すごいぞ霊の元つ国 すごいぞ日本人
      ~21聖紀をになう子どもたちへ


歴史 現代①

明治維新から ポツダム宣言受諾までが 近代になります。
それからの昭和の時代は 現代になります。

東久邇宮内閣と皇族の特派

ポツダム宣言受諾が行われ 昭和天皇の玉音放送が放送されました。
これで戦争終結したかというと そうではありません。
クーデターは1つ鎮圧されたとはいえ クーデターまではしないけれども
占領軍が進駐してくる時に 特攻して粉砕してやる とかで特攻訓練を 繰り返している部隊もあるわけですよ。

次は 反乱を起こさずに 本当に武装解除して 進駐軍を受け入れるために
8月15日を持って 鈴木貫太郎内閣は 総辞職になりましたので 
新内閣を発足しなければなりません。

整然とした進駐の開始をするのに いろいろなご苦労があったみたいです。

いざ戦争になったら まず皇族が命を懸けて国を守る という事で
明治の時代
明治天皇の思し召し(おぼしめし)で 男性皇族は 必ず陸軍か 海軍かの軍人になる事になっていました。

昭和20年8月16日 玉音放送の翌日
在京の4皇族が 昭和天皇からお召しがありました。

当時 東京にいた成人皇族の
 
東久邇宮(ひがしくにのみや)  は 

大命降下。内閣総理大臣に任命されます。
現職の皇族が 内閣総理大臣になるのは後にも先にも この時にたった一度だけです。終戦を処理する役割は                     皇族が担わなくてはならない。
武装解除を進めなければならないこの時に 普通の軍人が言っても はぁっ?! て事にもなり兼ねないんです。
ところが 皇族が総理大臣になって 終戦処理をすると 迫力が違うんですよ。
                    
そこで 昭和20年8月16日 東久邇宮内閣 が成立します。
これを押したのが 昭和天皇の懐刀 と呼ばれた 政治向きの秘書 木戸幸一のです。

戦前 近衛文麿内閣総辞職 の後に 東久邇宮 の名前があがった時に
開戦 となるかもしれないこの時に 皇族が総理大臣をしていたら問題だ と 皇室ごと無くなるぞ と
開戦の前に 敗戦について研究した唯一の人で 
そして 東条英機が 総理大臣になったわけです。

朝香宮(あさかのみや)      と
閑院宮(かんいんのみや)    は 

南方方面と 中国方面

竹田宮(たけだのみや)      は 

満州の関東軍と 朝鮮総軍  に割り振られて

なぜ今 終戦を決意したのか なぜポツダム宣言を受諾したのか の主旨のご説明があったわけです。
君たちには 気の毒だけれども 立川飛行場から 明日戦地に向かってほしい とおっしゃいました。

本来であれば 私自身が 各戦場をまわっって将兵たちに 終戦の主旨を伝えるべきではあるが
今 私が 東京を離れる事は叶わない。
君たちには 大変申し訳ないのでけれども 危険な任務ではあるけれども
私の想いを 将兵たちに親しく伝えてきてほしい。

このような大任を担うことになったんです。

聖旨(せいし)伝達。 

天皇陛下のお気持ちを伝える。
終戦の主旨を説明する役目をする という事です。

そして 戦地に特派され 飛んでいきました。

これはたいへん危険な任務だったらしく ソ連軍が宣戦布告して 200万 というソ連軍が 一気に南下しているんです。
満州国なんて 日本人 300万人近くいましたからね。彼らが ソ連軍に攻め込まれてきているわけですから 
阿鼻叫喚 とんでもない大混乱になっているだろうな という事も予測されます。
それが 間もなく朝鮮にも来ますからね。

宮様が 
天皇陛下のお気持ちはこうだ。武装解除をしてください。 
武装解除をせずにいる というのは 天皇陛下のお気持ちを 踏みにじる事になるんだぞ。
だから 決して 軽はずみな行動は とってはいけない
と伝えると 
悔しいけど わかりましたぁ! という事になるんです。

竹田宮は 夜 もう二度と帰ってくることもないだろうという気持ちで と身辺整理をしていました。
そうしたら 東久邇宮から おり行った話があると電話があり 総理官邸に出かけて行きました。

あなたは満州国皇帝 溥儀皇帝と仲がよかったですね。
溥儀皇帝と会ってきてほしい。
そして 溥儀皇帝が望んだら ぜひ日本に亡命をさせてほしい。
という 東久邇宮の要望でした。

総理の密命を帯びて 満州の首都 新疆(しんきょう)に行く事になりました。
竹田宮は 満州の関東軍司令部で 
司令官以下 ぎゅうぎゅう詰めに将校を入れて 昭和天皇の想いの主旨を 淡々と説明したそうです。
そうすると 
随所から すすり泣きや しまいには 嗚咽する人もいたらしいんです。
悔しいけども 武装解除をします という事で 関東軍の武装解除が決定したわけなんです。

次は 朝鮮に行かれ 朝鮮でも武装解除となりました。

そして 溥儀皇帝と無線がつながり 溥儀皇帝は 日本に亡命を希望なさるんですね。
次の日 満州国の奉天飛行機で待ち合わせをして 一緒に東京に行きましょう と約束したのですが

宮様。
溥儀皇帝が 朝鮮まで来れればよかったのですが

聖旨伝達という天皇陛下からの お役が終わったので
速やかに 東京にお戻りになられるのが 重要かと。 

満州の奉天まで 戻る のはいかがなものでしょうか 
と朝鮮総督府から意見具申がありました。

竹田宮の飛行機を 4機の ハヤブサ戦闘機が 護衛してくれて 任務遂行をさせていただいていました。
最後 竹田宮は 4人のパイロットに

今まで 護衛してくれて有難う。
私は 東京に戻るが 
日本は戦争に負けたけれども これからは君たちのような 若い力が必要だから ぜひ戦後の復興に尽力してほしい
と声をかけ 4人と固い握手をし

日本の安全な区域に 竹田宮の飛行機が入るまで 現地のハヤブサ戦闘機 4機が護衛して 見届けて 
そして 
その4機の 20代前半の 若いパイロット 4人は Uターンして
所属の奉天飛行場に帰る という予定になっていたんです。 

そして 溥儀皇帝は 奉天に出ているわけなんです。
ところが その日 奉天飛行場は ソ連軍が占領していたわけです。

もし竹田宮が 奉天飛行場に降りたっていたら ソ連軍に逮捕されていた事になります。
現に 溥儀皇帝は 奉天飛行場に降りた直後 ソ連軍に逮捕され そのままシベリアに抑留されてしまったんです。

そして 竹田宮の飛行機を護衛して 見送って奉天飛行場に戻ってきた
4機の戦闘機は 上空から
あぁ これは ソ連軍に占領されているなぁ とわかり 
低空飛行で 奉天飛行場に入ってきて 滑走路の上にさしかかった時に 4機が垂直に立ち上っていって 
4機 編隊をくんだまま
奉天飛行場の滑走路中央に 自爆 という事になったんです。

日本の復興 よろしくな と言われた若いパイロットたちは そこで命を絶つことになってしまった という事です。

溥儀皇帝を連れて帰ることまで できませんでした。日本への亡命を 果たす事ができませんでした。
この後 東京裁判が開かれるんですけれども 
溥儀皇帝は ソ連軍に逮捕されて 抑留されていますから 
ソ連側から これを言え と言われているわけですから ウソを述べるんですね。

東京裁判における 満州国の評価も 溥儀皇帝の 
あの発言がなければ 
何とか日本に亡命してくれれば
かつての満州国を日本が建国して そこを日本が抑えたという国際的評価は 全然違ったものになった可能性があるので残念です。


GHQの占領政策

8月24日 
昭和天皇の 弟宮にあたります 高松宮殿下が厚木基地に行きます。
相模原航空隊が 特攻訓練を繰りかえしているわけですよ。
まもなく 進駐軍がくるんですよ。最後の最後まで 武装解除を拒んでいた所でした。

天皇陛下のみ意を 弟の宮様から言われて 武装解除しました。
翌日 米軍が 東京周辺に 偵察機を飛ばしています。
武装解除が 1日・2日遅ければ 東京上空で戦闘状態に入ったかもしれません。

そしてマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立つわけですけれども



米軍は 相当抵抗があるだろうと 
うりゃ~ とか言って誰かが走ってきて撃つとか 散々あるんだろうと思ってたんですね。
ところが 実際降り立ってみると 1発の銃弾の暴発もないわけですよ。

あらっ!?  何も起きない。 というのが マッカーサー元帥の降り立った最初の感想です。

これが実現できたのは 昭和天皇が気持ちを重臣たちに直接お話になった。

陸軍・海軍も一緒になって手を取り合って 終戦を実現させてほしいという お言葉があって 各大臣参謀本部・軍令部一丸となって 
昭和天皇の想いを実現しようというわけです。

終戦時の 内閣総理大臣は東久邇宮(ひがしくにのみや)です。皇族が首班する内閣が発足しました。
それでも 最後まで戦うんだ という部隊もありましたが 
皇族方が戦地の部隊に会いに行き 昭和天皇のお気持ちを伝えにいったわけです。
それで 最後まで戦うつもりだった人たちが わかりました という事で 武器を置いたわけなんです。

これは 昭和の無血開城 と言われますけれども

有名な幕末の 江戸城総攻撃が起きようとするときに 
勝海舟 と 西郷隆盛が 薩摩藩邸で会談をしたと。 これによって 江戸城の無血開城が決まったんです。

幕府の残党も 江戸城に籠って 籠城作戦を展開すれば それなりに戦えたはずなんです。
と言いますのは
大阪城と江戸城と言えば 天下二大 難攻不落の城です。まあとにかく攻めにくい。
ところが 勝海舟と西郷隆盛の話し合いで 無血開城ですね。
260年以上続いた 江戸幕府が最後 終了するときに 戊辰戦争とか 新選組 五稜郭の戦い 会津攻めもありましたよ。
でも江戸城は無血開城されたというわけですね。
これは日本の歴史の稀有なところだと思います。

昭和も 昭和の無血開城と言えるような事が起きたわけです。
一発の銃弾の暴発もなく 一糸乱れぬ 占領が行われたわけです。


GHQの占領の根拠になるのは
ポツダム宣言です。
日本に連合国は課題を与えるわけですね。
この項目を全部クリアしたら 占領を解除しますよっていう風に言っているわけですね。

何も日本が 戦争の結果 足腰が立たなくなるまで 叩き潰されたわけではないんです。
まだ日本は戦う力がありました。

しかし昭和天皇の思し召しによって
ポツダム宣言は 停戦条約になります。まだ講和まで行っていません。いったん停戦しようと。
そして 
占領を受けます。その後 講和条約が結ばれ そして日本は 国際社会に復帰していく という所の 6年か月を要するわけです。

占領日本が課題を解決したら占領を解除しますよ ということなんです。

ポツダム宣言はよく 無条件降伏 と言われますが
間違えです。

ポツダム宣言は 連合国の条件は次の如し と書いてあるわけです。
条件を書いてあるじゃないかという事です。
連合国側と日本側と それぞれ権利義務が書かれてまして 
決して私たちは 無条件で降伏したわけではありません。

ポツダム宣言を受諾した主旨は何だったかというと
ポツダム宣言を受諾して 国家をあけ渡した事実はないわけなんです。むしろ逆。

日本国を守る為に 国家を存続させる為に ポツダム宣言を受諾したんです。

叩き潰されたました どうぞお好きに 
そんなこと一言も言ってないですよ。無条件降伏なんて してませんよ。
停戦をする上で 条件をつけたんです。

無条件降伏って どこから来てるの?って話ですが
ポツダム宣言をよく読んでみると 一か所だけそれが書いてあります。
それは

日本軍は無条件で降伏し 武装解除する
って書いてあるんですよ。

日本国の無条件降伏と 日本軍の無条件降伏は全然違います。
国家としては 条件をつけて停戦をしたわけです。条件の一つが 軍の無条件で武装解除しなさいよっていう事なんです。

国を無条件で明け渡したのではなく 国を存続させるために しっかり条件を付けた上で ポツダム宣言に臨んだわけです。



しかし


WGIP

WGIP ウォーギルトインフォメーションプログラム 戦争を始めたことに対する罪の意識を日本人に植え付ける洗脳プログラム
といってもいいでしょう。

財閥解体
農地改革
軍の解体
労働改革
神道指令
東京裁判
言論統制(WGIP)

と 占領政策はいろいろとありましたけれども WGIPの主軸になって  
ボディーブローのように 占領化解除されて 60年以上ですがズシーン と響いているのが 言論統制(WGIP)です。



日本人が勝手に呼んでるんじゃなくてWGIPという言葉はGHQの内部文章にあります。

日本人を戦争嫌いにする。
日本人を腑抜けぬする。  
そういう洗脳計画で 何でそんなことをしたかっていったら 

日本人を恐れていたからです。

もう 日本人とは戦いたくない。日本人 結構強かったですからね。
零戦もアメリカの飛行機より優秀だったから。運用能力も圧倒的に日本の方が高かったから。
アメリカの戦艦より日本の戦艦の方が性能が良かったから。

国力はアメリカの方が10倍以上大きいですから長期戦になったら アメリカの方が圧倒的有利ですよね。
日本は国力は小さいながらも アメリカは結構てこづったわけですよ。

最後の最後まで投降しないし 死を覚悟して勝ってますよね。
特攻隊もそうですよ。


アメリカじゃ絶対あり得ないですからね。
そういうのを見てね 

沖縄 あんな小さな島を占領するのにアメリカ軍だけで 米兵10000人ぐらい亡くなってるんです。
硫黄島(いおうとう) 沖縄から比べたら圧倒的に小さいんですよ。それをアメリカ軍 10万人以上で攻めて1か月以上落ちなかったんですよ。
死傷者の合計数は米軍の方が多かったんだから。
NYの9/11のテロ事件でも 4000人そこらですよ。

日本人最後まであきらめませんし投降しませんし ねばって ねばって ねばり通すわけですよ。
戦ってみて 日本人すげえな って事になったわけですよ。

占領はしたけれども もう結構。二度とこんな人たちと戦いたくないってわけです。

また歯向かってくるかもしれないという 第一次世界大戦のドイツの苦い経験があるので 
ここで日本を叩き潰して占領してね でもまた日本が軍拡して攻めかかってくるかもしれない と考えたら 

いやいやいやもう 精神的武装解除ですよ。
日本人を精神的に腑抜けにする。ここまでやらないと安心できないわけです。

だから
骨抜き です。

骨抜いたらどうなります?例えば 牛の骨 抜いたらどうなります? 牛は立てなくなりますよ。
そうです。
日本人を精神的に 骨抜きにするんですよ。もう ふにゃふにゃ。立ち上がる事さえできない。
もう戦争の事を思い出しただけで 吐き気がするとか 日本人が武器を持つなんてありえないと。
もう二度と戦争は怖いしたくない 関わりたくない
平和 平和 平和 みたいなね。

そういう風に日本人をつくり込んでいくという 
これをWGIP ウォーギルト インフォメーション プログラム  と言うんです。これ結構効くんですよ。


大日本帝国憲法を改正して 日本国憲法を立てました。
日本国憲法の方は色々な自由と書かれてまして
言論・出版・思想などの自由が 憲法で保障されたわけですよ。

多くの日本人は 戦争が終わった!自由だ! と日本人は勘違いしちゃったわけですよ。

大間違いです。

なぜならば 
GHQがプレスコード)をつくりました。
これは書いていい。これは書いてはいけない という言論統制です。

当時 テレビはまだありませんでしたので ラジオ放送 新聞が主要メディアで あと雑誌 お芝居 演劇の台本まで
全部GHQが事前にプレスコードに従って検閲をします。
これが書いてあるから 不許可ってなると発表できないわけです。
新聞だと毎日の事なので 不許可だと今日 新聞発行できなくなっちゃいますよね。なので プレスコードに従った会社内の自主規制をかけていくわけです。

教科書はさらに厳しいんですね。
公に発表されていれば この基準で書かれてるんだって 読者もわかるじゃないですか。
ところが
一般の人は見ることができない。公表しちゃいけない。

プレスコードは隠されてるんですよ。

ではプレスコードには何が書かれているのか。

●連合国に対して 批判はしたはいけません。
●原爆を落としたことに対して批判をしてはダメ。
●東京裁判に対する批判も不許可です。
●大陸の赤い国々に対する批判もダメです。終戦後 真岡攻めただろなんて 船3つ沈めたなんて言っちゃだめです。
●100人斬り 慰安婦 こんな事はなかったなんて言えないんです。

●日本を擁護する発言も不許可です。
日本は大陸で大虐殺してませんなんて言えません。そういう事言っちゃぁいけないんです。
日本人は悪いことをしたのであって それを擁護する言論は不許可!です。厄介なんですよ。



正確には
30項目に及ぶ「削除及び 発行禁止対象のカテゴリー」が定められていて これに基づき 新聞・出版物の事前検閲が厳重に実行されていたのでした。
たてまえは 言論の自由
実態は 事前検閲 という表面に出ない厳重な言論統制によって 日本人の洗脳工作が行われていたのです。


そして!
今の日本人が知らず知らず 毎日の生活の中で 戦後70年以上経つうちに 平和ボケしてしまったのには
戦勝国のような 優雅な生活に憧れて うまうまと乗っていきました。

3S政策
●Screen(スクリーン・映画・テレビ・今だと携帯画像)
●Sport(スポーツ・ストレスの発散。)
●Sex(性産業・性知識)
自分が楽しくあればいい。社会の貢献に熱情をかける・政治など そんなものは どうでも良いと思うようになってもらうように。

他にも 

●日本食(霊力 根性のようなものが宿る お米)を食べさせないように
  小麦粉の普及による パン食・牛乳・西洋食・給食の導入。
  日本の自給自足の破壊。
●薬を主とした 西洋医学療法・予防接種・母子手帳など

欲にまみれて 快楽やお金・物を求める 愚民政策になっていくように仕込まれていく。
100年経ったら ゆでガエルになっていた。


そして
戦争が終わって各新聞社が 戦争特集を始めるんですね。

皆さん!これまで大本営発表しか書けませんでした。でも憲法が変わり 言論の自由が保障され 
これから私たちが 独自に取材して過去の事も含めて真実を報道していきますよ~!って 

実は日本軍はこんな酷いことをしてたとか書くわけです。
すると
読者は真に受けて へ~!そうなの?知らなかったってなる訳です。
自分たちは正義の戦争をしてたけど日本軍ってこんな変な事してたんだと ありもしない大虐殺なんて書いてある訳ですよ。
日本ってひでぇ~国なんだ っと思ったわけですよ。

ところが
その原稿は何と!GHQが書いてたんですよ。
ラジオの放送原稿もそうです。
わたし 調べた時ビックリしましたよ。まさか読者はGHQが書いてるなんて思わないでしょ。
これは証明されてますし 資料も全部残っています。
当時は誰もわからなかった。こうやって始まったわけですよ。



これが言論統制 WGIP。
日本人が戦争を始めたことに罪の意識を植え付ける。
日本っていう国はひどい国だ。日本人は邪悪な戦争を戦った。
そういう風につくりこむんですよ。
そんなことが占領を解除された後 続々と出てくるわけですね。

教科書の検閲基準には 

●神話とか神道 信仰にかかわる事は一切書いてはいけません。
●天皇に関するいい話は 一切教えてはいけません。
●尊敬される歴代の天皇・皇族の話は不許可。
●我が国 という言葉が使用禁止。愛国心が湧いてくるらしいんですね。
●国史 ナショナルヒストリーですが この言葉も禁止されました。日本史 という科目名になりました。
●楠木正成のような 日本の英雄も書いてはいけない。


こんなものがあるなんて知らなかったんですよ。
占領が解除されて何十年もたってから資料が出てきたんだから。
GHQが内部文書を公表して
え~っ!こんな基準で教科書つくってたの!って後でわかったんですよ。

こういうフィルターがかかっていたなんて 日本人知らなかったんです。
言論統制があったって知らなかったんです。
占領されていた 6年8か月 聞き 読み続けるわけですよ。それで信じちゃったわけですね。



広島・長崎で30万 


東京大空襲だけで10万人 
沖縄戦 9万人。民間人を殺しちゃったわけですから必死です。

日本人が 大陸の大虐殺をした事にして 30万人くらいにしてないとつじつまが合わないわけですよ。
だから 6年8か月 徹底的に洗脳したんですよ。
日本人が邪悪でとんでもない事をしたったしないと 説明付かないんですよ。

戦争は民間人を殺しちゃいけないんですからね。

日本は悪い国 それが今だに続いているんですね。
そりゃ日本にも 良いとこも悪いとこもあったんだから 全部悪いなんてことはないです。
二度と日本人と戦いたくなかったんです。怖かったんです。

日本人が二度と目覚めないよう 徹底的に思想改造をしたわけですね。

んで 60年以上経っても まだ目覚めないわけよ。
逆に アメリカは日本人 もっと誇りもてよっていう。自信もっていいよって 言ってくれるんだけど いやっ日本人は謝りますみたいな。

今 プレスコードは無くなりました。
教科書検閲基準もなくなりました。でも自社基準は残っているわけですよ。
WGIP 効いてますよ。

しかし
東日本大震災以降 日本人は変わってきました。
そろそろ溶けて いいんじゃあないですか?




昭和天皇と マッカーサー元帥の対談

昭和20年 夏 
日本の天皇はどうしたらいいと思いますか?

アメリカの一般の国民が どう考えていたのかの世論調査では

何と恐ろしい事に

・処刑せよ 33%
・起訴して東京裁判にかけろ 17%
この2つを足して 50%は処刑せい という考えですね。

・終身刑は11%
・流刑 9%

アメリカ人の世論 70%天皇は戦争犯罪人 という考えです。

リメンバーパールハーバーで 日本人は邪悪 ひどい奴らなんだと 捕虜を虐待してきた そんなことばっかり聞かされていますから。 
ただ
マッカーサー元帥は 日本に原爆を落とすべきではないとアドバイスをしました。
日本軍は精神的に強い。
だからWGIPをやったんですけれども

戦争に負けたら 国家ごと解体するのが普通です。
ただ念のため2つのパターンを用意していました。

マッカーサー元帥は 天皇というのはかなりキーパーソンだと。
日本人がどれほど天皇を尊敬しているかわかっています。

マッカーサー元帥は とにかく会ってみようと マッカーサー元帥のもとに昭和天皇が会いに行かれることになりました。
天皇は私に会って どんな言葉を口にするんだろうと興味があったわけです。

でもマッカーサー元帥はあまり乗り気ではなかったんですね。
だいたい こういう時は どういう事を言うかわかるからですよ。

私は悪くないと 自分の無実を弁明しに来る。 
何でもあげるから命だけは助けてほしい こんなことを言うんだろうなぁ と。

マッカーサー元帥は 昭和天皇来るといっても 出迎えもしないわけです。
ネクタイもつけない 陸軍の略装の開襟シャツで パイプを燻らせ足を組んで待っているわけですよ。
ところが
昭和天皇は きちんとした正装のモーニング姿。



ところが
帰り際は 開襟シャツの上のボタンをとめて 最後車寄せまで見送りにでるわけですよ。

最初にマッカーサー元帥は I tel l the Emperor  俺はちょっと天皇に言ってやるぜ みたいな上から目線だったわけですね。
しかし
最後は Your Majesty 陛下  に変わってるんですね。
って変わるんですね。いったい何があったんですか?! みたいな感じな話なんですね。

マッカーサー元帥が想像もし得ないことを 昭和天皇がおっしゃったんです。

正確な記録が残っているのでこれを読みましょう。

9月27日 藤田久則侍従長の回想録・手記より。
『敗戦に至った戦争の色々な責任が追及されているが 責任は全て私にある。
文武百官(将兵・閣僚・官僚)は私の命令するところだから 彼らで責任は無い。
私の一身はどうなろうとも構わない。
私はあなたにお委ねする。
この上はどうか国民が生活に困らぬよう連合国の援助をおお願いしたい』
と 
このようにおっしゃいました。

マッカーサー元帥が予想するように 
命乞いに 
私は悪くないなんて話は 一言もないんですね。
すべての責任は自分にあるとおっしゃったわけです。
私が命令した通りに彼らは動いただけなんだと。
だから
全部私が悪いと。だから彼らは悪くないというわけですね。
もし処刑するなら私一人を処刑してほしい。

こんな風に一つも弁明をすることもなく 全部自分の責任だとおっしゃった昭和天皇のお姿を見て
マッカーサー元帥は ビックリするんですね。

「これが天皇なのか!」と

マッカーサー元帥は走り寄って 昭和天皇の手を取り 
そして
「私は初めて 神のような天皇の姿を見た」 
という言葉を残しています。

それ以降Your Majesty  陛下 という言い方に変わるんですね。

マッカーサー元帥の回想録にこう書いてあるんですね。

「死を伴うほどの責任。
それも私の知り尽くしている諸事情に照らして明らかに 

天皇に期すべきでない。

責任を引き受けようとする 
この勇気に満ちた態度は
私を骨の髄までも揺り動かした。
私はその瞬間 私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取った」

要するに わかっちゃったんですね。

なぜ日本人はあんなに勇敢に戦うのか。
人類の歴史上あの時の日本人ほど勇敢に戦った人達はいません。
そして特攻だって在り得ないことです。

マッカーサー元帥は特攻攻撃を見て 何なんだこいつら と思ったわけです。米軍も研究したけどできなかったんです。

でも 昭和天皇の姿を見て完全に理解しました。



この人たち家族なんだ 
という事がわかっちゃったわけです。

天皇は国民の命をを救う為に 自らの命を投げ出そうとしている。

自分の命を投げ出すって そう簡単にできることではありません。
自分の命を投げ出してでも 守りたいものなんて そんな価値のあるもの。なかなかこの世の中にありません。
もし自分の命を差し出してでも守る価値があるものがあるとしたら 

それは愛する人でしょう。愛する人の命を守る為。

天皇と国民の間に 親子のような絆を見てしまった訳ですね。
ところが 
これは日本の建国の精神そのものです。

神武天皇がおっしゃった建国の詔。「八紘為宇」

日本人はみな家族ではないか。
日本列島は私たちにとっての家ではないか。
みんなで協力して みんなで幸せになろうではないか。

初期のころの天皇は全国の豪族たちと家族になっていったわけです。
力のある者のお子さまを 娘さんをお嫁さんとして受け入れ
そして
天皇の娘も全国へ嫁いで行き 息子だって 
次に皇位を継承する息子は残りますけれども それ以外の息子たちは全国へ散らばって行って政治を任される。
そして
全国へ散らばって行った天皇の息子たちは 地域の豪族たちの娘と結婚をして その地域の豪族として生きていくんですね。

日本中の有力者はみんな天皇の親戚になっていったわけなんです。
ですから

日本人であればおよそ天皇の血筋を引いてない」者はいません。

日本人は天皇を軸としてみんな家族だという風に統合されていきました。
そして
天皇と国民は親子のような絆。国民一人一人が我が子のように愛し その幸せを祈ります。
そして
国民はそのように自分たちの事を愛してくださる天皇陛下の事を敬愛し 皆で力を合わせて国家を支えてきたわけです、

天皇が国民を愛し 国民が国家を支える。



これが日本の 国体 なんですね。

なんで日本人は勇敢に戦うのか 特攻までするのか マッカーサー元帥は理解できなかったんですが 
昭和天皇の姿を見て完全に理解しました。
だからか と。これが天皇か と。
天皇というのは 日本人は一つの家族で 中心にいるのが天皇なんだとわかっちゃったですよ。

お国のため とか天皇陛下のためとかで死んだんじゃないんです。
家族のために戦ったんです。家族のために特攻に志願したんです。
家族を守る為には 国家が必要だったわけです。

天皇が必要だった。
つまり
日本国家が存続するという事と愛する人が幸せでいるという事が完全に一つのものとして理解されていた。イコールで結びついていたわけですね。
そこで
マッカーサー元帥は 天皇を処刑とか起訴にしたらえらいことになると 日本人全員敵にまわすことになるぞ と思ったわけです。

ボナーフェラーズ法務官というマッカーサー元帥の軍事秘書官が マッカーサーにメモを渡しています。
「天皇を戦争犯罪人として起訴擦るのは不敬極まりない。日本人そのものの精神を否定することになるから大変なことになります。天皇を起訴することは絶対にしてはだめです。大規模な暴動が起きますよ。」

マッカーサー元帥も昭和天皇に会ってますから 「だよね~」と「そうだよね~」となるわけです。


昭和21年1月25日
マッカーサー元帥は調査研究をした結果 結論を極秘電文として本国に送りました。

「天皇を起訴すれば まぎれもなく日本国民の間にすさまじい動乱を引き起こす事になるだろう。
その影響はいくら評価しても評価しすぎる事は無い。
天皇は全ての日本人の統合の象徴である。
天皇を葬れば日本国家は崩壊する。
実際のところ全ての日本人は天皇を国の元首として尊崇していて 
善かれ悪しかれポツダム宣言が天皇を維持することを意図していたことを信じている。
もし
連合国の行動が彼らの歴史的な想いを裏切ったならば
そこから生じる日本国民の憎悪と奮力は 間違いなく未来永劫にわたって続くであろう。
幾代にもわたる復讐のための復讐が引き起こされ
その悪循環は 何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある。
私の考えによれば
全日本人は消極的或いは半ば積極的な手段により天皇を葬ることに抵抗するであろう。
彼らは武装解除されているので訓練され装備された軍によって特別な脅威はない。
しかし
政府の全ての機構が崩壊し 文化的な活動は停止し 
反体制の混沌無秩序な状態が山岳地帯や地方で ゲリラ戦を引き起こす事は想像できない事ではない。
思うに
近代的な民主主義の手法を導入する希望は消え去り 引き裂かれた人々の中から
共産主義に沿った強固な政府が生まれるだろう。
これは現在の占領の状態と次元の異なった問題が起きることを意味する。
そうなった場合
駐留軍を大幅に増員することが不可欠となる。
最低100万人の軍隊が必要とされ 軍隊は永久的に駐留し続けなければならない可能性が極めて高い。
そのうえ 行政を行う上には 公務員を日本に送らなければならず
その必要な数は数十万にのぼるであろう」

これを受け取ったアメリカ本国政府は
{ええぇ!?」 という事になり 検討した結果 マッカーサー元帥の電文通りに これを受け入れます。
そして

政府を残す事
天皇を残す事 が決定されたんです。

また
全国からGHQに投書が届くんですって。
天皇だけは残してほしい という切実な日本国民からの願いがたくさん宛てられたんですね。

日本で調査をするんですけれども 
天皇を指示するという人が 95% だったんです。

GHQは最初 日本人は本当は天皇の事を恨んでるじゃないかと見てたんですけど とんでもない。

日本中焼かれて とんでもない事になっているのに 
それでもなお
日本人は必死になって天皇を守ろうしている。
そして
マッカーサー元帥が会ってみたら なるほど これが天皇かと。処刑なんかしたら自分たちは大変な目にあうと。全日本人敵にまわすと。
わかった もう天皇は触りません。残します。という事に決定したわけですね。

はじめの予定では 15分くらいであったが 昭和天皇とマッカーサー元帥の会見は40分ほど。 25分も延びたのでした。
会見の時に出されたコーヒーは 昭和天皇はお口をつけられませんでした。
普通 相手が気持ちを込めて もてなしたものに手をつけないというのは 礼を失することになる と
日本人は こうした礼儀を重んじる ゆかしい心を大切にする民族である。
それなのに お口をつけられなかった。

この日
昭和天皇がどうしても マッカーサー元帥に伝えたっかった事。
「 私の身はどうなろうとも構わない。ひもじい思いをしている国民に なにとぞ早急に 食糧を届けていただきたい」

聞き届けてほしかったのは ほかならぬ国民の命を救う事。
それなのに 今目の前に出されたコーヒーを この私が口にできるであろうか。
国民の命が危機に瀕している時にどうして おめおめとコーヒーなど飲んでいる場合であろうか。

たった一杯のコーヒーに 国民の命を救ってほしい という揺るぎない想いをかけられた昭和天皇。



こんな重大な事をなんで教科書に書かないんですかね。
これ書かないで いったい何書くんですか。


戦争が終わった後も 皇居の周辺は爆撃によって荒れ果てていました。
終戦から4か月ほど経った 12月の初め
宮城県栗原郡から来た という 60人ほどの青年が
荒れ果てた 皇居内で奉仕作業をさせていほしいとやって来ました。

昭和天皇は 青年たちに
遠いところから来てくれて まことにありがとう
どうやってここまで来たか
郷里の米作りの具合はどうか
地下足袋は手に入るか
肥料の配給は充分にあるか などお話くださり

何とぞ国家再建のために たゆまず努力をしてもらいたい と仰せになり
青年たちとお別れになりました
数十歩 お歩きになったその時

突如 その青年男女は 国家「君が代」を 歌いだしたのです。

占領のに下あった 当時の日本は 国家「君が代」を歌う事ができませんでした。

しかし この青年たちは「君が代」で天皇陛下を お見送りせずにはおられなかったのです。


その歌声に 天皇陛下は はたと歩みを止められ じっと聞き入っていらっしゃいました。
そのお姿を拝した青年たちは 万感 胸にせまり
歌声は とぎれとぎれとなり 嗚咽の むせび泣く声へと変わっていきました。

私たちの 日本 という素晴らしい国。

その後 この話は全国へと伝わり 現在に至るまで 皇居勤労奉仕 となっているのです。




本当はなかった人間宣言

終戦は 昭和20年ですけれども 終戦から4か月半くらい経った時ですね。
翌年 昭和21年の 1月1日 元旦の新聞に掲載された

昭和天皇は 「新日本建国の詔書」というのを発せられます。 

これが 後々の
「昭和天皇の人間宣言」と言われました。

人間宣言 なんてタイトルが付いていた訳じゃないんです。
新年にあたっての 「こんな心持で復興していこう」 という詔書です。

かつては天皇は神だった。
昭和天皇は人間宣言を出して 
「私 昨日まで神でしたけど 今日から人間になります。ヨロシク」
みたいな 
そんなような宣言があって
それ以降 天皇は 神ではなく 人として扱われるようになった。もはや天皇は神ではない。象徴だ。
こんな風に言われます。

早く 人間になりたぁ~い じゃないんだから



天皇と国民が一体となって どういう心持で行こうか 
という事が書かれているのであって 
タイトルに
人間宣言 なんてありません。
後で新聞・メディアが勝手に言ったのが 人間宣言と言っているだけです。

詔書の原文を見てみると 
人間 という言葉も 宣言 という言葉もありません。

昨日まで神でしたが 今日から人間になることを宣言する
そんな文脈も出てきません。

どういう内容かというと

人間宣言っぽい場所です。

「朕(ちん)ト爾等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ト二依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説ト二依リテ生ゼルモノ二非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族二優越セル民族二シテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スべキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念二基(もとず)クモノ二モ非ズ」

と書いてあります。

現代語っぽく言うと
天皇と国民との関係というのは 
国の最初から現在に至るまで 常にお互いの信頼と敬愛によって結ばれているものなんですよ。 
神話と伝説によって生じたというだけではないんです。
天皇を 現御神(あきつみかみ) と呼んで 
かつ日本国民は 他の民族に比べて 優越優秀な民族なんだから世界を支配するんだ 
なんて
架空の観念に基ずくものでもない。

この文章で一番言いたいのは何でしょうか?

昨日まで神でしたが 今日から人間になります 
なんて一言も書いていませんよね。どこにそんなこと書いてあります?

天皇と国民の関係性ってどういうものなのか。
それは
お互いの信頼関係によるものです。

これを昭和天皇なりにおっしゃっているだけですよ。

日本人は優秀だから
世界征服だ とか 現御神だ 
というのが架空の観念であって 
だから
天皇が大切にされている訳でもないし 
神話に書いてあるから大切にされている訳でもないんですよ。

天皇は国民を敬愛し大切にし 
国民も天皇を敬愛し大切にする。 

お互いの信頼関係なので 
天皇は神 従って拝め という事でもない。

神とも神じゃないとも一言も言っていませんよ。

神話を否定した。神話がウソとも言ってませんよ。

2000年間の天皇と国民がお互い支え合ってきた 信頼関係によるものなんですよ。

ところで 
現御神って どういう事かというと 
これは研究成果でわかっています。
古文書で出てくる宣命でありすが 天皇が神である という言葉ではありません。

「神の御心を心として 天(あめ)の下をしろしめす天皇」

しろしめす 時に現御神 という言葉が出てきます。
天皇の御心を心としながら 天皇をする。

天皇にとっての心構えみたいなものなんですね。

いつ天皇が神になりました?天皇が拝まれました?

天皇は 拝む存在 なのであり 拝まれる存在じゃあないんです。
そりゃあ
個人的に皇居に向かって拝む人はいるかもしれませんよ。
皇居にある神殿は天皇が祈る場所であって 天皇を拝む場所 天皇を鎮座する神社なんてありません。
 
天皇は 御簾(みす)の奥深くでひたすら国民の幸せを祈る存在であり 祈られる拝まれる存在じゃないんです。
戦前 天皇を本当の神だって信じている人はいません。

現人神(あらひとがみ)は 
神が人に現れている。だから 人なんです。
人なんだけど 
とても清らかで神聖だ とみんなが思う。それが天皇なのであって 天皇自身が神ではないんです。



人のような要素を持つ神なのか
神のような神聖を持つ人なのか

古事記で 
邇邇芸命が天孫降臨で 天空世界から地上に降りてきましたよ。
そしてナンパして木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と一緒になって
その時 
姉の石長比売(いわながひめ)も添えて来たのですが 
容姿端麗な 木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)に対し 姉の石長比売は大変醜く
その日のうちに実家にお返しになりました。
なので 
今後 天津神御子の命は 
桜の花のように もろくはかないものになる と 



これ以来 今に至るまで 天皇命(すめらみこと)たちの御命は限りあるものとなり 寿命が与えられました。
そして人になっちゃった という話ですよ。

かつて邇邇芸命は神でした。この事件によって 人になってしまった。
それ以降 その子孫は皆 人として生まれることになるんです。
代々 崩御日があり埋葬され古墳がつくられてます。

ただ神聖さを持って人になっていますから 
人ですけれども とても清らかでとても神聖なんです。
という風に
多くの人が信じてきたんです。

天皇が 神聖というのは 天皇が言っているわけでもないし 歴史書に書いてある訳でもなくて
国民がそう思ってきた 神聖である という思想なんですよ。
日本民族の思想です。
これがずっと続いてきたんですね。
神聖だから拝め というものではないんです。
なので
終戦の後の 「新日本建国の詔の原文」 には 神から人間になったなんて どこにも書いてないんです。

昭和天皇は 初めに渡された文案の冒頭に

「五箇条の御誓文」
を加えるように伝えました。

明治天皇の名で発表された 政府の大方針です。


〇重要なことは会議を起こして みんなで決めなさい
〇上の人も下の人も 心を一つにして産業を盛んにし 豊かな国をつくり 
〇文官・武官だけじゃなく国民も志を達成して人々の希望を失わせないようにするのが寛容
〇これまでの悪い習慣を捨てて普遍的な道理に基ずいておこないなさい
〇知識を世界に広げ国柄を大切にし発展させましょう


するとマッカーサー元帥が読んで 
これいいじゃない!こんないいもの昔から日本にあるの?





と 民主主義的傾向を復活させると ポツダム宣言に書いてありますけれども

日本は戦前から バリバリ民主主義ですからね。
大切なことは議論して決めましょう。
独裁を善しとする発想はないんですね。

日本の歴史は
7世紀と 19世紀に 大きなターニングポイントがあったんです。

危機感を持った時代でした。
いざという時 そういう国に対応できるように 
きちんと明確伊立場・役割分担を決めて がっちりとした天皇を中心とした まとまった
統一国家をつくらなければならない。

7世紀に誕生したのが 聖徳太子の17条憲法の時から言っている

604年 12月に発表された 「冠位十二階」の
翌年 
1月には 「17条憲法」を発表しています。

17条のキーワード
①和を持って貴しとなす 和(仲良く) 調和
②仏教
③天皇中心の国
④礼儀 敬う
⑤公平 むさぼるな 欲を棄てよ
⑥善を進め 悪を滅ぼす
⑦能力にあった地位(冠位十二階)
⑧勤勉
⑨信頼 義
⑩自己中をやめ 人の意見を聞く
⑪賞罰 
⑫税は天皇(国)へ
⑬助け合い
⑭人をねたむな
⑮国のためにつくせ
⑯国民を大切に
⑰話し合いで決める



というわけで
だから人間宣言なんてありません。神道を正しく理解し 古事記を正しく読めばわかる事です。
過去の有りもしない出来事をつくり上げて ぶっ叩くという トリックです。




東京裁判

昭和20年 終戦の時の秋から 戦犯容疑者の逮捕が始まっています。
いわゆる東京裁判というのは 極東国際軍事裁判 昭和21年5月3日 市ヶ谷の旧陸軍省で始まりました。
東京で開かれた A級の戦犯を起訴した裁判です。


ポツダム宣言に書いてありますから こういう事はあるとわかってますけれども 

一般人を無差別で殺害した原爆投下はどうなんでしょうか。
一緒に裁かれようぜ というのが本来あるべきことではないでしょうか。連合国側は一人も起訴されないんですから。

しかし日本の軍人や政治家たちは みんな戦争犯罪人として片っ端から裁いていきました。

戦争というのは 勝った者が正しい。世界秩をつくり出していく。
負けた者は参加できず 謝っていた ということです。
戦争の結果と 正しい正しくない 善悪は無関係ですからね。

戦争に負けるという事はそういう事です。
全てが否定され 野蛮な極みが起きるわけです。戦争に負けたらこうなります。

それが嫌だったら 最初から戦争なんかすんなって事ですよ。
戦争をしないで上手に避ける。
戦争にならないように上手に動いて回避していく。戦争にならないようにしていく。
それでも戦争になってしまったら 勝たなくてはだめです。

まだいい方です。
戦争に負けたら普通は国家は無くなるんですよ。
ところが何と有難い事か
日本は戦争に負けましたけれども国家は残りました。天皇は残りました。

そこを最終ラインにしてポツダム宣言受諾を決めた訳だから。野蛮なことも受け入れたんですよ。日本人だけが一方的に裁かれましたよ。

だから昭和天皇がおっしゃいましたよね。
「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」 なんですよ。
耐え難いような苦しい事 嫌な事も耐えていこう。それでもこれ以上戦争を継続することはできない。 
というのが昭和天皇の御心だったわけです。



A・B・Cは悪い奴のランク分けではありません。犯罪の種類です。

A級戦犯 平和に対する罪
B級戦犯 通常の戦争犯罪
C級戦犯 人道に対する罪

罪刑法定主義に反すると言われるんです。
もともと これをしたら犯罪者ですよ と示しておかなっければならないわけですね。

ここでクシャミしたら死刑 なんて今決めて 
あなた10年前に ここでクシャミしたでしょ。だから死刑なんて たまったもんじゃないでしょ。
これをやったら犯罪って知っているから だから これはしないってわかる訳で 
後で犯罪つくって さかのぼって適応できたら 誰だって逮捕できるわけですよ。。

A級の 戦争を始めた罪として逮捕された 東条英機なんて
開戦した時には 
A級って犯罪法定はまだ無いいんだから 
大義名分で宣言して戦争を始めた。そうしたら犯罪なんて聞いてないよって話で

今は国連が 全ての戦争を違法にしました。
当時の国際法は 
まだ戦争を違法としていなかったんですね。
ところが 戦争終わってみたら 
戦争始めたやつ 犯罪者だからね って言われて全員処刑なわけです。え?そんなばかな!って話です。

28人が起訴されて 25人が有罪となって7人が処刑されてます。
実際 処刑は 昭和21年12月23日に絞首刑が執行されました。
16人が終身刑。2人は病死。

人数は圧倒的に B級・C級の方が多いんですよ。合わせて5400人くらいが有罪になっています。937人が主に海外で処刑されています。
どうやって死んだのか報告の無い人もたくさんいます。

日本が戦争に勝った時 こんなことしました?
日清戦争 
日露戦争 
勝った時 こんなことしました?
国際軍事裁判を始めて 誰が戦争始めたんだ。誰がやったんだって。

それどころか
乃木希典大将と ステッセリ将軍の
水師営の会見ですよ。




裁判の中身だって まともな裁判されてませんよ。
一方的な密告とかね。
通訳がいないから
何言ってんだかわからないから死刑 みたいなとか。
めちゃくちゃだったんですから。

当時 輸送船が沈められちゃうから 
捕虜に食事をあげられないんですよ。でもなんとか栄養を与えないとと思うわけですよ。
新潟県直江津の捕虜収容所の職員が 
オーストラリア人捕虜に対して 何とか栄養を取らせようとゴボウを使った料理を提供したんですって。
すると
戦争が終わった後 
そのオーストラリア人捕虜が 私はひどい目にあった。木を食わされて虐待された。と証言するんです。
8人が処刑されたって言うんです。
よかれと思って 自分たちも何か食べたいのに 
直江津職員が8人処刑されました。

長野県美津島捕虜収容所の職員も
ゴボウを食べさせたという事で 無期懲役。

豆腐を 腐った豆 と翻訳されて 虐待だって言われて有罪となった例。

肩こりと腰痛に悩まされていた捕虜がいたんですって。それを見かねた収容所職員がお灸をしてあげたんです。
そしtらそれも虐待されたって有罪判決。

この人悪い人です って言ったら はい 有罪。みたいな。
まともな審議も行われずに有罪にさせられていったわけですね。
わかっているだけで 900人以上処刑ですよ
。わかってないの入れたら更に何百人って増えるかもしれません。

戦争に負けたから普通なんですけど 野蛮の極みです。


逮捕される前に 自決していった人もいます。

最後まで陛下にお供しますと言った人が服毒自殺をしてしまった 近衛文麿。
開戦時の参謀総長。陸軍の作戦を決定する最高責任者 杉山元。
満州事変をした時の関東軍の司令官 本庄繁。

東条英機も
胸を自分で撃ったんですけども助けられ GHQの施設で介抱され一命をとりとめ 何故心臓を狙ったのかわかりませんが
少しの場所のずれで致命傷にならずに済んだわけですが 
その後に逮捕され巣鴨の収容所に入れられるという事でした。
開戦当時の内閣総理大臣兼 陸軍大臣ですからね。

一応弁護士はつきますけれどもね 
GHQのプレスコードがありまして 東京裁判対する批判は不可なんですね。
東条英機は出廷しますけれども 
東条英機を肯定する言論は 新聞もラジオにも乗っからないですよね。
だから
裁判進行中に日本に対して有利な話は誰も言えないし書けないんです。
そういう状況の中で 裁判が進められるという 何かおかしな裁判だったんですよ。
形式上裁判っぽくやってますけれども ただの集団リンチですよね。

東条英機は 
どういう風に戦争が開始が決定されたのか かかなり詳しく説明して 
供述書を提出しているんですけれども

平和に対する罪なんて 
事後法で罪をさかのぼって裁くなんていうのは 法治国家としては野蛮なんですよね。
そもそも
戦争を始めるのは 合法だから 後で「違法です」 なんておかしい と東条英機は言っています。

戦争を始めた罪というのはあり得ないが 
戦争に負けた罪をかぶれというなら 私は率先して罪をかぶるって言うんです。



実際に戦って 日本軍は兵隊が 約200万人死にましたね。
日本の民間人も約100万人死んでるわけですよ。
300万人死んでるんですからね。

私が戦争開戦を指揮し 現にマリアナ諸島をとられるまでの総理大臣として日本を主犯していったわけですから 
それは喜んでその罪を引き受けると言ったんですね。
あと
東条英機が立派だったのは 

東京裁判で昭和天皇には戦争責任は無い

という事を徹底的に述べるんですね。

こうやって意思決定がある こういう監修だ 憲法はこうだ と ちゃんと説明して 
したがって
天皇には責任は無い。
開戦決定は当時の総理大臣だった私の責任だと 
軍の作戦行動も 全部私の責任で 天皇に責任なんか無いんだ と言いう事をバシーンと説明してますね。
ですから
自分が罪を背負ってね
処刑されることで 皇室が保たれるんだったら喜んで処刑されるという そういうような態度だったみたいですよ。

宣誓供述書には
「天皇の戦争責任について 
徹底したる国策については 
内閣及び 統帥部の輔�弼(ほひつ・国務大臣)および輔翼(ほよく ・朝廷の補佐)の責任者において 
その全責任を負うべきものでありまして 天皇陛下に御責任はありませぬ」

「第一に 天皇が内閣の組閣を命じるにあたっては 
必ず重臣の推薦及び 内大臣の進言によって決められるのであり 
天皇がこれらの推薦や 進言を退け 自らの意思で組閣を命じた例は
いまだ無く またそれは統帥部の輔翼者の任命についても同様である」

戦前は どうやって内閣総理大臣が決まるんですかって言ったら 
天皇が 誰って決めるわけじゃないです。
重臣会議が開かれて
内大臣が その司会をして取り仕切って そして重臣会議が この人がいいですって天皇に申し上げたら
天皇が 
はいわかりました 
という事で その人を任命する という事なんですね。
この人って 決まった人を 天皇が やだ とか 却下とか ないです。
天皇自ら この人 と決めることもない。

国政も各大臣が天皇に変わって決定・実行をするんです。
国家の意思決定にあたって
天皇が関与する余地は無いんですね。

そのことを東条英機は述べています

政治的な意味合いを持った御発言を 天皇がなさる事があったとしても 
それによって 物事が決まることは無いわけで
必ず責任者が 一度かみ砕いた上で 
それを採用するのか採用しないのかは その責任者が自分の責任において決めるという事です。

天皇に政治責任が及ぶ事は無い という事を東条英機は説明したわけです。

死刑判決が下された時も
7人は 粛々とそれを受けていったと 
そして
実際に 処刑される時は 
7人とも 態度が立派だった という風に記録されています。

それによって日本がまた復活するんだったら 
自分が 日本中の罪穢れを全部背負いますって感じで 
その7人が処刑されていく事によって 日本中のミソギが済んでしまうというか。実際そうなんですよ。
日本は国際社会に復帰しますよね。
なんで
復帰したかっていったら
戦争犯罪人の処罰が終わったからです。
という事は
処罰されなかった日本人は 皆さん善良な日本人です。
悪いのは東条始め7人ってなったわけですよ。
残されたあなた達はOKですって話ですよ。戦争犯罪人を処罰したから。
この人たちは加害者。あなた達は被害者。
だから国際社会に復帰できたんです。
戦争犯罪人の処罰が終わっているから。その7人は
それで皇室が残って
日本が復活するんだったらそれでよいと言わんばかりの 立派な態度で処刑されていったそうです。

嫌らしいことに 
死刑の執行日が
12月23日なんですね。
何の日かって言ったら 
上皇陛下のお誕生日でしょ。平成の時代は天皇誕生日で祝日でした。
なんでわざわざその日にやるんです?
当時 終戦の時 上皇陛下は子どもでした。
将来 次天皇になる人の誕生日に わざわざ死刑執行してるわけですよ。
これねぇ 
上皇陛下可哀そうですよ。上皇陛下だって必ずご存じですからね。
その後天皇誕生日っていったって
世界各国から日本に来た外交官を始め 内閣総理大臣 みんがおめでとうございますってお祝いのお言葉をお受けになるでしょ。
でも 
心から喜べないでしょ。自分の生まれた日に 7人が処刑された日なんですよ。
A級戦犯が処刑された日にお祝いをするって

この日に 処刑を当ててくるって趣味悪いでしょ。
昭和天皇のお誕生日に当ててきたら 
なめてんのかって 話ですけど 
次の天皇のお誕生日だから 話題にもならなかったわけですよ。

昭和64年まで続きまして 代替わりがあって 長い間の悪趣味な仕込みを連合国側はやった という事なんです。


処刑は実行済みなので 

罪は晴れるんです。

執行が終わっているにもかかわらず 戦犯と呼ばれ続けるのはだめなんですよ。
執行が終わっていたらもはや

罪人ではないんです。罪は晴れたんです。

いまだに犯罪者呼ばわりしてはいけない。

いわゆる A級戦犯といっています。

かつてそう言われた人たちです。でも今は戦犯ではないです。
これは靖国神社の合祀の問題とからんでますけれども 
もう罪人つみびと じゃないですから。



靖国神社は 
明治天皇が 明治2年3月に 

江戸城の近くに慰霊の場を築き ばらばらになっている戦没者を 一か所で祭祀することを命じたところから 建てられました。
東京招魂社から 安らかに国を治める という意味で 靖国神社 になりました。
アメリカの アーリントン国立墓地や無名戦士の墓があります。大統領が参拝して 何の問題もありません。
イギリスの ウエストミンスター寺院 などがありますが
忠誠を尽くした戦没者を弔う 追悼施設にあたります。

日本の靖国神社は
靖国神社の御祭神が 246万柱。 柱という呼び方で 神様を数えます。
先の大戦で亡くなった軍人の数も 相当なものですけれども 日清・日露・戊辰戦争・西南戦争で命を落とした方
戦場の看護士さん 軍属の方も 
日本の国を守る為に戦って亡くなった方が 祀られています。
ちょっと特殊な神社です。

各県の 護国神社は その県民の御霊を祀られています。その総本山として 東京 九段下にあるのが靖国神社です。

なので 英霊も ひと柱 ふた柱 と数えます。なので 246万柱。
靖国神社は 英霊が神様です。

靖国神社は政治問題化するわけですよ。
総理大臣の参拝ができるのか できないのか
その先には 天皇陛下の御参拝が あるのか ないのか そういう事が議論されます。
それだけではありません。

日本を軍国主義と揶揄する人たち。
先の大戦で 日本から酷いことをされた と言う人たち いたずらをして神社を穢すんですね。

先の大戦後 国家神道の制度を廃止され
神道に対する 
国家の保護や 学校で神道を教えることを禁止します。
国家と神道の関係を切り離すために 
戦前につくられた 宗教団体法を廃止して 新たに 宗教法人令を公布しました。
政教分離がおこりました。

靖国神社 は何ですか?と聞かれて 一言で答えるとすると

天皇が英霊を 祀る神社です。

これは 兵隊と 軍属と 国家の約束事です。
国家のために 殉職。命を落としたら 靖国神社に祀ってやる。そうしたら
天皇陛下が 数年に一度いらして 拝むわけです。本来ならね。

これを後世の我々が 破っていいんですか?国家の約束事ですから守っていかなければいけないと思います。

昭和63年 
富田朝彦 という宮内庁長官をしていた人の 昭和天皇のお言葉をメモしていたという 富田メモ というのが発見されました。
そうしたら
いわゆる A級戦犯合祀に 昭和天皇は不快感をお示しになっていらっしゃった という事がわかるメモなんですけれども
昭和天皇は いわゆるA級戦犯に対して 大切な部下だともおっしゃり ご不満に思っていた という記録がないんですね。
政治に天皇を利用してはなりません。

総理大臣が個人として参拝した との言葉に対して 
また 公式参拝 と言えば 軍国主義と揶揄する人や国がある。
天皇陛下は 個人参拝というものは無いのですから 参拝ができません。

昭和50年12月21日の 昭和天皇 最後の御親拝 から 平成時代は 一度も御親拝がありません。もちろん 令和になった今も。

しかし 春と秋の 例大祭には必ず 天皇に代わって 勅使を派遣しています。


神道は 宗教の団体扱いされるものでもなく 
もともと日本人の中に 感覚的に浸透していて 精神の中で働いているものなので 
日本人には 特別なものでもない。
その 骨抜きになった 記憶喪失が早く蘇るとよいと思います。


御巡幸

昭和20年 終戦を向かえますけれども 
その後 昭和天皇は 
憲法も切り替わり国際状況の変化もありました。
そんな中で 一番大きな課題といたしましては

傷ついた日本国民を激励し 励まして そして亡くなった方々の御霊を 安んじ奉(たてまつ)り

戦後天皇として なさなければならない事があったわけです。

祈りの旅 
と言ってもいいかもしれません。
激励の旅 祈りの旅を 昭和天皇は お始めになられます。

全国巡幸。
一か所の場合は 行幸。それに対して 順番に何箇所か回ることを 巡幸 と言うんですね。

昭和天皇の場合は 全国巡幸 ですからね。
全ての都道府県を戦後 昭和天皇は 巡幸なさったわけです。

昭和21年から始まって 29年まで 期間で言えば 8年8か月 約9年ですね。
それだけの 長い間をかけて
地球一周が4万kmですが   昭和天皇の移動距離が 3万2千km。
全国津々浦々 おいでになった という事です。

とにかく国民は苦しんでいる。そばに行って激励をする。

よくここまで耐えたね。調子はどうですか。体調はどうなの。 といろんな事を聞いて どこの街に どんな人がいるのか

どんな風に その地域の方が苦しんでいるのか そういう事を直接目の当たりにする。
やはりこれは

祈り なんですね。

地域が 人々が 知れば 祈りようがあるわけです。まさに 天皇は祈る存在だ と言いまして
日本の国柄は 
「天皇が知らす国」だ という 
天皇が知る国 天皇が知らす国 と申し上げるのです。

歴代天皇は 国民に対して 非常に強い関心をお寄せになるんですね。
これが 天皇ですよね。

今 国民が どこでどんな事に困っているのか どんな事に喜びを感じているのか どんな悲しみをもっているのか
そういったことを 
知って 知って 知って 知り通す という事が 天皇としての責務 という事になるわけです。

知ると祈りたくなる。
天照大御神の進捗(しんちょく)は 「しらせ」 という事でした。
 「知る」 という事が 天皇の統治の本質だという事になります。
ですからこの 
未曽有の大惨事ですよね。日本が世界大戦で負ける などという事は大変な事態ですよ。
昭和天皇としては 
一日も早く各地を回って 
人々がどんな想いでいるのか どんな苦しみを抱えているのか
そういうのを 目の当たりにするという事が 大変重要だったわけです。

昭和天皇は巡幸をなさる という事をおっしゃるわけなんですけれども
当時 ばだ占領下ですから 
GHQは 本当に行って大丈夫なのかと 民衆の中に入ったら ボコボコにされて 死んじゃうんじゃないか 本当に大丈夫?
と そんな風に見ていたらしいんですね。

日独伊三国同盟で イタリアの例のように 日本人も天皇の事を恨んでるんじゃないかって思ってたんですね。

ところが 危害を加えられるって事は 全くありませんでした。
ですから なんで天皇は こんなに歓迎されるのかって GHQもビックリしちゃって 

昭和天皇から声をかけられて 
涙ぐんでしまったり 嗚咽してしまう とかですね 
生き神に会ったかのような振る舞いをした日本人も 多かったという事です。
それどころか
全国から 投書がマッカーサー元帥の元に送られ 
何とか昭和天皇を残してほしいと 嘆願する手紙がたくさん寄せられていたという事なんです。

昭和天皇は 人々を激励すると共に 

亡くなった 御霊を鎮める という事。

生きている人はいいですが 死んでしまった人がいるわけです。
民間人と軍人を含めると 約300万人 命を落としたわけですね。

昭和天皇は 激励し 慰霊をする という旅をされます。

慰霊というのは
天皇が祈るというのは 格別なんですね。
天皇は 人を神にする力 があるんですね。

徳川大権現。 神宮を与えたり 社格を与えたりするのは 天皇のすることです。

天皇が祈ってくださることで どれほど多くの人が 力を取り戻すのか。
天皇が祈ってくださることで どれだけ多くの御霊が 安らかになれるのか。

天皇の祈りは 人を神にする力がある。
そういう方が祈る という 意味合いなんですね。
天皇が祈ってくださる。 有難い もったいない という想い  人が 神の本質 神性に目覚めて 
感謝の想いのみ になるんですね。


昭和22年 広島にいらした時に 御製(ぎょせい)をお詠みになっていらっしゃいます。

あぁ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ
たちなほる見えて うれしかりけり

原爆が投下されたと聞いた時から 一日も早く 広島に行き 
傷ついた人に寄り添う そういう お気持ちをお持ちだったわけなんです。

広島に行かなくては 行かなくては 
と思いながらも時間が経ってしまった という 焦りのような お気持ち
ようやく広島の地を踏むことができた。  「あぁ広島」

実際に原爆ドームの前に 何十万人もの人が集まったんです。
爆心地ですからね。
そこに粗末な木の台がこしらえられて 
昭和天皇がそこにおいでになって 多くの人からの歓迎をお受けになる。



どっからともなく
万歳!万歳!万歳!の掛け声が止むことなく 立ち上っていきます。
それに対して
昭和天皇は 
当時モニターとかありませんから 遠くの人も見えるようにと シルクハットを高く挙げて それに答える
という事を なさるんですね。
ですから
もし広島で 天皇を恨む 来たら殴り殺してやる なんて集団があったら 
全く無防備ですから やってできない事はなかったかもしれません。
でも
実際 御巡幸中に 襲うなどという出来事は一度も起きていません。

広島が立ち直っている。まだ原爆投下から時間がそんなに経ってないのに 人々が確実に立ち直ろうとして努力している。
平和の鐘も鳴りはじめている。
ちょっと賑やかな音も聞こえてくるようになった という事です。
それを見て 昭和天皇は 

嬉しい。勇気づけるつもりで広島に行ったんだけれども
逆に 
自分たちは こうやって立ち直ろうとして努力してますから 見てください と 国民に元気をもらって 勇気づけられちゃった
というような気持ちを表した 美しい御製ですね。


ただ昭和天皇にとって残念な事がありました。
それは
沖縄に行けない という事なんです。
北海道から鹿児島まで御巡幸されるんですけれども 
唯一行けない場所が 沖縄県です。
沖縄は米軍の施政下にありました。

日本に帰ってくるのが 昭和47年4月15日ですよ。27年間 沖縄はアメリカの領土だったんです。
グアムとかサイパンのように パスポートが必要だったんです。
領土問題って難しいんですが 沖縄は帰ってきましたよ。

9万4千人ほど 沖縄戦で亡くなっているんです。
亡くなった方が多い一番は 広島。次は東京大空襲です。次が沖縄戦。 その次が長崎の原爆です。

昭和50年 ひめゆりの塔事件 がおきます。
当時 
皇太子 同妃両殿下。現在の 上皇陛下と上皇后陛下 が
沖縄の海洋博がありましたので ひめゆりの塔を ご参拝された時の出来事です。

何者かが 現職の皇太子と同妃に 火炎瓶を投げつける という恐ろしい事件があったわけです。火炎瓶は直接 お体には当たらずに済みましたが



これは大問題になりました。
これにより 昭和天皇の沖縄御巡幸は 無期延期 となってしまいました。

更に 12年。
昭和62年 沖縄の治安も良くなり 行幸が決まったんですね。
これは
昭和天皇の 昭和20年からの悲願でしたからね。

沖縄に 行かなくては 行かなくては 行かなくてはと もう 42年経ってるんです。
ところが

歴史の神様は またここで留めるんです。

昭和63年 病にかかってしまいます。そしてそのまま闘病生活が続きまして
その間も 
「長雨が続いているが 稲の方はどうか」

国家を 国民を案じておられています。


そして
昭和64年1月7日 昭和天皇は 崩御あらせられたわけです。

心残り 果たせなかった沖縄御巡幸。

御製に

思はざる 病となりぬ沖縄を
たづねて果たさむ つとめありしを

命ある限り 自分は沖縄に行かなくては と思っていたけれども 思わざる病となって 叶わないかもしれない。

沖縄に向けて 
強い想いを持っていらした という事がわかります。

現在の上皇陛下は 
沖縄に行かなくてならない という昭和天皇の事を見守りつつ
この想いを 

自分が継がなくてはいけない 

という風に思ったのだろうな と分析できるわけなんです。

慰霊の旅をお始めになったのは 昭和天皇です。
志半ばでですね 慰霊の旅は終わってしまいました。

交通の便で 行けなかった場所や 沖縄。
外地にも 激戦地がありますし 

慰霊の旅という 昭和天皇が始めた事を 上皇陛下は お引継ぎになるという事だったようです。

通常ですと 鎮魂の和歌を詠むのですが
和歌は公表することを前提としません。

天皇の本心が その和歌 に宿るわけなんですね。

現在の上皇陛下は
沖縄をご訪問されるにあたって 心の通った参拝をするためにも 
琉球を学んで
琉球地方の歌。琉歌をお詠みになったんですね。

上皇陛下がおつくりになった琉歌 その詩に上皇后陛下が作曲された 「歌声の響き」



昭和天皇なき後 お子様でいらっしゃる 現在の上皇陛下が しっかりと受け継いで全国をまわり
さらには 硫黄島をはじめ パラオ ペリリュー島・サイパン
最後となった 
平成28年フィリピン。 

昭和天皇から受け継ぐようなかたちで 慰霊の旅をなさる事となります。






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