から 13万 死んで 壊滅。

元 は撤退し もう やって来る事はありませんでした。

勝ったとはいえ
賠償金 がとれるわけでなく 
土地が とれるわけではない。
不満 財政圧迫 経費がかかるだけで

執権と 独裁化していった 北条氏の得宗政治も 
御家人の不満が つのり

鎌倉幕府は衰退していきました。





楠木正成

14世紀から書き足されてきた 軍記物語の 太平記 に出てくるお話です。

後鳥羽上皇 の時代に 



鎌倉幕府は 承久の変で 皇族方を
あっちこっちに 流罪にして 無道を働いてしまいました。 

心ある 諸国の武士は 
北条氏の無道を 身に染みて知っていたわけです。

そこで
後醍醐天皇が



兵を挙げた。天皇 自らがです。
そして 
鎌倉幕府を 北条氏が滅亡に追い込み

武士が権力を握ると 権力争いばかりしていて 
天皇をも ないがしろにしてしまうので 
これは まずい と

後醍醐天皇は 

建武の中興(けんむのちゅうこう)。
今で言う 建武の新政 を始められて
朝廷 天皇中心 の世の中をを取り戻す という事をなさったんです。

ところが
それに反旗をふり返したのが 足利尊氏 なんですね。



北条の鎌倉幕府を 裏切って 後醍醐天皇側に付いた。
ところが また 
後醍醐天皇を 裏切って 反乱を起こしたわけですね。

1回は 都に攻め昇ろうとした時に 撃退されて 九州に追い払われるわけですが 
その時に

今の 天皇陛下の世の中だと 
武士が 天皇のために働いても ろくな恩賞はもらえないから

俺についてくれば お前らの家族は たんまりと食わしたるぞ みたいな 
北条家と 同じやり方をするわけですね。

そういう 公約を言うと わ~っ と 応じる武士たちがいて 
九州から 30万 ともいえる人数に膨れ上がって 
また 京都に押し寄せてくる という事になったわけです。

そして 起きたのが 湊川の戦(みなとがわのたたかい) です。



足利軍が 圧倒的な人数ですから 
普通に戦ったら かなわない という事で

すでに 新田義貞の軍が 兵庫の方にいるわけですが



それに加えて
後醍醐天皇から 楠木正成は 
勅命(ちょくめい)を 受けるわけですけども

楠木正成は 足利尊氏を撃退する 最上の策は

北条を滅ぼす時に 何度も 
あっちこっち 連れまわして 比叡山にも行かれて 苦労させましたが
大変恐れ多い事ではございますが 

後醍醐天皇には 今一度だけ 
比叡山に 御動座。移動していただいて



足利軍が京都に入ったら その周りを包囲攻撃をすると 撃滅できる 

献策するんです。

ところが 後醍醐天皇の周りの お公家さんたちが 

また比叡山かい って 大反対するんですね。

楠木正成 は

元弘3年。1333年。
大阪の 南河内郡に 千早城 と 赤阪城 がありました。
赤阪城は 
上下の 2つに分かれていて
山全体 では 3つの城が あったという事になります。



千早城は
鎌倉時代末期 から 南北朝時代
楠木正成 の築き上げた 四方を絶壁に囲んだ 
要塞のような お城です。

わずか 1000人の兵で 
100万 とも 200万 とも言われた 鎌倉幕府軍 を

外側が 縄を切る事で 崩れる仕掛けの 
二重壁で 鎌倉兵 を 落下させ
上から 大木や 岩 を落としたり



上から 熱湯 や 糞尿をまくなど 奇策も展開し

逆に 鎌倉側 から
千早城 を 兵糧(ひょうろう)攻め された後 
敵の死体を燃やして 自分たちは 自害した と見せかけ
その間
楠木軍は 逃げていくという作戦 をとったりして



鎌倉幕府の 大軍を退けた 千早赤阪城の戦い の例があるので

今回も 
足利軍を 打ち破ってくれるはずだと思って

後醍醐天皇は 

比叡山は行かない。
そのまま 正攻法でやってこい と言うわけです。

なので 普通の野戦として 大群の足利軍と 戦う事になり
京都から 兵庫 に向かう途中。

これが有名な 桜井の別れ です。

息子の 楠木正行(まさつら) が 

自分も連れて行ってくれ という事で 

大阪の河内から 合流するのですが
大阪の島本町辺りに 宿場町として 桜井 というところがありました。

その 桜井で 父 楠木正成は



いや 
おぬしは 成長するまで 時を見て 
その時がきたら   私の意志を継いで 戦ってくれ。
なので 今は 河内へ帰れ。

と言うのです。

その時がきたら
お父さんの 意思を継いで 戦ってくれというのと 
世の中の情勢を見て 良いと思う方につけ では 全然違う意味になっています。

史実は 意思を継ぎ 戦ってくれ なんです。

そして
楠木正成は わずか 1000騎たらずの軍で 
足利軍の 何十万との大群と 激突するんですね。
でも 5時間にわたって 足利軍を手こずらせて



ついに
70と 数名の 一族郎党と共に お互い 刺し違えて死ぬ。
そして 
この時 楠木正成は 弟の楠木正季(まさすえ)に 

今 お前 何を思う。と言ったら



七たび 生まれ変わってきて 朝敵を滅ぼしたい と言った 
七生滅敵(しちしょうめってき) です。

後に 
日露戦争の英雄 広瀬武夫中佐が 



七たび 生まれ変わってきて 国に報ぜん。
国に報いる と言った 七生報国(しちしょうほうこく)。

広瀬中佐は
旅順港(りょじゅんこう)閉鎖作戦で 
ロシアの 旅順艦隊が 
やがてやってくる バルチック艦隊と 合流するかもしれない時に

2度目の 旅順港閉鎖作戦で 失敗。

広瀬中佐が指揮する 福井丸が 艦砲射撃され 
福井丸を 諦め沈めて 退艦するために 
全員ボートに 移ろうとしていた時に

部下である 杉野兵曹長がいない。
杉野! 杉野! と 
ボート と 福井丸を 往復して 
沈む ぎりぎりまで 探すのですが見つからず

広瀬中佐が やむなくボートに乗り移った際に 
ロシアの砲弾が 命中した という事でした。

広瀬武夫中佐も 忠義を尽くした 有名な言葉です。

楠木正成 と 弟の楠木正季(まさすえ)。
そして 一族郎党と共に お互い 刺し違えて死ぬ。

この時 
楠木正成は 弟の楠木正季(まさすえ)に

楠木正成は 七生滅敵 
カラカラ と笑って 自分も同じだ と 刺し違えて死ぬんです。

カラカラ笑って
天皇陛下に 忠節 を尽くして 戦って そして亡くなる。 
最高の名誉だったわけです。

その精神が 後の日本に受け継がれていく。

この話は ホントかウソか という事以上に 

こういう武士がいたんだ という事が 
この後 信じられていき 崇敬 の対象になって 

それが 受け継がれる日本人が どんどん出てきた事の方に 重要性があるわけです。



戦前 こういうエピソードが引用されたのが 軍国主義だ など言われますが 
これは 
江戸時代から また 幕末も 湊川の戦いの話と 湊川神社は 
幕末の志士たちの 心を寄せる中心となっていました。

西郷隆盛 吉田松陰 坂本龍馬 高杉晋作 ・・・

戦国時代の最強の 島津軍も
湊川の戦の時には 
楠木正成の軍だけは 還付なきまでに けちょんけちょん にされたわけで

大楠公 楠木正成は 唯一 敵わなかった。強い人。 
神様みたいな扱いなんですね。

そして 十数年後 

正行(まさつら)も 親父に負けず劣らず 強い という事で
お父さんの意思を継いで 若い立場でありながら 足利軍を 散々悩ませたんですが

足利軍 高師直(こうのもろなお)は 何万もの兵を向けて ついに 
四条畷(しじょうなわて)の戦いで

父 楠木正成の 遺志を継いで戦死した。

この時に 

室町幕府 の時代は 逆賊扱いです。
そして 
江戸時代 辺りから 英雄。
戦後は 名も知られなくなった人。

自分ではない 誰かのために 何かのために 戦って死ぬ。

昭和時代の 特撮シリーズ や



アニメの主題歌は



愛 希望 勇気 夢 をテーマに 歌詞が書かれている
メロディーも 2拍子 4拍子
曲調は 軍歌のようなものも多く

賛否両論ですが

ゴジラは
軍国主義の亡霊 とも言われる事もあり



核 によって 
体がケロイド状になって 口から 放射能をまき散らす。

ゴジラが日本中 歩き回るルートは
米軍が 空爆して回ったルートらしく
米軍が そうだったように 皇居 だけは避けて通ります。

そして
最後は 主人公の芹沢博士と 刺し違えるように死にます。

見ず知らずの まだ見ぬ未来の人たちのために
自分の命を使う という事です。

20世紀までは
教科書から 消された とはいえ

楠木正成 のような人物が ヒーローだという事が
脈々と 生きていたんですけれども

ウルトラセブンも 仲間を救うために 
最後は過労死する という話 らしいですが


平成に入り バブル崩壊の頃から

え?何で そんな事のために 自分が死ぬの?
理解できない という話を聞きます。

ウルトラシリーズは 自主防衛で終わる という事です。
しかし
ウルトラマンが死んだ後は

自分たち 地球人が 敵を倒すんだ と
自分たちが 立ち上るんだ と

大東亜戦争の時に

植民地化されていた アジアの国の人々が
日本が 戦ってくれた お蔭だと
自分たちが 立ち上らなくては と 
そして 独立国になったわけです。

昭和の ヒーロー像は
軍国主義 とかではなく

自分の 目先の利益 云々(うんぬん)を超えて
自分以外の 何かのために行動をとる人

という話です。

大河ドラマでの 楠木正成 



大事なもののために戦って 死ぬ
という事は 負けではない

という セリフがあるそうです。

今では
何で 他人のために 死ぬなか わからない。
という 感想を言う若者が 多い時代になってしまいました。

ちなみに 
足利側も 楠木正成の事は 尊敬していて
形式上 1時間だけ さらし首にしたけれども 
ぱっと引き上げて 実家に届けてあげているんです。

何度も 後醍醐天皇から 離れていい経緯 があるのにもかかわらず
楠木正成は なぜ 後醍醐天皇を支えたんでしょう。

この時代は 一族を守る為に 主君を平気で変えろ というのが普通でした。

なぜ 楠木正成は 最後まで 忠義を尽くしたのでしょうか。







後醍醐天皇・足利尊氏

天皇の 挙兵を といば

後鳥羽上皇 が 挙兵をした という 承久の変 がありました。



それは 失敗して 天皇が 廃帝(はいたい)に追い込まれるという 
朝廷としては 大変な結果に 終わったわけです。

その後
後醍醐天皇が 挙兵 をします。

鎌倉幕府は 源頼朝から 始まり 
その後は 北条氏の 執権政治 得宗政治 となり 御家人からの 不満も高まり

最後は
元寇 によって きちんとした 論考交渉 ができなかった という事から 
政治が 機能しなくなって行きました。

御恩と 奉公 の 御家人との 深い関係が 崩れていきました。

そこで
後醍醐天皇 は ここがチャンス! 




と見て すごい決断 をするわけですね。

そして
倒幕を 計画するわけなんです。



鎌倉幕府が 京都に 置いている拠点が

六波羅探題 
と 言いますが 朝廷を 監視する役目の所で 

この 六波羅探題 を襲撃 する計画を たてるんですね。



ところが 
正中の変 といって 事前に 挙兵する準備中
計画が 漏れてしまいます。バレて 未遂に終わります。

幕府から 詰問をされますが 
いや 天皇は 関与していない と 何とか お茶を濁したんです。

そこで 諦めないのが 後醍醐天皇 です。



その後は
関東を 懲らしめてやるぅ~! って 
呪詛(じゅそ) を 繰り返し かけるんですね。

水面下で 討伐 の準備を 進めていましたが

次の 
元寇元年。
元寇の変 でも  
鎌倉幕府 討伐計画が バレて

後醍醐天皇 は 
三種の神器 を持ったまま 





京都の 笠置(かさぎ)城で 落ちのびます。



しかし 逮捕され
島根県の 隠岐 に 配流。島流しになりました。
廃帝(はいたい) とされます。

第96代 後醍醐天皇を 廃帝(はいたい) した後
鎌倉幕府は

北朝 
第1代 光厳(こうげん)天皇 を 即位させます。



この時 後醍醐天皇 は 



楠木正成 に 激を飛ばしたり してます。




後醍醐天皇 は 隠岐 に行って 島流し中 なんですけども
元寇2年 には 

後醍醐天皇 の子ども の
護良(もりよし)親王 が 挙兵 をします。
楠木正成 も 挙兵 します。

倒幕 の流れが 加速していくんです。

そして
元寇3年。
なんと 後醍醐天皇 は
島流し先 を 脱出 しちゃうんですよね。そして 戻ってくるんです。



1度 見つかって しらを切り
2度目 見つかり 落ちのび 逮捕され

でも 激は飛ばして 倒幕への流れは 進行しつつ
そこへ
隠岐の島 脱出して 戻ってきてしまう。

この 後醍醐天皇 のバイタリティー。めげない という 凄いですね。
普通
天皇 が 倒幕を 計画しないでしょ。

バレる。 しらを切り通す。 逮捕。 配流。 戻ってくる。

後醍醐天皇 の凄みを感じます。

戻ってきた 後醍醐天皇 は

鳥取県の 琴浦町に 船上(せんじょう)山 に拠点を構えて 
各地に 激を飛ばして 倒幕に 勢いがつんですね。

幕府側 から 船上山 を攻める 役割を背負っていたのが

足利尊氏 です。

でも この人 裏切るんですよ。



これ 
倒幕 いっちゃうな と 思ったんでしょうね。
後醍醐天皇 を攻める場合 自分の立場が 危ういな というか

天皇 を攻めたの 私でした となると 
自分が 滅ぼされちゃいますよね。

足利尊氏は
天皇側に 寝返ります。

船上山 を攻める予定 だった 足利尊氏 が寝返った事で
一気に 形勢が 逆転します。

本当に 倒幕が 実行されてしまうんですね。

三国志 でよく出てくる話 ですが



私の 親分 ここが 弱点ですから こう 攻めるといいですよ。
と 密告して
あなた様に これから 仕えます と言って 寝返る。

寝返った 武将は この先 どうなるか って言ったら 
たいてい 殺されるんです。

私に 味方してくれて 有難うねぇ~。でも
一度 君 主人を 裏切ったよねぇ~。だから 僕の事も 裏切るよねぇ~
という事で
有難う バイバイ って バサッ と 殺されちゃうんです。

人を 裏切る癖のある人は 2回 3回 とやるんですよね。

日本は
君のお蔭で 形勢が 逆転してね 
いい結論になったから 有難う。 
バイバイ と なるわけですよ。

足利尊氏 は 風読みして いける方に 乗っかるだけですから。
結果として
足利尊氏 に裏切られて



建武の中興も 頓挫 する事になるじゃないですか。 

この時点で 
船上山を 攻める事に 裏切った 足利尊氏から
天皇方が 勢いを高めていきまして 

足利尊氏は 
ちょっと前まで 仲間がいた所の

京都の 
鎌倉幕府の 出先機関。六波羅探題 を 攻め落としちゃうわけですよ。

関東では
新田義貞(にったよしさだ)が 鎌倉を 陥落 させました。



16代 執権の 北条守時。 
得宗の 北条高時。 

2人とも 自決です。

これによって 鎌倉幕府は 滅亡 という事です。

後鳥羽上皇 は失敗 しましたが



挙兵した 
後醍醐天皇 が 倒幕に 成功 しちゃうわけですからね。



そして
この後に 続くのが

後醍醐天皇 が行った 新政。 建武の中興。 建武の新政です。

後醍醐天皇は 

北朝の 
光厳天皇 を 廃帝 にします。



院政を 停止して 自ら 政治をとります。

元号 もとに戻すんですね。
元号 って 次から 次へと 新しくなりそうですけれども

北朝 の 光厳天皇 が決めた 元号 を廃止して

もとの元号 に戻すんですね。
そして
1度 天皇を 廃帝 となった 後醍醐天皇 ですが

もう1度 即位する というのではなく

そもそもの 自分が 廃帝 だったという事を 

無効 にして
北朝 第1代 光厳天皇 なんて 
端(はな)からなかった という事 にします。


自分が ずっと皇位にいた という事にして 
重祚(ちょうそ) の儀式 を行わないんですね。

タイムマシーン で少し 巻き戻しして 無かった事にしちゃう みたいな。

幕府 が立てた 北朝 なんて
こんなもん 無効だぁ! って やるわけです。



ここで
足利尊氏 が 
なぜ 翻った かという事ですけれども

後醍醐天皇 に接して 

この人に ついて行こう とか 
この理念に共感した とか 
ビジョン とか 
尊王精神 とか

では ないんですよ。 ただの 損得 ですから。

どっちについたら 俺は得かなぁ みたいな感じです。

俺のお蔭で 幕府 潰れたよね~ じゃあ次 征夷大将軍ね。
って わけですよ。

幕府 潰れたから 
幕府 するからね と言って 征夷大将軍 を要求するんですね。
そういう 
論功行賞 が目当てだった という事です。



後醍醐天皇 はこれを 拒絶します。蹴とばします。

それで
足利 は 面白くないから 離反していくんです。

そして
護良(もりよし)親王を 将軍に 任命するんですね。



皇族 を任命 したわけです。

後醍醐天皇 は 崇高な想いで 正義心で 
幕府を倒したわけですが

え?それで? 何 くれるの? 
みたいな
論功行賞 を 周りから言われるようになり 
そればっかり 求められる感じで

後醍醐天皇 
ショックを受けたような 気がするんですね。

ご褒美が 欲しかっただけなのに なぁんだ 
みたいな
武士が 差配する時代が 続いてしまうわけなんですよ。

足利尊氏 が離反 した事によって 

建武政権は 崩壊 してしまうんです。

鎌倉幕府 が滅びたけども 
結局 
武士が 政治を動かす というのは 変わらなかったわけです。

後醍醐天皇が 
自分の命を 賭して 倒幕に 奔走しましたけれども

結局 
別の 武士政権 が立っただけで



権限が 朝廷に 戻ってくる という事は ありませんでした。

足利尊氏は 護良(もりよし)親王 をよく思っていません。

護良親王は 前から 後醍醐天皇に 

尊氏を討て と
進言していたんですよ。

そうしたら もしかしたら
建武の中興 が 続いていたかも しれません。

後醍醐天皇 は 
まあ 尊氏も そこまでは と 思っていたようですが
最後は 離反されてしまいました。

大失態でした。

護良(もりよし)親王も 鎌倉で 攻め滅ぼされて 殺されてしまいます。
鎌倉に 護良親王の お墓があります。

足利尊氏は
九州に 一旦退き 力を溜めて 
北朝 光厳天皇を 再び担いで 上皇の院宣 を携えて

後醍醐天皇 に 対抗 してくるんですね。

足利尊氏には  
佐々木道誉(どうよ) といって



裏切って 敵方に付いても 味方に付いても 
信じられる 親友がいましたが

手の込んだ 入り組んだ 謀略 をしても それが普通の 世の中でした。

大群を率いて 京都に向かう途中で
湊川の戦 で 

楠木正成 や 新田義貞 を退治して 足利側が 勝ってしまうんです。
そして
京都 を制圧 してしまうんです。

北朝 光厳天皇 が 立つわけで
南朝 後醍醐天皇 は 三種の神器 を渡すわけなんですけども

三種の神器 を渡した後 後醍醐天皇 は



うっそぴょ~ん
渡した 三種の神器 は 偽物 だよ~って 言って

後醍醐天皇は 本物を持って




京都 を脱出するわけです。
奈良 吉野 に行くわけです。

ここで
南北朝時代 に入って行くわけです。



病に倒れた 後醍醐天皇 の次
南朝 第2代。 
第96代 後村上天皇 を践祚(ちょうそ) させます。

太平記 によると

朝敵 
足利氏一門を 滅ぼして 天下泰平 たらしめたい
と 言い残して

左手に 法華経
右手に 御剣 を持ち

玉骨は たとひ南山の苔に埋もるとも
魂魄(こんぱく)は 常に北闕(ほつけつ)の天を望まんと思ふ。
もし 命(めい)を背き 義を軽んぜば 君も継体の 君にあらず
臣も 忠烈の臣にあらじ

現代語訳 にすれば

自分の遺骨は たとえ 吉野に埋められても 霊魂は 常に京都の内裏にある。
朝敵討伐 の 遺言に背けば
天皇は 天皇でなく
臣下は 忠臣ではない。 

そして 
北の京都 の方向を向いて 



座ったままの 姿で 埋葬された と言います。
天皇陵は 通常 南に 向けられて 造りますが
京都 の方を 睨みつけているように
北の 京都 に向けられて 造られている という事です。

凄まじい 人生を 走り抜けたんではないかと 思います。

人を疑う という事が あまりなく
激しい方 情熱的 なんですけども
情に もろいところ もあり

天皇らしくない というか
激しい 人間味の魂 を感じる方 のようです。





南北朝時代の人たち

鎌倉時代 は 朝廷と 距離を置くのが 前提にあったのですが
室町時代 は 幕府は 

京都 に置かれたわけですね。

どういう事かというと

足利尊氏 から 始まる 
室町幕府の 後ろ盾は

北朝 なんです。

北朝 第2代 光明天皇 は 



足利尊氏が 任命しました。

南朝 ではない。 北朝です。

ですから
北朝 の正当性 というのは 
室町幕府 そのものの 正当性 にかかってくるんです。

そもそも 北朝 って どうよ?
って 話が あるんですね。

南北朝 の動乱期 というのは
どっちに 正当性 があるか という かけ引きになるんですけども

最終的には 南朝 の

第99代 後亀山天皇 



が持っている 三種の神器。
これが
北朝方 に渡される という

これは 足利義満 



の時代ですけれども
それによって

北朝 の 
 第1代 光厳天皇
 第2代 光明天皇
 第3代 崇光天皇
 第4代 後光厳天皇
 第5代 後円融天皇
は 
三種の神器 は無く 





歴代天皇 として数えられず
正当性があるのか どうか というのは
よく 疑問 として 語られる所なんです。

南北朝統一するのは

南朝
第99代 後亀山天皇 が持っている 三種の神器。
これが
北朝 第100代 後小松天皇



に 渡されてからですよ。

これをもって 
南北朝合一 と なるわけです。

北朝 第1代 光厳天皇 は 

南北朝 が並立した 状況になってますから 
南朝 が 三種の神器 を持っていて

上皇から はい あなた次 天皇ね
と 言われただけで 
三種の神器 を受け継いで ないんですね。

通常の 譲位 を受けた 天皇 ではないわけです。

しかし
光厳天皇 は 



後醍醐天皇 の 皇太子では あったんですね。

ですから
96代 後醍醐天皇 から 譲位 が行われたか という事ですが
三種の神器 の受け渡しは ないんです。

後醍醐天皇 は自分が 廃帝 であった時の事
光厳天皇 の 譲位

そんなものは 無かった と 後醍醐天皇は言ってるんですね。



なので 三種の神器 を受け継いでいない

北朝 の 
 第1代 光厳天皇
 第2代 光明天皇
 第3代 崇光天皇
 第4代 後光厳天皇
 第5代 後円融天皇

は 怪しいんじゃないかと
足利氏 が でっち上げた 天皇 という事になります。

そもそも 足利氏 って 何なのさ? って 言った時



北朝 を お守りする 北朝天皇軍



てな わけですよ。

なので 
外の 場所に 幕府を置けないでしょ。

北朝 は京都
南朝 は 奈良 吉野

北朝の 天皇の 軍隊だから 
足利氏は 京都に 幕府を置くわけですよ。

室町時代は
 
将軍。 
将軍を 補佐する 管領(かんれい)。
その下に 守護大名。

という関係 になっていて 

鎌倉時代は 御恩と 奉公 といって 



主従関係があったんですね。

将軍は ただの形骸化。
補佐する 執権。
守護。

室町になると 守護 に 大名 が付いて 守護大名 になるんです。

主人が 2度 3度 と裏切ってるんですから 
誰がその人のために 命を捧げます?

徳の無い リーダーだったからこそ

エサで釣って 金を渡して 権限を渡して 
これだけやってくれたら 後は 自由にやっていいから と

御恩と 奉公 という関係には ならないんです。

守護 は 地域を 取りまとめる 有力者 です。

そこに 
お金や お米などで釣って ご褒美を あげるようにしたんです。

そして 
自治 を自由にやっていいから と
中央集権 ではなく 地方分権 が進んだんです。
だから
権限が 強くなっていったので 守護大名 という風に なりました。



これが 後々 戦国大名になり
江戸時代 になると
大名。お殿様。になるわけです。

観応元年。1350年。
観応の擾乱(じょうらん)。 

高師直(こうのもろなお) という 足利尊氏 の 執事 と
足利直義(ただよし)  という 足利尊氏 の弟 の もめ事です。

高師直(こうのもろなお) は 足利直義 に 討たれるんですけど



室町幕府 内で 南朝に付く 北朝に付く と
代理戦争 みたいに なっていました。 

負けた 足利直義 は 南朝 に帰順しました。

そして
北朝方 の足利尊氏 は 
南朝に付いた 弟 足利直義 を倒すために

南朝 の 97代 後村上天皇 と 



仲よくしよう と 和睦(わぼく)するんです。

そして
北朝の 院政を 廃止します。
北朝 第3代 の崇光天皇 が 廃されます。

弟 足利直義 は 足利尊氏に 逮捕 されます。



そして
幽閉先で 殺されます。

南朝 の軍隊 後醍醐天皇 の息子 
後村上天皇 は



チャンス! という事で

京都 を制圧 するんです。

後醍醐天皇 は 光厳天皇 に 三種の神器 を渡すんですけども

偽物です。 と



後で言い放つんですね。
ですから 三種の神器 は 南朝 が持っています。

足利尊氏らが 揉めている時に
南朝 後村上天皇 は 

偽物 の
三種の神器 も回収 してしまうんですね。


そして
北朝
 第1代 光厳天皇
 第2代 光明天皇
 第3代 崇光天皇

は この時 この3人は 上皇ですが
南朝 後村上天皇 に 逮捕 され 



吉野に 監禁 されてしまいます。

北朝方の 皇室 というのは 天皇不在。上皇不在。
跡形も無くなってしまったんです。

北朝 としては 天皇 が必要 なんですよ。
足利尊氏 は 




北朝 をお守りする という事で 征夷大将軍 なんですから。

そこで
第1代 光厳天皇 の息子。



弥仁王(いやひとおう) を 
仏門から 探し出すんですね。

そして
93代 後伏見天皇 の奥さん で 

皇族 ですらない
西園寺寧子(さいおんじねいし)に 

すいません。あなた 上皇役やってくれませんか?って
治天の君 として 
上皇の中でも 1番高い 上皇に 仕立て上げたんですよ。

西園寺寧子(さいおんじねいし) の孫にあたる 
弥仁王(いやひとおう) に

上皇 として 天皇 を任命する って

北朝 
第4代 後光厳天皇 に するわけです。

もう 意味不明 な事を やったわけですよ。

そして 後光厳天皇 の息子が
第5代 後円融天皇。

最終的には 南朝 の
第99代 後亀山天皇 が持っている 三種の神器 を

第100代 になる
北朝 の 後小松天皇 に 渡されるんですけども



南北朝統一 になり



北朝
第3代 崇光天皇 の孫にあたる

第102代 後花園天皇 を立てて 



ここから 現在 につながる という事なんです。

北朝
第1代 光厳天皇 



の子孫は 
現在 まで 続いている という事になります。

こんな事までしても 北朝 を復興 させたのは
足利氏 としては 
自分たちの 後ろ盾 になるのは 天皇 なんですよ。

朝廷 から 任命されて 幕府 としての体裁が 整うわけです。

後々 これは 江戸幕府 の徳川氏 が 継承しますが
これ以降
足利氏は 天皇 を独占する という方 を取っていきます。

2代将軍 足利義詮(よしあきら) が それを確立します。

将軍家 が 公家化 していくんです。

平氏 の時と 一緒です。
鎌倉 と全然違います。

朝廷の中に 入り込んで 地位を 高めていきます。

どっから 武家で どっから 公家か 境目がわからない状態になります。





明 の皇帝を黙らせた 懐良(かねよし)親王

正平14年。
1359年。
九州の 筑後川 を挟んで 



南北朝 が激しくぶつかり
北朝 が勝ちました。

日本3大合戦 の 1つ とも言われる

筑後川(ちくごがわ)の戦い です。

南朝 4万。 北朝 6万。
戦死者 は 4800人。

10万の 軍隊が ぶつかるって 結構なもんですからね。

天下分け目の 関ヶ原合戦 も 17万 くらいで 
戦死者は 5000人 くらい と言われています。

後醍醐天皇が 息子の
まだ 8歳の 懐良(かねよし)親王 に 

征西大将軍 に任命し 九州 に派遣して
それを 
九州の豪族。菊池武光(きくちたけみつ)ら 菊池一族が 支えていました。 



菊池一族 の歴史は古く 1番栄えたのが 南北朝時代でしたが
南朝に仕え その後は 東北など
全土に 散らばってしまう事になります。

忠誠 の流れを受け継ぐ者 として

幕末の 西郷隆盛は 菊池一族の出 とされています。

大宰府は 
足利氏が 北朝軍 として 抑えていました。

その時の 中国王朝は 明(みん)。

明は 日本との 交流を 望むんですね。



どっちと 交渉するか っていったら
京都にある 北朝 か。
奈良の吉野にある 南朝 か。

奈良は 京都 より 九州に近いから
南朝の 懐良(かねよし)親王 が 



交渉窓口に なりうるわけです。

明は 
多くの国が 朝貢 してくるのが その皇帝の 徳 が高いらしく

また 当時
海賊船 や武装貿易船の 倭寇 が 活発化しており
日本が 
倭寇 の取り締まり をすれば 助かる。
でも 明は
属国に なった国しか 貿易をしない というポリシー がありまして

日本に

明の 洪武帝(こうぶてい)



の使者が来て 
懐良親王 宛てに お手紙を渡していくんです。

それには
朝貢 しませんかぁ~? と 共に
朝貢 しなければ 攻めるぞ。

って 書いてあるんです。

普通の国だったら
朝貢 します します。攻めないでください。
あなた様の 子分になりますぅぅ~! って

明の 皇帝の 臣下に下ります と なります。 周りは そういう国 ばかりだったんです。
ところが 日本は

それに 応じないんですよ。
恫喝 って 日本には 効かないんですよね。

かつての 元 という国も 無礼な手紙を 宛ててきました。
明も 同じです。

日本は
あっそう。
じゃあ 攻めれば?迎え撃つぜ。 ってなるんです。

懐良(かねよし)親王 は



無私 していたんですけれども
明は 
何度も 手紙を 送ってくるんですよ。
12年間
あまりにも しつこく 朝貢せい 朝貢せい って言ってくるので

ついに
懐良(かねよし)親王 は 明の 洪武帝(こうぶてい) という皇帝に
お手紙を 出すんですね。



支那王朝にのみ 君主 がいて その他の国には 君主 はいないのか。
天地は 広いものである。
1人の主の 独占するところではない。
天下 とは 
天下 の 天下 なのであって 1人の 天下 ではない。

我々は 城郭の数が 60 にも満たない 狭くて 小さな国に 住んでいるが
老子 がいう 

足るを 知る心(満足する心) を 持っている。

他方 
明国皇帝は 支那大陸の 君主となり
1万両の 戦車 数千もの 城郭 を有し
国の境は 百万里の及ぶにも かかわらず

まだ 不足の心があり

他国を 滅ぼして侵略する 意図を持っている。
それは
易(明で重んじられている)の道に 反するもので
もし そのような行いがあれば
天は 皇帝の運命を 動かすのではあるまいか。

かつて
支那王朝のは 
殷(いん)の 湯王(とうおう)
周(しゅう)の 武王 のように 
仁政を 施す 王がいて よく国が 治まっていたではないか。
もし
明国が 戦を興すのであれば 
我が国は 小国といえども 防御の 手段 がある。

我々は 孔子 孟子 をはじめ 道徳の文章 を熟知し
また
孫子 呉子 六韜三略(りくとうさんりゃく) などの 兵法書も 熟知している。

もし 
明国が 我が国の境を 侵すのなら 我が国には その備えがある。
どうして 跪いて(ひざまずいて) 明国の 言いなりのなろうか。

明国に 従ったからとて 国が存続するとも限らず
また 逆らったからとて 国が亡びるとも 限らない。

もし
明国が勝って 日本が負ければ 明国は 満たされるかもしれない。

だが
もし 日本が勝って 明国が敗れるようなことがあれば
明国は 大恥 をかくことになろう。

古(いにしえ)より
和 を講じることを 上策となし 戦を 避けることを 強いこと となしてきた。

私は 
民が 不幸の どん底に落ちることのないようにして
民の 苦しみを 救いたいと思う。

明国 においては 賢明な判断を下して頂きたい。

これは
明史 の 懐良(かねよし)親王から 
洪武帝への返書 部分要約 です。

すごいですね~。



日本の 懐良(かねよし)親王 が 
中国の 古典文学を 熟知 している という事です。

日本では こう言ってるよ
ではなく
中国の ことわざ があるでしょ? と 中国の 古典籍を使用するわけです。



老子 という 思想家 が 足るを知る と 説いていますよね。



あんたら 
まだ足りないんですか?まだ 満たされないのか?
それから

あなた方の 兵法書 うちら全部 読んでますけど?
それでもいいなら 攻めて来れば?
そして
日本と 戦争して 元(げん) の時みたいに 負けたら マジで恥かくよ?

だから 戦っても お互い 得る所は 無い。
聡明な 皇帝 洪武帝さんは 

おそらく 賢明な 判断を下してくれる事と 思う。

民を 苦しめたくないし
お互いに 不易な 戦いは やめようね 

って 懐良親王が 言うわけです。

その お返事に 洪武帝は



何なんだ こいつぅ~ って ちょっと怒ったんですが
でも

確かに そうだよな 

いう事になり 

明は 日本を攻めるのを    
やめました。

懐良(かねよし)親王が 



洪武帝 に宛てた 手紙。
これは 教科書 に載せるべき なんですね。

これで 何が解るかといったら

国際感覚 を持つ という事が 重要だな。

古典を 勉強する事が 重要だな。

という事が 解るんです。

米中 新冷戦の時代に 
中国 が覇権を 広げてくる 世の中で

中国に 背を向けている だけでは 駄目なんですね。
中国文化 古典 歴史

勉強し 関心を持つ事で
そして
良き理解者 になろう と 相手を 知る。 
相手の事が よく解っている。

それが
日本を 守る事に 続るんだ という事を

懐良(かねよし)親王 の返書は 教えてくれています。

こういう 外交を 日本は これからも してほしいなぁ と思います。





足利義満

2000年以上 続く 皇室の歴史の中で 
最も 皇室の 権限 が 衰退した時期が この頃です。



足利尊氏が 
幕府を 裏切って 南朝を立てた。
また 
南朝を 裏切って 北朝 に戻った。

北朝 はもう 何もなくなった所を 
相当 無理をして 

北朝の天皇を つないでいった。

北朝
第5代 後円融天皇 以降 
さらに天皇家の 衰退 が顕著になってきます。

この時代は
3代 将軍 足利義満 の時代になるんですけれども



中世における 武家の時代の形を 変えていくような  

よく そこまで 上りつめたな という
グランドデザイン の能力が 凄いんですよ。

自ら 上皇になる 1歩 手前までいくんだから。

どんなに 将軍に力が あったって 上皇にならないでしょ?
普通の 民間人が 上皇ですよ?

あと 1週間 2週間 長生きしていたら 多分 上皇に なっているんですよ。この人。
ギリギリのところで

死んだんですよ。

それも 神風 じゃあないかな と思いますけれども。

北朝
第5代 後円融(ごえんゆう)天皇 の時に



もう 義満は 将軍になっています。



足利義満は どんどん 朝議。朝廷の政治に 介入してくるんです。
そして

後円融天皇 と 足利義満は 対立 していくんです。
朝廷の 予算 経済 なんかも 
足利氏 に 握られているし

天皇は 足利氏 以外と 通交もできません。独占されてますから。

こうありたい こうあるべきだ と言っても 
いや なりません。 と言われ

足利氏に 従うしかないんです。

将軍に 
天皇が 任命される という事は 大切にしていますけども

それ以降
朝廷は もの言わぬ 朝廷であるのが 望ましいのであって

足利氏 の言いなりに動く 天皇 が 望ましいんですね。

朝廷 の伝統 とか 文化 とか 権限も含めて 
どんどん 衰退していく時代に 入っていきます。




後円融天皇 までは 北朝。北朝 5代。
その次 息子の

後小松天皇は 南朝 北朝 関係なく
第100代 天皇 なんですけども

南朝
第99代 後亀山天皇 から 三種の神器 が渡され 




南北朝が 統一した という事で
北朝 の代数を 数えないようになって 

第100代 後小松天皇 なんですね。

まだ 幼少だったので
後ろ盾 となって 物事を差配 したのが

お父様ではなく
本来 上皇 が持つべき権限が 

後円融上皇 に渡らず



上皇 の権限を 握った

足利義満 です。



事実上の 上皇 のように振舞います。

幼少 の 後小松天皇 の即位の礼に



お父様 の 後円融上皇 は 欠席 しているんですよ。



足利義満 はプロデュース能力が 高いんです。

後小松天皇を 家に呼び
義満と 一緒の御輿に乗って

即位礼 が 行われる 太政官庁 に 入る事で 
御見人である事を 天下に 見せつけるわけです。 

高御座(たかみくら)の中に 一緒に入り 所作を 介助し 
義満が 
幼少の 後小松天皇に やらすんですよ。 

もう完全に 上皇 気分ですよ。
もともと 
皇室が 差配していた権限が どんどん失われていって
足利氏 が 担うように なっていくわけです。

将軍に 任命してくれれば あと やりますから
って 感じです。

足利義満は
他人の妻 を欲しがる男 として 公然の事実だったらしんです。
上皇 気分ですから。



後円融上皇 の 女官 と姦通していた との流言が広がり
次いで 
義満 が島流しにすると  言っていると 噂が流れ

後円融上皇 は精神的に 追い詰められ 
自殺未遂をおこします。
上皇 が自殺未遂 なんて 先例が ありません。

そんな 足利氏にとっても
力のある 守護大名 は 怖い存在です。

もし 
反乱を 起こして 将軍を やっつけて 
みたいな事が起きたら 敵わない って事で
美濃の 
土岐康行(ときやすゆき) と 山名氏清(やまなうじきよ) を討ち 政権基盤 を固め



さらに 後円融上皇 が 崩御 となり 
上皇の 持っていた権限が 

そのまま 義満 に行きます。
そして
足利義満は 朝廷政策 に乗り出します。

南朝 の 大覚寺統 と
北朝 の 持明院統 から 

交互に 天皇を出そうよ。 
幕府が 主導していくからさ と 両統迭立(てつりつ) を条件に

そして
南朝 後亀山天皇に

あなたが 正当 である事を 認めよう。
あなたが 持っている 三種の神器が 本物です ってやって

南朝 の
第99代 後亀山天皇 を説得します。
まぁ 騙すんですね。

後亀山天皇が 持っている 三種の神器 を

北朝 の 6代 になりそうだった
後小松天皇 に 受け渡す 儀式をするんです。

それで
第99代  後亀山天皇 から
第100代 後小松天皇 に なるんです。



結局
後小松天皇 の次に 皇位継承 する人 として

後亀山天皇 の息子を 皇太子とする 
とか
誰が 次 天皇になる予定 という約束が 無いまま

足利義満 は 死んでしまうんです。




なので
両統迭立(りょうとうてつりつ) は守られないまま 終わります。

そして
第4代 将軍 足利義持 が

第100代 後小松天皇 の子ども を
第101代 称光天皇 として立てます。



皇位 を 交代で という約束は 守られず

南朝
第99代  後亀山天皇 の 子どもは 即位できず

南朝は 滅びてしまいます。



足利氏 としたら
本物 の 三種の神器 を手に入れたら 

南朝 なんかいらない。

って 話になるわけですね。

武家における 最高位の 官職は 征夷大将軍です。
1394年。
足利義満 は 
朝廷 における 最高位の 官職 太政大臣に 上りつめます。

武士のトップ 征夷大将軍 と 
公家のトップ 太政大臣 を 

両方とも 兼務する という事を やってのけました。

ところが
応永2年。
1395年。 
足利義満 は 出家 します。

出家 する という事は 何の地位も 無くなる という事なので 
征夷大将軍も 太政大臣も 辞任します。

自分の 息子 義持(よしもち) を



4代 将軍にして 
自分は 院政 をひくわけですよ。

室町幕府からも
朝廷からも 

離れる って事を やってのけるんですよ。

どういう事かと言うと 
義満は
2代将軍 義詮(よしあきら) からの方針として

朝廷に 接近する。 
朝廷を まる抱えする。
幕府 の中にいて 朝廷 の中にいて 

幕府 も 朝廷 も 両方とも 自分が差配する



って事を やってのけたわけですね。
そして
出家 したわけですよ。



出家して 権限は全部 引き継ぐんですね。幕府 と 朝廷 の外にいて 

両方を操る という 



次の次元に 移って行くわけですよ。
いよいよ
自分が 上皇 になる。
息子を 天皇 にする。

皇位簒奪 という事に 着手しようとしていきます。

臣下(しんか)の者が 
上皇や 天皇になろうとした。

これを 
日本の歴史上 証明されている人は 足利義満 だけです。

それから
応永8年。
この人 いきなり 



明(みん) の 臣下(しんか)に なっちゃうんですよ。

はっ?!
って感じ なんですけどね。

幕府 と 朝廷 を両方 動かす存在でありながら 
朝廷に何の 断りも無く

ある日 いきなり
明(みん) の皇帝の 臣下 になっちゃうわけですね。

目的は
日明貿易 なんですね。

明(みん)属国 が 
朝貢を しに来る時に その国の 産物 を持ってきてもらい

帰り際に 明(みん) の産物 を渡す
というのが
明(みん) の正式な 朝貢関係の 貿易のやり方です。

明(みん) と貿易 をしたら 絶対 儲かる と 
ビジネス を やろうとしちゃうわけですね。
ビジネス を やるには 

明(みん) の皇帝の 臣下 にならなきゃいけないんです。

 
 

臣下(しんか)にならないと 貿易できないの?
じゃあ なるよ。 みたいな。




明(みん) も 
臣下になるの?どうぞ どうぞ みたいな

そして 明 から 日本国王 に任命 されるんですね。

天皇 を後ろ盾 としていた 足利氏が 
ある日 突然 
天皇に 内緒 で 明 の臣下 になる。

だから 何と 
日本は

明(みん) の 属国 になっちゃった って話ですよ。

でも これは 義満に 言わせたら 形だけであって
ビジネスをしたいから 臣下(しんか)に なったふり。
明(みん) の皇帝 を 騙してるだけなんですね。

明 も そうだろうな と 騙されたふり。
臣下 が増えた という事が 誇らしいだけです。

そして
堂々と 日明貿易 を始めるんですね。



いよいよ 総仕上げです。

応永12年。
1405年。
太上天皇尊号宣下(だいじょうてんのうそんごうせんげ) 
を 求めました。

民間人 なんだけども 上皇 として扱え という事です。
朝廷に 尊号 を与えろ 

要求するわけです。

この時 義満は
幕府も 朝廷も 自由に動かせる 絶対的権力者 なわけです。

しかし
朝廷は 足利義満の要求を 却下 しました。



この 却下の意味。
朝廷は 命がけです。

あなた様は 
先例の方に比べて まだ お若いので 
今回は 見合わせていただいて
今後の 課題にさせて下さいませ。

みたいな形で

殺される覚悟で  命がけで 却下 しました。

義満の 要求は 何でも 通っちゃうんだけど

これだけは いかん!!!
こんなものに 先例 をつくってしまったら

民間人 が 天皇 ?

それだけは あかん!!!  と。


義満は この時は
うん うん まあ いいよ。 と 余裕を 見せて

じゃ 次。と 着々と 進めていくんですね。

応永13年。
1406年。
義満 は 後小松天皇 の 



準父 になります。
父親に 準じる 立場 って事です。

後小松天皇の お母様 が 危篤になるんです。
そうすると
義満 は 意味の解らない 変な理屈 を立てて

天皇が 親族が亡くなって
喪に服す事を 霊安(りょうあん) と言うんですけれども

後小松天皇の 代の 1代 の内に 2回経験する。 
両親 が死ぬ というのは
縁起が 悪い とか言い始めて

後小松天皇の お母様 が危篤中。

これ 無し! 
あなたの お母さん この人じゃないから って言って
親子関係 カット。

じゃあ 誰が 後小松天皇の母親 ですか? って言ったら



俺の 妻だぁ って やるんですよ。



義満は 自分の奥さん 
日野康子(ひのやすこ) を 準母 にしてしまうんです。

はい。上皇になる 準備が着々 と進んでいきます。

極めつけは
応永15年。
1408年。

足利義満 の 長男は 義持(よしもち)。
すでに 4代将軍 になっています。

この 親子 仲悪いんですよ。

12歳からの 元服を 



まだ 済ませて いなかったんですけれども

もう1人の 息子
義嗣(よしつぐ) を 天皇に しようとするんですね。



宮中に 参内(さんだい)させて 
不自然に 高い冠位 を授けるんです。

それから
自分の家。 京都の北山邸 に 後小松天皇 を招いて



20日間 宴 をするんですね。

その時に 天皇 の座る所 には 
繧繝縁(うんげんべり) といって 畳が敷かれるんですけれども

そこに 
後小松天皇 を座らせて 
自ら 義満 が座る畳も 繧繝縁(うんげんべり) にするんですね。



20日間 宴 と言いますが これは
天皇 と 上皇 の 対面の作法 と 同じなんですね。
そういう 演出をします。

日本には
君臣の別 と言って 

天皇 と 家臣 の間は 
超えてはいけない 線 があるんです。

天皇 のみ
上皇 のみ が 座る事の できる 
繧繝縁(うんげんべり) の畳に 座ってしまったわけです。

上皇まで あと1歩 の所です。

さらに
義嗣(よしつぐ) が 宮中 で 元服 します。



義嗣(よしつぐ) って 武士の子 でしょ?

臣下の人間が 宮中 で 元服 の儀式をする なんてものは
前代未聞 の事です。



2014年。
新資料 が出てきました。

それによると 
義嗣(よしつぐ)の 元服 の記録で
元服 の後 義嗣(よしつぐ) の事を 

若宮(わかみや) と記録で残されています。

宮 というのは 中世以降 皇族 にしか 用いられません。

そして
猶子(ゆうし)。
養子 みたいなものですが
後小松天皇の 子どもになる という 手続きを経て

親王宣下。
親王 の地位 を与えられ 皇族 となって 
後小松天皇の 皇太子 となる 

という事が 予定されていた 記録が出てきました。

北朝 を
完全に 乗っ取って
自分の息子が 次 天皇になり
自分は 上皇 になる。

臣下(しんか) の者が よく ここまで来ましたね。

でも やはり

神風 は吹くんですね。

義嗣(よしつぐ) が 元服を済ませた 3日後!

死にました。



足利義満 が。

出来すぎでしょう。急死です。
義満 急死。

やっぱり 神様 見てるますよね。

もう後 数週間 生きてたら
本当に 自分の 子どもが 皇族になってましたよ。
義満は 上皇ですわ。

もう後 数週間 生きてたら
皇位簒奪 が 現実のものに なっていたわけですよ。

義嗣(よしつぐ) が 元服 を済ませた 3日後 に 足利義満 急死。
直前で 命を 絶たれている と。
よく 出来てますねぇ~。

やっぱり
自ら 天子 になろうなんて とんでもない話ですわ。

それは やっちゃあいけない事 ですからね。
禁断の 線 を超えようとした という事です。

足利義満 の 皇位簒奪(はくだつ)は 

神様から 打ち砕かれた という事です。





正親町天皇 と 織田信長


織田信長像 は

かなり 今まで伝えられている イメージ から
違う様子が 段々と明らかになってきました。


織田信長 が 京都に 上洛する という事 によって

最後の 将軍 足利義昭 が 追放された



元亀4年。
1573年。 室町幕府滅亡。

室町時代が 終わり
安土桃山時代 に入る という風に 観念されます。

安土桃山時代は 
信長 と 秀吉 だけの時代だけなので 短いです。

戦国時代 というのは
応仁の乱 の頃 から ぐちゃぐちゃ してきて



群雄割拠 実力社会になる。
幕府も 権威を落としていって 最後 潰れていく。

宮廷の経済が 疲弊して
般若心経 を
24か所の 地域で 社格の高い神社。一宮に 奉納なさった
という

第105代 後奈良(ごなら)天皇 の



お子様が

第106代 正親町(おおぎまち)天皇 
です。



その 正親町(おおぎまち)天皇の 時代です。

教科書 だと
織田信長 と 豊臣秀吉 以上。
の 安土桃山時代 ですが

織田信長 を 
天下人 に育てたのは 正親町(おおぎまち)天皇 です。
正親町(おおぎまち)天皇 が 織田信長 を ヒュッ と引き上げたんです。

織田信長 の保護者 であり 守護者 であり いつも引っ張り
信長が 困った時に いつも応援をしました。

信長 は 
お父さんは 立派なのに 息子は
愚連隊 みたいに アホで 間抜けで と

幼名 
吉法師(きっぽうし) と 呼ばれていました。



正親町(おおぎまち)天皇 なくして 
天下人 に 近づいた 織田信長 の存在は 無かった と言えます。

信長が 天下を取るんではないか 
って時に 
正親町(おおぎまち)天皇が 信長を 可愛がったわけではなく

もっと前から
正親町(おおぎまち)天皇 は 信長に 注目しています。

永禄10年。
1567年。
織田信長 に 綸旨(りんじ)が下されるんです。
綸旨 とは 天皇が 発給される 命令書 の事です。

美濃での戦勝 を褒め
次 
この人が 天下を取るだろうという 気概を 読み取っているんです。





正親町(おおぎまち)天皇が 織田信長 に求めたのは
禁裏御料(きんりごりょう) を回復する事。

応仁の乱 以降 
朝廷の 経済基盤が ほぼ無くなってしまいました。

宮廷費用が 
すっからかん だから 費用 を献上しなさい と言うわけです。

それを言われた 織田信長 は 来た! っていう




天皇は
次 天下人 になる って 見てくれているな 
という 感触を 握ったはずなんです。

まだ 幕府が 出来ているわけでもない
戦国時代 の
秩序 の できていない 真っただ中で 織田信長 に

これから 朝廷を守るのは お前だと
宮廷費用 
出せ って 言っちゃう 正親町(おおぎまち)天皇 もすごいんですけど

織田信長 は

わかりました。 と 言う事に なりました。

織田信長は 天才的な 発想力 と 行動力の 持ち主ですが
それだけでは 天下人 には なれません。

天下人 に 導いていくのが 
正親町(おおぎまち)天皇 でした。



元亀元年。
1570年。
正親町(おおぎまち)天皇 が 
織田信長 の 必勝祈願 をするんです。

信長が 
稲葉山城 一乗谷城 金ヶ崎の戦いで 
京都 から 福井の敦賀 越前に 
朝倉攻め をする時です。



日本3大八幡宮。
京都 石(いわ)清水八幡宮 に 使者を立て 祈願させます。

天皇が 大名 に
戦争で 勝ちますように と祈るというのは 過去あったようですが 
久しぶりの事です。

織田信長 は まだ優位ではない。
織田信長 だけの力では 
ひょいひょい と 上がって来られない 難しさがあったんですね。

だからこそ 正親町(おおぎまち)天皇は  

次は あなた だよ と 戦争 に勝つように 祈ったわけです。

じゃあ 戦う相手方は どうなの? という話ですが
えっ 俺 負けてほしいの? となりますが

しかし
朝倉攻め で
浅井氏 と 朝倉氏 の 和睦 を成立させたのは 

正親町(おおぎまち)天皇 が 仲直りしなさい と 
綸旨(りんじ) を出すんですね。

その 綸旨(りんじ)を 引っ下げて 
織田信長 が 和睦 を 成立させていくわけです。

天皇 としては
次は この人 として 見ているわけです。




足利将軍 がめちゃくちゃ 強かったので
室町時代 は 天皇の権威が 落ちていきました。

応仁の乱 で 幕府が 管領が 守護大名 が 力を落とした。
そして
農民 が力を持った。
それから
皇室。天皇 が
少しづつ 政治を動かせる 存在になってきた。

しかし
こいつだけには 天下 を 取らせねぇ と
織田信長 包囲網が つくられていくんですね。





そこで
正親町(おおぎまち)天皇 が一気に 織田信長を 導いていくんです。

10数年くらい前までは

正親町(おおぎまち)天皇 と 織田信長 は 
ものすごく仲が悪く
お互い 牽制(けんせい)しあって 毛嫌いして



信長は 
正親町(おおぎまち)天皇 を 辞めさせようとする

正親町(おおぎまち)天皇は 
信長 を叩き潰す

2人が ものすごく 競り合っていた という風に 
学会では
理解されていたんですね。それが 基本的な 考えだったんですよ。

織田信長 = 破壊者

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

有名ですけれども

朝廷なんか 何くそぉ みたいな感じで
何なら 皇室なんか ぶっ潰して 俺が天皇くらい やったるわ。 みたいな

そういう 天皇 に対する 敵対者

こんな風に 言われていたのは 全部
間違いです。



近年 研究が進んで 新資料 も出てきて
実は
正親町(おおぎまち)天皇 と 織田信長 は 
すごい 信頼関係で 結びつけられていた という事です。

もちろん

信長 も 
正親町(おおぎまち)天皇 を 
思い通りに 動かす事ができない場面も あったでしょう。
正親町天皇 も 信長を 思い通りに 振舞ってくれない事も あったでしょう。

信長の 敵方に 天皇は 官位 を与えています。
信長にしたら

えっ?何で あいつに官位 与えんの?あいつ敵じゃん?
って 思います。



ほら 天皇は 
信長を 懲らしめようとして 外の者に 官位を 与えてた。

これを 根拠に 不和だ
なんて 言う人がいますが

要するに  全国に有力な大名に 
場合によっては 官位を 授ける事がある なんて事は
別に
信長が 出てくる前から 当たり前のように 行われていたんです。

天皇は そんな存在 じゃあないんですね。

朝廷にとって 大切な事は 
時の 為政者 権力者 が

天皇の 理想とする政治を 行ってくれるか どうか 

1番 重要なんです。



国民の事を 我が子のように愛し
幸せを祈っている 天皇 が想い抱く 日本の未来があるわけですよ。

その 天皇の 大御心 を

時の為政者が 
ちゃんと組みとって 正しい政治をしてくれるか どうか

が 1番 重要なわけです。

誰を 出世させるか
誰を 為政者にするか という事よりも

その時の 為政者が 正しい政治を するか どうか

それが 重要なわけです。



博打(ばくち)のように 乗っかって 
この人が 本当に 天下人になるかどうか。
その人が 打たれたら 天皇も 一緒に 没落するのか
と言ったら

そうではないんです。

誰が 為政者になろうが 
天皇 は 天皇 
であり続けるわけです。

ですから
信長に 敵対する人に 官位 を与えても 
どうって事 ないわけです。

信長に 全部をかけて
はずれたら 一緒に没落する と いう話でもないんです。



皇室の 原理を解っていたら
こんな事で 
2人 が仲が悪い  という 分析にはならないんですよね。

かつての研究は 
ボタンの掛け違い みたいな所 だけを 取り上げて

ほぉ~らぁ 
ここも 2人 は ギクシャク 
ここでは 反対してる ここは 反逆してる みたいな

だから 2人 は 仲が悪かった って 
それは 点と点を つないだだけで

親子関係だって 兄弟関係だって
仲がいい時もあれば そうではない時もあって

喧嘩 してる所だけ つないで こんなに仲が悪かった と言って

織田信長=皇室の 破壊者 敵対者



と 祭り上げてきたのが 

戦後の 歴史学 だったわけです。

近年 若い世代の 研究者が 育ってきまして
先入観を廃して 本当に 正しい目で 分析して

そんなに 信長 って 破壊者 じゃない。
むしろ
保守 というか 皇室を 守る側 の人間 
だったんじゃ ないのか。

天皇 と 信長 の間柄は 決して 仲の悪い 時期は無かったはずだ と
むしろ
信頼関係 で 結びつけられていたんだ という事が
だいたい 通説 になってきました。

こうして
歴史の 虚像はつくられて 幻想をつくってきた 
戦後の 歴史学の罪は 大きいと思います。

そして
暴かれていくんだなぁ と思います。

この後
信長 はいつも 天皇 の手助けを 借りる事になるんです。

今度は
元亀2年。
1571年。
延暦寺 焼討ち をするわけです。

延暦寺 は 最後まで 抵抗していた 軍事基地 のような 
仏教勢力の 拠点だったわけです。



天正3年。
1573年。
足利義昭 の 二条城 を包囲したのですが 攻め落とせず
正親町(おおぎまち)天皇 の勅命 を受けて 和議を成立。

仲直り を するように との事でしたが
結果としては 足利義昭 を 追放して 室町幕府 が滅亡 する事になります。

信長 の 最大の敵だった 武田信玄 が亡くなります。



愛知県 三河の国。
長篠の戦い で
山梨県の 甲斐で 武田信玄の子

武田勝頼(かつより) と 戦うわけです。



これが
織田信長 を 政治の中心に 導く きっかけとなった 大戦と言えるでしょう。

武田軍 というのは 武田の騎馬隊 と言って 恐れられた存在なのですが
騎馬で戦う 個人戦ではなく

織田信長 は
歩兵に 3000挺 という鉄砲 を持たせて
並んで 一気に射撃 していく という 全く新しい 手法。

集団戦法 に移っていくんです。
この戦いに 勝ってしまうんですね。

鉄砲 3段打ち など 戦い方の 大転換 が起きるわけなんです。



そして
琵琶湖 の湖畔に 
五層 の 天守閣 を持つ 安土城 をつくります。



信長は 
色々と 改革 をして行くわけですが

楽市楽座令 といって 
関所 を無くし 商人が 自由に行き来出来るよう 

城下町で 商売ができるように
規制緩和 をするわけです。

そうすると 街ができて 商業施設 ができて
自由な 商売をさせる。
いざ戦争だ という時に 物資の調達が できるわけです。

迅速に 戦いの 準備 をする上で 
経済が 活性化すると 戦争に役に立つ という事です。



天正8年。
石山本願寺。
当時は 大阪本願寺。 大阪城と 呼ばれており
ここも
最後まで 抵抗していた勢力だったのですが
当時
お寺 と言っても ほとんど 武装勢力 ですからね。

ここでも 苦戦を強いられるんですが 最後は
正親町(おおぎまち)天皇 の勅命 が下りて 和平が 成立するんです。

信長が 困った時 
正親町(おおぎまち)天皇が 登場し
和睦させ 和議し 和平を 実現し 

正親町(おおぎまち)天皇 からしてみたら

こいつに 目を付けて
こいつが 天下を取る と

早い段階から 
織田信長 を引き上げて 万難を配して いったわけなんです。

正親町(おおぎまち)天皇 の要求 に 織田信長 は 答える。
そして
織田信長 が困った時 に 正親町(おおぎまち)天皇 が 助け船を出す。
といった
いい関係を 築いていくわけです。



実際に 禁裏御料 を回復します。
宮廷費用 も 献上しますし
御所の 造営 も 信長が やるわけなんです。

戦国時代  朝廷の儀式は ずっとできていなかったんです。

正親町(おおぎまち)天皇 の 嫡男
誠仁(さねひと)親王の



元服の儀式を
信長 が 資金を出して 朝議 を復興させるんですね。

信長は しっかりと 恩返し をしていきます。

自分の 官位 には あまり こだわりが無かったようです。
ここを
天皇 から もらう 位に 
興味が無い 拒絶した みたいな事を 言うんですけども

そういう質(たち)の人 っていますからね。

友達とだって 仲がいい時もあれば 悪い時も ありますよ。
兄弟 でも 親子 でもそうです。

以前の歴史学 というのは 関係が悪かった所だけ を並べて 
ほぉ~らぁ こんなに 敵対 していた と言ってきた わけですから

これは
木 を見て 森 を見ない 議論ですから



この2人が そんな 敵対関係な わけが無いでしょう。
この2人の 信頼関係 は ずっと続きます。

隙間風が 吹いたような 場面もありました。

キリスト教 に関する 考え方は 天皇 と 信長で ちょっと違うんです。

正親町(おおぎまち)天皇 が キリシタン を排除する 
という 綸旨(りんじ) を出すんですね。
ところが 信長 は

永禄12年。
1569年。
ポルトガル の宣教師 ルイス・フロイス という人と会って



布教の自由を 保証するわけですよ。

天皇は キリシタン 排除 って 言ってんのに
信長は 自由に布教 していいよ って言うわけですよね。

ここだけ 見ると
天皇 と 真っ向から 反対しているかのような 感じに見えますよね。

実際 信長は

天皇や 将軍家の意向を 心配する必要は 無い。
全ては 信長の 権限の中に ある事なのだから
フロイス殿 の好きなように 振舞ってよい。

このように 述べた と言うんですね。

信長は 西洋人に ものすごく 寛容なんです。

延暦寺 焼討ち でしょ?
石山本願寺 を退治するわけでしょ?

仏教勢力 に対しては 厳しい態度を とるんですけど
キリスト教 には ちょっと甘いんですね。

西洋は 南蛮文化 ですよね。
鉄砲 が入ってきたり 火薬 もそう。

西洋 の持っている物は 凄いものがある と 見ていたんだと思います。
西洋文化 で 何か いかに利用できるか とか 
憧れ のようなものが あったかも しれない。



表向きは こうだけども 私が保証するから 自由でいいよ
って 言ったとしても
じゃあ
本当に 敵対している かと言ったら そうでもない わけですね。

そういうのばかり 拾って 犬猿の仲 というのは おかしいな と思います。

天正2年。
東大寺 正倉院 にある

天下 第1の 名香 と言われる

お香 の元になる 香木。
蘭奢待(らんじゃたい) 



が 切り取られた  という事件が あるんです。

東大寺 正倉院 というのは
皇室の 宝物 を置いている 倉庫です。

今は 宮内庁 が管理しています。

奈良時代 から ずっと貯めこんだ 
美術品など 皇室の宝物が 正倉院に あるわけなんです。



鍵をかけたら そこに 勅封(ちょくふう) が されるんです。

実際 正親町(おおぎまち)天皇 が 
そこまで行って 鍵をかけるわけでは ないですけども

勅封(ちょくふう) というのは 
天皇 がかける 鍵 なんです。

勅使(ちょくし) が派遣されて 
勅使 が 天皇 に変わって 勅封(ちょくふう) をするんです。

天皇 の命 によって
勅使 がかけた 鍵は 誰も開けては いけないんです。

これを 開ける時には
天皇が 許可 して
天皇が 命じて
天皇の 勅使 が行って 開けなければ いけないんです。
ただの 鍵じゃないんです。



よく言われるのは
信長が 奈良の 正倉院に行って 

おらぁ~ 開けろぉ 信長が言ってるんじぁぁ いいだろう 



と 無理やり開けさせて 威圧して

これが 天下 第1 の香木 かぁ 
よっしゃ これ 持って帰るから 切り取れ。

そういう感じで 信長が
皇室 の 掟を 破り 
皇室 が 大切にしている物を 略奪していって
力に 任せて 皇室の宝物を 奪った なんて 不敬な 人物なんだと
いう風に 言われてきたんです。

蘭奢待(らんじゃたい) というのは 結構 大い香木です。
つまり
事前に 正親町(おおぎまち)天皇 の許可をとって
信長は
ちゃんと 勅使(ちょくし) と行ってるんです。

蘭奢待(らんじゃたい) が納められているいる 第3倉 を 
勅使(ちょくし)に 開けさせるんですね。

信長 自体は 
奈良の 多聞山城 というお城で 待機するわけです。

東大寺の 大仏師 によって 
1寸4方(1辺 約3㎝四方) を 2個 切り取って
蘭奢待 は 正倉院 に戻され



再び 勅使 が 勅封 を施した とい事です。

これまで 何人か これを 切り取った人が います。
1人 が 第8代 将軍 足利義政。



この人 は 銀閣寺 水墨画 和歌 が有名なです。

次が 織田信長。

その次が
明治天皇 なんですよ。



2個 の 1辺 約3㎝四方 の 蘭奢待(らんじゃたい) を 

1個 は 自分。
もう 1個 は 正親町天皇 に献上 しているんです。
そして
正親町(おおぎまち)天皇 は 受け取って いるんですよ。

かつて 言われていたのは
無理やり 勅封 を こじ開けて 
皇室の宝物の 蘭奢待(らんじゃたい) を切り取った。
奪った ってわけですよ。

実際 は ちゃんと 許可を得て
正親町(おおぎまち)天皇 に お土産 持ち帰ってるんですね。

そして
1個は 陛下に と 差し上げて
1個は 自分が 使わせていただきます ってやるんです。

もし 正親町(おおぎまち)天皇 が 嫌々 許可して 
辟易(へきへき)と しているのなら お土産 貰わないですよ。

そんなもん いらんって 突っぱねますよね。
受け取ってるわけです。 という事は 許してるって事です。
そして
天皇 は 

ほら 
これやる これやる。 信長が切ってきたからね って
臣下(しんか)の者に さらに切り取って プレゼント してるんです。

正親町(おおぎまち)天皇 が
臣下の 九条稙通(たねみち) に あてた手紙 の

今度(このたび) 不慮に 勅封(ちょくふう)を 開かれ候て

という所 を 

天皇 の本意ではなく 圧力をかけて 信長 が奪った
と 主張 されていたんです。



ここだけ 切り取って
これは 大きな 議論の 飛躍があります。

しかし
手紙の 続きがあって

優れた天皇 の 治めた時代の 後まで残る 香 を ひと焚き 燻らせて
円熟した 考えを 述べていただければ 幸いである

ようするに 蘭奢待(らんじゃたい) 楽しんでくれ
って話です。




信長 が 無理やり 
って事なら こんな事 言わないでしょ。

そういう 詳細が わかってきたわけです。

信長像 をつくっていった
戦後の 歴史学会 や
信長物語を 書いてきた方々の ミスリード です。


事実ではない
正親町(おおぎまち)天皇 と 織田信長 が 不和 だった と伝えられてきた
その最大の理由は

譲位(じょうい)問題と 補任(ぶにん)問題 です。

ずっと 戦国時代は 上皇 は無かったわけです。

大喪の礼 も
即位の礼 も できない 
そんな中で 上皇 なんて できないんです。

譲位 をすると
天皇 と 上皇 が並び立ちます。

御所に 天皇 は お住まいになりますけど
上皇は 仙洞御所(せんとうごしょ) に お住まいになりますので



仙洞御所を 新たに こしらえなければ なりません。

また
天皇の 御家来衆(ごけらいしゅう) と共に 
上皇の 御家来衆 もつくらないといけません。
なので
経費が ものすごくかかるわけです。

平安時代 は 山ほどありましたけども
戦国時代 は 上皇が 立ち並ぶ 余地は ないいんです。
金銭的に 譲位が できなかったんです。



天正元年。
1573年。
織田信長 が 譲位(じょうい) を提案します。

織田信長 は
正親町(おおぎまち)天皇 を 
辞めさせたくて 辞めさせたくて しょうがなかった。

そこで
織田信長 は 自ら 廷臣の ふりをしながら

陛下 そろそろ 譲位 をなさったらどうでしょうか? と
息子さんの 
後陽成(ごようぜい)天皇 に 譲って あなた様は 上皇 になられたらよろしい。

しかし
正親町(おおぎまち)天皇 は 
いや 譲位(じょうい) は まかりならん。

信長 は 辞めさせよう とする。
天皇 は 辞めさせまい とする。


2人 やっぱり 仲が悪かったでしょ? 



と 言うわけですね。 これが 譲位(じょうい)問題です。

もう1つは 補任(ぶにん)問題。

天正10年。
1582年。
三職推任(さんしきすいにん) というのがあり

朝廷は 信長を 将軍に したくなかった。
でも 
信長 は 自分が 将軍になりたくて なりたくて しょうがなかった。
そして
信長は 自分の 力でもって 朝廷 を押し切って 将軍になる事を 勝ち取った。
と 言うんですね。

新しい資料 が出てくる事により
この 2つの ストーリー は 大きな間違いだった
と いう事がわかりました。

京都御所にある 東山文庫から 直筆の手紙が 発見されました。



でも
ミスリード して来た方々 が 詫びるような 雰囲気は無いです。

信長が 譲位 を 提案しました。それは事実です。

しかし
天正元年 
正親町(おおぎまち)天皇 が
直筆で 織田信長 に 返書 を書いていた という

天皇からの お返事が 発見されたんです。
これで 今までのストーリー と 全然違う。 景色が変わりましたよ。 

譲位は 後土御門(ごつちみかど)天皇以来の 望みであり
久しく 叶わなずにいたところ
この度の申し入れは 奇特 であり  朝家再興 の時である

と記しています。

待ってました!
譲位 したいと思ってたんだ。よくぞ 提案してくれた。
これによって 朝廷が 復興できる。

と このように
正親町(おおぎまち)天皇 喜んでいるじゃないですか。

戦後の歴史学は 2人 が仲が悪かった を あおり立ててきたんです。



しかし
全部 総崩れに なったわけなんです。

ところが
天正2年 以降 信長は 
各地に 出陣しないといけない 状況になるんですね。

武田勝頼(たけだかつより) に対処するために 
岐阜県恵那市の 明智城 に出陣したり

その後も 
石山本願寺 の挙兵とかがあって

譲位 となると 政治的にも お金もかかりますし
この後 譲位 は行われず 先送りになったんですね。

朝廷は 信長に 官位 を授けるんですね。
朝廷 は 信長に 高い位を授けて 朝廷を 善くしてもらおう と思った。

ところが
信長は そんなもん いるかぁぁぁ って言って 拒否した。



つまり
信長 という 男は
力を 蓄えて いつか 天皇 を 倒し
自分が 移管を授ける存在 になろう としていた。

という風に 主張されていたんですよ。
 

朝廷 が 信長に 左大臣 の 位 を 授けようとした時
信長は

譲位 を 実現する という宿題を 抱えているので
それが 済んでからで いいですよ。
と 丁重に お断りをしています。

ものすごい 飛んだ議論の 飛躍ですけどもね。

天正9年。
1581年。
朝廷の 求めにより 京都馬揃え が行われます。

自衛隊の 統合軍事練習 みたいなものです。

正親町天皇が ご覧になる 天覧の状態で 行われました。

京都 に 馬をたくさん ずらぁ~っと並べて 
天皇に 軍事力圧力 をかけた って言うんです。



よくまぁ 点と点を持ってきて そういう虚像を つくるなぁ と思うんですよ。

これも 出てきた 新資料 により
朝廷の 求めにより 行われているんです。

そろそろ 譲位 をしましょうよ
となってきた時に

今度は 朝廷側から

陰陽師 が 今年 譲位 をするのは
金神 という 方位神 の忌みに抵触する
と 勘文 が出されました。 運勢が 悪い ってわけで

断ってきたわけです。

2人 が仲が悪かった。それは
いちいち 全部 違うんです。 

近年の
若手の研究者 に 拍手喝采です。



信長は 結構な 勤皇家 です。

破壊者 でもなければ 自分が 天皇になろう なんて
大それた人物では ないです。

皇室を 敬愛し 伝統を 守ろう としていたという事 は



天正10年。
1582年。

伊勢の神宮 の 内宮の式年遷宮 が 120年間 途絶えていたんですね。

そこで
信長が 約 4億円 ぐらいに相当する お金を バァァァンッ て出して
式年遷宮 をやっているんです。




1000貫 あれば大丈夫です と 言われたのですが
いや 
3000貫 は必要だ。

民 百姓 に負担を させてはいけない と言って
約 4億円 に該当する お金を 

ぽぉぉぉ~ん と出した という事です。

こんな人が どうして 皇室 潰そう とするんですかね?

式年遷宮 を 再興 しただけではありません。
石清水(いわしみず)八幡宮 や
熱田神宮 にも 大きな お金を 寄付 しているんです。



武田勝頼(かつより) を落として 凱旋するんですけども
その時に

三職推認(さんしきすいにん) の話が 持ちあがります。

武家伝奏(ぶけでんそう) といって 
朝廷の 武家担当 みたいなポジション の

勧修寺晴豊(がじゅうじはるとよ) と

京都所司代(きょうとしょしだい) といって 
武家の 朝廷担当 みたいなポジション  の

村井貞勝(むらいさだかつ) との間で

信長 に どういう 位 を つけるか という 任官 について 

朝廷 の外 で幕府 を開く事が できる  征夷大将軍 か

朝廷 における 最高位の官職の 太政大臣 か

天皇を 補佐する 最高位 の 関白 か

どれにしましょうか と 話をしていました。



藤原氏 は 摂政関白。
平清盛は 太政大臣。
源頼朝は 征夷大将軍。

足利氏 は 太政大臣 と 征夷大将軍。
両方 操りました。

今度 信長は 間もなく 天下人になる。
どんな 政権構想を 持っているのか という事 なんです。

結論的には 翌月
本能寺の変で 死んでしまうんですね。



なので
信長の 口からは 彼の 政権構想は 語られなかったんですよ。

信長は 恫喝して
征夷大将軍 を勝ち取った って言う 戦後の 歴史研究なんですけど

右大臣 右近衛大将を 辞官して
左大臣 になって下さい って言われても 
天皇の 譲位 の課題が 済んでないので と言って 

お断りしているんですよね。

そんな人が 征夷大将軍 よこせ って。

信長は 
地位とか 位 とか あまり興味がない人で
話が つなががりません。

朝廷側から 信長を 将軍に 推認する事を 決定した
というのが 
現在の 歴史学が 着地するのではないか と思われます。

戦争を したら 才覚 を表すんですけども
信長は 謙虚 な人です。

皇室を 敬愛 する気持ちが 強く 
皇室からの 要求を 全て答えていますし

尊皇家 で 
秩序 伝統を 守ろうとする 保守主義なんです。



天皇を 後ろ盾 とした 武家政権 を
京都に つくろう としていたのではないかな と思います。

織田信長 は
よく カリスマ とか 超能力者 とか 天才 とか 言われるんですけども 
実は 
キャプテン として チームを 統率する力 キャプテンシー です。

努力しない 人間は 嫌いみたいなんですが

部下の 柴田勝家(かついえ)が



上杉謙信 と戦う って



誰がやっても 不可能な 事業を やっていて
とにかく 
柴田勝家は 殴られて 耐えていたら

織田信長は 成果 として見ます。

部下の
努力度 を見る。

みんなぁ 俺も頑張るから ついてこい!って いう人です。

単純に言うと 部活の キャプテン です。
常に
自分が 先頭を切って 戦っているんです。

武田信玄 みたいな カリスマ  ではないんです。



最強の敵 

上杉謙信が 



死んだ辺りから 
調子に乗る所も あるようですが

自ら
すごい シュミレーション をして 上 中 下の策 を考えて 
努力をして
でも
その 努力 を見せていない だけなんです。

努力の人 であって 
超人 とか 魔王とか 超能力者とか

果ては 天皇になろう とした とか 
では ないんです。

職場の 良い上司。
部下に 優しい。ノルマが 緩い。

部下に
寝ずに 働け と 言う人 ではなく

自ら 自分が
寝ずに 働く 人 だったようです。



架空の 信長ではなく 
本物の 信長 に学ぶべき事が ありそうです。

また
信長は 神をも信じない 無宗教 の人間だ なんて教えられますが

織田信長は お寺 は 焼きますが
神社 は 焼いていません。

越前(えちぜん)の神主の 子孫だったとの事です。

古代朝廷 における 祭祀を担った という 古代氏族。
忌部(いんべ)氏 とも 言われています。 



武田勝頼(たけだかつより) との
愛知県
三河国 長篠城 をめぐる

長篠合戦図

ダビデの星 六芒星 の 3人の姿 が見えます。



阿波忌部(あわいんべ) は 

天皇が 皇位継承 をされて 
新天皇 の即位 の後に
新穀 を 皇祖 天照大御神様 及び 神々に 五穀豊穣 国家安寧 を祈られる

大嘗祭(だいじょうさい) に使用する 
木綿や 麻布 などを 
朝廷に 献上 していたそうなので

家紋は 楮(コウゾ)の一種 の 梶の木 です。



織田信長 は神官の家の 出身なんです。

なので

残酷 というのは どういう効果 を もたらすのか 
と言っている

イタリアの ルネサンス期の政治思想家
ニッコロ・マキャベリ という人が いますが



いわゆる 
赤い大国や ヨーロッパ では

楽しいから 殺す
すぐ 殺したら 面白くないから 苦しめて 殺す

という事は 過去の歴史は 普通みたいですが

マキャベリ は 魔女狩りとか 宗教裁判 とか
そういうのは 駄目だよ と言っています。

信長は 無益な 殺生は していないんですね。

例えば
残酷さ を感じさせる 見せしめ というのは
1つ の 政治的意味が あるわけです。

サディスト の殺人鬼 とは 全然違います。

それから
本能寺の変 は

信長 から溺愛するほど 可愛がっていた 小姓 森蘭丸 は
自害した 信長 を横に
最後まで 戦った とか



宣教師 と共に 来日した と言われる
南アフリカ出身 小姓 弥助(やすけ)に



信長 は
事あらば 岐阜へ と
言い残した通り 

信長の首を 持って 岐阜城に行った
とか

本能寺の変 で死んだ のは 影武者 の方だった
とか



色々な 説がありますが

織田信長 は
福井県の 小浜(おばま) の方から 船に乗って 
バチカン に行った という話が あります。



何故かというと
織田信長 は 賢い人だったので 世界の仕組みを よく解っていて

どうも
世界 を動かすには 

ヨーロッパ を 上手く使わないと いけないので
それをコーディネート しているのは 

バチカン なので
そこに 入り込んで行く事 によって

血で血を 洗うような 戦国 ではなくて
世界が 平和になるような 統治 できるような



そういう 仕掛けを 作ろうとしたんだ という事 なんです。

実は 膨大な量なので 

バチカン図書館 の方も 
まだまだ 
整理 アーカイブ データ化 できていない 

わからないものも 解読 できていないもの たくさんあるそうなのですが

人類の 世界の 歴史の資料 は ほぼ バチカンに あるそうです。

織田信長 の 書状 で 1番 たくさん残されているのは
バチカン だそうです。

当然 当時
キリスト教 の 宣教師が 来ていますから



織田信長 も 
その人たちから 世界の状況を 聞いているはず なんです。

当然 織田信長 の 密使 もいて 
やり取り をして 

織田信長 の やりたかった事を 具現化 するには 
世界で どうしたらいいか という事も 教えている と思われます。

なので
本能寺の変 の後 バチカン に行った
書物も 持って行った 
という事も あり得る話 なんですって。



もともと  神官系の 家系ですから

雷(いかずち)の大神 を 祀っていた とい事なので
雷(いかずち)の大神 と言うのは 

スサノオ スサの王 の 王国 を言う のですが
歴史リンク

あとは
新羅(しらぎ)系の あめのひぼこ の 末裔 
とも 言われている そうなのですが

越前 福井県 劔(つるぎ)神社 があります。
須佐之男命 を 祀っています。



別名 織田明神 とも言われているそうです。



ウガヤフキアエズ王朝 の時に スサの王 は 大国主命の 何代目 かで 
ペルシャ から 尾張 まで 来たわけです。

織田信長 は 最後 国を 取る時に 尾張 にいたわけです。

尾張。 愛知県 の 熱田神宮 には 
そこに
草薙の剣(くさなぎのつるぎ) があるわけですよね。

それは 正に
須佐之男命 の 宝物 なんです。

今川義元 が 来た時に

これを 取られたら 尾張 が 終わる。
それを 守るために 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい) を やった



という事 なんです。

別に  
天下統一 をしたかった というわけではない という話 です。

それは
織田家の 下命 に 基ずいた 使命 を 果たした。
それが
天下人 につながって行った という言らしいです。

なので
織田 という 家 は
神様と 繋がっている家 だったんですね。



神官職 から 武家 として それを 守れ と言われた。
というのが 尾張 の話です。

織田信長 の バックボーン が 神官職 という事 なので
キリスト教 というものを 理解し 
世界の 宗教の 力 というもの を 理解していた

というのも 大いにあり得る という事です。

神官職 は 歴史的な 事も よく知っていて 
代々 引き継いでいるもの もあるので

おそらく 宣教師 が来たら 
そこら辺の 事を話を して行ったのではないか
と 思われます。

歴史が わからないと 世界の 宗教 も
今の現状も わからないですからね。

宣教師 たちが 
その国の事を 知り 
世界を 束ねて いこう まとめていこう という コーディネート の中では



織田信長 を 選んだのは よく解ります。

日本の 歴史上
殺されました 
暗殺 されました
という 人たち の結構な数 の人たちは

ヨーロッパ に行って 
日本とヨーロッパ を 繋ぐ 使者 として
また 重要な 役割をするために

例えば
後醍醐天皇 の 息子 の
親王 も ヨーロッパ に行っているそうです。

世界は 元1つ。

長篠の戦 の屏風にも
ダビデの星。六芒星 が 描かれています。



王家の血を つないで
王朝 同士の 関係の 系図も 
バチカン にある との事です。

過去 
天下の イエズス会 で 歴史の中で 麻薬商人も 人身売買 も
あった事でしょう。

しかし
インターネット の 今の時代 
だんだん 世に 出てきて 
史実が 隠せなく なってきた という事だと 思います。

だとしたら

太古の 昔から
みんな 人は つながっているのて
みんな 元々 一緒やん?
なんで 戦争 しているんだろう。

兄弟もめ? という事に 気づいていくと 思います。

織田信長 という人は



研究者が 蓄積してきた 信長像 によって 

間違った 歴史認識 を植え付けられ
一般に 広まっている イメージが 事実 と違う風に 教えられてきました。

今 日本に 必要なのは 本当の信長を 学ぶ事 だと思います。



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